■サリエリの汚名晴れる?、宝生閑さん、志賀山葵さん訃報■
2016.2.20 中村洋子
★Antonio Salieri アントニオ・サリエリ(1750-1825)と
Mozart モーツァルト(1756-1791)が共作した曲を発見ー
というニュースが、新聞などで報じられました。
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■2016.02.17
モーツァルトとサリエリの共作発見、200年超ぶりに演奏
2月16日、モーツァルトと対立関係にあったとされるサリエリが共同作曲した作品の楽譜がチェコの国立博物館で見つかり、発見後初めて演奏された。写真は共作の楽譜(2016年 ロイター/DAVID W CERNY)
[プラハ 16日 ロイター] - モーツァルトと対立関係にあったとされるサリエリが共同作曲した作品の楽譜がチェコの国立博物館で見つかり、16日に発見後初めて演奏された。作品は、モーツァルトがオペラ「ドン・ジョバンニ」や「魔笛」を作曲するなど最も活躍した時期に当たる1785年に書かれた。
モーツァルトとサリエリの音楽を手掛けた英歌手の快復を祝うために作曲され、「オフェリアの健康回復に寄せて」と題されている。当時の演奏会で披露されたかどうかは不明だという。
モーツァルトは1791年に35歳で死亡したが、サリエリに毒殺されたという説がある。博物館の調査担当者は「映画『アマデウス』で描かれたことは誤りだった。サリエリはモーツァルトを毒殺していない。ただ、2人ともウィーンで活動し、ライバルだった」と述べた。また、この担当者は「これは小品だが、少なくともオペラ作曲家モーツァルトのウィーンでの日常生活に新たな光を当てるものだ」と語った。
■2016.02.17
モーツァルトとサリエリの共作発見、演奏を披露 プラハ
(CNN) 長い間行方不明になっていた作曲家モーツァルトの楽譜がチェコの首都プラハの国立博物館で発見され、16日に演奏が初披露された。
楽譜は先月、モーツァルトの同僚でライバルだったアントニオ・サリエリの研究をしていた音楽学者がチェコ音楽博物館の収蔵品の中から発見した。
ザルツブルク・モーツァルト財団によると、この学者はウィーンの宮廷詩人ロレンツォ・ダ・ポンテが手がけた30節の詩を発見。この詩がモーツァルトとサリエリ、および比較的無名の作曲家コルネッティが共作した楽曲の一部だったことが分かった。この作品は長い間行方不明になっていた。
モーツァルトとサリエリを巡っては、1984年の映画「アマデウス」の中で、サリエリが対抗心をむき出しにする様子が描かれている。しかし今回見つかった作品は、2人の対立がそれほど激しいものではなかったことをうかがわせている。
共作が作曲されたのは1785年。モーツァルトが実際にはサリエリと親しかったことがこれで裏付けられ、サリエリによるモーツァルト毒殺説も疑わしくなった。
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★サリエリがMozartを毒殺したという映画「アマデウス」が大流行したため、
大作曲家・サリエリに対する誤った認識が、定着してしまうのではないかと、
私は、危惧しておりました。
このブログでもかつて、それについて書いたことがあります。
再度、サリエリについて記述した部分を掲載いたします。
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■ Mozartモーツァルト「 きらきら星変奏曲 」の、自筆譜実物を見る■
2011.11.21
(略)
★会場では、モーツァルトの生涯を、20分ほどにまとめた、
ビジュアル&サウンド アーキテクチャー「 モーツァルトの素顔 」
という、ビデオを放映していました。
★まるで、宝塚の男役スターのようなナレーションが、
「 Wolfgang Amadeus Mozart モーツァルト 」 本人かのように、
一人称で、生涯を語っていました。
またまた、 「 サリエリ陰謀説 」 を、訳ありげに仄めかしていました。
エンターテインメント映画に、いつまでも、
振り回されるのは、どんなものでしょう?
★Antonio Salieri アントニオ・サリエリ (1750-1825) は、
実は、天才Franz Schubert(1797-1828)
シューベルトを、陰になり、日向になり、育て上げた人です。
シューベルトが今日あるのも、このサリエリのお陰である、ともいえます。
才能に満ち満ち、しかし、それゆえ偏狭と取られがちの天才を、
≪真の天才である≫ と見抜き、それゆえ暖かく庇護し、
慈しみ、育てた感服すべき人です。
まことに、度量の広い人物です。
このような敬服すべき偉大な人が、 “ 嫉妬 ” のあまり、
天才 Amadeus を、毒殺するのでしょうか。
★サリエリの音楽をまず、聴いてください。
通俗娯楽映画が吹聴する、胡散臭い、
俗説に惑わされることなかれ!!!
そんな俗説は、一笑に付されることでしょう。
まず、原典に当たってください。
★映画では、モーツァルトの妻に宛てた手紙に基づき、
さも、モーツァルトが下品な人物であるかのように、描いていますが、
皆さんが、親しい友人や恋人に書いた “ 携帯メール ” が、
そのまま暴露され、本として刊行されたと想像してみてください。
赤面しない人は、いないでしょうね。
★その轍を、踏まなかったのが、
ブラームス Johannes Brahms (1833~1897)です。
晩年には、クララ・シューマンと交わした手紙も、数多く、
廃棄しています。
モーツァルトのように、誤解されるのが、たまらなかったのでしょう。
(略)
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★今回、Mozart との共作が発見されたという事実から、
やっと、サリエリは汚名を晴らすことができそうですね。
商業主義に搦められますと、歴史上の人物の性格、役割などを、
面白おかしく、歪めて伝えられてしまう、
しかも、それが定着してしまう、といういい例かもしれません。
★あらゆるものは、可能な限り原典に自分で当たり、
自分の頭で評価する姿勢を保ちたいものですね。
★≪Mozartモーツァルト「 きらきら星変奏曲 」の、自筆譜実物を見る≫は、
私の著書≪クラシックの真実は大作曲家の「自筆譜」にあり!≫の
Chapter 7 にそのまま掲載されています。
★お能の宝生 閑さんがお亡くなりになりました。
1934年生まれ、81歳。
何度も舞台を拝見し、いつも感動しました。
真の芸術家でした。
★毎日新聞2016年2月1日
宝生閑さん
能楽ワキ方宝生流宗家で文化功労者、芸術院会員、人間国宝の宝生閑(ほうしょう・かん)さんが亡くなったことが1日わかった。81歳。通夜は9日午後6時、葬儀は10日午前10時、東京都渋谷区西原2の42の1の代々幡斎場。喪主は長男の能楽師ワキ方の欣哉(きんや)さん。
同流の宝生弥一の長男に生まれ、父と同流十世宗家の祖父宝生新に師事。1941年に初舞台を踏んだ。ワキ方として優れた技芸を身に着ける一方で、シテ方の観世寿夫や新劇俳優らとともに「冥の会」に参加し、ギリシャ悲劇にも挑んだ。94年に人間国宝に認定。96年に紫綬褒章受章、2001年にワキ方宝生流を十二世として継承。
02年に芸術院会員、14年に文化功労者に選ばれた。長男で同流の宝生欣哉さんをはじめ、後進の育成にも尽力した。
★宝生閑さんの名人芸につきましては、
当ブログにかつて掲載いたしましたが、再掲いたします。
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■ 「宝生閑」さんと、「ベルリンの壁」崩壊から20年 ■
09.11.9 中村洋子
★本日は、1989年11月9日に、東西を分断していた
「ベルリンの壁」が崩壊してから、20年が経過した記念の日です。
先週、来日中の「ライプチッヒ・ゲバントハウス管弦楽団」の、
楽団員の3人と、夕食をご一緒いたしました。
ライプチッヒは、バッハが後半生を過ごした地であり、また、
1743年に、創立された「ゲバントハウス管弦楽団」は、
世界屈指の、オーケストラです。
東ドイツ自由化の運動は、ライプチッヒの教会が発祥の地でした。
★楽団員の方は、お一人は、7代続く音楽家の家系、
また、もう一人は、コンサートマスターであったカール・ズスケさんの、
お嬢さんで、ご兄弟すべてが音楽家の方でした。
★最後のお一人は、ヴィオラ奏者でしたが、その方は、
「父は牧師で、私の家系には音楽家はいませんでした。
しかし、私の兄弟はすべて、音楽家になりました。
もし、旧東ドイツ時代に、普通の職業に就いていましたら、
絶えず、政府から干渉される毎日でした」。
そして、「音楽をしている時だけは、心の自由は誰からも、
奪われません。ですから、私は音楽家になったのです」と、
静かに、語っていました。
★このように、切実に音楽を求め、
演奏している方と、出会うことができ、
私は、とても、幸せでした。
バッハの息吹が残るライプチッヒで、厳しい政治状況の下で、
ひたむきに、音楽と向き合ってきた姿勢に、打たれました。
日本でも、このような真摯な音楽家が増えるといいですね。
★先週は、7日の土曜日、国立能楽堂で、お能「安宅」を観ました。
ワキ「宝生閑」さんの、「富樫」が、絶品でした。
ワキは、一般的に、主役のシテに対し、旅の僧などを演じ、
物語を進行させる“脇役”に、徹することが多いのです。
しかし、「安宅」は、シテの「弁慶」に対し、
対等に、渡り合う演目です。
★この二人の葛藤を、鮮烈に描くため、
義経は敢えて、子供が演じます。
「富樫」が、義経一行を、義経と見破ったかどうかは、
演じ方次第、でしょうが、
宝生閑さんは、明らかに “義経と見破った“ うえで、
自らの命を賭して、彼らを救ったと、
私は、舞台を観ながら、そう思いました。
★弁慶が、お礼の舞いを披露し、
足早に立ち去っていく姿を、眺める「富樫の横顔」。
宝生閑さんが、一瞬見せた表情は、
いずれ、義経ではなく、自分が殺されるであろう、
という近い将来の虚空を、眺めている目でした。
“それも人生である”と、達観した姿でした。
★私は、宝生閑さんに、このような人間的な表情を、
見たのは、初めてです。
“感情を表さない”、という厳格なお能の様式を守りながら、
ふっと一瞬、真の人間性を浮び上がらせる業、
至難の業である、と思いました。
★先週は、ドイツと日本の、本当の芸術家の方々に、
接することができ、勇気を、頂きました。
★また、以下でも宝生閑さんについて触れております。
■新春 能狂言 山本東次郎 能 バッハ■
09.1.2 中村洋子
(略)
★随分前になりますが、私は平成16年(2004年)、
月刊誌「観世」7月号の、巻頭随筆として
「シテとワキとの照応は、フーガにも似る」を書きました。
★能「井筒」のシテとワキの関係を、
フーガの主題と対主題になぞらえ、主題と対主題が、
シテとワキと同様に、お互いに補完し合う関係にあることを、
書きました。
★「平均律クラヴィーア曲集第1巻」最後の
「24番フーガ」のテーマ(主題)は、
重い十字架を背負ったイエスが、ゴルゴダの丘を、
よろめき、つまずき、喘ぎながら上っていく様、
その動きを、表現しています。
バッハは、平均律で唯一、24番だけ演奏速度を指定しています。
フーガは、「ラルゴ」つまり、「ごくゆっくり」です。
キリストの歩みと、重なります。
★対主題は、静かに寄り添うように、目立たず、
順次進行していきます。
しかし、対主題の出現により、主題の全体像、つまり、
構成和音、調性などが明らかになり、
リズムが、補完されていくのです。
★「井筒」は、観世寿夫さんがシテを演じた
名演のビデオ(1977年)を、見ました。
能面「増女」の、やわらかい眼差し。
最愛の人への、絶ゆることなき追憶、それにひたる幸福感、
人間のもつ、最も美しい一面を、
これほどやさしく讃えるお顔はない、と思われます。
★「暁毎の閼伽の水・・・」
聴く者の全霊を、まだ見ぬ深淵へと引き込み、
その魂をあらゆる桎梏から、解き放ち、
救済してくれるかのような、寿夫さんの謡。
一瞬、一瞬に永遠の均衡、力、美が宿る寿夫さんの動き・・・。
見終わるたびに、ぐったりとしている自分に気付きます。
シテとともに、歩み、謡い、舞ったかのような高揚感。
まさに、芸の極致です。
★しかし、その名演が、歴史的名演たり得るのは、
ワキの宝生閑さんの、存在があってこそなのです。
「井筒」で、シテの正体が「有常の娘」であることを、
暴くのは、「旅の僧」のワキです。
つまり、補完する対主題です。
★人類永遠の芸術である「バッハ」と「能」。
尽きぬ感動を呼ぶのは、ともに普遍的な様式を、
根底に持つからでしょう
★この≪新春 能狂言 山本東次郎 能 バッハ≫は、
私の著書 Chapter 7 に掲載しております。
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★もう一人、素晴らしい舞踊家がお亡くなりになりました。
★志賀山葵さん 日本舞踊家
2016年2月17日 東京新聞
志賀山葵さん(しがやま・あおい=日本舞踊家、本名酒井尚子=さかい・ひさこ)1月27日、急性心筋梗塞のため死去、90歳。大阪市出身。葬儀・告別式は近親者で行った。しのぶ会は3月5日午後2時から東京都港区南青山5の2の20、NHK青山荘で。喪主は長男章(あきら)氏。
★志賀山さんの舞いは、実は一度しか拝見したことがありません。
しかし、その立ち居振る舞いは、私の心に焼き付き、
絶えず反復して現れ、昇華されていきました。
★もうおおよそ四半世紀も前のことになりますが、
知り合いの舞踊家の発表会に招かれました。
そのお師匠筋に当たる方が、志賀山葵さんでした。
志賀山さんも、舞いを披露されました。
★体の節という節が、まるで絹でできているかのように、
滑らか、音もなく動かれます。
重心は、大地に根が生えたように揺るぎません。
手を中空に挙げ、静かに手の平を脇に振ります。
空気が揺らぎ、たおやかな風が客席に押し寄せてきます。
匂い立つような舞いでした。
★それ以来、私の心の中で、絶えず、
志賀山さんが美しく、舞っています。
一期一会です。
最高の日本舞踊家でした。
一般には、ほとんど知られていない流派のようです。
本当の芸術家は、有名になる必要はないのでしょう。
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