電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

藤沢周平『三屋清左衛門残日録』を再読する

2012年04月23日 06時03分41秒 | -藤沢周平
インフルエンザで寝ていた時に、床の中で手当たり次第に読んだ中では、藤沢周平著『三屋清左衛門残日録』が、やっぱり心に残りました。亡父が入院時に退屈しのぎに持参したところ、本書がえらく気に入ってしまい、「お前、もう一冊買え」と言われてしまったというエピソードがありますが、病床にあって読むときには、格別に印象深いものでした。2006年以来、六年ぶりの再読で、もう四度目か五度目になりましょうか、何度読んでも味があります。名作です。

以前にも一度取り上げております(*)ので、ストーリーを繰り返すことはしませんが、あらためて感じるのが、作者・藤沢周平の文章のうまさです。

 三屋家の隠居、三屋清左衛門は、枯野のむこうに小樽川の川土手と野塩村の木立が見えて来たところで足を止め、ついで踵を返した。
 夕日を正面から浴びながら歩いて来たので、日に背を向けたとたんに、清左衛門は目の中が真暗になったのを感じた。それまでの光がまぶしすぎたせいだろう。だが目はすぐに馴れて、ふたたび目の前にひろがる透明な光につつまれた晩秋の風景が見えて来た。
 ところどころに見える畑に、太ぶととならぶ大根と枯れて立つ豆の畝を残すぐらいで、野の作物はほとんどが取り入れを終わったようである。道わきからひろがる田圃も、稲の株から心ぼそげにのびる蘖(ひこばえ)のうすみどり、畦にはえる芒(すすき)の白い穂が夕日を浴びてわずかな色どりをなしているものの、あとは一面に露出した黒土がどこまでもつづいているだけだった。
 畑と境を接する田圃の隅に稲杭をあつめて積み上げている人影が二つ、黒く動いているほかは人の姿も見えなかった。季節の終わりを示す光景だった。

このあたりの描写など、いつもながら見事な、まるで映画のワンシーンを観ているような風景です。

ところで、藤沢周平は、60歳で定年退職するまで勤めたわけではありませんが、日本食品加工新聞の編集長という仕事を辞めて作家生活に入ったわけですから、「隠居」が「世間と隔絶されてしまうこと」という実感を持ったのは確かでしょう。しかも、40代後半での退職ですから、それまでの生活との落差は大きかったのでは。『三屋清左衛門残日録』は、隠居の寂しさに老いの心細さの気配を加えていくあたりに、定年退職前後の世代の共感を呼ぶところがあるのかもしれません。

(*):藤沢周平『三屋清左衛門残日録』を読む~2006年5月
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