新聞に木曜日の新制作「サロメ」初日の評が出ている。最近は珍しいことも無いが殆ど私が書いたことと同じ聞き方をしている。放送では分からない演出面と各々の歌手について以外は全く同じことを語っているとしても良い。それが何を意味するかと言えば、音楽面でキリル・ペトレンコがしようとしたことをこちら側が正しくデコーディングしていることになる。謂わば正しい聴態度だ。
更にその正しいというのはなにかと言えば、ペトレンコと同じように才能があるとか、専門的な知識で負けないとか、現場の経験があるとかではない。必要なのは、創作に対しての正しい理解があるかどうかである。僭越ながら私の場合はペトレンコ先生の楽譜の読み方を習ったので、誰の演奏を聞いても楽譜の音が出ていないことを確認するだけのことになってしまっている。今まで多くの曲で、音が出ているのはピエール・ブーレーズ指揮の録音だけの場合が多く、この「サロメ」での作曲家の協力者でもあったベーム指揮でさえももたもたして音化が充分でないのに気が付く。そこで容易に気が付くのは大指揮者とされる人が十数段のシステムの管弦楽となると楽譜が充分に読み込めていないことだ。勿論座付指揮者と呼ばれるような二三流の指揮者は精々ピアノで音をなぞる練習アシスタントのコレプティテューアの様に前から後ろへと音を流すのが精々で、それをして劇場の豊かな経験という。
さて、先ずは冒頭からして「未だ嘗て無いような始まり」として、「通常は、三全音の関係にある長短調の間で、激しいタンギングのクラリネットの動きを聞くのだが、それが幕が上がるのを彩り、それでも一幕全体の構造をそこに含していて ― サロメの死体との愛の二重唱での嬰ハ長の激しい反射へと導く」としている。そして「実際に始まったのはマーラーの亡き子をしのぶ歌の声の録音であり、世紀末的な死の秘よりも愛の秘が重要とするところのイコン」と考える。そしてそれらのものが、この「サロメ」においては観念連想の場に含有されるとする。
厳しく練習しただろう楽団からは、「ただのダイナミックスだけではなく、齎すティムパニーの上に、そしてシステム間においての絶えない変化に気が付かされると、繊細の極みの色彩となる構造が引き出される。それが圧倒的なものとして成される。管弦楽的名人技と、創作当時の管弦楽が現在よりも微細で繊細であった響きに準拠した音響への感受性が湧き起った」としている。
そして主役のマルリス・ペーターセンは、「そのお膳立てを活かして、テキストのニュアンスとピアノで、一音節から一音節へと一貫して明白にした」と賞賛する。「彼女の声は、作曲者の指定したメタリックで強い声ではなく、調和の取れた柔らかく、まことに暖かいのだが、ヘンツェからライマン、バロックからベルカントへと初演などをこなしていて、馴らされている」としている。それゆえに「今回のロールデビューは、通常を超えた歌唱の大きな変遷と多様性という事で、他の誰も追従できないこと」だとしている。
ここまで書くと、当然のことながら最早他の歌手は分が悪い。シュスターは大向こう受けするだけで、コッホは正しく纏めていたゆえに一面的で、ブレスリックはとろけるリリックに欠けたとされる。要するにペーターセンの陰に隠れてしまっている。更なる上演で期待するのは、この批評を読んで更なる表現へと進化して貰うことでしかない。しかしコッホをあまり追いつめて、休まれたらどうしようもないのである。
演出への批評に関しては現時点では何も言えない。しかしこれを読むとやはりとても興味深く、恐らく「影の無い女」以上に成功作となり得る可能性が強い。初日の反応はやはり中々上手く把握できなかった人が多かったという事だろうか。何よりも興味深い記述は、当日ロージュのバッハラーの横にドミンゴが座って始終キリル・ペトレンコに見入っていたという事だ。なるほど当日ドミンゴが突然居たと広報部長が呟いていたのは劇場へのお客さんだったからのようだ。なにか歌うのだろうか?まさか指揮という事は無いだろうが。コッホらもさぞ気になったことであろう。
エヴィアンの音楽祭中継を録音した。まだまだ中継放送も続くようだが、中々よかったが、表番組にベルリンのヴァルトビューネからの中継があった ― そこで指揮したスキエフもエヴィアンへと回る。最初ブロックされて何事かと思った。聴視料返せと訴えるところだったが、その後流れた。恐らく日本やシナなどへのブロックを掛けるのを間違って全部に掛かってしまったのだろう。そもそもこちらも技術調整も兼ねて冷やかしで見ていただけなので構わないが、夏にこのようなことになると大変だ。
参照:
Kopfloses Geschlurfe, blutiges Gekuschel, STEPHAN MÖSCH, FAZ vom 29.6.2019
一点一画の微に至る凄み 2019-06-29 | マスメディア批評
今晩はどのようになるか 2019-06-28 | 音
更にその正しいというのはなにかと言えば、ペトレンコと同じように才能があるとか、専門的な知識で負けないとか、現場の経験があるとかではない。必要なのは、創作に対しての正しい理解があるかどうかである。僭越ながら私の場合はペトレンコ先生の楽譜の読み方を習ったので、誰の演奏を聞いても楽譜の音が出ていないことを確認するだけのことになってしまっている。今まで多くの曲で、音が出ているのはピエール・ブーレーズ指揮の録音だけの場合が多く、この「サロメ」での作曲家の協力者でもあったベーム指揮でさえももたもたして音化が充分でないのに気が付く。そこで容易に気が付くのは大指揮者とされる人が十数段のシステムの管弦楽となると楽譜が充分に読み込めていないことだ。勿論座付指揮者と呼ばれるような二三流の指揮者は精々ピアノで音をなぞる練習アシスタントのコレプティテューアの様に前から後ろへと音を流すのが精々で、それをして劇場の豊かな経験という。
さて、先ずは冒頭からして「未だ嘗て無いような始まり」として、「通常は、三全音の関係にある長短調の間で、激しいタンギングのクラリネットの動きを聞くのだが、それが幕が上がるのを彩り、それでも一幕全体の構造をそこに含していて ― サロメの死体との愛の二重唱での嬰ハ長の激しい反射へと導く」としている。そして「実際に始まったのはマーラーの亡き子をしのぶ歌の声の録音であり、世紀末的な死の秘よりも愛の秘が重要とするところのイコン」と考える。そしてそれらのものが、この「サロメ」においては観念連想の場に含有されるとする。
厳しく練習しただろう楽団からは、「ただのダイナミックスだけではなく、齎すティムパニーの上に、そしてシステム間においての絶えない変化に気が付かされると、繊細の極みの色彩となる構造が引き出される。それが圧倒的なものとして成される。管弦楽的名人技と、創作当時の管弦楽が現在よりも微細で繊細であった響きに準拠した音響への感受性が湧き起った」としている。
そして主役のマルリス・ペーターセンは、「そのお膳立てを活かして、テキストのニュアンスとピアノで、一音節から一音節へと一貫して明白にした」と賞賛する。「彼女の声は、作曲者の指定したメタリックで強い声ではなく、調和の取れた柔らかく、まことに暖かいのだが、ヘンツェからライマン、バロックからベルカントへと初演などをこなしていて、馴らされている」としている。それゆえに「今回のロールデビューは、通常を超えた歌唱の大きな変遷と多様性という事で、他の誰も追従できないこと」だとしている。
ここまで書くと、当然のことながら最早他の歌手は分が悪い。シュスターは大向こう受けするだけで、コッホは正しく纏めていたゆえに一面的で、ブレスリックはとろけるリリックに欠けたとされる。要するにペーターセンの陰に隠れてしまっている。更なる上演で期待するのは、この批評を読んで更なる表現へと進化して貰うことでしかない。しかしコッホをあまり追いつめて、休まれたらどうしようもないのである。
演出への批評に関しては現時点では何も言えない。しかしこれを読むとやはりとても興味深く、恐らく「影の無い女」以上に成功作となり得る可能性が強い。初日の反応はやはり中々上手く把握できなかった人が多かったという事だろうか。何よりも興味深い記述は、当日ロージュのバッハラーの横にドミンゴが座って始終キリル・ペトレンコに見入っていたという事だ。なるほど当日ドミンゴが突然居たと広報部長が呟いていたのは劇場へのお客さんだったからのようだ。なにか歌うのだろうか?まさか指揮という事は無いだろうが。コッホらもさぞ気になったことであろう。
エヴィアンの音楽祭中継を録音した。まだまだ中継放送も続くようだが、中々よかったが、表番組にベルリンのヴァルトビューネからの中継があった ― そこで指揮したスキエフもエヴィアンへと回る。最初ブロックされて何事かと思った。聴視料返せと訴えるところだったが、その後流れた。恐らく日本やシナなどへのブロックを掛けるのを間違って全部に掛かってしまったのだろう。そもそもこちらも技術調整も兼ねて冷やかしで見ていただけなので構わないが、夏にこのようなことになると大変だ。
参照:
Kopfloses Geschlurfe, blutiges Gekuschel, STEPHAN MÖSCH, FAZ vom 29.6.2019
一点一画の微に至る凄み 2019-06-29 | マスメディア批評
今晩はどのようになるか 2019-06-28 | 音