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ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

ヤンカ・クパーラの故郷 7

2012-07-09 | ベラルーシ文化
 民芸品を売るお店の中にまじってお人形を売っている店がありました。しかもその場でお人形手作り体験会ができるのです。(材料費を払うとお人形の作り方をその場で教えてくれる。)
 これ、見たことがあるような人形・・・
 そうです。リューバニで見た布人形です。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/m/201204


 伝統的なベラルーシの人形の作り方を目の前で教えてもらえるとは・・・!
 ということで、うちの子に作り方を習ってもらいました。(自分では習わず、子どもに覚えておいてもらい、後で教えてもらおうという狙い。)(^^;)

 無事うちの子も人形が作れました。大喜びです。
 こういう素朴なお人形がかわいいですね。若い世代にも伝統文化を継承していかなくては、と思いました。

 ヤンカ・クパーラの故郷に行ってこのような体験ができ、本当によかったです。
 
 

ヤンカ・クパーラの故郷 6

2012-07-09 | ベラルーシ文化
 7月7日はこのようにたくさんの人でいっぱいでした。
 普段は生家記念館がオープンしているだけなのですが、ヤンカ・クパーラの誕生日にはお土産物(ほとんどベラルーシの民芸品。「クパーラまんじゅう」とか「ヤンカせんべい」といった日本人的発想のお土産はありません。)などを売る露店がたくさん出ていました。
 
 

ヤンカ・クパーラの故郷 5

2012-07-09 | ベラルーシ文化
 ビャズィンカ村にはごく普通の住民ももちろん住んでいるという村です。
 (しかしこのお祭の日に行くと観光客だらけで、一般住民が住んでいる場所がどこなのか分かりませんでした。)(^^;)
 ヤンカ・クパーラが生まれたところ、ということで有名になった村と言う感じです。(これが日本だったら、これで村興しするんだろうなあ・・・。)
 普段は静かで、観光客も少ないそうです。そのほうが心静かにクパーラの子ども時代に思いを馳せたり、作品の世界の中に浸れたりするかもしれません。
 
 画像に写っているのは、ベラルーシの伝統的な遊び道具だそうです。昔は縄をつるしてそれにぶら下がって回って遊んでいたのが、後にきれいなリボンに変わって、リボンを持って踊ったり、あるいはこのようなお祭のときの飾りになったりしているそうです。
 

ヤンカ・クパーラの故郷 4

2012-07-09 | ベラルーシ文化

 今回のヤンカ・クパーラの故郷訪問にはもう一つ目的がありました。
 生誕130年を記念して、(図書館勤務という身分上、業務命令により)(^^;)クパーラの詩を日本語に翻訳したのですが、それをせっかくなので、生家記念館のほうに寄贈しようという目的です。
 生家記念館へ持っていくと、とても喜んでくださって、記念コンサートのステージ上で朗読してほしいと頼まれました。
 画像は私がたったの2作品ですが、ヤンカ・クパーラの詩を朗読している様子です。
 巻物のようなものを持っていますが、少しでも日本らしくするため、筆で清書してみたものです。

 翻訳した2作品というのは「А хто там ідзе? 」と「Спадчына」いう詩です。
 どちらもヤンカ・クパーラの代表作です。前者は「あそこを行くのは誰だ」後者は「祖国」と訳してみました。
「А хто там ідзе?」はとても有名な詩なのですが、数年前ヤンカ・クパーラ記念館が、この詩を50ヶ国語に翻訳した本を発行しているそうです。一つの本に一つの詩とその翻訳しか載っていない、という本ですが、その中に
「日本語訳もあった。」
と生家記念館の方が言っていました。

 ちなみにヤンカ・クパーラの詩はマクシム・バフダノヴィチのように短歌形式では訳していません。(それができたら私は自分で自分のことを天才だと思いますよ・・・。)
 普通の現代詩(自由詩)の形式にしています。ただベラルーシ人をはじめ、多くの言語では詩というのは音韻をふんでないと詩ではない! というのが常識になっています。
 がんばって、日本語訳も音韻をふんでいるように訳したけれど、どうでしょうかねえ。ベラルーシ人からすると日本語のクパーラの詩は美しく聞こえないと思います。(そもそも翻訳がオリジナルを超えるのが難しいですね。)

 でも訳していて感じたのですが、ヤンカ・クパーラは外見は優しそうだけど、詩の中身はかなり情熱的なんです。(感情的ではない)
 外見と違って心の中に燃えるようなものを持っていた人だったのかな、と思いました。

 そしてヤンカ・クパーラを訳すのは実はとても難しかったです。
 言葉がベラルーシ語の中でも古いんですよ。今回の翻訳作業でも普通の辞書で調べても載っていない言葉が一つあって、ベラルーシ人に聞いても、人によって説明がばらばら・・・
 日本語で言うところの古語辞典も必要で、ようやく古いベラルーシ語の言葉だと分かりました。

 だから翻訳もできたのですが、こんな詩を書いていたヤンカ・クパーラの頭の中はどうなっていたんでしょうか。ベラルーシ古語が脳の中で跳びはねていたにちがいない・・・。
 そうとうベラルーシ語を勉強していたんだなあ、と思います。

 とにかくヤンカ・クパーラとヤクブ・コーラスの登場で、ベラルーシ近代文学というジャンルやベラルーシ文章語がきちんと誕生したわけで、その後のベラルーシ語、ベラルーシ文学の発展に大きく寄与したのもうなずけます。
 


ヤンカ・クパーラの故郷 3

2012-07-09 | ベラルーシ文化
 これはビャズィンカ村にあるヤンカ・クパーラの胸像です。
 子どもたちも大喜びで、記念撮影するほど人気者のヤンカ・クパーラ。
 学校で勉強しますからね・・・。うちの子の通っていた幼稚園には壁にヤンカ・クパーラの肖像画が貼ってあったぐらいです。(参照記事)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/05b63aa93dfc710147271b33525d9af7


 それにヤンカ・クパーラは、どの写真を見ても肖像画を見ても、外見がとにかく優しそうですよね。
 生家記念館の人の話によれば
「ヤンカ・クパーラは口数が少ないほうで、物静かな性格だったそうです。」
ということでした。
 とても紳士的なイメージ。もともとは(こう言っては誤解を招きそうですが)特別、知的階級の出でもなく、ベラルーシによくあるこんな小さな村に突然、このような天才が生まれた、というのが興味をひかれるところです。
 生家記念館でクパーラの直筆ノートの写真も見ましたが、すごくきれいな字で几帳面そうでした。

 話が飛びますが、平凡社から「ロシア・ソ連を知る事典」というものが刊行されており、その中でもヤンカ・クパーラが紹介されています。
 これが私が初めてヤンカ・クパーラについて日本語で読んだ紹介文だったのですが、それによると「自殺した」とはっきり書いているのです。
 私が持っているのが1989年発行の初版第3刷なので、もしかすると、ここの記述は変更されているかもしれません。
 しかし、私の頭の中には「クパーラは自殺した」というイメージができてしまい、その後ベラルーシへ留学しました。
 留学中にベラルーシ人(大学の先生も含む)に
「ヤンカ・クパーラって自殺したんですよね。(残念)」
と言うと、
「えっ!?」「そうなの?」「自殺???」「聞いたことないけど。」「日本ではヤンカ・クパーラは自殺したことになってるんですか?!」「あれは事故でしょ?」「自殺なんかじゃなーい! (キリスト教では自殺は大罪なので、偉大な詩人のイメージにそぐわない)」「そう言われれば自殺かも・・・。」
などの反応が返ってきました。(一番多かったのは「そうなの?」)

 それでだんだん私の頭の中のイメージも「クパーラは自殺したのではない」に変わっていきました。
 前述のウイキペディアによれば
 「彼はホテル・モスクワ内にて階段井戸から転落し、原因不明の死を遂げた。この死に関して、公式には偶発的なものであると発表されているが、自殺または暗殺の可能性があるとする憶測を主張する者もいる。」
と、結局よく分からない、という表現になっています。

 ビャズィンカへ連れて行ってくれたベラルーシ人の友人は
「自殺に見せかけた暗殺説」
を主張し、道中その根拠を語ってくれたのですが、それを聞いた限りでは、これが一番自然に聞こえました。
 ウイキペディアでは「階段井戸」となっていますが、実際にはホテル内の螺旋階段です。
 どっちにしろ、泊まっているホテルで自殺しようと思って階段から飛び降りる・・・発想にはなりにくいと思うのですが。窓から外へ転落したのならまだ分かるけど・・・。

 とにかくヤンカ・クパーラを紹介するときに「自殺した」という断定的な表現を使うのは、やめておいたほうがいいと思います。
 (平凡社はロシア語の文献をそのまま訳したのだと思いますが、もともとの文献のほうが断定してしまっているわけです。何か意図でもあるのか・・・。)
 

ヤンカ・クパーラの故郷 2

2012-07-09 | ベラルーシ文化

 ビャズィンカ村にはヤンカ・クパーラの生家を記念館にして保存しています。
 駅からその記念館のほうへ行こうとすると、生誕130周年の日だけあって、民族衣装を着た合唱団がお出迎え。
 大変盛り上がっています。

 この一本道を下っていくと、生家記念館にまっすぐ行けます。
 ウイキペディアによると、ミンスク市内にヤンカ・クパーラ博物館があり、現在に至るまでベラルーシ国内随一の文学博物館となっている・・・となっていますが、これは間違いですね。
 このブログでもご紹介したように、マクシム・バフダノヴィチ記念館や、ヤクプ・コーラス記念館もベラルーシ国内にはあります。(みんなベラルーシ文学者です。)
(ミュージアム・・・つまり博物館ですが、人物に関しては博物館ではなく、記念館と訳すほうがいいと思うんですが・・・。)
 またミンスク市内にはヤンカ・クパーラ劇場、ヤンカ・クパーラ公園などもあります。

 ヤンカ・クパーラの生家記念館はミンスクにあるヤンカ・クパーラ記念館の分館の一つになっており、管理運営されています。
 ヤンカ・クパーラ記念館のサイトはこちらです。(英語バージョンもあるけど、ベラルーシ語バージョンのほうが画像が多いですな。)

http://kupala-museum.by/?page_id=308


 このサイトの中にビャズィンカの生家記念館についてのページもあります。(私が撮影した画像より、このサイトの画像のほうが分かりやすいのでご紹介します。)

http://kupala-museum.by/?page_id=401


 このように生家記念館の中にはヤンカ・クパーラの作品や写真、暮らしていた当時の生活を偲ばせる生活用品などが展示してあります。
 中に入ると、玄関のような小さい部屋(ここでパンフレットなどを売っています。)のほか、比較的大きい部屋が3部屋あり、さらに家の裏手にかつて食料保存部屋(と言うより室)として使っていた場所があるという小さい家でした。
 実際には同じ村の別の場所にあったのを現在の場所に移築して、記念館にしたそうなので、実際にはすぐそばに家畜小屋などもあったと思われます。

 ヤンカ・クパーラは6人兄弟の末っ子として生まれ、家は裕福なほうではありませんでした。しかしもっと苦しい生活をしていた農民が村に住んでおり、この生家の一部屋はある一家(つまり持ち家もないようなもっと貧しい一家)に間貸ししていたそうです。
 部屋が3部屋しかないのに、一部屋は他の家族に貸していて、自分たちは8人家族・・・かなり狭苦しかったのではないかと思いました。

 ちなみに間借りしていたほうの一家の子孫が生誕130周年に招かれてビャズィンカ村に来ていました。
 現在はベラルーシやポーランドで暮らしているそうです。
「わたしのおじいさんから聞いた話では、ヤンカ・クパーラは・・・」
といった話をインタビュー取材で話していました。
 何だかすごいですね。自分の先祖が間借りしていた部屋が記念館になって保存されているというのはどんな気持ちなんでしょうか。
 


ヤンカ・クパーラの故郷 1

2012-07-09 | ベラルーシ文化
 7月7日は日本では七夕ですが、ベラルーシではクパーラ祭というお祭の日です。
 クパーラ祭について詳しくはHP「ベラルーシの部屋」でご覧ください。

http://belapakoi.s1.xrea.com/blife/0707.html


 そして今年から130年前の7月7日にベラルーシ文学者であるヤンカ・クパーラが生まれました。
 ヤンカ・クパーラについてはウイキペディア日本語版でもちゃんと紹介されているので、ぜひご覧ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%A9


 ちなみに、クパーラ祭というのは、文学者ヤンカ・クパーラのお祭ではありませんので、誤解なきよう・・・。
 本名、イワン・ドミニコビッチ・ルツェビッチさんがペンネームを考えたときに
「自分はクパーラ祭の日に生まれたから、それをペンネームにしよう。」
と考え、ヤンカ・クパーラになっているのです。

 さて、ウイキペディアによりますと、「1882年7月7日、ミンスク州マラジェチナ地区近郊のFolwark(農奴制農園事業主)の治める村落に生まれる・・・」とあります。これはビャズィンカという村で、ミンスクから電車で1時間ぐらいのところにあります。
 そして私は7月7日ヤンカ・クパーラ生誕130周年でにぎわうビャズィンカに行って来ました。

 ビャズィンカ駅に到着すると、目の前にこのような立て札が・・・「ビャズィンカ村はこっち」という意味ですね。
 それにしたがって道を進んでいくと・・・

マクシム・バフダノヴィチ記念館 (2)

2012-05-23 | ベラルーシ文化

 短歌だけではなく、そのほかの催しものもありました。
 Y子はベラルーシの伝統楽器ツィンバロムを演奏しながら、日本語で「さくらさくら」を歌いました。(画像をご覧ください。)

 また、みんなでできる日本の遊びを教えてほしいと頼まれていたのですが、なかなか難しかったです。
(「だるまさんがころんだ」とか「はないちもんめ」などが候補に上がったのですが、日本語できないと遊べないですよね。)
 結局ハンカチ落としをすることになったのですが、これは日本の伝統的な遊びではないですよね・・・。
 でも今回はそれ以上思いつきませんでした。(次回どこかで同じ依頼を受けたときの宿題です。)

 日本が終わった後はバフダノヴィチとも日本とも全く関係のない(でもベラルーシ語の)ロックコンサートが始まり、博物館の夜は更けていきました・・・。
 何だか圧倒されましたけどね。でもY子がロックを聞きながら「眠たい。」と言い出したので、帰宅しました。

 さて、話は戻りますが、バフダノヴィチが書いた日本風の詩(短歌)についてオリジナルとその翻訳(とそれにまつわる苦労話)についてはまとめて「みつばちマーサのベラルーシ音楽ブログ」で公開しましたので、関心のある方はご覧ください。
 リンク先はこちらです。

http://blog.goo.ne.jp/mitsubachimasa/e/58bb3696735450cb5cce5440d4d9dde4


マクシム・バフダノヴィチ記念館 (1)

2012-05-22 | ベラルーシ文化

 博物館の夜というイベントをご存知ですか?
 これはヨーロッパで5月に行われている夜間特別開館日のことです。
 1997年にドイツで最初に行われ、1999年にフランスで正式に始まりました。その後ヨーロッパ各地の博物館や美術館が同じ日(夜)同時に特別開館するイベントです。
 ベラルーシの博物館も現在はほとんど参加しており、入場が無料になったり、格安料金になったり、コンサートや仮装大会、ワークショップなどさまざまな催し物が開催されます。
 日本でもそのうち行われるようになるかもしれませんね。

 さて、今年は5月18日にマクシム・バフダノヴィチ記念館へ行って来ました。
 マクシム・バフダノヴィチというのはベラルーシを代表する詩人です。
 1891年ミンスクで生まれ、ロシアで教育を受けましたが、成人してベラルーシに戻ってからはベラルーシ語で詩を書きました。しかし結核にかかり、療養先のヤルタ(今のウクライナ)で1917年、25歳の若さで没しています。
 ウィキぺディアではこちらです。

 ロシア語表記だと「ボグダノビッチ」になるのですが、ベラルーシ語だと「バフダノヴィチ」になるので、このブログではベラルーシ語表記のほうで統一します。

 どうしてバフダノヴィチ記念館へ行ってきたかというと、およそ100年前、バフダノヴィチはベラルーシ語で「日本風の詩」を4編書いており、今年の博物館の夜のテーマが日本になったからです。
 バフダノヴィチ記念館のサイトはこちらです。(ベラルーシ語と英語です。) 

http://bagdanovich.by/by/home


(こちらはその後バフダノヴィチ記念館のサイトで更新されたものです。)

http://bagdanovich.by/by/night2012


 日本風の詩とは何かと言うと、短歌だということでした。日本語の短歌が外国語に翻訳されるとき、五行詩に訳されます。文字数を五七五七七にできないからです。
 俳句のばあいは三行詩になります。
 つまりバフダノヴィチはおよそ100年前に五行詩を4編書いて、詩集に収めていた、ということです。ほかにも「ペルシア風の詩」「スカンジナビア風の詩」なども残しています。
 さらに5行詩(短歌)ではありませんが日本をテーマにした作品も1編残しています。
 100年も前にベラルーシで生きていた詩人が日本にこんなに関心を寄せていたとは思ってもいませんでした。

 私などバフダノヴィチが短歌を書いていたなんて全く知りませんでした。
(頭の中のイメージは「国立バレエ・オペラ劇場の近くに銅像が立っている」「若くして死んでしまったので、肖像画や写真の姿が若くて、他のベラルーシ文学者の中で一番目立って見える」・・・ぐらいでした。)(^^;)

 テーマが日本なので、バフダノヴィチ作の短歌を日本語に訳して博物館の夜に二ヶ国語で朗読しよう、ということになり、日本語に関する作業の担当をすることになりました。

 まず翻訳作業ですが、5行詩が4編しかないので(合計20行)素訳するのは簡単にできました。しかしせっかくなのでちゃんと短歌に訳すことにしました。これが難しかったです。
 なかなか五七五七七におさまらないんですよね。
 指を折って数えては
「あ、字余り。だめだ。」
と何回くりかえしたことか。
 しかし博物館の夜当日までには何とか完成し、バフダノヴィチの詩がちゃんと日本語の短歌になりました。(^^)

 せっかくなので筆で清書して(ちなみに私の字は・・・きれいなものではありません。)バフダノヴィチ記念館に寄贈することにしました。
 
 そして当日オリジナルのベラルーシ語は記念館の職員さん2人に読んでもらい、それに続けて日本語訳を私が読みました。
 職員さん2人は、はりきって日本風の服を探して着た、と言ってましたが、左の人は明らかにチャイナドレスですね。(^^;)
 真ん中の人は本物の日本の浴衣を着ていましたが、(知り合いに借りたそうです。)着方が左前になっていたので、あわてて人のいないところで直しました。(^^;)
 日本人の私が着物を着ていなくて申し訳ないです。

 画像は3人で発表しているところです。会場には大きな拍手が起こっていました。
 バフダノヴィチという詩人の歴史に足跡を残す、という偉大なことはできませんが、少しでもバフダノヴィチと日本を結ぶ縁が太くなったかな、と思います。
 


リューバニで見た伝統文化 「春人形」

2012-04-28 | ベラルーシ文化
 ピントがぼけてしまいましたが、これも不思議な人形なので撮影しました。
 これは「春人形」なのだそうです。
 何でも左側の白い人形が雪(冬)を表し、右側の赤い人形が東から来る太陽の光(春)を表しているのだそうです。

 日本の水引を思い出してしまいました。これも右(東)から赤い水引が真ん中方向へ向かっているのですが、太陽を表しているのです。
 左側の白い水引は人間界を表していて、赤いのは太陽(お天道様)が結ばれているのが水引なので、このベラルーシの春人形と似ているな、と思いました。

 冬が長いベラルーシで春を待ち望む人々の心が表れている人形だな、と思いました。

 他にもこの春人形によく似た人形でクヴァートカという人形があります。
 よく似ていますが、スカートをはいています。
 これは赤ちゃんが生まれる2週間前までにお母さんが手作りし、ベッドやゆりかごのそばに吊るすものです。
 赤ちゃんにとりつく悪霊を追い払うお守りです。
 
 

 

リューバニで見た伝統文化 「巻き布人形」

2012-04-28 | ベラルーシ文化
 これは布を巻いて作ったお人形です。これもお守り的な要素の強い人形です。
 布の巻き方には決まりがあって、胴体(脚)の部分は画像のような巻き方でないといけないのだそうです。
 勉強になるなあ・・・
 しかし今度このような人形を別の場所で見かけたら、スカートの中を覗いて確認しそうです。(^^;)変な意味ではありませんので悪しからず・・・。

リューバニで見た伝統文化 「ミニ人形」

2012-04-28 | ベラルーシ文化
 この博物館にはこんなに小さい人形も展示されていました。
 写っているのはつるで編んだ旅行かばんの取っ手の部分です。
 お人形たちがそれぞれ風呂敷のような包みを持っています。

リューバニで見た伝統文化 「にわとり人形」

2012-04-28 | ベラルーシ文化
 パン以外にも卵が食べたい、と思っているのか、にわとり人形もあります。
 と言ってもにわとりを抱えているお人形です。(にわとりが素朴でかわいい。)

リューバニで見た伝統文化 「豊作人形と母娘人形」

2012-04-28 | ベラルーシ文化
 一番上の頭の大きい人形が豊作人形です。
 エプロンの刺繍の模様ですが、これも収穫を表しています。
 ベラルーシの民族衣装に使われる幾何学的な文様はそれぞれ意味があります。

 収穫後に畑の農作物(小麦やらい麦など)を詰めた袋(日本で言うと米俵)をイメージしたお人形です。
 ゼルノブーシカあるいはクルペーニチカと言います。
 ゼルノブーシカは「穀物」と表しクルペーニチカは「脱穀した穀物」を表しています。
 
 それにしても周囲の人形たちも気になる・・・。
 一番下の2人は母娘人形ですね。
 三つ編みの髪の毛は亜麻でできていますが、本当の髪の毛みたいでリアル・・・
 これこそ亜麻色の髪の乙女ですね。

 そしてやっぱりおっぱいが気になる・・・。
 赤ちゃんはついていないけれど、この胸の大きい人形はヴェプススカヤと言います。
 妊娠したら赤ちゃんが生まれるまでにお母さんが作ります。
 古いきれなどを使います。さらにはさみや針は使わずに作らないといけません。
 手でちぎったり、紐で巻いたりして作ります。そうするとその子の人生が「切れたり」しない、「チクチクしない(苦労がない)」ようになるそうです。
 赤ちゃんが生まれたら、その子のベッドやゆりかごの上につるします。
 大きくなったら、その人形で遊びます。

リューバニで見た伝統文化 「豊作人形 2」

2012-04-28 | ベラルーシ文化
 これも豊作人形です。
 このような人形は秋に作られ、春の種まきの時期に燃やされることが多いです。
 春にマースレニッツァという1週間続くお祭があります。
 これはバター週間と訳される事が多いのですが、分かりやすく言えば、この1週間毎日クレープを食べます。
 特に最後の日(日曜日)は必ずクレープを食べなくてはいけません。
 ちょうどこの時期に春が始まるとされています。

 そのときにマースレニッツァの妹、あるいは娘と言われるこのようなわらのお人形を家のそばに立てます。
 いろいろな種類のお人形があります。
 そしてこれは家のお守りとされ、その家の人の願いをかなえてくれるそうです。
 そしてバター週間の最後の日に燃やされます。