めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

何処に行く、日本人

2017-09-01 16:23:58 | 日本人

季節の移り変わりと言うのは、突然にやって来ます。
特に、最近の日本の四季は荒っぽく、暑いか寒いかと言った
極端な気候が増えている事から、異常な気象に耐えていると、突然の
気温変化に戸惑います。
春夏秋冬と言う、日本の気象を象徴する美しい季節の移り変わりが
いつの間にか、私たち日本人にとって、過ごし難い気候となって、
季節の移り変わりを楽しむと言う情緒が失われてきました。
其々の季節に応じたファッションを楽しんだり、季節季節の旬の食材を
味わう事に依り、身体だけでなく心も豊かになれたのに、せっかく
長い歴史の中で培われた日本人の繊細な心が失われて行く様で残念です。


この事は、日本人の生活に大きな影響を与えていて、日本の四季が失われ
季節の変化があいまいと成って来ると、私達の心も、いつしか、
自然の移り変わりだけでなく、人間関係に於いても、穏やかさを失って
大雑把な利害関係が日常生活を荒っぽくしてしまうのです。
家庭に於いても学校や仕事場に於いても、対人的な関わり合いに
多くの人達が悩む様になっているのです。

豊かな生活、外見的に社会的地位の高い生活を求める事で、
人との関わり合いよりも、自分の望みが如何に叶えられるかが一番であり
単に、人との関わり合いは、如何に多くの利益を得られるかに成って来るのです。
その為、相手がどの様に思おうと、お構いなしで、如何に自分の主張をするかが
対人関係のやり取りと成っています。

今や、日本人の会話も、相手を考えた思いやりのある物とは言えず、まず、自分の
望みを全面に出す事が要求され、はっきり自分の主張が出来る事が求められる
極めて欧米的な対人関係が目立つようになっています。
その為、様々な所でトラブルが生じ、お互いに傷つけあい、奪い合う事で
欲求を満たそうとする、かつての日本人には考えられなかった人間関係が生れています。

子供たちの間の会話を聞いてみても、大人びた対応をしたり、自己主張を出来る子が
求められたりする事で、より自己中心的な子供が増えています。
また、家庭内に於いても、親と子の立場が反転してしまい、子供を単に甘やかす事が
子供を教育する事と勘違いしている大人も多く、どんなに内面的に成長が遅れていても
対人的に問題が有っても、成績さえよければ許される風潮は、いずれ子供たちが
成長して大人になった時、自分の子供や周囲の人達とトラブルを生じやすい人間と
成ってしまう可能性が高いのです。

日本人は、昔から四季折々の自然の移り変わり、そして、そこに生きる動植物に
深く心を動かされて生きてきました。
小さな生き物や植物にも心は様々に感動し、欧米人が雑音にしか感じられない
虫の音や川のせせらぎ木の葉のざわめきにも豊かな感性を持って心の安らぎを
感じて来たのです。

所が、生活の中から自然が失われ、経済的に作られた豊かで便利な生活を
常に求める様になると、人によって作られた価値観や外見的な価値観に
自分の思いを託す様になって、生身の人間同士や自然との関わり合いに
非常に疎くなってしまいます。
小さい頃から成績によって優劣を付けられ、人より経済的豊かな生活を
求められ続けた事に依って、より、社会的にも豊かな生活をする事が
誰にで求められる事と思い込んでしまう傾向が有るのです。

優秀な成績を収め、誰よりも豊かな生活を送れる様になれば、
どんな我儘でも許されると勝手に思い込んでしまう勘違い人間が
社会にはびこっているのが日本の現状と言えます。
特に問題は、日本社会を牽引して行く様な立場に居る方々に
この傾向が顕著なのが日本人を益々不幸にしているのです。

どんなに地位が高くなっても、心の中身は、小学生と変わらず
まずは、自分の欲求が前面に出てしまうのが常なのです。
持ち前のパフォーマンスや弁舌で、巧みに自分の正当性を
作り上げようとしますが、誰が見ても、不自然で、作為的な
行動言動は、毎度噴出する失言暴言が無くならない事からも解ります。

我欲の塊のような人間が、社会をリードして行くのですから、
おのずと国民は、苦労すると共に、常に、落胆し続けなければ
成らないのです。
しかし、この事は、彼らだけが特殊で悪いと言うのではなく、
日本人全体に、この傾向が強くなっているのが問題なのです。

家庭教育、学校教育が、豊かな人間性を育てる事を放棄し
欲望のままに子供達を育てしまった結果ともいえるのです。
子供たちの間だけでなく、社会人の間でも、イジメや差別が
無くならず、権力や地位を持つと、途端に我儘で乱暴になり
周囲の人達を困らせるのは、その様に育って来たからであり、
本人たちにしてみれば、何の落ち度もなく、人々を喜ばせていると
かってに思い込んでいるのです。

その為、部下たちが何を言おうと、国民がどんなに反発しようと
誰が異論を唱えようと、自分達が正義である限り、行いを
改めたり、人々に耳を貸す事は無いのです。
つまり、今の日本社会は、地位が少しでも上と成れば、下に対し
絶対の権力を持てると言う教育が、多くの問題児の頭の中に
組み込まれていて、自分達が経済的に豊かになるのなら、
国民で有ろうと、自然であろうと、どんなに痛めつけようと
本心は何とも思っていないのです。

私達に顔を向ける時は、パフォーマンスとして、その地位に相応しい
人々が認める理想の姿と弁舌を行っているに過ぎ無いのです。
社会的地位と言うのは、その地位に相応しい様々な権限や力を
与えられているもので、自分を支えてくれる人達を、幸せに出来る
力を与えられていると言えるのです。
しかし、その力を、自分の欲望を満たしてくれる人や自分自身の為に
使っている場合が目立つのです。

しっかりと審議して、議論を重ね、国民の利益の為に働いている
と言っても、ぬるま湯の中で、お互いのパフォーマンスをなじり合って
いるだけでは、何も結果を出せないのです。
多くの国民より遥かに多大な収益を得られるのは、それに似合った
仕事をしてからこそ認められるものであり、単なる地位に応じた
形だけの給料では、税金の無駄遣いとしか言いようが有りません。

政治家が、官僚の作り上げた文章を読みながら、自分に利益を与える
企業家たちに尻尾を振っているだけでは、選挙で選ばれた価値は
無いのです。
今や日本人は、益々我儘と成り、自分の欲望しか興味のない人種に
成りつつあります。と言うより、その様な社会でしか生きられない
心が寂しい人間に成らざるを得ない様な生活を強いられているのです。

いつも落胆させられるリーダー達の行動や言動は、残念ながら
実は、権力と地位を得た日本人の姿であり、今の日本人が、同じような
環境を与えられたら、誰でも同じような見苦しい姿を見せる可能性が
非常に高いのです。
いくら選挙をして、頭を挿げ替えても、同じような失態や暴言、事件が
無くならないはずなのです。

戦後70年を超えても、この体質が無くならないと言う事は、
日本人の根本的な体質を彼らが示していると言えるのです。
やはり、私たち一人一人が、人間として日本人として、
どの様に生きて行ったらこの陳腐な連鎖が無くなるかを
真剣に考え、実行に移して行く事から始めなければ解決しないと
思われます。