僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

フルマラソンの練習問題

2011年03月10日 | ランニング

長年走っていないフルマラソンをめざして練習を始めているが、
なにせ長年走っていないものだから、 「こんなはずでは…」
…という現象が、あれやこれやと起こる。
あぁ、やっぱり歳には勝てないんだろうか…と、嘆きの日々である。

少し遠い場所だけど、5月中旬に開催される頃合な大会をネットで見つけた。
その大会は、制限タイムがかなり (…というより、めちゃめちゃ) ゆるい。
というのは、それはウルトラマラソンを中心とした大会で、
そこに、フルマラソンの部もおまけのようにつけられているからだ。
制限時間がウルトラマラソンに合せてあるので、ゆるい…というわけ。

さらに、そこのコースは、一周3キロの公園内を周回するコースなので、
途中、走れなくなってリタイヤするのにはまことに好都合である。
(こんなズボラなことばかり考えている)

さて、これに出場するとなると、5月中旬まであと2ヶ月。
完走をめざすには、今はどんどん走り込まなければならない時期である。

2月22日に、久しぶりに20キロを走った。
また翌日から5日間、10キロから15キロを続けて走り、
そろそろ走り込みも調子が出てきたな~と気分も高まってきた。

ただし、超スローなジョギングである。
ある時、調子に乗って少しだけスピードを上げたら、不整脈が出た。
分不相応なことをすると、たちまちわがハートから警告が発せられる。
身体全体が衰えてきているのだから、あまり無理をするのはよくない。

1週間ほど走り込むと、もう足が重くてだるくて、たまらない。
自宅の階段を上がるのも、足がもつれるありさまだ。
そして、その疲れがなかなか取れない…どころか、たまる一方で、
続いてコスパで水泳なんかすると、夕方にはぐったり死んだようになる。
最近は、コスパではプールで泳がず、主にジムでストレッチをしている。

3月に入って再び20キロ走に挑戦したが、13キロでダウン。
ここ数日は、風が強く、寒い日が続いたので、走るのをサボった。
まあ、休養も練習のうち…と思っていたら、昨日、なんと腰痛が突発した。
何年も前から軽い腰痛はあり、時々痛みが激しくなる時があるのだが、
それが、昨日、出た。

あぁ~、…とため息。

しかしまあ、これまでの経験からいけば、すぐに治るはずである。

何とか練習を重ねて、5月のフルマラソンで完走したい。
いや、完走できなくても、スタートラインには立ちたい。

プロスキーヤーで登山家でもある三浦雄一郎さんのことを思う。
三浦さんは3年前、75歳でエベレストに登頂してギネスブックにも載った。
この人は不整脈を持ち、カテーテル手術もされている。
僕は1回しかしていないが、三浦さんは数回の手術をされている。

それを克服しての快挙であった。

三浦さんは、60歳くらいのとき、運動もせず飲んだり食べたりの生活で、
すっかり心身が弱ってしまったので、一から身体を鍛え直したそうだ。

「あの時にやり直したことが、今の私の身体を作ったのです」

今年78歳になる三浦さんのこの言葉が、僕の今の気持ちを支えている。

…と、まあカッコいいこと言っているけど、
三浦さんと自分と同じように考えるなんて大きな勘違いだよ~ん、
…と、自分の中のもう一人の自分が、そっとささやくのである。

う~む。 そう言われると、ミもフタもないよね。

 

 

 

 

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走る地方公務員

2011年02月28日 | ランニング

先週の金曜日、久々に松原市役所の職員の人たちと一緒に飲んだ。
役所のマラソン仲間だった一人、東○ちゃんが3月に退職する、その送別会である。

世話役は、先日のブログでもご紹介した doiron (ドイロン) がしてくれた。

「2月25日 (金) 6時半より  『昇さんを囲む会』  をしますので」 というメールが来た。
東○ちゃんの送別会なのに、そんなことを送ってくるのが、お茶目なドイロンらしい。
…と思っていたら、当日、実際に 「昇さんを囲む会」 も兼ねていますので…と言い、
会費を受け取ってくれず、厚かましくもごちそうになってしまった。

さて、その日は市役所の元マラソン仲間で、特に仲の良かった7人が集まった。
僕以外は、全員現役の職員である。
退職して2年もたつのに、こうして誘ってもらえるのは嬉しい。

出席したのは、まず北海道サロマ湖100キロマラソンへ一緒に行った3人。

北ちゃんは、サロマ湖100キロで8時間43分の好タイムで完走者611名中、41位に入った。 
トライアスロンでは琵琶湖の国際大会に出場し、別大マラソンでは2時間30分台で走った。
松原市だけでなく、近郊の市役所の走る職員の間では、知らぬ者のない実力者である。

同じくサロマ湖を一緒に走った丸ちゃんは、練習もしないのに好記録を出す不思議な男だ。
スピードがあり、フルマラソンも何度か2時間台で走ったが、いずれも途中から歩いた。
途中から歩いて、それでも3時間を切るランナーというのはあまり聞いたことがない。

そしてドイロン。 
先日も書いたけれど、萩往還250キロレースに何度も出場し、すべて完走した超人である。
トライアスロンの選手でもあり、そのレース歴はバラエティに富んでいる。

以上が、サロマ湖へ行った仲間たち。

次に、秋○ちゃん。 温厚な性格で、いつもニコニコと人の話に耳を傾ける。 
トライアスロンはやらないが、フルマラソンでは北ちゃんに次ぐ強豪ランナーだ。
市民病院の検査技師さんだったが、病院の閉鎖に伴い、今は事務職員をしている。

続いて飯○ちゃん。
日体大を卒業し、市民体育館に勤務する生粋のスポーツマン。
トライアスロンで、カナダとアメリカの2度の海外遠征をしている。
マラソンの話になると、口角泡を飛ばすほどの饒舌になる熱血漢だ。

最後に、3月末で退職するこの日のゲスト、東○ちゃん。
ついこの間行われた大阪府の泉州マラソンに出場。 
この年齢で、見事に3時間台で完走した。 
堅実に走る、真面目一筋の市民ランナーである。

この6人に、僕も加えてもらって、総勢7人で、楽しくビールを飲み交わした。

あのとき、あのレース、あのコース、あの場面、あの苦しさ、あの会話、あの喜び…
そんな、共通する話題がヤマほどあって、数時間はあっという間に過ぎた。

ちなみに、この6人に比べるとマラソンの実績ではガタっと落ちる僕だけれど、
ひとつだけ取り柄といえば、松原市役所で初めてフルマラソンを走った、ということ。
タイムは4時間23分くらいで、完走するのがやっとだったけれども、
これだけは、実力とは関係なく、「早い者勝ち」 というものだろう (笑)。

こうしてワイワイ飲んで騒いでいても、やはりその底に、
苦楽を共有してきた仲間同士の強い絆のようなものを感じた。

  ……………………………………………………………………………………

以前、長居競技場周回コースで、大阪府下の市の駅伝大会が行われていた。

このメンバーがマラソンを始めたころから、松原市はトップレベルのチームになった。
駅伝の成績は年々上がり、ついに入賞するレベルにまで達した。
ここには登場しなかったが、時々コメントをもらうコバヤシ君もメンバーの一人だった。

大阪の実業団大会にも出場し、ある時はチームで表彰台に立ったこともある。
僕がたまたま最年長でキャプテンだったので、表彰状を受け取らせてもらった。

「松原ランナーズ」 という同好会だった。

松原市だけでなく、藤井寺市や羽曳野市などの近隣の市役所のランナーたちとも交流を深めた。 今でも、大和川堤防を走っていると、そういう人たちにバッタリ出会うことがある。

とまあ、こう書きながら思ったけれど…
市民ランナーというのは、市役所の職員や学校の先生など、公務員が多い。
僕も以前、近所の堤防を毎朝のように走っていたとき、
「お役所は勤務時間が規則的で、有給休暇も多いので、走る時間が多く取れますね~」
と、言われたことが何度もあった。 
まあ、確かに、言われてみれば、そうだろうな~と思う。

ところで…
昨日の東京マラソンで、2時間8分台の好記録で日本人男子最高の3位に入り、
世界選手権代表に内定した川内という選手は、23歳の「市民ランナー」 だった。

それも、埼玉県の職員である。 つまり、地方公務員だ。 
こういう人が出てくると、なんとなくうれしい。

まあ、箱根駅伝の経験もあり、去年の東京マラソンでも4位に入ったというのだから、
まったくの市民ランナーというわけでもないだろうけど、地方公務員には変わりない。

この夏に韓国で行われる世界選手権には出場したい、とのこと。
「有給休暇が沢山余っていますので、それを使って行こうかな、と思ってます」
とレース後、さわやかな笑顔で語っていた。

世界選手権でも、この地方公務員ランナーに、ぜひがんばってもらいたい。 

 

 

 

 

 

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大阪マラソンにエントリー

2011年02月18日 | ランニング

1年半前から企画されていた大阪マラソン ~OSAKA MARATHON 2011~ 。
いよいよ今年10月30日に、第1回大会が開催されることになった。 

大阪城公園前をスタートし、御堂筋や淀屋橋、京セラドーム大阪、通天閣などの名所を巡り、インテックス大阪前をゴールとするフルマラソンの大会で、一般ランナーが参加できる大阪市内の大会としては
、初めての開催となる。 

ここ10年ほどマラソン大会には出ていないが、制限時間が7時間という僕にとっては有難い条件なので、申し込むことにした。 インターネットや携帯サイトから申し込めるので便利である。

申し込みの開始は、2月15日の午前10時からだった。

その15日の10時過ぎに、さっそくパソコンから大阪マラソンの 「エントリー」 に登録した。
「定員を超えた場合は抽選を行います」 
との但し書きが添えてあった。

定員は2万8千人だ。 
まあ、昨今のランニングブームである。
大幅に定員を超えることは間違いないだろうな~と思っていた。

それから1日しかたっていない16日。 再びそのサイトを見ると…

「エントリー者数が3万人を超えました。 これにより、参加ランナーは抽選による決定となることをお知らせします」

        


わずか1日で、早くも3万人を超えた。

申込期間は1ヶ月。 3月15日までである。
この調子では、どれだけの申込者が殺到することやら。

フルマラソンを走る人って、こんなに大勢いるんだ。

抽選結果の発表は、4月末日だそうである。

 

 

 

 

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サロマ湖 100キロこぼれ話

2011年02月03日 | ランニング

サロマ湖100キロマラソンは、後日、レースのダイジェストがテレビで放映された。
おかげで、知る由もなかった優勝選手の壮絶な走りっぷりなどを見ることができた。

男子は小島という選手が、女子は遠藤という選手が優勝した 。

女子でトップを走っていた遠藤が、原生花園で前を走る一人の男性ランナーを抜いた。
そのシーンをよく見たら、抜かれた選手は、我らの仲間、キタちゃんだった。
ゴール近くで、女子の優勝選手と一緒にテレビに映るのだから、キタちゃんもすごい。

42キロ過ぎでは、マルちゃんの走る姿が、一瞬、映った。

僕やドイロンは、チラリとも映らなかった。

   ………………………………………………………………………………………

100キロを走り抜き、いよいよ目の前にゴールが見えたときは感無量である。
僕とドイロンは、ゴールの時に、それぞれちょっとしたハプニングがあった。

僕は90キロあたりから、ランナーの中に変なオヤジがいるのが気になっていた。
そのオヤジは、給水所のボランティアの女子高校生を怒鳴りつけていたのだ。
「水をくれ、水を。 こんな味のついたドリンクじゃない。 水だ、水!」
怒鳴られた女の子は、「すみません」 とあやまり、あたふたと水を探す。
「早くしろ。 こっちは疲れとるんじゃっ」
いくらランナーだと言っても、これはひどい。
陰で支えてくれるボランティアの地元女子高生を罵倒するなど、最低の行為である。

そのオヤジの走るペースが、僕とほぼ一緒だった。

いよいよゴール会場である常呂町民センターの前の運動場に入ってきた。
ゴールではテープが待ちうけ、あと50メートルほどのところまできた。
周囲の大会関係者の方たちが、「おつかれさま~」 と拍手を送ってくれる。
ゆっくりと、一歩一歩をかみしめるように、僕はゴールに近づいた。
至福の瞬間だった。 

そのとき…
「ウォーッ」 というとてつもなく大きな声が、真後ろから響いてきた。
まるで猛獣が吼えるような、わけのわからない叫び声であった。 
普通の喜びの声ではない。 気が狂ったような絶叫だ。
そしてゴール寸前で僕を抜き 、「ウォーッ!」 と叫びながら両手を上げ、
ピョンピョン飛び跳ねてテープを切ったそのランナーは…
さきほどの、変なオヤジであった。 

オヤジは、最後の直線コースでいきなり全力疾走して僕を抜いた。
人が大勢いるゴール前で僕を抜こうと、あらかじめ狙っていたかのようだ。

しかしなぁ。
お互いに苦しい思いをして100キロを走ってきた、いわば同志である。
僕の前にもランナーが一人いたが、たとえ追い抜く力が残っていたとしても、
そういう行動を取らないのが、マナーというものではないか。
611名の中の583位か584位か…というポジションで、何を競うのか。

給水所のボランティアを怒鳴りつけたり、ゴールで 「ひとりバカ騒ぎ」 したり。
こんな頓珍漢なオヤジも、100キロを走るランナーの中にいるのである。
ランナーもいろいろ、である。

 
さて、ドイロンのほうは、膝の故障に泣かされたレースだった。
ストレッチや歩きを入れながら、なんとかゴール付近へたどり着いてきた。

ゴールまであと1キロというところで…
ドイロンの横を走っていた女性ランナーは、すでに感極まって涙を流していた。
「あと1キロね。 あと1キロね」 と、声を震わせ、泣きながら走っていた。
ドイロンも思わず胸がキュンとなり、その女性に、
「そうなんですよ。 あと1キロですよ。 がんばりましょうね」
と、やさしくその女性を励ました。 

「そうね。 あと1キロね。 あと1キロね」 
女性の足元はふらふらで、今にも倒れるのではないかと思われた。
「大丈夫ですか…? もう少しですから、何とかがんばってくださいね」
ドイロンはやさしい。 その女性にペースをあわせ、見守ってあげた。

「そうね。 あと1キロね。 あと1キロね」 と、
泣きながらその女性は…
…急にスルスルとスピードを上げた。
コロッと人が変わったように、軽快な足どりになり、ドイロンを引き離して行った。
ドイロンはとてもそのスピードには付いて行けず、置いてけぼりをくっちゃった。

 …というのが、ドイロンの、サロマ湖100キロマラソンのエンディングでした。

 

 

 

 

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思い出の サロマ湖100キロマラソン

2011年02月02日 | ランニング

250キロを一気に走りぬくほどの鉄人ドイロンも、昔から僕と同じように不整脈に悩まされており(不整脈では年下の彼のほうが先輩である)、これまで数回の手術もしていた。 先日のメールでは、「昨年末にまたまた心臓の手術をして、いよいよトライアスロンやウルトラマラソンは卒業となりました。最近はウォークと軽いジョギングの日々です」 とあった。 

あのドイロンからこういう言葉を聞くのはとても寂しいことである。
人が年齢と共に体力が衰えるのは仕方ないことだけど、なぜか、せつない。

ドイロンも僕も、仲の良かったマラソン友だちも、み~んなタフだった頃。

あの1991年(平成3年)の7月7日の七夕の日に走ったレース。
サロマ湖100キロマラソンを懐かしく思い出す。 42歳の時だった。

キタちゃんとマルちゃんとドイロンと僕の4人で北海道へ行き、走った100キロ。
僕以外の3人はいずれも30代で、同じ役所の仲の良い友人たちである。 
キタちゃんは別大マラソンにも出場した超一流の市民ランナーだ。
マルちゃんは無口で時々 「だはは~」 と笑う天才肌のランナーで、努力を嫌がる。
そしてドイロン。 この旅行の世話人役を一手に引き受けてくれていた。
 
7月6日、旭川空港へ降り立ち、そこから旅行社のバスに揺られて6時間。
受付会場の常呂町から宿泊ホテルの北見へ行き、翌朝午前2時半にホテルを出発。

そして、7日の午前5時に、湧別町総合体育館前からレースがスタートした。
日本全国から集まってきた出場選手は、約800人であった。

実力者のキタちゃんは一瞬にして前方の人ごみの中へ姿を消して行った。
マルちゃんとドイロンは慎重に走り始めるが、僕にはそのペースさえ速かった。
ドイロンが 「あれ?」 という表情で振り返り、僕を探しているのが見えた。
しかし僕はほとんど最後方に近い位置で、ゆるゆると走った。

正直なところ、僕はこのレースで完走できる自信はなかった。
練習では最長70キロ走までやり、多少の見通しも出てきた頃、

レースの1ヶ月ぐらい前だけれど、40キロを過ぎると左足の膝が痛み出した。
他の3人とは格段に実力が落ちる僕が完走できれば、宿願の全員完走となろう。
しかしそれは、とても難しいことのように思えた。

レースはどんどん列が長くなってきた。
20キロ地点で止まり、屈伸運動をしていたら、近くに待機していた大会役員さんが、
「棄権されるのでしたら、この車でゴールまで送りますよ」
と、心配そうに声をかけてくれた。
「いえ、ちょっと体操しているだけで…。 大丈夫です」
まさか…20キロで棄権してどないすんねん。

心配していたとおり、40キロ付近で左足の膝が痛み始めた。
あぁ、万事休す…か。 
しかしあきらめてはいけない。
何とか少しでも前に進まなければ…と、走り方を変えてみた。
前向きに走るのをやめ、左足に負担がかからないように、斜めを向いて走ったのだ。
まぁ、大げさに言えば、カニさんが横に走る感じに近かったと思う。

この走り方にしてからは、痛んでいた箇所がウソのように何も感じなくなった。
別に深い考えもなく、とっさに思いついた窮余の一策であった。

50キロ地点を通過しようとしたとき。
ちょうど、その場所が50キロの部のレースのスタート場所だった。
これからスタートしようとする選手たちが、沿道に溢れていた。
その中の一人の女性が僕に
「100キロの方、いいペースよ、がんばって~」
と、声をかけてくれた。 こういうのって、すごくうれしい。

トコトコと斜めを向きながら走っていて、気になることがあった。
ゴールの制限時間は、12時間半である。
スタートが午前5時だから、午後5時半にレースは 「強制終了」 するわけだ。
それまでにゴールしなければ、その時点でリタイアということになる。

あれやこれや考えながら走り続け、とうとう80キロまで来た。
なんと、ゴール会場である常呂町民センターがすぐそこに見えた。
しかし、まだ20キロ残っている。 このあとが大変だった。

ここからワッカ原生花園というサロマ湖の海側の道を10キロ先まで走り、戻ってくる。
最後の20キロのこのコースが、とてもとてもきつかったのである。
 
原生花園に入るところで、向こうからマルちゃんがやって来た。 
間もなくゴールである。 すご~い。 練習嫌いなのに、さすが天才肌。
マルちゃんは 「がんばって…」 と僕に小声で言って、すれ違って行った。

これならキタちゃんは、とっくにゴールしているに違いない。

ゴール地点に背を向けて、残りの20キロに、うんざりしながら臨む僕であった。

ワッカ原生花園の美しい景色も、なんの感動も湧かない。
僕にとっては、ただ、延々と続く意地悪な道、というだけだ。

あ、向こうからドイロンが走って来た。

「のんさん。 なんか、けったいな走り方してはりますね~」 
と笑いながら、走り去った。

レース後、彼から聞いたところによると、斜めを向いて走ってくる人がいるので、
「おかしなフォームやなぁ、と思ってよ~く見たら、のんさんでしたがな」

ワッカ原生花園コースの先っぽまで行き、そこで折り返す。
あと10キロだ。
まわりのランナーも、みんな疲労困憊している。
半分以上の人たちが、走れなくなり、歩いている。 
マラソン大会というより、ウォーキングの大会みたいな光景だ。

僕も、走っているとは言いながら、歩く速度と変わらない。
あぁ、つらい。 早く終わりたい。 ゴールしたい!

そして…。 聞こえてきた。 ゴール会場のアナウンスが…。
夢にまで見たゴールが、すぐそこに迫ってきた。
時間は…? なんとか5時半までに到着しそうだ。

朦朧として走っていると、
「わぁ~。 やりましたね~。 ゴールまであと少しですよ!」
キタちゃんが途中まで走って迎えに来てくれたのだ。 
100キロ走って、まだ、こんなに走れるんだ、キタちゃんは。

青息吐息でゴールイン。 欲も得もなかった。

僕のタイムは12時間24分13秒だった。
制限タイムまであと5分余りという、ギリギリのところであった。

キタちゃんは8時間43分で41位。 
マルちゃんは10時間18分で194位。
ドイロンは11時間44分で396位。
そして僕は12時間24分で584位。

完走者は611名で、そのうち男子が532名、女子が79名。

北ちゃんの8時間台での41位は、まことに見事な成績であった。

僕は、611名中584位で、後ろには20数人しかいなかった。

…あれから、ちょうど、今年で20年が経った。 ふた昔前の話である。

 

    
      目もうつろ。 ヨレヨレになりながらゴールする。 



    
      完走証。 

 

 

 

 

 

 

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ドイロンと ちびまる子ちゃん秘話

2011年02月01日 | ランニング

1月28日のブログ 「忘れてた~ 年賀はがき抽選」 に登場する 「勤務先の友人」 というのは、ドイロンと言う人物のことである。 そしてドイロンはこのブログは読んでいないだろう…と思っていた。 ところがそのドイロンからコメントが来たので驚いた。 

投稿者の欄には 「勤務先の友人」 より、と書かれていたが、僕はそれがドイロンだと瞬間にわかった。 その後ドイロンからメールが来て、「あれが僕だとよくわかりましたね~」 と感心していたようだが、彼を念頭に置いて書いたブログだから、そりゃぁ、わかる。

ドイロンがブログを読んでくれているとは思いも及ばなかった。
う~ん、これでまたひとり、ブログで悪口を書けない人間が増えたぞ~。

ドイロンは僕より 7歳年下で、軽妙洒脱なキャラクターの持ち主だ。
そして彼はトライアスリートでもあり、超長距離ランナーでもある。

北海道サロマ湖100キロマラソンにも、ドイロンらと一緒に行った。
このレースでは、途中15キロあたりで折り返すところがあった。
僕の前を走る大勢のランナーたちが折り返してきて、すれ違って行く。
当然僕より力のあるドイロンも、向こうからやって来た。
彼は僕に向かって、「のんさ~ん、ラストです。 がんばってくださ~い」
と、手をふりふり、すれ違って行った。
何がラストだ。 レースは始まったばかりの15キロ過ぎ。 この先まだ85キロもある。
まったく~、どこまでも冗談の好きなドイロンであった。

驚くべきは、ドイロンは、萩往還250キロレースに何度も出て、全部完走したことだ。
250キロですよ。 想像しただけでも気が遠くなる。 いや、想像することすら難しい。
なにしろ、40数時間、走り続けるのである。 人間業とは思えない。

「それだけ走り続けて、いったい、いつ寝るの?」 と聞くと、
「走りながら寝ます。 えへへ~」 とニコニコ顔で語る彼を見ていると、
どこにそんな激しい闘争心が宿っているのかと不思議に思う。

すごい、といえば、他のマラソン仲間にもすごい男たちがいる。
そんなマラソン仲間たちのことを語りはじめると止まらない。
で、今日はドイロンのことに話を絞るわけですけれど。

さて、萩往還250キロレースに出場するため、山口県の萩に向かったドイロン。
列車が到着し、駅から会場へ行く道を間違えて、ウロウロしたそうである。
それを奥さんに言ったところ、ドイロンの奥さんから返ってきた言葉は、
「道を間違えた…? 大したことないわ。 その前に人生の道を間違えてるでしょ」 

その話をドイロンから聞いて、僕はお腹が痛くなるほど笑いこけてしまった。
「そらそうやなぁ。 真っ当な人間は250キロも走ろうとは思わんもんな~」
と僕が言うと、ドイロンも目を細めて 「へへっ」 と笑顔を作るのである。
ドイロンも、奥さんも、面白い人である。

ところで、先日のコメントの中で、ドイロンは、

  「秘話また昇」 時々訪れて、楽しませてもらってます~

な~んて書いてきた。 
もう長いこと会っていないが、ドイロンの茶目っ気は健在である。
な~るほど。 「日はまた昇る」 より、「秘話また昇る」 のほうが面白そうだ。
ブログのタイトルを、こちらに変えようかしらん。

…と、こう書いているうちに、ドイロンにちなむ 「秘話」 を思い出した。
それは、「ちびまる子ちゃん秘話」 である。

むかし、ドイロンが福井マラソンに出場したときのことである。
マラソンレースで初めて、自分のスペシャルドリンクを各給水地点に配備した。

フルマラソンでは、およそ5キロごとに給水テーブルがある。
給水には主催者が用意したゼネラルドリンク (水やスポーツドリンク)と、
選手が自分で持ち込むスペシャルドリンクの2種類がある。
スペシャルドリンクの中身は何でもいいようである。
(ちなみに僕のようなごく一般のランナーは、あまりスペシャルを用意しない)

ドイロンもスペシャルを用意したのは、このレースが初めてであった。

彼は水薬の容器に自家製の飲み物を入れ、自分のゼッケン番号を記し、
わかりやすいように、ちびまる子ちゃんの旗を飲み口の先端に立てた。
(こうしたところが、実にドイロンらしい)
さらに、空腹に備え、その容器の横にバナナをガムテープでくっつけた。
こうしてできた何個かのスペシャルは、大会本部から各給水所に届けられた。

レースがスタートした。

ドイロンが最初の給水テーブルに走りついたとき、
「あら~…???」
苦労して作った自分のスペシャルが見当たらない。 どこにもない。
ウッ、冗談じゃない!
目を血走らせて、もう一度、ズラリと並んでいるスペシャルの群を見回した。
「どこだ、どこだ、ちびまる子ちゃんの旗は… どこだ…?」
ようやくそれは見つかった。

容器にバナナをくっつけていたので、その重みで倒れてしまっていたのだ。
そして、数多いスペシャルの中に埋もれ、見つけるのが困難だった。

それにめげず、ドイロンはバナナをかじって、また走った。

次の給水地点でも、ちびまる子ちゃんは倒れて他のスペシャルの陰になっていた。

そしてその次も、さらにその次も…
ちびまる子ちゃんのスペシャルドリンクは、ぜーんぶ倒れていた…

 

 

 

 

 

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足の向くままランニング

2011年01月25日 | ランニング

連日、新潟や秋田などをはじめ、列島各地での大雪のニュースが流れる。
屋根に上がって雪お
ろしをしている人たちの映像を見ながら、本当に大変だなぁと思う。

一方、大阪 (というか、僕が住んでいる藤井寺市周辺) は雪どころか雨も降らない。 もうどれだけの期間、雨が降っていないだろう。 今年に入り、突然強風と共にバラバラっと降ってきたことはあったが、それもこのごろはない。 全くと言っていいほど雨が降らず、従ってジョギングに出て大和川の堤防から川を眺めると、水量がめっきり少なくなっている。 

しかし、いくら雪が降らないと言っても、今年は寒い。 特に毎日、風が強い。
ジョギングに出ると、堤防はさえぎるものがないので、吹きさらしである。
昨日も堤防コースを走っていると、追い風の時はいいが、Uターン
すると、まともに向かい風を受け、よろけながら走らなければならない。 この日は10キロ走の予定をしていたが、5キロでイヤになり、家に戻った。

「あかんなぁ。 寄る年波には勝てないということかなぁ…」 と妻の前で言い訳がましくつぶやいたあと、コスパへ行くため、リュックに水着やタオル、着替えなどを詰め込みながら、ふと 「あのこと」 が頭に浮かんだ。 「あのこと」 …とは、間寛平ちゃんが地球一周マラソンで毎日40~50キロを走っていたという、あのニュースである。

寛平ちゃんは61歳である。
僕よりひとつ下だけの年齢だというのに、あれだけのことができるのだ。  

う~~む。 歳のせいにしてはいけない。 努力することから逃れるために、どんなことも歳のせいで片付けてしまうと、そのうち、本当に老け込んでしまう。 体力もズルズルと衰えていく。 むろん無理は禁物だろうけど、それにしても最近はすぐに 「や~めた」 と投げ出してしまう自分がなさけない。 もっと頑張らなければ…

そう思うと、コスパへ行く準備ができた頃には、もう一度走りに出よう、という気になってきた。 妻に 「これからコスパへ行くけど、その前にそこらへんを走ってから行くので、帰りは少し遅くなると思うよ」 と言って家を出た。 そしてリュックを背負ったまま、大和川の堤防を、大阪市内のほうに向いて走り始めた。

相変わらず脚は重いが、普段と違うコースを走ると、疲れ方が少ないように感じる。

トコトコと、歩くのと変わらないスローなペースで走り、いつの間にか堤防から大阪市内に下りて、街の中を走っていた。 足の向くまま、気の向くままである。

街の中を走ると、さらに気分が変わり、リズムが出てくる。 リュックを背負っているせいで背中が汗で濡れ始めたが、周りの景色が変化に富んでいるので、精神的な疲労を感じない。 そのぶん脚もなんとか動いてくれる。 

前方に大型スーパーが見えてきたので、そのまま中に入り、トイレを拝借して、また外に出た。 走り始めて1時間余りが経っていた。 これ以上向こうへ行くのは無理と思い、同じ道を引き返して、また1時間余り走ってわが家の近くを通り、藤井寺駅前のコスパに着いたときは、さすがにヘトヘトだった。 

あぁ…やれやれ。 全部で何キロ走ったのかよくわからないが、休憩は挟んだけれど、これだけ長時間走ったというのはここ数年間なかったことではないか…という満足感で、心が和んだ。

コスパのロッカーで水着に着替えてプールへ行ったけれど、先にジャグジーに浸かり、ふき出すお湯でふくらはぎや太ももをほぐしていると、ふんわりと気持ちが良くなって、泳ぐのが面倒になった。 そのままロッカーに戻ってお風呂に入り、それからジャージーを着て裸足のまま (室内用シューズは持ってこなかったので) トレーニングジムの一角に大きなマットが敷いてあるストレッチコーナーへ行き、30分ほどストレッチをしたりヨガのまねごとをしたりして、最後にもう一度お風呂に入った。 結局コスパでは、何の運動もせずに1時間半を過ごしたのである。

コスパを出て自転車置き場へ行き、自分のマウンテンを探したが、どこにもない。
「あれぇ…? おかしいなぁ…」 とキョロキョロしているうちに、ふと気がついた。
そうだ。 今日はここへ自転車ではなく、ランニングで来たのだった。
そんなことも、もう忘れている。

いくら身体を鍛錬しても、頭のほうがボケていては、な~んにもならんがな  。

 

 

 

 

 

 

 

 

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タイガーマスクがマラソン大会で出遭った不幸な出来事

2011年01月17日 | ランニング

~ フルマラソンで初めて4時間を切った日 ~

タイガーマスクといえば、忘れられない思い出がある。

それはタイガーマスクの全盛時、僕が30代だった頃の話である。

僕はその頃、マラソンに熱を上げていた。 
それまでフルマラソンに3回出場したが、タイムはいずれも4時間台だった。

なんとかして4時間の壁を破りたいと練習に精を出し、よ~しこんどこそ、と挑んだ4度目のフルマラソンのことである。

「大阪・高槻フルマラソン」 というような名称の大会であった。

大会といってもきわめてローカルなもので、参加者数は100人前後。 淀川の堤防コースを何度も行ったり来たりするコースで、周辺に選手と係員以外はほとんど人影もない、まあ、かなりアット・ホームなレースであった。

ほんの2ヶ月前に1万人以上が参加したニューヨークシティマラソンを走ったばかりだったので、そのギャップの大きさに戸惑いながらも、ひたすら4時間の壁を破るため、他のランナーたちとともに、黙々と堤防コースを走り続けたのである。

そこに、この地味な空気とはかけ離れたランナーが一人いた。
その人は、すっぽりとタイガーマスクの仮面をかぶって走っていたのである。

42キロを走るのに、そんなマスクなんぞ付けていたら大いに邪魔になるだろう…と他人事ながら心配したけれど、彼は堅実な足取りで、走り続けていた。 

「あの人はね…」
と、僕の横を走っていた知らない男の人が話しかけてきた。
「この界隈では有名なサブスリーランナーなんですよ。 時々ああいう扮装をして、レースに出ているんです」
と、説明してくれたのだった。

えっ…? サブ・スリーだって。
サブ・スリーとは、3時間を切るタイムで走ることを言い、サブフォー (つまり4時間を切るランナー) にすらなっていない僕などとは、月とスッポンほどの大きな実力差がある。

へぇ~、そうだったんだ。 すごいランナーなんだ。 そういう実力者だからパフォーマンスを楽しむ余裕があるのだろう。 今日はタイガーマスクの姿で、楽しみながらお遊びで走っているに違いない。 なぜなら、彼の走るペースは、僕とほとんど同じだったから。

さて、黙々と走っているうちに、疲労が重く脚にのしかかってきた。

刻々と時が過ぎ、僕は時間との戦いを強いられていた。 
いま、タイムは何時間何分…? 
残りは何キロ…? 
果たして4時間を切ってゴールできるのか…? 
なんてことを考えながら、消耗しきった体にさらにムチ打って走っていた。

そんなとき、近くで突然 「ワンワン!」 と犬の鳴き声がした。
…ん? なんだ…?
どこからか野良犬が1匹堤防のコースに紛れ込んできて、タイガーマスクに向かって吠えはじめたのである。

その犬は、他の選手には見向きもせず、タイガーマスクに歩調を合わせて走りながら、吠え続けている。 犬にしてみれば、走っている人間たちには吠える気はなかったのだろうけど、タイガーマスクは、まあ、ちょっと異様である。 怪しいモノを見たら吠える…というのは、犬として真っ当な行為に違いない。

「 ワンワン! ワンワン! 」
「 こら、シーッ、シーッ。あっちへ行け 」
タイガーマスクは威嚇して犬を追い払おうとする。
それでも、犬は彼から離れようとしない。
僕は、ゼイゼイ言いながら、すぐ前方のその光景を眺めて走っている。

「 ワンワン! ワンワン! 」
「やめろ、オレは怪しいモンじゃない」
「ウ~ゥ、ワンワンワンワン!」
「むーっ。 こいつ。 オレを怒らせるなよ」

ついにタイガーマスクは立ち止まった。
「そうか、やるのか。 いいんだな…。 いくぞ! う~ぅ、おりゃぁ! 」
と、彼は吠える犬の前足をつかんで羽交い絞めにして抱え上げ、得意技のタイガー・スープレックス・ホールドでうしろにびゅ~んと投げ飛ばした。
…というのは冗談ですけど。 
  
犬に吠えられているタイガー・マスクを眺めながら、僕は僕で重大な局面を迎えていた。 
もう、ゴールが目前に迫っていたのである。

そして、僕はヨレヨレになり、欲も得もなく、へなへなとゴールへたどり着いた。 

「は~い、お疲れさまでした。ゴールで~す」 
とボランティアの女子高生が飲み物を僕にくれ、正式なゴールタイムを教えてくれた。

「タイムは、3時間59分2秒で~す」

念願達成。 僕にとって記念すべき瞬間であった。 
マラソン4回目にして、初めて4時間が切れたのだ。 
ゴールのすぐ横にへたり込み、しばらく動けなかったが、胸は高鳴った。

ふと、コースの方を見ると、タイガーマスクがゴールに近づいてきた。
しかし、まだ犬がピョンピョンと跳ね回りながら、吠え続けている。

「ワンワンワンワン!」
「しつこい奴だな。 あっちへ行けったら。 シーッ、シーッ」

初めて 「サブフォー」 になった日の、なつかしい思い出であり、
タイガーマスクの名を聞くたびに浮かぶ、楽しい回想でもある。

 1983年 (昭和58年) 12月のことだった。

 


 

 

 

 

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ランニングと大河ドラマとサッカーアジア杯と

2011年01月10日 | ランニング

昨日、誕生日だったので、ちょっと何かしておこう…と思い、ふだんは5キロ程度のジョギングの距離をのばし、10キロを走った。 10キロを走る…というのは、実にどれほどに久ぶりか忘れてしまうほど久しぶりであった。 穏やかなお天気で、走るには最高のコンディションだったけれど。 

途中、何度か止まって体操したり、少し歩いたりしながらなんとか最後まで走りきれたが、脚だけでなく、身体の芯まで疲れてしまった。 そのあと予定していたコスパへの水泳にも行けなかったほど、クタクタになった。 

少し練習をサボると、体力とか筋力とかは正直なもので、間違いなく衰える。 以前なら、軽く10キロほど走ったあたりから調子が出て来る…という感じだったのに、今はこのありさま。 日ごろ水泳をしていたら、全身運動なのでどこも衰えないだろうと思うのは大間違いだった。 ランニングはランニングで、絶やすとあっという間に脚の筋力が衰える…ということを、身をもって痛感させられた昨日であった。

アナザービートルさんから、4月末に開催される堺シティマラソンという大会に一緒に出ようと、お誘いを受けているので、当面の目標はそのレースとなる。 実は去年も誘っていただき、申し込みまでしたのだけれど、立て続けに故障や怪我があり、欠場。 今年は雪辱を期して臨まなければならない。 年末年始で増えた体重も減らしながら、なんとか軽快なピッチでランニングができるような身体を、もう一度取り戻したいと思っているのだけど…。

話はガラリと変わるが、昨日の夜、NHK大河ドラマ 「江」 の第1回目を見た。

去年の 「龍馬伝」 よりはるかに力が入る。 なにしろ 「龍馬伝」 は最初の頃は熱心に見ていたものの、何かと言えばすぐにニッポンを変える、新しいニッポンを作る、今のニッポンを何とかせねば…というふうな、ニッポン、ニッポン、ニッポンとやたら騒ぎ過ぎるのに辟易した。 それがハナについて途中から見なくなり、年末の総集編だけ見た。 福山雅治も、龍馬を演じるには、ちょいと歳を取りすぎじゃき~。

さて、今回の 「江」 は、題材からして胸がはずむ。 
信長、秀吉、家康と継がれていく政権の渦の真っ只中で翻弄される一人の女性の、波乱万丈の生涯を描く…というのが何とも興味をそそるではないか。 しかも、ヒロインの 「江」 は、失意の中で逝くことの多かった周りの女性たちと違い、将軍の母にまで上り詰めるのだ。 つまりこの時代の女性群像では珍しく、いわばハッピーエンドの物語である。

これまでに見た大河ドラマの中で、最もよかったと思う作品を上げるとしたら、僕は迷わず昭和48年に放映された 「国盗り物語」 を上げる。 司馬遼太郎原作で、信長の妻お濃の父親である斉藤道三が前半の主人公で、後半は信長が主人公だ。  ここでも、今回の 「江」 の父と母である浅井長政とお市が登場する。 浅井長政は杉良太郎が演じ、お市はかつての日活の美人スター松原千恵子が演じた。 浅井長政が信長勢に攻め込まれたとき、妻であり信長の妹でもあるお市に、3人の子を連れて信長のもとへ戻って生き抜いてくれ…と言い聞かせ、炎上する城の中、自決するシーンは、38年経った今でも忘れがたい。 昨日、それと同じシーンがあり、見ていて目頭が熱くなった。

ちなみに、今回浅井長政を演じた時任三郎は、僕が勤めていた大阪府松原市の出身だ。 親戚の時任ナントカというおじさんが市議会議員選挙に出たこともあったが、落選してしまった。 すみません、関係のない話で。

ところで、今回お市に扮するのは、「東京ラブストーリー」 以来、大ファンになった鈴木保奈美だ。 お市は絶世の美女だったと言われている。 まさにそれにふさわしい役柄である。 だから、これまた目が離せない。 昨日の第一話はお市が主役のようなものだったから、何度も映る彼女のアップの画面を、目を光らせて見つめる僕なのであった。

ともあれ、次回以降が楽しみである。
このドラマは、去年と違い、たぶん年の終わりまで見続けるだろうと思う。

昨日は、そのドラマが終わったあと、午後10時からサッカーアジア杯の生中継があった。

この大会、日本はぜひとも優勝したいところだ。 場所はカタール。 あの“ドーハの悲劇”の舞台となった場所だ。 これから日本が緒戦を戦う。 相手はヨルダン。 中東の国々はあなどれない。 特に場所がカタールであれば、中東各国はホーム同然だし。

しかし…
このサッカー中継を見ていると、終わるのは深夜の12時を過ぎそうだ。
毎朝4時起床を日課としている僕としては、きつい。
残念だったけれど、録画だけセットして、10時には就寝した。

今朝、起きてすぐ、ネットで結果を見ると、日本代表は、なんとヨルダンに1対0でリードされ、後半のロスタイムでようやく1点返して引き分けた…とある。 ふ~む。 やはり厳しい戦いである。 これで、予選突破のためには、13日のシリア戦、17日のサウジアラビア戦は絶対に負けられない状況になった。 

頑張れ、ニッポン。 

ニッポン、ニッポン、ニッポン、ニッポン、ニッポン!

あはは。 これじゃぁ 「龍馬伝」 のことは言えませんよね~。
 

 

 

 

 

 

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山あり谷あり…この1週間のジョグ&ダイエット

2010年02月14日 | ランニング

前々回、ジョギングとダイエットについて書いたのが9日の火曜日だった。
日曜日には15kmを走り、月曜日には6km走ってスポーツジムへ行き、夜はウオーキングをした…と、火曜日の朝にこのブログの記事で書いたのである。

その火曜日のこと。

朝、あのブログをアップしたあと、大和川堤防に走りに出た  。

1往復3キロの堤防コースを2往復、6キロ走をめざしてトロトロと走り始めて30分ほど過ぎると、じわーっと右の膝が痛み出した。これまで何度か膝を痛めたことがあるので「うわっ、これは…」と悪い予感が走った。
ジョギングで痛めた膝は、なかなか治りにくいのだ

残りの距離は、走らずに歩いたが、歩いていても右膝は痛んだ  。
あぁ~、なさけないなぁ(ため息…)。

せっかく「やるぞ!」と張り切ったとたんに、これだ 。
日曜日の15km走というのが、張り切り過ぎだったのだ
無理しちゃダメよ…というコメントをいただいたとおりである。

午後、スポーツジムへ行き、筋トレはせず最初からプールに入った。
そして、水中歩行を約1時間続けた。これなら膝に負担がかからない。

しかし、1月21日に包丁で左親指を切った傷がまだ完治していなかった。
あれから3週間近く経つが、それ以来プールには足を運んでいなかった。

で、久しぶりのプールだったのですが…。
この日は、バンドエイトの上から絆創膏をぐるぐる巻いて、プールの中でも指を濡らさないよう、左手を水面から上げて歩き続けた。
スタッフのお姉さんが、プールサイドから、
「その手、どうされたのですか~?」と声をかけてきた。
「へぇ、ちょっと切ってしまいまして」と、歩きながら答える。

プールは各レーンによって、使い方が決められている。
途中休憩しながら25m泳ぐコース。
休まず25m泳ぐコース。
休まず50m泳ぐコース。
ウオーキングコース。

その中で、いちばん人の多いのが「ウオーキングコース」である。
歩いている人たちは、中高年がほとんどである。
中でも女性が多い。

おばちゃんたちの中には、ぺちゃぺちゃと世間話をしながら歩いている人たちもいる。会話に夢中になると、この人たちの歩くスピードが遅くなる。これが邪魔になるのである。後ろから普通に歩いて来る人たちが、すぐにしゃべるおばちゃんたちに追いつき、それが「壁」になって歩くペースが狂う。

「おばちゃ~ん。おしゃべりするんやったら、別のところでしてくれぃ」
と、心の中でぶつぶつボヤいたりしながら、黙々と歩き続ける。

翌水曜日も、近所を少し歩いてみたが、まだ膝が痛む(深いため息…)。

仕方なく、またプールへ行き、1時間、水の中を歩く。
こんなことで膝がなかなか治らなければ、せっかく立てたジョギング&ダイエット計画も、それこそ水の泡じゃないかと、水の中で考えながら歩き続ける僕なのであった。

そうこうするうちに木曜日になった。
スポーツジムは休館日だけれど、しかし、子どものスイミングだけは行われている。この日の午前中は、妻とともにモミィを連れてプールに行った。

小さな子どもたちが水しぶきを上げて楽しそうに泳いだり這ったり歩いたりするスイミング教室の様子を見学したあと、モミィを連れて帰る。

きょうの膝の具合がどうなのか、まだわからない。
家の中を歩いたり階段を上がったりする分には、膝は痛まない。
「ウオーキングだったら、いけるかな…?」
居ても立ってもいられなくなり、大和川堤防に出た。
そして歩いた。
膝は痛まなかった。
う、う、うれし~い。
途中で雨が降り始め、強い風雨になったけれど、傘を差し、浮き浮きして歩いた。

金曜日も、夜に歩いたが、膝は痛まなかった。よしよし。

そして昨日の土曜日。朝からいいお天気だった。
堤防コースに出て、やわらかい日差しを浴びながら、そろりと走ってみた。膝は、痛まない。そうそう、このまま、このまま…と心に言い聞かせながらゆっくり走り続けてみる。ふくらはぎなどは重いが、膝は痛くない。
いいぞ、いいぞ~。

途中で歩く。軽く屈伸運動をして、またトコトコと走り出す。
走る、歩く、走る、歩くを繰り返す。
身体が暖まり、だんだん調子が出てきて足が軽くなり、一定のリズムが生まれてくる。結局、そんなことをしながら10kmをこなすことができた。
その後、午後からも妻と共にウオーキングに出て、3時間・15kmを歩いた。

どうやら、膝の方は大事に至らなかったようである  。 助かった~。

ところで、一方、体重はどうなのか…?

先週の日曜日の朝には体重が52・5kgあった(暴飲暴食の跡か…?)  。
一念発起してから、2日ほどで51kgになった。
膝を痛めて走れなかったのは3~4日間だったけれど、その間もジムのプールで歩き、そのあとサウナで汗を流して体内の水分を絞った。

金曜日には50・3kgになった。
食事内容を、魚と野菜中心に変え、あぶらモノは控えた。
しかし、アルコールは止めない。カロリーカットの缶チューハイを飲む。
まあ僕はこの手の飲み物さえあれば、どんな食べ物でもいいので、ひじきの煮付けでも人参スティックでもかまわないのだ  。
(とはいえ、大好きなフライドチキンなんかのテレビCMを見ると、ヨダレが出るが…)。

そして、昨日のジョギングと入浴の後で体重を量ると…
おぉ! 49・7kgにまで下がっていた。ぱちぱちぱち。
(もっとも、一日のうち一番軽い状態の時に量っているわけですけどね)

僕は身長が160センチにも満たないチビだから、体重は50kg以下が望ましいと思っている。やはり、身体が軽いと、万事に動きやすく、快適なのだ。

市役所に就職した当時(22歳の頃。39年前だぁ)の体重は46kgだった。
それから20代後半に54kgから55kgまで増えた。
ズボンがきつく、お腹をつかむと電話帳のように分厚かった  。

そこから体重の変遷には小さな波があったが、マラソンを始めてもよく食べて飲むので50kgを少し下回る程度で、まあ48kgまでが限度だった。

いま、久々に50kgの壁を突破した
この勢いで、目標の47kg、いや、就職当時の体重・
46kgに戻したい。

日々、年を取っていく一方であるが、体重だけは39年前に戻すのだ  。

それがこれからの快適なジョギングライフにつながり、日常生活に軽快なフットワークをもたらす…と、そう信じたいのですけどね~。

 

 

 

 

 

 

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艱難辛苦のダイエット

2010年02月09日 | ランニング

どうも人間というものは、辛いことや苦しいことを我慢する…ということを忘れたとたん、堕落していくようである。

…と、急にウザい教訓を垂れる僕であるが、もちろんこれは自分自身に言い聞かせている言葉であり、ヒト様へのメッセージではない。現に、ヒト様は皆、辛いことや苦しいことを、ボンカレーの大五郎のようにじ~っと我慢し(古ぅ!)、乗り越えて生きておられるのだから、こんな言葉を聞いても、「何を今さら」と言われるのがオチであろう。

その昔、三田明が「美しい十代」で歌ったように、

♪ つらい~日もある 泣きたいことも 
  ある~さ それでも励ましあって うつくしい十代 あぁ十代 ♪

な~んて歌詞が、突然アタマに浮かび、この頃はず~っとそれを口ずさんでいるのである(こっちのほうが、もっと古ぅ~い!)。

で、それがどうしたのか…?

まあ、つまりその~、僕は最近の生活の中で、この「辛いこと苦しいことを我慢する」ということがなくなってきたのである。これは、我慢ができなくなってきた、ということではなく、我慢しなければならないような「辛いこと苦しいこと」自体がなくなってきたという意味なのだ。つまり、在職中に抱えていたさまざまなストレス(辛いこと、苦しいこと)が、仕事を退職してからは、なくなってきた…というわけです。はい。

なら、それでいいじゃないの…? 何がいけないの…? ということになるんでしょうけどね。このへんの説明が、難しい。

とにかく辛い苦しいことがなければ、幸せだなぁ~ということも感じない。

艱難辛苦(と言うのはちょっと大げさだけど)と幸福感とは、1枚のコインの表と裏なのだ。表がなかったら、裏も存在しない。

辛い苦しいことを自分に課さなければ、どんどん生活の質が落ちて行く…。
現に、僕はこのところの毎日に、どうもピリッとしたものを感じないのだ。

そこで、仕事から退いて10ヶ月が経った今月から、僕は、新たに艱難辛苦の道を歩む決意をしたのである  。

そして、月に向かい「われに七難八苦を与えたまえ」とつぶやいた。
(あんたは山中鹿之助か…?)

ま、そんなわけで、今月から本格的(?)なランニングを再開した。

なに、それ…? ランニングが艱難辛苦か…? と笑わないでほしい。
たかがランニングかも知れないが、これが本当にしんどいのである。

寒風の吹きすさぶ中、大和川の堤防のコースに出て走ると、向かい風の時は吹き飛ばされそうになる。顔が、氷のように冷たくなる。長い長いランニング・ブランクのせいで、身体が走るたびにお腹のあたりが、ぼてっぼてっ、と揺れる。足が重い。2日に一度は通うフィットネスクラブでの筋力トレーニングや水泳は、使う筋肉が違うので、今のところ快適なランニングの助けにはならない。すべてゼロからのスタートである。

走りながら思ったのであるが、今の自分にとって、軽快に走るために最も必要なものは減量である…ということに改めて気がついたのだ。わが家にある4キロの鉄亜鈴をよいしょと持ち上げたら、その重さは半端ではない。今もし自分の体重からこの4キロ分軽くなれば、どれだけ楽に走れるだろうか。特にお腹のポッコリ出たのが、ランニングに邪魔になる。
よ~し、ダイエットして、今から4キロ体重を落とそう。
お腹をへこまそう。

そう決意した。

そして…
たとえば一昨日の日曜日は、へとへとになりながら、15キロ走った。
と言っても、超スローペースで、しかも途中で歩いたり、立ち止まって体操をしたりしていたので、「走った」というのはおこがましいが、とにかく15キロを、自分の足で動いた。食事の量はこれまでの7割程度に落とし、夜の飲み物はビールの代わりに「カロリオフ」の缶チューハイ1本にした。

昨日は朝から6キロを走り、帰ってきてすぐにフィットネスクラブへ行き、午前中はそれで終了。身体の状態は、特に下半身がヨロヨロであったが、夜の食事を終えてからは、妻とウオーキングに出た。

ふにゃふにゃになるまで運動して、食事を減らして、ビールを我慢して…
これ以上の艱難辛苦はない  。

これで僕にもまた、辛い苦しいことができた。
ここを乗り越え、人生の幸せをつかまなければならない。

いつまで続くかアヤシイものだけど

ところで、いま書きながら気がつきましたけれど、
「辛い」という字と「幸せ」という字が、よ~く似ていますね。

そういえば…むかし

♪ 若いという字は苦しい字に似てるわね~ ♪

という歌がありましたっけ。 これまた古ぅ!(なんのこっちゃ)。

 

 

 

 

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福士 vs のん マラソン対決!

2008年02月01日 | ランニング

1月27日に行われた大阪国際女子マラソンは、レース前から、福士加代子が初マラソンに挑戦する以外には見どころの少ないレースだな~、と思っていた。それでも前日まではテレビを見るつもりだったが、当日午後に用ができて外出することになり、それからマラソンのことはすっかり忘れていた。

じゃいさんから、福士がフラフラになり、ゴールするまでに何度も倒れた、というメールをもらったので、初めて「あ、女子マラソンがあったんや」と思い出した。

福士加代子。
ご承知のようにトラックにおける日本長距離界のエースである。
今年の6月に大阪長居で行われた日本陸上選手権の女子1万メートルを、僕はスタンドで観戦していたが、あのときの福士は、驚くほどスリムになり、真っ黒に日焼けしていた。7千メートルから独走態勢に入り、その強さを目の前でまざまざと見せ付けられた。

しかし、今回のマラソン出場を決めたのは12月半ばで、練習期間はわずか1ヶ月。
最長30キロしか練習で走っていないという。
30キロ…。ほんまかいな? 信じられな~い距離である。

走り込み時期には、連日40キロ走を繰り返す女子選手も多い。
時には50キロ以上の距離走をして、距離に対する自信をつける。
それが、30キロ走までしかしていないとは…とうてい信じられない話である。
もしそれが本当なら、今回のレースで最大の注目を集めてはいるが、福士に期待をするのは無理である。おそらく行けるところまで行き、スタミナが切れたら途中棄権をするのだろう…という予想を、僕は立てていた。
「福士は完走は無理。あの性格だから、初めは集団をぶっちぎって独走するだろうけど、35キロあたりで抜かれてやる気を失い棄権する…たぶん、そうなる」
と、僕は職場の人たちに「大予言」をした。
(しかし福士はがんばって完走したので、大予言はハズれたが…)

僕みたいな市民ランナーでも、初めてのフルマラソンを走る前は、35キロ走をした。
一度でもそれだけの距離を経験しておけば、間違いなくフルマラソンは完走できる、というのが常識である。むろん、それはあくまでも、僕たちのような素人ランナーのレベルでの話である。

福士のように五輪出場を狙う選手が、30キロ走しか経験せずにレースに出るということは、これはもう、彼女がマラソンを軽く見ているとしか言いようがない。どうせ1万メートルでは北京五輪に行けるのだから、マラソンはダメでもともと…ということなのか? ひょっとして、1万メートルのために、スタミナをつける練習の一環として、このレースに出場したのではないか…と思ったほどである。

案の定、福士は飛ばすだけ飛ばしたが、30キロ過ぎてから、ヨレヨレだった。

その日の夜、そして翌朝のテレビニュースでは、日本人で1位に入った森本はそっちのけで、倒れては走り走っては倒れる福士の映像ばかりを繰り返し流していた。しかし、ラストの彼女の表情を見た限り、作り笑いも出ていたし、さほど苦しそうではなかった。監督は「脱水症状とスタミナ切れ」と説明していたが、練習不足が全てであって、脱水症状…とは思えない。走り込みが足りないから、足だけが動かなくなり、上半身や身体の内部は普通だったんではないかと思う。だからすぐに回復する。84年の真夏のロス五輪で、脱水状態になって朦朧としながらゴールしたアンデルセン選手とは、全く違う症状である。

福士といえば、4年前を思い出す。
アテネ五輪の1万メートルで、大きな期待をかけられながら全くふるわず、先頭から2周も周回遅れとなる大惨敗を喫したあの光景を…。
あのときの福士の、苦しさに歪んだ涙まじりの悲痛な表情を思うと、先日の大阪マラソンでの表情などは実にあっけらかんとしており、アテネの悲壮さからはおよそ程遠いものだった。彼女は、やはりトラックの長距離レースに命を賭けている選手なのだ。

ちなみに、かつて僕が見た女子マラソンの中で最もショッキングだったのは、2003年11月16日の東京女子マラソンの高橋尚子であった。それまで独走状態を続けていた高橋が、30キロを過ぎてから急に失速をして、2時間27分台の平凡な記録で外国人選手に敗れ、アテネ五輪の出場権を逃した痛恨のレースだった。あれには僕も、まさかの衝撃を受けた。原因はスタミナ切れ。専門家の分析によれば、高橋の体内のグリコーゲンが30キロで枯渇した…ということであった。あれだけ練習を重ねていた実力者の高橋にしても、そういう現象が起こるのだ。わずか1ヶ月の練習期間で30キロしか走行距離を経験しなかった福士が、そんな簡単に優勝するようなことでは、元からのマラソン選手は、面目丸つぶれである。

…と、さんざん福士の批判ばかりしているけれど、僕の「大予言」に反して、転んでも転んでも、棄権をせず、ゴールインした姿は立派だった。
あの気力は、さすがといわなければならない。

福士のタイムは2時間40分54秒で、順位は19位だった。

後半、あれだけガタガタだったわりには、そんなに悪い結果ではない。

  ……………………………………………………………………………

ところで…。
話は僕自身のことに関連しますが…

翌日の産経新聞によると、この大阪女子マラソンの完走者は344人でした。
最下位でゴールした選手のタイムは、3時間35分38秒。

ちなみに、僕のフルマラソンの自己最高記録は…
昭和62年3月8日、長居の周回コースで出した、3時間27分54秒です。
38歳のときだったなぁ。(あ~、もう20年以上前の話になるのだ)

この記録を今回の女子マラソンの順位に当てはめてみると…
完走者344人中、339位ということになります。
つまり…ですね、うしろから6番目ってことになります。
僕の「自己最高記録」といっても、所詮こんなものなのです。
福士加代子がゴールしてからも、まだ47分も遅れてゴールするわけだから。

夢の中での福士とのんとのマラソン対決は…
タイムは福士が2時間40分で、僕が3時間27分だし、
順位も福士が19位で、僕が339位だし…。

夢の中のマラソン対決は、やっぱり夢でしたね~。

あんまり福士のことを批判していたら、
「てめえ、文句あるなら2時間40分で走ってみろってんだ!」
と、ご本人から怒鳴られそうである。
そんな記録は、いくら若かりし頃でも、僕には絶対に出せない記録だ。

どうも、失礼しました。

北京では1万メートルで入賞をめざし、がんばってくださ~い。

ついでに…
この結果によって、3月9日の名古屋女子マラソンに出場予定の高橋尚子に、残り一枠の五輪出場権獲得の大きなチャンスが訪れた。

北京への最後の切符をめざし、尚子さんもがんばってくださ~い。



        おまけ


      
    ヨレヨレになってゴールした福士の記録は それでも 2時間40分。

 

       
   これだけ元気そうにゴールしても 僕の記録は 3時間27分。とほほ。 


   * 写真はいずれも大阪長居の競技場です。
     ただし、僕のほうはサブトラック。
     時代もだいぶ違います。 
     ゼッケンをよ~く見れば、
     福士は101番。僕は202番。
     これも何かの縁でしょうか…?
 
     …なんて言っても、福士選手から、
    「そんなの、関係ねぇ!」と言われそうだけど。 
     
         
   

 

 

 

 

コメント (2)
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