めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

絶滅の時を迎えるまで

2018-08-01 14:16:50 | 日本人

今、地球に火星が大接近しています。
太陽の周りを楕円に回っている火星が、地球に最も近づく今の時期、その距離は
6000万キロを切る近さとあって、晴れた夜、南方の空に赤く輝く姿は、先日
帰省した時、何も光が無い真っ暗な夜空に、驚く程の明るさに感じられました。
田舎の夏の夜空は、天の川も綺麗に見えるのですが、それ以上に強い光を放ち
昔から多くの人々に様々な想像をかき立てて来ました。

今でこそ、火星人の存在を信じる人はいないのですが、それでも、遠い昔
地球と同じように大気が存在し、海や川があったのではと言う痕跡が多く見つかり
更なる興味が湧いてきます。
しかしながら、天体に興味を持ち、様々な惑星や恒星、更には無数の銀河を見ると
その美しさもさることながら、その存在が、途方もない距離にある事に驚かされます。
身近な天体である太陽の光が地球に到達するまで8分程掛かりますが、宇宙に在る
様々な星からの光は、地球に到達するまで、数億年を要する事が多く、中には、
100億年を超える天体も存在します。

つまり、今、私達が見ている光は、何億年も前の光であり、今現在は、その天体は
消滅してしまっているのかも知れません。
余りの遠さに、その距離感が感じられないのですが、例えば、非常に地球に近い天体の
光が1000年掛かって今地球に到達していれば、私達が見ている光は、千年前に光った
光なのです。
身近な太陽の光でさえ、8分以上前に輝いたものなのですから。

こう考えると、私達の人生は、本当に短く、ほんの瞬き程の時間も無い様に感じます。
悩み苦しみ、自分の境遇に四苦八苦したとて、しょせん歴史の一瞬でしか有りません。
他の人から見れば、その存在すら感じられないのが普通です。
野山を駆け巡って、様々な生き物達と遊んでいた時から、気が付けば、もう人生も
終焉を迎えようとしています。
誰もが同じ条件とは言え、人に生まれて、しかも、自分が選べない時代に生まれて
更には、望む環境を得られないであくせくする事が、果たして、自分にとって
正しい事なのか、もっと他の方法や生き方があるのではと悩むこともありました。

決して他人とは比較したくは無いとしても、消費経済国家にいて、自然に人と競う事
人よりも豊かな生活をする事を良しとする社会にいる事で、如何に自分の気持ちに忠実に
自分自身の価値観を持って生きる事が難しいのを知らされます。
天体だけでなく、自然を前にすると、自分自身が如何に小さく軟弱な生き物であるかを
感じると共に、何故、他人と比較して苦しまなければならないか、あらゆる生き物の
頂点の存在とはとても考えられない情けなさです。

しかしながら、この小さく脆弱な存在であると言う事を感じさせてくれる大自然が
人類の横暴で消え去ろうとしています。
私達にあらゆる富を与えると共に、自分達の存在の小ささを感じさせてくれる
太古から息づいて来た大自然が失われようとしているのです。
大自然の存在を、ただ、人間の欲望の対象でしか考えなかった事に依る人間の我儘が
多くの生き物を絶滅させ、今では、自らの未来を閉じる事にも成りかねない事態を
生んでいるのです。

人は、大自然に対する尊厳の気持ち、怖れを無くした時点で、自分達が、大自然の
一部で有り、食物連鎖の中で生きている事を忘れてしまいました。
自分達の欲望のままに、食料や資源を消耗し、自分達の地球での存在意味を
考えなくなくなったことで、自らの首を絞める事になってしまったのです。

しかし、この事を多くの人達は理解しているものの、如何にこの事態を回避し
本来の地球上の生き物の1つとして生きて行く事を考える人はいません。
頭の中では解っていても、多くの人々の生活行動は、これまでの通り、消費経済に
則った、経済的に便利で豊かな生活を目指す事を辞めないのです。
このままでは、近い将来、明らかに、自分達の生活は破綻する事が解っていても
何の対策を講じようともしません。

アメリカのトランプ大統領の様に、更なる経済大国を目指し、消費経済を高める事を
国策として打ち出す者も出てくる始末です。
暑い砂漠で、残り少なくなった水を、一気に飲み干してしまおうとしている様です。
日本に於いても、自然を復活させ環境を改善しようとする運動は多く行われていても
国をあげて経済国家を変えようとする事は有りません。
と言うより、むしろより経済的に豊かな国を目指しているのが現実と言えます。

多くの経済的先進国家が、近い将来の危機に対して、積極的に対策を考えると言うより
それ以上の消費経済国家を目指していると言うのが実情です。
この事は、明らかに、人類の多くは、近い将来の地球全体の危機に対して、自分達の
最後を認めつつもこれまで通りの消費経済社会を目指して行くと言う事なのです。

自分達の未来が失われると言う非常事態をそのまま受け入れると言うのは、
冷静に考えなくとも、不自然で有り、人類の行動としては不可思議と言わざるをえません。
太古の昔から、あらゆる事に対して、より豊かで健康で夢のある未来を目指して来たのが
人類の日常で有ったはずなのに、全てを放棄するかのような世界中の反応は、
これまでの人類の歴史では考えられない事と言えます。

やはり、これは、人類が生き物であり、生き物の中に備わった行動と考えられます。
他の動物と違って豊かな英知をもって地球に繁栄してきましたが、私達の遺伝子の中に
絶滅を求める遺伝子が存在しているのかもしれません。
動物の中に特殊な行動をする物が居て、時に、集団で自殺をするレミングと言う
ネズミの仲間がいます。
ヨーロッパの寒い地域に生息しているのですが、普段はバラバラで生きているのですが
ある時突然、大集団と成って集まり、海に向かって集団自殺を行います。
何故そのような行動をとるかは解っていませんが、イルカやクジラも、ときどき
集団で陸に乗り上げて死んでしまう事が知られています。

人間は、あらゆる生物の頂点に立つ頭脳の持ち主で有り、地球のあらゆることを解明し
最も冷静な判断が出来ると言えますが、もしかすると、自分達の末期が解った瞬間
それに身を委ねる様に仕組まれていいるのかもしれません。
自分達の努力で道が開かれるものならば、何とか、解決法を見出すのでしょうが、
大絶滅を予感させるような事に関しては、全く、騒ぎ立てず、その日を待つように
プロミグラングされているのかも知れません。

種として絶たれると感じた時、それを、そのまま受け入れる様に成っているからこそ
人間のこれまでの生き方を変えようとしないのかもしれません。
戦争や大災害の様に、人類のほんの一部の人達が惨禍に合うような場合は、
人類が避ける事も立ち直る事も出来るからこそ、一生懸命努力して回避しようと
するのかもしれません。
近い将来の地球は、私達人類がどんなにあがいたとしても、どんなに努力したとしても
他の生物と共に絶滅へ向かうのが運命なのかもしれません。
その事を本能的に感じ取っているからこそ、多くのリーダー達も、これまでの悪行を
反省する事無く、更なる地球破壊を繰り返すのかもしれません。

しかし、かと言って、このまま、地球温暖化によって自分達人類の未来を消滅させて
良いものでしょうか。
人生の後半に生きる人達はともかく、若い人たちや、まだ50年以上は確実に生きると
思われる多くの子供達は、人生半ばにして、自分達の未来を失って良いのでしょうか。
しかも、その原因が、それまでの人類の自然に対する横暴で有る事を知りながら、
人生を終える事に納得できるのでしょうか。
なぜ、自分達以前の世代が、何とかしてくれなかったのかと思わないのしょうか。

つまり、運命と言いながらも、自分達人類の歴史に怒りを感じながらこの世を
去って行かなければならない自分達の子供や孫たちに、良き時代を生きて来た
私達の存在を認めてもらえるのでしょうか。
消費経済国家を築いてきた過去の人類を心から称える事が出来るのでしょうか。
その多くが、何故、どうして、こんな世の中にしてしまったのかと、怒りに震え
自分達の短い人生に深く悲しむと思えます。

私達の生き方は、過去も現在も、新たなる時代に評価されます。
何故なら、過去が有って現在があるからです。
もしもと言う仮定をすれば、様々な未来が考えられます。
過去が良ければ、現在はより豊かな時代と成っていたかも知れません。

生きると言う事は、未来に向かって、その生きざまを残して行く事になります。
より平和で豊かな未来になる様に頑張った生きざまを示す事が重要です。
この繰り返しが歴史を作り、人類の未来に繋がって行きます。
今や、人類は、より豊かな未来を作れないどころか、他の生き物達と共に
絶滅の危機に瀕しています。

確かに、もう、いかなる対処を講じても焼け石に水なのかもしれません。
しかし、このまま、地球の最も劣悪な種として絶滅を迎えるのではなく
人類として、未来への努力をする事が、残された人達にとっても、
消滅してしまう人達にとっても、納得できる人間の生き方と言えます。

どうせ死んでしまうなら、今まで以上に便利で豊かな暮らしを続けようとする
消費経済国家のリーダー達や世界の富裕層の考えも有るのかもしれませんが、
少なくとも、その時まで、誰もが厳しい環境の中でも生きて行くのです。
人として如何に生きざまを見せるか。その納得した人生を送る事が
例え最期を迎える日が来たとしても、落ち着いて運命を受け入れる事となるのです。

これからの未来は、世界中で資源と食料の奪い合いが始まります。
国同士の戦いではなく、豊かな生活をしている人達と生活するだけで苦しい
大多数の人々との戦いとなります。
既に、日本に於いても、少数の富裕層と大多数の庶民の住み分けが始まっていて
多くの庶民は、これ以上の豊かな生活は望めません。
豊かな人達は、より豊かに成る為に、多くの国民から資産を吸い上げる社会を作り
殆どの人達の生き方は、豊かな人達をより豊かにする様に成るのです。

どんなに働いても、その豊かな生活は、自分自身を豊かにするのではなく、
国民の一部である富裕層の人達をより豊かにする様に作られた社会システムで
常に出費を強いられる、いつまで経っても満足できない生活を強いられます。
高度成長期の公害も自然破壊も、多くの国民が望んだ事ではなく、生活が
便利で豊かに成ると言う暴利をむさぼる人達の策略の結果に起こったものです。

日本人の生活が便利で豊かに成ったからと言って、国民が幸せに成ったか
と言えば、残念ながら、部屋いっぱいに満たされた消費物資で、一体
何のために一生懸命働いて来たのか、単に、多くの商品を手に入れた事で
満足しなければいけない貧しい心の国民を増やしただけに過ぎないのです。

人として、対人的にどれだけ進歩したかと言えば、むしろ退歩したとしか言えません。
多くの消費物質に包まれた、他人の事を信じられないギスギスとした心を
日本人に生んだに過ぎないのです。
今や、日本人同士の心のやり取りの希薄さは、有史以来とも言えます。
自分の欲望以外では相手と関わらない、人としての豊かな感情のやり取りが出来ない
残念な日本人が実に多く成りました。
これこそ、消費経済社会が生んだ最大の不幸と言えます。
多くの物を持つ事に依り、対人的な豊かな感受性が失われ、外見だけにしか反応しない
見てくれしか人の価値を感じない日本人は、本当に不幸としか言いようが有りません。

自分自身に自信を持てず、他人との比較でしか、物事の価値観を感じられない
多くの日本人を生んだのは、これまで日本社会をリードして来た人達の自分勝手な
考えが原因である事は明らかと言えます。
大人に都合の良い子供を育てる事で、どれ程、世の中が画一的でつまらなくなったか。
リーダー達の思うが儘に動く国民は魅力かも知れませんが、国民にとっては、
国の奴隷と成っているに等しく、見た目の豊かな生活をもってしても、一向に
心が満たされない人が多いのです。
このまま、絶滅を迎えるまで、日本人が外見や物しか信じられない民族から、
本当に心豊かな国民になるかで、同じ時を迎えたとしても、一人一人の満足感は
全く違ってくるのです。