日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「身体が覚えている『四季の巡り』」。「『昨日の自分』と『今日の自分』、そして、『明日の自分』」。

2009-05-19 08:01:40 | 日本語の授業
 今日もいいお天気です。天気予報では、昨日よりも暑くなると言っていました。それに、「梅雨」の話も出ていましたっけ。何でも「梅雨入り」は、6月の始め頃になりそうとのこと。不思議なものですね。季節が「春」になれば、次は当然、「夏」になる。その始めには、必ず、雨が降り続くということになる。そんなことはわかりきったことのはずですのに。どこかで、その土台が崩れていくような、危なっかしい気がしてならないのです。

 「春」が来て、「初夏」が始まり、「梅雨」になり、「梅雨明け」と共に、カッと灼けるような「夏」が来て、「台風」の季節となり、朝夕に涼しさを感じる頃、「秋」となり、木の葉が落ち、「木枯らし」を見、そして「冬」、そして、「春」、そしてまた…。

 この大地に住む人間が、この当然とも言える「季節の恵み」を享受出来なくなる日が来るかもしれないなんて、今は、考えられないのですけれど…。
 それでいて、この地に住みついている人間というモノは、その準備を、知らず知らずのうちに、既に「心」の中に浮かべているのです。

 中国に長く暮らしていた時もそうでした。頭ではわかっていても、その時期に、身体が覚えていることが起こらないと、どこかで「不調」を来たしてしまうのです。北京の冬はカラカラでしたから、(日本で過ごす冬のように)寒さで悩むことは、ありませんでした。身体は、当然のことながら、ある種の「爽快さ」を感じていたはずです。ところが、豈図らんや、心では、反対に、「何か変だぞ」とばかりに、ジメッとした、下から突き上げてくるような冷えを懐かしんでいたのです。

 もちろん、これは、(日本人の身体に)否応なく染みついている感覚にすぎません。好き嫌いとは全く関係がないのです。
 ただ、来日後、初めての「梅雨」を過ごすことになる、乾燥地の人達は、たまらないでしょうね。暗い雨の日が続きます。しかも、ムンムンと蒸し暑いのです。子供の頃、「梅雨」時に、カレンダーの裏側に生えた、「黴」を見つけたことがありました。見つけた時は、感動モノでしたけれど、人間まで黴びてしまったら、大変です。「黴」は一度生えたら、完全に取り除くのは、なかなかに難しいことなのです。「黴」とて、ヒトと同じ生物なのですから、抵抗するでしょうね。

 雨にウンザリさせられている時は、それを逆手にとって、この期ならではの、雨に濡れた草木を見るに限ります。ちょうど、その頃に盛りを迎える「アジサイ(紫陽花)」がいい。名所にわざわざ行かずとも、近所に「庭木」として植えられていたりしますから、ちょうどいいのです。それに、「アジサイの鉢植え」も少なくありません。

 「アジサイ」の大きな葉には、透き通った肌を持つ「アオガエル(青蛙)」が、一番似合います。言葉を足しますと、昼は「アオガエル」で、夜は「ホタル(蛍)」がいい。「アオガエル」も、「ホタル」も、都会ではすっかり姿を消してしまいましたが、闇の中で光る、葉先の滴かと見紛うばかりの、ホタルの緑の光は、美しいものです。雨に濡れて、心まで黴びてしまう前に、この期ならではの、美しいものを見て、心を和ませてもらいたいものです。

 「時間」というものは、流れていく…これは、地球上に住む人間にとって、山で生まれた河が海に向かって流れていくのと同じように当たり前の事なのですが…、もし、時間に「意志」があったら、どうなるのでしょう。季節が逆流したり、チャランポランになったりするのでしょうか。「当たり前」と考える、その「常識」の土台さえ崩れてしまいそうです。

 「昨日の自分」は、「今日の自分」ではありませんし、「明日の自分」も、もう「今日の自分」ではあり得ません。誰でしたが、ある人が「人生に同じことを経験するということなどあり得ない。どのような人であれ、今日という日を、初めて経験するのだから」と書いたものを読んだことがありましたが。

 私たちは、ともすると、まるで毎日、同じ事を繰り返しているかのように思いがちです。しかしながら、確かに、自分も「昨日の自分」と、「全く同じ」ではありえないし、学生達もまたそうです。毎日の変化は、特別なことが起こらない限り、目に見えないほど、それはそれは小さなものです。けれど、その小さな変化を掬い上げることによって、人は、もっと大きな変化を生み出せることもあるのです。勿論、その逆もあるでしょうが。

 今の「Aクラス(去年の7月生中心)」に、授業に行って面白いのは、彼らがあからさまな好奇心を示してくれるからなのです。
「え?それは何」。「え!」。「ほう!」。「どうして」。「ああ」。「あ~あ」。
もう少し、日本語が出来たらと、残念に思われるくらいなのですが、それでも、いろいろなことに興味を持ってくれるのが、一番ありがたい。その好奇心を満足させる形で授業を進めていけばいいのですから。(心の)殻が厚くて、どんな刺激にも応えず、ボウッとしている学生は、本当に手に負えません。それでいて、(そういう人に限って、何も知らないくせに)知っていると思い込み、それを人にも言うのです。

 もちろん、みんながみんな、そうというわけではありません。ただ、こういう人は、すでに、自分の価値観ができあがっているのです。今更、いろいろなモノを貪欲に吸収するというわけにはいかないのでしょう。これは、年齢には関係ないのです。若くとも、神経が鈍磨していれば、何も吸収できないでしょうし、たとえ80歳を過ぎていようと、若者のような新鮮な気持ちで、毎日を過ごしている人なら、いろいろなモノをいつまでも吸収することができるでしょう。つまり、おもしろがって人生を送ることが出来のでしょう。

 ただ、この学校に、若くして入り、学びたいという人が、こうあってもらっては困るのです。つまり、「昨日もかくてありけり。明日もかくてありなむ」と、とにかく毎日の生活を享楽的に過ごせればそれでいい、日本にいるのに、日本語が話せなければ困るから、ここに来ただけだというのでは、困るのです。

 「言語」というものは、その地の「文化」や「風習」、「風土」、また、それらを築いた人々の「考え方」や「感じ方」と密接に結びついています。「『(日本語の)文法』を勉強した。『一級』の単語を覚えた。合格した」で、終わりというわけにはいかないのです。数字では計れないもの、データには表れないものを、学ぶ必要があるのです。「言語」というものは、それらの「表層」に現れた、「目に見えるもの」に過ぎないのです。その「言語」が拠って立つ所の、人々の生業を垣間でも見ておかねば、文章を読んでも、人々と話しても、おそらく「深いところで」理解し合うというわけにはいかないでしょう。
 
 そのためにも、日本で大学へ行こうという人には、少なくとも「文学」の入り口くらいまでは、学んでもらいたい。ただの「知っている」ではなく、日本を「感じて」欲しいのです。

日々是好日
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