死、と言うものを、いかに捉えるかは、太古の昔から
人々にとって最も難しい命題でもありました。
私達は、何故この世に生まれたかという事だけでなく、
死を迎える事が一体いかなる意味があるのか、
誰も答えを述べる事は出来ません。
若い頃は、大人に成ると言う事すら、イメージが沸かず
増して、自分が死ぬとは思いもしません。
しかし、人生の砂時計は、確実に残り少なくなっていきます。
人生の半ばを超えた頃から、残りの砂の量が気になります。
病により思ったより早く無くなってしまうのか、更には、
アクシデントによりあっという間にその時が来てしまうのか
誰にも解からないから、余計に不安に成ったり、逆に
考えようともしなくなったりします。
街を歩いていても、自分がこの世から去っても、確実に
この風景は変わらないと思えると、賑やかに繁華街を歩く
多くの若者たちは、自分がたとえ消えても、誰も気が付かず
何事も無かったかのようにその先の時代へと進んで行く
映画の一シーンの様に思えてしまいます。
どの時代に生きるかは、誰も選べません。
生まれた時が、自分の生きる時代であり、人生を生きる
時代なのです。
そんな中で、何を求めて生きて行けばいいのでしょう。
何をしても、いずれその時はやって来ます。
そう考えると、この世に生を受けて、あの世にめされるまで、
自分の生きざまは、何をしても完結を迎えるのです。
大切なことは、生きて死ぬまでの自分の存在意義が
感じられているかどうかという事です。
私達は、誰も勝手に生まれて来たのではなく、望まれて
生まれて来たのです。そして、家族として友として、仲間として
必要と思われたから彼らと一緒に楽しい時を過ごしたのです。
また、逆に、自分自身は、彼らを必要として生きてきたのです。
つまり、私達が人生を歩むという事は、自分の存在理由を
感じていてこそ意味が有るのです。
近年、教育の世界だけでなく、社会い於いても、イジメが
大きな問題となっています。
イジメと言うと、イジメっ子がイジメられっ子に暴力をふるったり
暴言を放ったりする事と捉えられがちですが、一番のイジメは
シカト、つまり無視です。会社、学校において、その存在を
否定されることが、人にとって最悪のイジメなのです。
イジメられっ子もイジメっ子の支配下にはいり、酷い仕打ちを
受けていても、まだ、自分の存在を認めているから、いずれ
イジメが無くなれば、また新しい道を探せるのです。
しかし、存在を無視されると、人は、その間、自分の生きている
認識が出来なくなります。戦う相手も、イジメられる相手も無く、
誰からも、自分の存在を無視されたとき、人は人生を歩む事を
諦める場合が有るのです。
高齢になると、国からの補助を受けたり、家族からの保護を受けたりと
様々な助けを借りて生きて行きます。
中には、若い頃の稼ぎで、誰からの援助も受けず生きていける人も
少なからずいる事でしょう。
しかし、どんな高齢者も、一番の望みは、この世でまだ生きて行く為の
存在理由が欲しいのです。
寿命を迎えるまでの飼い殺しでは、生きる意味がないのです。
高齢者の安心は、長生きす出来る環境では無くて、
国からも、家族からも、友からも自分の必要性を感じる事です。
私達は、あの時別の方法を取っていたら、あの時やっていたら、と
過去を悔やむ事が有ります。
決して変えられない過去なのに、思い起こすと、自分自身の至らなさに
後悔が付きません。
何時いかなる時でも、ベストな選択は不可能な事は解っているのに
自分の行いがもたらした結果が、いつまでも心に残る事が有ります。
そして、もう一つ、自分の能力の無さとして、諦めの歴史があげられます。
後で思えば、そのまま諦めないで続けていたら、思いが遂げられたり
素敵な生き方が出来たのではと思ってしまいます。
このどちらも、私達人間が、進歩する為の大切な心理で有ると共に
人々の心を苦しめるトラウマの様な傷を作ったりもします。
人類は、数々の失敗を重ね、試行錯誤して進歩してきました。
何万年もの間に、多くの人々の絶え間ぬ努力で
地球の支配者になったのです。
しかし、この進歩の陰には、多くの人々の犠牲が有り、苦しみが有りました。
何か成し得ようとすると、他の物を犠牲にするのが常であり、
人類の歴史は戦いの歴史でもありました。
この事は、1人1人の心の中に於いても繰り返されている事です。
人が生きると言う事は、何かを犠牲にしなければならず、
傷つけたり傷つけられない様に考えると、中々物事は進みません。
しかし、嫌な思いをさせて、自分だけが思いを遂げるという事は
中々できないのです。
今や、日本だけでなく、世界中の先進国では、高齢者が多くなり
様々な問題が浮上しています。
我が国においても、増加する高齢者をいかに面倒を見て行くか、
国を挙げての大問題です。
確かに、衣食住に関して沢山の問題が有ります。
その問題を片付ければ、どうにかなると執行部は考えているのでしょう。
でも、それはハードな面であって、もっと深刻な事は、高齢者たちの
メンタル部分をいかにケアしていくかという事です。
一番の問題は、彼らが、社会に対して疎外感を抱き、自分達の存在が
国にとって悪であるかのような風潮が有る事です。
老人が居ると言う事が問題であり、いなくなれば問題は解決する様な
老人たちを国にとって無駄な存在で有る様に感じさせている事です。
私達人間は、年を重ね、経験を積んでくる中で、沢山の諦めと後悔の念を
心に持つようになります。
一番の諦めは年齢です。そして、後悔は、自分たちが生きて来た人生が
今の世に何の役に立たず、無駄であったのではと思ってしまう事です。
つまり、自分たちが今生きている事は悪い事であり、若い人たちの
生活を苦しめている事だと思ってしまう事です。
今の高齢者が一番苦しい事は、決して経済的に豊かでなかったり
年金がもらえるかもらえないかという事では無いのです。
彼らの存在を社会や家庭が必要としない風潮が有る事なのです。
例え、何十年に渡る諦めと後悔の歴史があっても、今の自分たちを
この先必要と考える社会や家族が想像できないことが辛いのです。
人は、お互いに助け助けられ生きて行くものです。
しかし、助けられる事はあっても、助けられない、必要ないとなると
自分たちの存在価値が無くなってしまうのです。
老後は、楽しくのんびりと過ごしたいと思うのは、激しい競争社会で
毎日苦しんでいる人々の話であり、いざ、老後を迎えた時には
そんな残りの人生は、直ぐにつまらなく飽きてしまうのです。
人は、あの世にめされるまで、自分の存在理由に拘ります。
ペットの数が子供の数をはるかに超えたと言いますが、
一見ペットが可愛いから買う人が増えた様にも思えますが、
実際は、ペットが自分を必要としてくれることに喜びを感じるのです。
どんなに社会が進歩しても、人の心はもろく弱いものです。
しかし、自分の存在理由、存在価値が見いだされると、
力強く生きて行けるのです。
諦めと後悔は、自分の存在理由が見いだせなかったために起こります。
しかし、例え見つかったにせよ、生きている限り、その価値観は変わり
より新しい自分を見つけようと頑張っているのです。
例え後悔しようと、新しい自分を見つけようとした気持ちが
新たなる未来を生んでいくものです。
恐れず前に進むことが、最高の選択を生むものと思われます。
この世に生まれて、すでに半世紀を過ぎました。
物心が付く様になってから今日まで、一体自分の人生は
何だったんだろうと思う事が有ります。
若い頃は過去を深く省みる事はなく、常にその時置かれている
環境に対し、欲求不満の毎日であったように思えます。
様々な事に興味を持って、努力はするものの、思ったような成果は
殆どの場合は得られず、置かれた環境の不遇と考える様な
いささか短絡的で思慮の浅い若者であったようにも思えます。
しかし、何事にも未熟で反発的なのが若さの象徴の様にも思え
懐かしさすら感じます。
あの熱い時代から数十年が経ち、社会の様々な荒波にもまれ
今では多くの事を冷静に判断し、人として立派に成長できた、と
書きたいものですが、結論は、あの頃と本質的に全く変わっていなくて
超えられない壁を上手く迂回する技術を身に付けた位です。
子供達も、いつの間にか父親母親として家庭を持てる年齢になり
私達も、社会で言うリタイヤ世代に入っているのでしょうか。
仕事を離れ、人生の後半をゆったりとすごく事が一番幸せと
思う人も多くいますが、私の悩みは、あの頃と同じ心境であり
自分自身の未熟さといい加減さに腹が立つ事です。
一番の問題は、若い頃に、満たされないからゆえ出来ないと
常に思っていたことが、今では出来る環境にありながら、
何年も同じ思いだけで、全く動こうとしない自分です。
毎日が惰性で生きている様で、もし、当時の自分が見ていたら
何と不甲斐ない奴と思えるでしょう。
世の中の様々な事に不満を持ち、得られない夢や欲望に
悩んだ青春時代の熱い思いは、思いが達成されて行くにつれ
どんどん冷めて行き、それ以上の事を求めなくなっています。
決して、悩みがなくなったのではなく、日常的に行わねばならない事
家族や人との関わり合いで変えて行かなければならない事は
山積していると言ってもいいです。
世の中の傾向で、優秀な社員が次第に昇給して地位が高くなるにつれ
人間として社会人として無能となって行くと言う法則が有りました。
それと同じく、私達は年を重ねて行くと無能になるのでしょうか。
自分では具体的に何かをしようとしないで、どうにかなるさ、の心境が
いつも心のどこかに在る様にも思えます。
何か他力本願で、突然大金が舞い込んで来たり、物語のハッピーエンドが
いつか訪れる様な期待感で、毎日を惰性で生きている様な
一番自分が嫌いな大人に成ってしまっているように感じます。
ならば、やってみたら!。ともう一人の自分が言うのですが、
その一歩が中々出ません。これもまた腹立たしい所です。
そして、最も不満なことは、こんな文章をだらだらと書いて
納得してしまうこの優柔不断な自分自身がいることです。