6,434人の命を奪い、約25万棟の住宅が全半壊した阪神・淡路大震災の発生から、25年が経ちました
あの日は、大阪に住む僕にとっても、忘れられない日でした。
1995年(平成7年)1月17日の午前5時46分に震災は起きたのですが、15日の日曜日が成人の日で翌16日の月曜日は振り替え休日でした(成人の日が1月15日だった時代です)。
そして次の17日の火曜日は、3連休も終わって「さあ、また仕事に戻らなければ」という日でもありました。
午前5時46分のことなので、僕はまだ寝ていたわけですが。
グラッと揺れを感じて目が覚めるとすぐ異常に気がついた。「あっ」と思っているうちに、ガタガタガタっと天井や壁が揺れ出し、大きな地震をあまり経験したことのない僕や妻は何をどうしていいのかわからず、ただ布団にうつぶせて揺れが収まるのを待つばかりだった。ひたすら布団の中で身を硬くし「早く止まってくれ」と念じていた。2階のキッチンで、ガチャンガチャンと食器などが落ちている音がした。
…ようやく揺れが収まり、NHKテレビをつけると、臨時ニュースで、早くもこの地震を報じていた。まだ真っ暗な神戸の街の生の映像が流されていた。これで、地震の中心が神戸だったことを知ったのです。
現地にいた記者は、
「外に出てみましたが、今のところ大きな被害は出ていないようです」
…そう伝えたのです。
街はまだ真っ暗だったし、火事も起きていなかったから、記者も状況をつかめなかったのだろうか。
ともかくそれを聞いた 僕は、ホッとしてテレビを消した。
「あぁ、大したことなかったんだ。しかし、すごく揺れたな」
台所で床に落ちた食器類を妻と2人で片付けて、僕はそのまま朝のジョギングに出た。そのあと、いつものように自転車に乗って勤務先の市役所へ。だから地震の続報は、その時まだ知らなかったのです。
仕事中にはもちろんテレビも見られません。まさかこれほどの大災害であったとは、仕事をしている間は夢にも思いませんでした。しかし、昼休みにロビーでチラッとテレビを見ると、かなりの被害が出ているようでした。
そして帰宅して妻から「ものすごく被害が出ているよ」と教えられ、初めて事態の大きさを知りました。ニュースを見ると、街中が炎に包まれたり、高速道路が崩れ落ちたり、信じられないような惨状でした。
あれから25年が経ったのですね。
自分自身の記憶の風化を防ぐためにもあの時のことを忘れてはならない、と肝に命じながら、当時の新聞記事を手元に残しているので、ここに掲載します。
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地震があったその日の夕刊で報じられた死者は333人。それが翌日の朝刊では、「死者1590人・不明1017人」となっていました。その後、新聞が配達されるたびに、死者の数が増えて行ったのです。
1995年1月17日(地震当日)の夕刊
同じ1月17日夕刊の社会面。
高速道路が途中で折れて、バスが落ちかけている写真などもあった。
翌18日(水)朝刊。
地震発生から半日が過ぎても燃え続ける神戸市街。
同18日夕刊。
激しい地震で家が倒れ、焼け野原になった神戸。
1月19日(木)朝刊。災害の全貌が、徐々に明らかになってきた。
写真では活断層が動き、地表に生じた亀裂が一直線に延びていた。
同19日夕刊。
19日になっても、三宮中心街の高層ビルで火災が発生した。
(写真は、煙に包まれる高層ビル)
救助に当たった自衛隊や機動隊は、生存可能者を優先した。
生き埋めになった遺体の捜索・搬出まで手が回らないので、
それらを地元住民の手で行なった地域も少なくなかったという。
1月20日(金)の朝刊。
写真は、倒壊したビルの中から57時間ぶりに救出された子ども。
この9歳の男児は、救出の瞬間「まぶしい」とつぶやいたという。
新幹線の新大阪~京都間はこの日から運転が再開された。
1月21日(土)朝刊。
当初、震度6と発表されていたが、気象庁の詳しい調べで、
神戸の三宮地区と淡路島北部は震度7だったと判定された。
昭和24年に震度7の震度階が設けられて以来、実際に
震度7が確認されたのは観測史上初めてとのことだった。
(2011年の東日本大震災の時の宮城県も震度7だった)
1月24日(火)朝刊。震災から1週間が経った。
死者はついに5,000人を超えたと報じられた。
この震災で命を失われた方々の数は、最終的に6434人でした。
改めて、追悼の意を表し、心より御冥福をお祈り致します。