Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

オペラが引けて風呂と酒

2019-07-11 | 歴史・時事
承前)演出家バリーコスキーはマガジンの対談で語っている ―

クシュトフ・ヴァリコスキーと立場を共にするので、この「サロメ」においては反対に最後にとても気分が悪くならないようでは失敗だ。人々が出て行って、「ああよかったわ」叫ぶとすれば、たとえそれが当たっていたとしても、何かが上手く行かなかったという事だ。こういうオペラが引けた後で必要なのはシャワーを浴びることで、自分自身の場合はヴォトカと風呂だよ。それに引き換え「アグリピーナ」は、言えば鮨と吸い物だよ。

なるほど、彼はバイロイトで「マイスタージンガー」の後でブーイングがなかった意味も分かっているのだろう。確信犯だ。

しかしヴァリコスキーがここまで単刀直入な演出をするとは私は予想していなかった。新制作「サロメ」のプログラムには事細かな情報が満載されている。そしていつものドイツのオペラ評論がそれについて深入りしていないことも想定内だったのだろう。再びフランクフルターアルゲマイネの演出に触れた部分を読み返す。

なるほど、劇中劇の「サロメ」がゲットーの中で催されている事、多民族ではなくユダヤ民族の集団となっていて、影響をしたパッソリーニの映画以上に価値ある芝居となっていて、青酸カリでの自殺へとその枠組みが崩れていくことを評価してポストドラマとしている。パッソリーニの映画をよく知っている人にはあのブーイングの意味が分かるのかもしれない、しかし私には分からなかった。

ヨハナーンが入って、死神との踊りが繰り広げられる真ん中の谷は、ポーゼンに2011年まで使われていた室内プールで、ラファール・ヤコヴィッツのヴィデオがモデルとなっている。1940年4月4日にザイルで屋根の星が弾き倒されたシナゴーグの内壁がそのまま内装となっていたプールである。

一体そこまで具体性を以って演出家はなにを言いたかったのか?ヴァリコフスキーは対談で、そもそもこの話しには裏が取れていなくて、オーソドックスユダヤとそうでないユダヤ、そしてナザレと議論をさせていて、ビッグブラザーの様にそれ覗いている我々は何者なのだ?と疑問を呈している。それを面白おかしく歴史的事項として扱っているキリスト者に疑問を投げかける ―

「綺麗な手でここから逃げられない。今観たリヒャルト・シュトラウスは語り草だよ、指揮はもの凄く、サロメは嘘の様で、ヨハナーンは素晴らしかったとは」。

一体、今日の誰に対して語っているのか?なるほど恐らくポーランド人に対してでもあり、ドイツ人に対してでもある。しかしガイダンスで、指揮者ペトレンコの右腕であるドラマテュルークのクラースティンク博士の話しの内容はそれを遥かに超えていた。そして恐らくプレスが語れないそして勘のいい者ならば誰でも気づく記号がこの演出には隠されている。少なくとも私が知る限り、ヴァリコフスキーと言う演出家の仕事はそこから始まっている。

その前に、注意しておかなければいけないのは、オスカーワイルドそしてシュトラウスの「サロメ」のその時代背景であって、それは詳しくプログラムに掲載されている。この手のプログラムにはあまりにも枠組みが沢山記述されていて、態々読んでも仕方がないと言う内容が冊子の三分の二近くに及ぶというのが普通ではないか。今回も144ページに36ページに及ぶ写真が挟まれている。舞台写真、歴史的サロメ像、そして残りはイスラエルから提供されたプロジェクターにも映されたポーランドのシナゴークの壁画の意匠などユダヤ関連の写真である。

つまり、二十世紀へと世紀が変わったところでの歴史視点から、演出家が語った今日ではヘイトとされる事象をもう一度洗い直す作業となる。(続く



参照:
Kopfloses Geschlurfe, blutiges Gekuschel, STEPHAN MÖSCH, FAZ vom 29.6.2019
意地悪ラビと間抜けドイツ人 2017-07-27 | 文化一般
未だ嘗て無いような合致 2019-07-01 | マスメディア批

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