Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

空騒ぎの二重の意味

2019-04-23 | 文化一般
承前)前日土曜日、「レクイエム」の日に祝祭劇場正面で写真などを写していたら車の警笛が鳴った。何事かと思って周りを見ても誰もいない。その車が走り去った後を見ると助手席に日系の第一ヴァイオリンのじょせいの顔が見えた。ベルリンナムバーであるからフィルハーモニカーの車と分かった。もう一度周りを見回すが誰もいない。その女性の顔をよく映像でも舞台でも見ているが、彼女が私のことを知っている思い当りは無い。そもそも日系のヴァイオリニストとは付き合いが無い。弦楽関係の日系音楽家も他所の楽団の人ぐらいしか知らないので、繋がりをいくら考えても思い浮かばなかった。不思議な気持ちがした。要するに特定できる日本の人の顔は数えるほどしかいないので、舞台などで見ていても意外に身近に感じるということかもしれない。ある意味日本の人の顔をあまり見ないので皆同じに見えてしまう傾向もある。同じようなことは会場内でも、普段は全く見かけない日本人の顔を見ると他人の空似ばかりである。

復活祭日曜日のガイダンスはチャイコフスキーだった。出かける直前にペトレンコ自身が語る五番のライトモティーフのフィナーレでの解決の話しが頭に残り、またボンでの同様に解説を頭に描いていたが、さらに踏み込んだのは四楽章における二つの主題で、特に民族的な楽想自体が、チャイコフスキー自身が語っている発想が、面白かった。つまり何もかも駄目なその人生のなかで、最後の砦のように原始の力のようなものがそこにあるというのだ。つまりここでも重要な要素を果たしていて、これでもかこれでもかと空騒ぎをするのであるが、殆ど強制的な前進あるのみとなるが、ペトレンコの言葉を借りれば「殆ど息が付けなくなって」、嘆きの下降旋律へと向かい、そして運命の動機が今度は長調で出て最後の時を迎える訳だ。そしてその空元気こそがショスタコーヴィッチでも踏襲された二重の意味を持つとされるところだ。

ペトレンコの解説では、一種の沖の水練のように運命そのものに自らを任してしまう解決となるが、ボンの解説で行けば最後に運命の動機で終止する。これに関しては、「月曜日の演奏を聴いてあまりにも美しく終わったのでどうかな」と解説のシマンスキー氏の感想があったが、まさしくこの二重構造や終止がその前のテムポ運びなどで決まるか決まらないかが私がボンで経験した大成功例であり、待ち侘びるところのものだ。やはりミュンヘンの座付管弦楽団のように電光石火のアゴーギクに沸き返り対抗しつつ気絶しそうになって、初めて一息ついてが技術を超えて出来るような限界状況に追い込めるようになるのに二三年はかかると思う ー 要するに無為自然、ニルヴァーナの境地である。

さて、ランランとの初対面からの練習は、ランランが英語で働きかけ、ペトレンコは敢えてドイツ語で返すというような状況だったようだ。ペトレンコも英語で会話するほどの関係を作らないように距離を置いた。当然だろう、あそこまで貶していて知らぬ顔で繕うような二重人格を演じれる男ではない。そして見ていた人によれば、主導権はペトレンコが握ったという。恐らくランランの方も左腕のことで到底プロとして一人前の顔は出来ない。カメラの前だけの空威張りの演技でしかないからだ。通常ならば少しピアノの前で打ち合わせるだろうが、如何にやっつけ仕事にしたか。責任は全て辞めていく支配人にある。その分を返そうと後半楽団と共に全力を尽くそうとしたのは五番の一楽章で見て取れた。あれだけでも満足だ。とは言いながらもベートーヴェンでも何かをやっていたが、正直あの傾向のままでの演奏ならば少し疑問である。モーツァルトほどにも上手く行っていない。勿論伴奏だけでは何も音楽にはならない。そして、演奏後の礼を逸しない若しくは慇懃無礼にならない範囲での扱いや如何にもプロらしい練習風景の報告からも、何とかこれで一件落着をということになる。(続く)



参照:
運命が拓かれるとき 2019-03-11 | 文化一般
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-15 | 文化一般

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