日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「私たちが考える常識も、他国の非常識…かもしれない…」。

2014-05-15 17:19:10 | 日本語の授業
 雨。

 昨日は暑くなるという予報でした。しかしながら(確かに、28度ほどにはなっていたようでしたが)、実感として、そんなに暑いとは感じられなかったのです。暑かったのは、ごく僅かの時間だけ。しかも、その僅かな時間を過ぎると、暑いどころか、涼しいとさえ感じられるほどだったのです。

 そして、今日。

 昨日に比べれば、10度ほど近くも下がるとのことですから、寒いと言った方がいいのかもしれません。もちろん、雨は困りますけれども、これくらいの方が過ごしやすいと言えるでしょう。

 さて、学校です。

 「初級Ⅰ」のクラスでは、皆、だんだん遠慮がなくなり、会話練習など、違う国同士の間でも、和やかにできるようになっています。実は言ってはいけないことなのですが、昨日、四列目の学生の表情やら、仕草やらがどう見ても「ゴリラ」にしか見えず、我慢できなくなって、「だめ、○○さん、その顔はだめ。そんな顔をしてはいけません。△△△みたい」と思わず口走ってしまいました。そして、目から涙が出るほどにおかしくておかしくて…笑ってしまいました。これがなかなか止まらない…。

 「ゴリラ」が判った学生はクスクス笑っていましたが、本人はそれが判りませんから、キョトンとして、またおかしな顔をして見せます。本当に…困ったな。

 ただ、この、人を動物に見立てるということ、これがある民族や国民にとっては、まずい場合が、多くあるので、互いに意志が通じい、信頼関係が築けてからでなければなかなかできないことなのです。

 いつも、帰りには玄関で彼等を見送るのですが、その時に、彼を見ると、また同じような顔をして笑うのです。本当に困ったなあ。

 一言付け加えておきますと、日本人は、あまりそれを「悪いことだ」とは思っていないのです。もちろん、日本で、ある地方の人の祖先は何々という動物であったなどという話(神話)はあまり聞いたことがないのですが。

 多分、この何々民族の祖先は何々という動物であったという神話は世界各地であるのでしょう。そしてそれと同時に、人に見立ててはならぬ動物というのも、それぞれあるのだと思います。

 ただ、日本人は、動物をすぐに人格化してしまうのです。ペットの動物も、そして野生の動物でもそうです。カラスも勘三郎となったり、狐もおたきとか、花とかいう名前が付けられてしまったりするのです。

 子どもの頃のあだ名に、スピッツみたいに可愛かったから、「スピッツちゃん」といわれた人もいましたし、三毛猫みたいな顔をしていたから「三毛ちゃん」と呼ばれるようになった人もいました。かく言う私も、ゴマフアザラシの赤ちゃんと呼ばれ、それがいつの間にか「ゴマちゃん」となった時期もありました。

 中国では、「犬」と呼ばれることを嫌い(もちろん、日本でも中国と同じような意味で使われることはあるのですが、ただ、その時にも、日本では「ワンちゃん」と呼ぶと、途端に可愛くなってしまうのです)、日本人のように、ごく普通に、「あの人は犬顔だね」とか「猫顔」、あるいは「狸顔」「狐顔」「リス顔」などとは言っていませんでした(日本ではごく普通に言っていたのです。自分で、私の顔は何々と言うこともありましたし)。。

 日本では、「人と動物たちの間の垣根が非常に低い」と言うよりも、それは並列であるような気がします。「上下」ではないのです。「対等」と言った方がいいのかもしれません。それ故でしょうか、日本人は、どうも、人を上下で縛るのが苦手であるような気がします(もとより、日本社会でも、会社や学校など、人が組織を作れば、必ず上下関係というのは生じるのですが)。

 日本の商社マン家族が東南アジアやアフリカなど、賃金格差のあるところ(日本と比べてです)に赴任した場合、その奥さんがどうしても現地のお手伝いさんを使いこなせないと悩んでいたというのを聞いたことがあります。(日本人同士でそうしているように)対等に扱うと、相手がこちらを馬鹿にする(慣れていないのでしょう)。それで、命令口調でやると、今度は相手が馬鹿にされていると怒り出す…。

 こういう家族も日本ではごく平均的な家であって、お手伝いさんなんて雇ったことはないというのがふつうでしょう(たとえ、大金持ちであっても、他人をうちに入れるのが嫌だと言う人も少なくないのです)。ですから、小中高大学と、常に「皆、同じ」で生きてきたのです。会社に入り、課長や部長になり、人を使う術を学んできた人であっても、それとお手伝いさんに対するのとはまた違います。となれば、これは難しい…。

 多くの国では、こういう身分になれる家庭の人というのは、お手伝いさんの一人や二人は雇ったことがあるような家で育っています。だから、子どもの時から、親がお手伝いさんをどう扱っているかということを見てきているのです。

 その差は大きいと思います。

 けれども、私はこの話を聞いた時、だから、日本は暮らしやすいのだなと思ってしまいました。生まれた時から、人様を使って家のことをあれこれさせてきたという家庭が多い国よりも、自分のことは自分達でやっているという普通の家庭が多い国の方がいいと思うのです。

 ただ、世界にはいろいろな国がありますから、そしてやり方というのがありますから、そういうところへポンと放り込まれたら、困ってしまうでしょうね。

日々是好日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする