Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

無酸素で挑む運命の先

2019-07-23 | マスメディア批評
日曜日夜中のスイスからの放送は観れなかった。中継サーヴァーが弱かったようだ。生放送も問題なく流す方法は習得した筈だが入れなかった。結局オンデマンドを観た。ルツェルンの音楽祭を振り返る番組で、アバド死後の2015年にネルソンズが振った時のマーラーの五番である。最後まで飛ばすと客席に今年最後の登場を控えるハイティンク氏がどうも奥さんと一緒に居て、拍手していた。
Andris Nelsons, Lucerne Festival Orchestra - Lucerne Festival 2015 - Gustav Mahler


同じようにミュンヘンの劇場からの中継で地域ブロックの掛かっているアジア向けオープンエアー中継録画再放送が観れなかった。こちらも重すぎたようで入れなかった。入れたのは終わるころだった。それでもDLを試みたが転送速度が遅過ぎた。生放送と異なって無駄な時間が無かったので、色々やってみる時間が無かった。放送されたのはMP4で結局オンデマンドの質と変わらないことを確認した。そこでなにゆえにオンデマンドとしなかったか?やはり著作権の切れていない曲が絡んでいるのかもしれない。

週末にノイエズルヒャー新聞がペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカ―の正式お目見えについて、ブロムシュテット伝を纏めたユリア・シノポラ女史が書いている。彼女のジャーナリストとしていいところは、インタヴューが取れないならば、その映像からでもしっかり文字起こししてその内容を吟味しているところである。ジャーナリズムも科学的でないとその伝えるものが何の意味も持たない。

既にプログラムお披露目で聞いている内容であるが、こうして文字にして「(合唱交響曲は)あまりに保守的なプログラム」でと謝りながらと綴るとその意味が出てくる。全人類の表現となると勿論我々は途轍もないその表現内容を否応なく期待してしまう。ハードルを上げているのはまさしくキリル・ペトレンコ自身であるから、大変な自信である。本人の言葉を借りれば「無装備でエヴェレストに挑む」人の言葉となる。

それに劣らずチャイコフスキーの解釈に関しても、その解釈は、自発性があり、息づいて、直截な響きと、間違ってはいけないのは、その自発性は、学究的な分析によって意味の明白化に寄与しているとする。そして月並みなマンネリズムに抗う練習を厳格に行ったと宣言している。

しかし続いてそれが決して楽譜尊重主義へと陥るのではなくペトレンコにとってのチャイコフスキーの全人格的なメッセージとなっていて、それがダイレクトに聴衆の心を鷲掴みにするとしている。この部分は若干不明確で、どこからどのようにメッセージを引き出しているかが楽譜だけではないとしても、それ以上に学究的な話になる。楽譜尊重とは異なっても結局文献尊重となる。要するに指揮者の知的な水準が問われ、科学的な判断が避けられないところである。

運命の動機のことに関して、そのプログラム化、イデーフィックスについての言及に続いて、その音楽が示す、如何に人は運命と共存するか、それは「意志の強さなのか、民衆の身近に於いてか、それとも自然の中に於いてか、それとも舞踏へ、踊りへ、ヴァルツァーへの逃避で以てか」。こうして考えて行くと、更に前半のシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲との音楽的なプログラミング上での繋がりへと思考が進んで行く。勿論キリル・ペトレンコの中ではこの二曲はそれなりの意味的な繋がりがあって、バーデンバーデンでのプログラムにもその糸口を見つけようとする文章が載っていたが、シェーンベルクはマーラーとは異なるので答え合わせはそれほど容易ではない。



参照:
Auf den Mount Everest ohne Ausrüstung: Kirill Petrenko und die Berliner Philharmoniker, Julia Spinola, NZZ vom 20.7.2019
空騒ぎの二重の意味 2019-04-23 | 文化一般
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-15 | 文化一般

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