(承前)リヒャルト・シュトラウスが1941年にミュンヘンで「サロメ」を再演している。その時の書き込みのある楽譜が今回の新制作で使われた。これは既に呟かれていてなにも隠されている訳ではない。しかし、どこにもその詳しい意味には触れられていない。恐らくシュトラウス研究家には研究対象となっていることなのだろう。
キリル・ペトレンコの言動に関心を持っている向きは、本シーズンのプログラム紹介の節の話しを覚えているだろう。そこで彼は、「違う楽譜を演奏する」と話していた。厳密には「別版ではないが」という楽譜がこの楽譜のことであった。ペトレンコは今回の制作に当たってその作曲家自身の書き込みを逐一研究した。その結果が今回のいつもと全く異なる「サロメ」演奏だった。
その書き込みの特徴は、初演当初から問題になっていた「サロメ」を歌えるのはイゾルテを歌う歌手しかいないという制限であった。これが大問題であった ー 実際今回の演奏の音符を追えるイゾルテ歌手は存在しない。そこからマルリス・ペーターセンのリリックな歌は一つの作曲家の理想であったことも証明されたことになる。つまり、書き込みのある楽譜へと管弦楽の軽量化が図られているというのだ。しかし、それは我々研究家でなくても、その後のこの作曲家の創作の歩みを知っていると、既に1909年初演「サロメ」、「エレクトラop.58」、「ばらの騎士」、「アリアドネop.60」1916年初演へと一気に進んでいる。世界大戦の影響を受けた様式の変化など一般的に注目されるところだろうが、今回はそれが1942年までのスパンで捉えられることになった。
また大きな示唆が与えられたのは、ヴァリコスキーが語っているシュトラウスのテレージエンシュタット訪問の事実である。作曲家の義理の娘がユダヤ人であることは周知の事実だったが、彼女を訪ねて強制収容所を訪れていることは少なくとも私は今回初めて知った ― 1941年からユダヤ系作曲家などが輸送されていたそこに1943年に車で出かけたらしい。今回の新制作は最初にペーターセンの声ありきで始まったと語られているが、このような事実から演出のコンセプトが明白になってきたであろうことは想像可能である。すると今度は今までは枯れた手法とか言われたような晩年の創作とサロメ上演に当たっての書き込みなどの関係が、そうした時代背景や作曲家を取り巻く環境の変化と無関係でない事がハッキリしてくる。
偶々車中の朝の放送がオーボエ協奏曲の紹介から敗戦直ぐにアメリカンアーミーがガルミッシュパルテンキルヘンの作曲家の住居に押し寄せた話をしていて、「サロメ」や「ばらの騎士」の作曲家だと自己紹介したこと、「青きドナウ」を演奏してと言われてそれは違うと断ったこと、音楽好きの兵士を招き入れて歓待して、徴収を免れたことが紹介されていた。作曲家のその人間性が眼に浮かぶようによく分かる。
そして今回実際に響いた音楽は、まさしく「アリアドネ」以降の音楽で「歌詞の透明性」と細かなアーティキュレーションの楽器に歌が沿うと言った按配で比較の仕様の無い域に達していた。マイクでは捉えられない、現場でも視覚が無いととても負えないほどのスピード感と精妙さは、2016年に話題となったダムローとの「最後の四つの歌」の比ではなかった。この歌の技能に関してのペーターセンは幾ら称賛されても過ぎることは無い ― そして来シーズンの「フィデリオ」での歌唱とその成功が半ば保証されたようなものである。明らかに「ルル」の歌唱よりも先を行っている。
しかし、その精度を高めると同時に明らかに楽器間の出入りと鋭い和声のぶつかりが初日よりも明らかになっていた。事故の要素よりもあまりにも一瞬の鋭い木管群の一撃やティパニーの配慮なので、楽譜に首ったけで逐一見て行かなければいけない。チェックするには初日の生放送の音量を調整した再放送の8月3日を待たなければいけない。あの生放送の問題点はGPから準備していただろうが、正しい音量を読めなかったことで、マイクの数も足りなかったのだろう。ストリーミングの生が聴けていないので確認はできないが、マイクのセッティングからしてメディア発売されるだろうか。
要するに昨今のシュトラウス再解釈の一環にあって、ペトレンコ指揮の初期の交響詩の演奏やフィランソワ・サヴィエ―ロートが指摘する「カラヤン指揮等の湯船の鼻歌から抜けたリヒャルト・シュトラウスの音楽」の流れに含まれる。音楽史的な考察はおいておくとしても、少なくとも1941年という時点での作曲家の自作に対する「修正作業」と並びに今日から見る歴史の流れの中でその流れが一瞥されやすくなっているという事でしかない。あと20年もすると今度はあまりにも距離感が開いてきてもはや不可能となる作業であろう。(続く)
参照:
強制収容所の現実 [ 歴史・時事 ] / 2005-01-26
ペトレンコ教授のナクソス島 2015-10-22 | 音
キリル・ペトレンコの言動に関心を持っている向きは、本シーズンのプログラム紹介の節の話しを覚えているだろう。そこで彼は、「違う楽譜を演奏する」と話していた。厳密には「別版ではないが」という楽譜がこの楽譜のことであった。ペトレンコは今回の制作に当たってその作曲家自身の書き込みを逐一研究した。その結果が今回のいつもと全く異なる「サロメ」演奏だった。
その書き込みの特徴は、初演当初から問題になっていた「サロメ」を歌えるのはイゾルテを歌う歌手しかいないという制限であった。これが大問題であった ー 実際今回の演奏の音符を追えるイゾルテ歌手は存在しない。そこからマルリス・ペーターセンのリリックな歌は一つの作曲家の理想であったことも証明されたことになる。つまり、書き込みのある楽譜へと管弦楽の軽量化が図られているというのだ。しかし、それは我々研究家でなくても、その後のこの作曲家の創作の歩みを知っていると、既に1909年初演「サロメ」、「エレクトラop.58」、「ばらの騎士」、「アリアドネop.60」1916年初演へと一気に進んでいる。世界大戦の影響を受けた様式の変化など一般的に注目されるところだろうが、今回はそれが1942年までのスパンで捉えられることになった。
また大きな示唆が与えられたのは、ヴァリコスキーが語っているシュトラウスのテレージエンシュタット訪問の事実である。作曲家の義理の娘がユダヤ人であることは周知の事実だったが、彼女を訪ねて強制収容所を訪れていることは少なくとも私は今回初めて知った ― 1941年からユダヤ系作曲家などが輸送されていたそこに1943年に車で出かけたらしい。今回の新制作は最初にペーターセンの声ありきで始まったと語られているが、このような事実から演出のコンセプトが明白になってきたであろうことは想像可能である。すると今度は今までは枯れた手法とか言われたような晩年の創作とサロメ上演に当たっての書き込みなどの関係が、そうした時代背景や作曲家を取り巻く環境の変化と無関係でない事がハッキリしてくる。
偶々車中の朝の放送がオーボエ協奏曲の紹介から敗戦直ぐにアメリカンアーミーがガルミッシュパルテンキルヘンの作曲家の住居に押し寄せた話をしていて、「サロメ」や「ばらの騎士」の作曲家だと自己紹介したこと、「青きドナウ」を演奏してと言われてそれは違うと断ったこと、音楽好きの兵士を招き入れて歓待して、徴収を免れたことが紹介されていた。作曲家のその人間性が眼に浮かぶようによく分かる。
そして今回実際に響いた音楽は、まさしく「アリアドネ」以降の音楽で「歌詞の透明性」と細かなアーティキュレーションの楽器に歌が沿うと言った按配で比較の仕様の無い域に達していた。マイクでは捉えられない、現場でも視覚が無いととても負えないほどのスピード感と精妙さは、2016年に話題となったダムローとの「最後の四つの歌」の比ではなかった。この歌の技能に関してのペーターセンは幾ら称賛されても過ぎることは無い ― そして来シーズンの「フィデリオ」での歌唱とその成功が半ば保証されたようなものである。明らかに「ルル」の歌唱よりも先を行っている。
しかし、その精度を高めると同時に明らかに楽器間の出入りと鋭い和声のぶつかりが初日よりも明らかになっていた。事故の要素よりもあまりにも一瞬の鋭い木管群の一撃やティパニーの配慮なので、楽譜に首ったけで逐一見て行かなければいけない。チェックするには初日の生放送の音量を調整した再放送の8月3日を待たなければいけない。あの生放送の問題点はGPから準備していただろうが、正しい音量を読めなかったことで、マイクの数も足りなかったのだろう。ストリーミングの生が聴けていないので確認はできないが、マイクのセッティングからしてメディア発売されるだろうか。
要するに昨今のシュトラウス再解釈の一環にあって、ペトレンコ指揮の初期の交響詩の演奏やフィランソワ・サヴィエ―ロートが指摘する「カラヤン指揮等の湯船の鼻歌から抜けたリヒャルト・シュトラウスの音楽」の流れに含まれる。音楽史的な考察はおいておくとしても、少なくとも1941年という時点での作曲家の自作に対する「修正作業」と並びに今日から見る歴史の流れの中でその流れが一瞥されやすくなっているという事でしかない。あと20年もすると今度はあまりにも距離感が開いてきてもはや不可能となる作業であろう。(続く)
参照:
強制収容所の現実 [ 歴史・時事 ] / 2005-01-26
ペトレンコ教授のナクソス島 2015-10-22 | 音