日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

最近は「中近東」や「アフリカ」のニュースを見ると、何が無しに考えるようになってしまいました。

2021-12-17 08:20:01 | 日本語学校
小雨。

「雨」と言いましても、降ったり止んだりが続いています。少々小降りになった時に、自転車を飛ばしてやってきました。自転車を「飛ばす」と言いますと、私が乗っている様子を知っている人は、皆、笑うのですが。だいたい、やっと「小走りで駅に急ぐ人を追い抜けた」で、ほっとしているくらいの速さ。でも、私にとってはエイヤァとリキを入れてこいでいるわけで、「飛ばす」というのが一番、しっくりいくのです。

昨日、今年の卒業生…卒業生といいましても、日本に仕事できている方ですが、その方が「N1」合格後、「宅建」にも合格したからと、報告かたがた、手作りの「肉まん」を持ってきてくれました。お祝いなら、本来なら、こちらが用意せねばならぬものを。とはいいながら、ありがたく頂きました。ほんとにおいしかった。うちに帰ってから、早速三つともぺろりと平らげてしまいました。こういう言い方は変かもしれませんが、本物は違いますね。

当時、卒業式まで勉強してくれた中国人は二人だけでした。もう一人は留学生で、彼も大学で頑張っているらしく、50万円の奨学金がもらえたということを伝えてくれました。

コロナ禍で帰国できずにいるうちに、だんだん日本人化していくようで、下手をすると、私のようにタラ~リとしてくるかもしれません。私など、中国にいても、この「タラ~リ」は変わらなかったらしく、すぐ日本人だとわかると言われたことがありました。

当時、北京では主流はトロリーバスだったのですが、これがよく停まるのです。理由は「喧嘩」。一台が乗客と運転手、或いは通行人と運転手とかで喧嘩が始まってしまいますと、運転手は怒り心頭といった感じで、喧嘩に夢中になってしまいますから、当然バスは停まります。すると、次のトロリーバスが追い越せませんから、また停まる、それが順々に続くのです。

バスの窓から、いくら首を伸ばして見ても、停まっているバスの、一番先の先頭のバスが見えないこともよくありました。乗客は慣れているのか、さっさと降りて歩き始めます。或いはおもしろそうに、「どこどこで喧嘩だ」と言って笑っている人もいました。もちろん、イライラして怒っている人もいるのですが、暇な人も多かったようで、特別の用がなければ、おもしろい見世物くらいに考えていたのでしょう。

初めの頃はどういう対応を取ったらいいのか、戸惑っていたのですが、直にこちらも慣れて、皆と一緒に降りるようになりました。その習慣が日本に戻ってきてからも、一定期間続いて、いくら「地下鉄は事故で止まっても、直に、動き出すから乗ったまま待っていた方がいい」と言われても、降りてしまうのです。あげくは乗ったままの方がずっと早く着いたということも少なくなく、だんだん、元に戻って、のんびりと待つようになったのですが。

で、その中国でのことです。その時に、同じバスに乗っていた日本人留学生がいたらしく、「中国人なのに、ポケーッとしている人がいるなあと思ったら、アンタだった」。
そうですね、当時の中国人はイライラしている人が多かった。すぐに列の割り込みはするし、隙あらばという目つきで見ているようなところがありました。社会がそれなりに落ち着いてくると、そういう面は消えていくのでしょうけれども。

最近、学校に来る在日の中国人には、あまりそういう激しさ、険しさは感じられません。コロナ禍で帰国できずに、日本暮らしが長くなったから、私みたいにタラ~としてきたのかもしれません。

さて、学校です。

アフリカからの学生が来るまでは、というか、この二人が来るまでは、中近東やアフリカの様子は単なるニュース、知識にしか過ぎなかったのですが、最近は、見ながらいろいろと考えるようになりました。若い二人には説明が必要だからです。説明というか「気づき」というか…。私がノンベンダラリとしていたら、彼らとて同じことになってしまうでしょう。問題意識を持って、見てもらいたいのです。それが、たとえ方向が違っていたとしても、若い彼らには、これからの学びを通して、自分なりの意見を持つことができるようになると思います。まずは一つは要るのです。

「あれ、私は違うように思う」で、いいのです。今は何も感じていないし、思ってもいない。ずっとその国に住んでいたら、たとえ大学を出ようが、同じことだったでしょうから。

本腰を入れて、それらの土地を見ているうちに、宗教の重さを感じるようになりました。アフリカも、キリスト教徒の多い国は旧宗主国やアメリカと関係を強め、独自性を出していく傾向にあり、イスラム教国は分裂を深めていく。土着の宗教を持っている国はさまよっているような気がします。

中国やベトナムの人は、「自分たちは何も宗教を信じていない」とよく言います。けれど、ベトナムには、日本で言うところの「神棚」のようなものが、どの家にも鎮座ましましています。あれも、いわゆる「宗教だよ」と言うと、皆驚くのですが。

それに中国の寺や道灌ですが、参る人の祈りの激しさには驚かされます。宗教なんて信じていないはずの人たちなのに、「こうしてくれ、ああしてくれ」という激しさは、日本の比ではありません。あれは、「祈り」ではなく、「要求だ」と、こちらの目に映ることもあるのです。それに比べれば、「何かわからないけれども、何かは居そうな気がする」とか、「はっきりはしないけれども、多分、何かは信じているな」と認める日本人の方がずっと「祈り」は淡白です。「欲」を見せる人を神仏や自然は嫌うと思っているからかもしれません。

日々是好日