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もーさんのひとりごと

ここでは工作に関する話の他に趣味の家庭菜園の話、時事(爺イ)問題、交友禄など日々の雑感を気まぐれに更新していきます。

お正月返上

2018年01月14日 | アート・文化


 昨年末に予告をしたホビー大賞への挑戦意欲はまだ失ってはいないけれど、始てみると、いやいやそれほど簡単なことではなさそうだ。

 まずは縁起をかついで、お千代保さん(岐阜県の稲荷神社)の福寄せ熊手(の写真)を飾ります。
*それも私が大金をはたいて授かってきたものではなく、四日市に住むフェイスブックの友達が、お千代保さんに初詣に行って写真だけを撮ってきたという大熊手。


 ま、気休めに大熊手の写真を部屋に飾って、お正月返上で書類つくりに追い回されています。

 ハンドメイドライフの経歴と言われても、40年以上にもなるから頭の中だけでは処理は出来なくて、これまでに出版した著書、自分のブログの読み返し、パソコンの中の未整理の写真(作品だけではなく、展覧会・ワークショップ・ボランティアなど)の拾い出しなどなど・・・。

   

 あと10日くらい、頑張らねば・・・。


おとなの工作教室の成果

2017年06月13日 | アート・文化

  
 6月10日(土)・11日(日)の両日は、我がおもしろ工作軍団の仲間・伊東卓郎さんが、海老名市のお隣・綾瀬市の文化会館フェスティバルに招かれて、作品の展示とワークショップを行い、おもしろ工作軍団の仲間・sさん、Oさん、そして私も応援に駆け付けました。

 

 主催者からはワークショップの材料は30名分くらいもあれば・・・と言われていたが、折り紙、組紐、レース編み、割り箸鉄砲、ベーゴマ、大正琴、皿回し、風車、アクセサリー作りなどなどのコーナーのある中で、初日は、開始早々子どもたちが集中的に押しかけて、用意した30人分の材料のほか、翌日の分として用意していた30人分もお昼前には使い果たして、完売?御礼状態。

  

 二日目は急きょ手分けをして、その夜のうちに材料を補充、110人分としたが、これも、終了1時間前の午後3時にはなくなってしまった。
  

 一方、ワークショップの他に展示作品のがらくた宇宙船などには、お父さんたちの人気が集まり、今回の主役の伊東さんはその説明に大忙し。

  

 今日は私も応援のOさん、Sさんと一緒に脇役に回って、子どもたちのお相手で多忙な2日間だったが・・・。

 3年前に「孫とあそべるお爺さん」をテーマに始めたおとなの工作教室ですが、早くもその成果が出てきました。

 来年には、もうひとりデビューしてもらいたい・・・と思っています。
 
 
 


久々の銀座でデート

2016年11月24日 | アート・文化

 少し見栄を張って、銀座でデートなどと言うタイトルをつけてみたが、生まれ故郷の名古屋より長い期間を暮らした東京ではあるが、考えてみたら久々でも何でもなく、銀座でデートなどをしたことは一度もなかった。


 あるご婦人から誘われて有楽町駅前の交通会館書内の書店で待ち合わせをしたあと、某有名服飾デザイナーのギャラリーでの展覧会のオープニングレセプションに出席をしてきたのである。
   
 あるご婦人というのはこれも私の見栄で、実は私の絵の師匠の娘さんで彼女も私と同年代だから、言ってみれば互いに老々介護的デートである。
*工作に関しては、私には師匠はなく「おもしろ工作」は私にオリジナルで、言ってみれば私が家元であり、教祖?的な存在だが、現役時代に描いていたイラストには、当時ファッション画家としてスター的存在だった原雅夫という師匠の元で勉強をしていたのです。
 

 
 さすがに超有名デザイナーの展覧会だけあって、大勢の客で混みあっていて、大きな作品でも遠くから全体を観るなどということは出来ず、作品は20~30センチほどの至近距離からしか観るしかなかった。
 芸能人の姿も見えるわね・・・と一緒に行った人から聞かされたが、テレビをやめてもう3年近くになる私には新しい芸能人はわからなかった。
 
  そんな混雑の中で見知らぬ男性が私の帽子に着けていたバッジについて話しかけてきた。
「それはボルトですか?」
「目玉は何ですか?」

 
そのバッジというのは、もともとは、もう25年くらい前に「ガラクタ昆虫標本」として考案した工作だったが、それを昨年もっと簡略化してバッジに仕立ててみたもの・・・・、

 その素朴な手作り感がウケたようで、その日のデートの終わりに、デートの相手は「モーさん、そのバッジ私にくれない?」いうと、私の返事も待たず、ハンチングから外して、持って行ってしまった。

 これまでにも、わが町のコンビニの店員さん、郵便局の窓口で、ボランティアの工作教室の小学校の先生、喫茶店では全く知らない隣の席の人がわざわざ立ち上がって、私のそばまで来て作り方を尋ねていったご婦人もあったが、東京でも反応も良かったのに気をよくした私は、12月4日に行う地元のコミセンまつりのワークショップではこの「トンボバッジ作り」を行うことに決めた。
  
*夏の麦わら帽子につけた試作品のバッジは台の皮の厚さが足りなかったようなので、今は倍以上の厚い皮を使用しています。

 先着30名・参加費無料・但し18歳~120歳のおとなに限ります。
 どうして、120歳以上の大人はダメなの?
 このところ、高齢者による運転事故が多いから、あまり高齢者が車で来ないように配慮しているのです。
 

数日前、
早くも来年の夏休みのワークショップ「がらくた宇宙船作り」の依頼がありました。
 




私のニセモノ?出現!

2016年10月24日 | アート・文化

 先日、知人から新宿の街を歩いていて見つけたのだが、あなたの絵に似ているのでは・・・と言って1枚の写メが送信されてきた。


 
・・が、この絵は私が描いたものではない。
 私が描いた絵に似ているが、私は神社の御祭礼のポスターとして、こんな薄っぺらで品のない絵は描かない。
 この2枚の絵をクリックして、拡大して見比べていただきたい。
 下の黒一色のポスターは私が描いたものです。

  人物の配置、お神輿の位置、背景などなどの図柄が全く同じ絵を20年ほど前に描いた覚えはある。

 この黒一色の北沢八幡の御祭礼のポスターは、神社としての品格をおもんばかって、描き上げたイラストレーションで、以来20年間このポスターが御祭礼の時期になると、下北沢の街のあちこちに貼られて、祭り気分を盛り立たせてもらっている。
*一見このイラストは版画のように見えるが、スクラッチという技法で描いていて、原画の黒い部分は真っ黒いベタなのだが、アジを出すためにわざわざ特殊なスクリーンをかけて、白いポチポチをつけていて、印刷に出すときには、原画のと間違えて修正をしないように・・・と注釈をつけている。
 

 また、この絵を描くにあたっては、いろいろある睦会のどの神輿と特定できる神輿を描いてトラブルの元になってもいけないので、なるべくシンプルな神輿で、鳳凰の足元の駒形の中の文字も、「北澤」としたのは、この神社の睦会にありそうで実際には北澤睦というのは存在しない名前にした・・・という配慮をしていたのである。
  

 その絵の品のないまがい物がいかなる理由で、熊野神社のポスターになっているのかは興味のあるところだが、まずは順序として北沢八幡に電話で熊野神社の関係を尋ねてみた。

 するとなんと北沢八幡と熊野神社は親戚関係にあって、北沢八幡の許可は得ているようだった。
 北沢八幡のために描いたポスター、昨年、下北沢のイベントで夏まつりに配るウチワの絵柄に使いたいと言われて、その絵は八幡様がどのようにお使いになろうとも構いません・・・と伝えていたのである。


 
 また、北沢八幡に本部を置くガールスカウトからも、このポスターの絵柄を自分たちのTシャツにプリントをしたい・・・と言われていたが、それも私の許可ではなくて、八幡様の了解を得てほしいと伝えておいたという経緯もあったので、熊野神社が私のイラストを使用するのを制限は出来ないが、わからないのは、なぜ、格調高く描いたつもりの絵を素人が描いた絵のような品のない絵にしてしまったのかということだ。

 ここから先の話はもう、推測でしかないが、ポスターの印刷を請け負った印刷屋のオヤジは、少しでも売り上げを増やしたいために「いやー、宮司さん、この黒一色では目立ちませんぜ」なんかいいながら「
これはぜひカラー印刷にして目立つポスターを作りましょう」
「いやいや、うちのデザイナーさんにやってもらえば、ま、少しお金はかかりますが、立派なカラー印刷のポスターになりますよ」などと言って、中学生くらいの息子にパソコンに原画を取り込ませて、色つけをさせ・・・「お、ついでに顔の描き方を少し変えてみてくれ」・・・なんてやったんだろうナ。

 そうかも知れないが、もーさん、そこまで言い切るかい!

 でなくて、こんな安っぽいポスターになるわけがないじゃあないか。
 これは中学生の絵だよ!
 そこまで私の絵のグレードを落としてくれたやからだ、文句があるのなら受けて立つ用意はあるさ!

 
*本文とは関係はないが、この鳳凰はやはり北沢八幡に本部を置くボーイスカウトの子ども神輿のもので、これも私が作ったものです。 
 神輿の本体はまた別の模型作家が作りました。 

 
 


昔の名前で出ています

2016年10月02日 | アート・文化


 
 先日、20数年来の友人がオンデマンド方式による自費出版ながら、時代小説を出版し、私がその本の表紙を描いたので、その話をフェースブックに投稿したら、その反響が大きく、いつもの数よりたくさんのコメントが寄せられた。
 *その絵を描いている途中・・・。

 私にとっては、これらの絵を描くことは特別な話ではなかったつもりだったのだが、 世田谷から海老名市に転居をしてきたのをきっかけに、挿絵やルポなどの遅筆な作家の原稿を待たねば描けない仕事から、自分のペースで原稿の描ける子ども向けの工作に仕事に軸足を置くことにして徐々にイラストレーションを描かなくなっていた。

 工作用の子ども向けの絵はまだ描いているが、大人向けのイラストレーションはもう10年も描いていないと思う。

 そう言う背景があったのだが、フェースブックを始めたのが、ここ3~4年だから、フェースブックの友だちは工作オジサン(正確には工作お爺さんだが)としての私しか認識されていなかったのも無理はなく、それゆえに「もーさんは絵もうまいね」「すごいね」「味のある人物ですね」「その渋さがたまらない」などなどの数々のコメントが寄せられて、ちょっと気恥ずかしくなってしまった。
  
 ・・・というのも、この絵を描いてほしいと頼まれた時には、昔取った杵柄という軽い気持ちで引き受けたのだが、いやいや、10年というブランクがあるとやはり昔のように筆は進まず、固い絵になってしまって、味のある人物でも渋いイラストでもなくなってしまっていて恥ずかしい次第である。
*この行の上と下の絵は30代から60代にかけて牛坂浩二というペンネームで描いていた絵だが、今回の絵に比べるともっとのびやかに、軽いタッチで描いていることがおわかりいただけると思います。
  

これは、誰かに描いてもらったの?
 
 上の写真は、昨年息子から、子どもの日までに孫(小学校5年生)のために段ボールで鎧を作ってくれないか・・・と言われて作った鎧の胴と袖の部分だが、ここに描いた唐獅子の絵を見た孫が冒頭の質問を投げかけてきた。

  資料を真似たものではあるが、30歳のころから、いろいろな絵などを描かせてもらってメシを食ってきた私にとってはこれくらいのものを真似て描くくらいは何の造作もないことではあったが、この孫が物心がつく頃には、私の仕事場は完全に工作工房に変貌していて、孫も私が絵を描いている姿を見たことがなかったのだから、うちの爺ちゃんは絵が描けるなどとは知らなくても無理もなかった。

 *1982年ころ、小説現代に連載をしていた田辺聖子さんの小説の挿絵

  てなわけで、フェースブックの友達の皆さんには、昔の名前で出ています・・・の意味と経緯をご理解いただきたいと思っています。

 もう一つ、フェースブック絡みの話として、面白い話をすれば、 昨年全くの偶然から北海道に住む牛坂浩二という姓名の30代の青年がフェースブック上に存在していることを発見。
  そして、何とその北海道の牛坂浩二さんはプロフィール写真として、私が新潮社から出版した著書「休日菜園のたのしみ」の写真を使っていた。

 私が抗議のメッセージを送ったところ、プロフィール写真はすぐに取り換えられたが、その後こちらからは連絡の取れない状態になった・・・なんて事件?もありました。