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もーさんのひとりごと

ここでは工作に関する話の他に趣味の家庭菜園の話、時事(爺イ)問題、交友禄など日々の雑感を気まぐれに更新していきます。

高校の同期会

2009年06月19日 | 雑記
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 16日、久しぶりに名古屋まで墓参りに行き、そのついでに、高校の同期会にも出席をしてきた。

 決して同期会のついでに墓参りをしてきたわけではない。
 そんなに力むと余計に言い訳がましいぞよ・・・
  あ、ご先祖様もこのブログを読んでくれていたのですか? 本当はついで参りでした。ゴメンナサイ。

 名古屋の墓のほとんどは名古屋の東方に360°見渡す限り墓石が並ぶ丘陵地帯の平和公園にある。

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 私が中学生から高校生のころ、区画整理のために市内278寺の墓地は尾張徳川藩の歴代藩主や忠臣蔵の片岡源五右衛門など由緒のある墓も移転させる徹底ぶりでここに移された。
 
 
 ところで、高校時代の集まりは毎年開催される「同窓会」の他に、不定期で行われる「同期会」「クラス会」「柔道部の集まり」がある。



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 今年の同期会は古希を記念して開かれ、そしてこれが最後の同期会となる。
 卒業後50数年、ほとんど一人で同期会の幹事をしてくれたO氏はまだまだ元気だが、なにしろナマもののこととて永久にやっていられることでもなく、とりあえず元気なうちに一旦中〆めということか・・・。

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 50年も昔のことで1クラス50人学級が9クラス、同期の仲間は450名以上もいたから、在学中は毎年クラス替えがあったが知らない顔の方が多い。
 もっとも、卒業後50年以上も経つと同じクラスの仲間でも同級生だったのか恩師だったのか判らないのもいる。

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 ちなみにこの写真の中央に後ろ姿で写っているハゲ頭の人ただ一人がかっての先生で、あとは恩師にも見えるが皆同期生。

 450名中連絡がとれるのは360名とかで、そのうち最後の同期会には96名の多数の参加があった。
 このブログをご覧の方で、転居などでこれまで同期会の連絡のなかった愛商5回生がありましたらホームページからメールをください。
 同期会は一旦は終わりになりましたが、ハプニング的にまた開かれる可能性がありますので・・・。






忙中閑のつもりだったが・・・

2009年02月12日 | 雑記
 「ぴーなっつ人形一座」の整備に一段落が着いたところで、天気のいい日曜日、孫に手をひかれて鎌倉散策に出かけてみた。
 作品作り全体の進行は遅れていて忙しい最中だが、連日の作業で気持ちが煮詰まって来ている。
 たまには息抜きをしてリフレッシュをした方が、効率が上がるだろう・・・と。

 息子がリーダーの一員としてお手伝いをしている世田谷のボーイスカウトの子どもたちのハイキングに、私と4歳になったばかりの孫を連れて同行させてもらった。
 私はボーイスカウトの子どもたちと知らない仲ではなく、毎年11月には私の畑に長芋の収穫体験にやって来るカブスカウトで、予告なく鎌倉に現れた私に、子どもたちも「あ、もーさんだ!」と歓迎してくれた。

 北鎌倉の円覚寺から長い階段に続き、木の根っこがむき出しになった凸凹の急坂を登って源氏山を越えて大仏に至るコースは、いやはや、このところ展覧会の準備で野良仕事ダイエットを怠たり、80kgオーバーとなっている私には少しハードでとても散策で息抜きなどというのんびりムードではなく、ボーイスカウトの列のしんがりをつとめる息子のその後から私と孫が必死について行くのが精一杯だった。  
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←急坂をパパに遅れまいとして健気に頑張る孫。


 やはり孫は途中で甘えが出て、抱っこをねだり始めたが足下のおぼつかない山道で子どもを抱いて歩くのは危険だ。
「山道は頑張るしかないからね」と励ましてやると「がんばるしかないから・・・」と復唱をしながら4歳の孫はとうとう源氏山を歩き通してしまったが、情けないことに私の方が下り坂でヒザを痛めてしまった。



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 ←この写真で見る限り、4歳の孫が私をサポートしてくれているように見える。

 途中の弁当タイムに、リーダーの一人が「もーさん何をしている人か知ってる?」と尋ねると、カブスカウトたちは口々に農家、畑仕事などと答えた。

 ビーバースカウトからカブスカウトになるまでの3~4年、私の家庭菜園に芋掘りに来る子どもたちだが、彼等とは畑でしか会ったことがないから無理もない。
 それなら、3月の展覧会には彼等を呼んで、もーさんは山芋や大根だけでなく、工作も作れることを見せてびっくりさせてやろう。





感謝状

2009年01月29日 | 雑記
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 先日、財団法人・横浜市青少育成協会の「新春のつどいに」招かれ「同協会の活動に協力をした」と言う内容のいとも簡単な文面の感謝状をいただいて来た。

 確かに案内状には感謝状を差し上げると書いてあったが、それは洒落で新春のつどいの余興、アトラクションの類いかと思って気軽に出席したが、会場のホテルに着いて受付、他の来客などの雰囲気から察するところ洒落や冗談のつどいではないようだ。

「新春のつどい」は極めてシリアスなつどいで、感謝状は財団への基金面での協力者、事業協力者などの団体(企業)、個人に贈られたもので、私も事業協力の個人5名の中の一人だった。
 
 遊び心で気楽に顔を出した私は少々戸惑ったが、同協会の運営する横浜こども科学館(現・はまぎんこども宇宙科学館)で子どもたちと巨大な宇宙船を作り、宇宙への夢を広げて来たり、毎年夏休みには工作のワークショップ開催のお手伝いをしてきたことに評価をしていただけたのが素直に嬉しい。

 タイトルが欲しくてやっていることではないが、この種のものは「第4回・日本ホビー大賞」をもらって以来15年ぶりのことである。
 ホームページを通して、長年子どもたちの中に豊かな心が育つように情報を発信し続けてきたことや、各地に出かけて直接子どもたちと接点を持ってきたことを少しづつでも着実に世間が認めてくれるようになった。

 私は<ほめられてのびる>タイプなのだ、感謝状は副賞もない只の一枚の紙切れにすぎなかったが、これでまた新しい工作を考え出す気力が湧いて来る。
 



似顔絵2

2008年11月19日 | 雑記
 8月7日に「似顔絵」というタイトルでこのブログに一文を書いたが、今回はその続き・・・。
 前回客の選り好みの出来る会場でも似顔絵で失敗をしたことが過去にあると書いたが今日はその話にしよう。

 1960年代は今のコミック、劇画というアシスタントを使って作る量産型のマンガのカテゴリーとは少し違い芸術的な香りを持つ1コマ漫画、ナンセンス漫画が主流の時代で、地方の漫画青年たちは外国雑誌などに投稿をして気を吐いていた時代だった。
 そんな若手の漫画青年たちが名古屋のある商店街の夏祭りイベントで似顔絵コーナーを開催していた。

 私は当時ファッション画の勉強中で、その集団のメンバーではなかったが、普段から交流もあったことから会場に素見し(ひやかし)に出かけてみると、まだ準備中で互いに描く側、描かれる側を交代しながらウォーミングアップを兼ねて似顔の見本を作っていた。

 私も遊び半分で似顔絵コーナーの女の子の顔を1枚だけ描いて、他の仲間の見本と一緒に並べておいた。

「あれを描いた人に描いてもらいたい」
 女性の客が見本で掲示している似顔絵を指さしたのは、私が描いたものだった。
 
 私は似顔絵などこれまで描いたこともなかったが、女性は似ていなくても漫画的に描かれるより、ファッション画風に描かれた方が嬉しいようで、何人かから指名を受けたが、誰の顔でも描けるのでなく、自分の好みの顔しか描けなくて、お金をもらう仕事でもなく気まぐれに描けばいいコーナーだったが、あなたの顔は描けませんとも言えず、あれを描いた人はもう帰ってしまいました・・・と知らない振りをしていた。
                
 私が20歳代の半ばで、名古屋で初めてのファッション画の個展を開いたとき、それを観に来てくれた人の中にとびきりの美女がいた。

 美女というだけでなく、特徴のある顔だちで描き易そうな人だったから、声をかけて展覧会場の中で多数のお客さんのいる中で似顔を描かせてもらい、ファッション画風の美女に仕上がった似顔絵に本人も喜んでくれた。

 展覧会場は似顔絵を描きますと告知をしていたわけではなく、その場限りのハプニングとして終わらせるつもりだったが、そこに居合わせた別の女性が、翌日、私の似顔絵も描いて下さいと自分で色紙を用意して来てしまった。

 ン! その人もそれなりに美人なのだが、特徴の掴みにくい人で、私の技量では描きにくい人だったが、断ればその娘さんの自尊心を傷つけるかと思うと、断りきれずに苦労をして描き上げたことがあった。
 以来人前で似顔絵を描くことはしていないが、雑誌のイラストとして作家や政治家の似顔絵はしばしば描いたことがる。
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 1976年に描いた作家の横溝正史さんのエッセーに描いた似顔絵だが、何の雑誌に描いた原稿だったかは憶えていない。

 しかし、特徴の掴みにくい人でも誰もいない工房での作業だから、イベントの似顔絵と違って時間をかけて何度も何度も描き直して仕上げればいいのでボロを出さずにすんでいた。



似顔絵

2008年08月07日 | 雑記
 先日同じ海老名市に住む人だが身知らぬ人から<似顔絵を描いて欲しい>言う内容のメールが届いた。

 ハテ、工作おじさんの私に似顔絵の依頼とは・・・?
 工作おじさんになる前にはイラストレーターをしていたが、似顔絵は得手ではなく、似顔絵を描いた話などを書いた記憶もないのだが。

 依頼主からのメールによるとGoogleで<海老名市 似顔絵 モンタージュ>で検索をしたら私のホームページがヒットしたということだったので、私も同じ検索を試みてみた。
 すると確かに似顔絵を描いたと言う記述があった。

 しかし、それは「方丈記」の鴨長明の似顔を描いたことがあると言う内容で、今から800年も昔の長明の顔など誰も知る人のいない状況の中で描いた似顔絵だった。
 その絵にリアリティーを持たせるためにどうしたのかと言う話をこの「ひとりごと」(3月3日掲載の<折返し展・16)に書いていた。

 ところで、このホームページのキャラクターとして使っている私の似顔絵についてもこの際、白状しなければならない秘密がある。
 この絵は自分で描いたような顔をしていたが、実はこのキャラクターの原本は13年前のまだ頭髪が豊かだった頃の私を友人のデザイナーが描いてくれたイラストがあり、その絵を下敷きにして薄くなった頭髪部分、老眼鏡などを自分で手直しをほどこした絵を現在キャラクターとして使っているのです。



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 これが友人が描いてくれた私の似顔絵(手配書ではない)50歳代の半ばまでは自分でうっとうしいくらいの頭髪があった。

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 50歳代後半から白髪が増えて来て一部を手直し、さらに頭頂部の抜け毛が目立つようになって、さらに手直しをしたものがホームページのキャラクターです。

 イベント会場などでの似顔絵描きに誘われたこともあるが、自分の顔も描けないくらいだから、誰の顔でも描けるわけではなく、描ける顔と描けない顔、また積極的に描きたくなる顔と描きたくない顔があるので、客の選り好みの出来ない似顔絵コーナーでは私は役に立てそうにない。


 ここまで書いて来て、まだ名古屋に居た20才代の若い頃に、 客の選り好みの出来る場所での似顔絵の失敗談を思い出したが、話が長くなるのでそれはまた別の機会にしよう。