日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「日本語学校には、いろいろな人が集まってきます」。

2013-02-21 08:49:08 | 日本語の授業
 晴れ。青空がどこまでも広がっています。今日は、富士山が見えているかもしれません。

 昨日のことです。「Fクラス(一月生のクラス)」では、一昨日「て形」の導入が終わっていましたから、当然、次に入ります。ところが、一昨日、四名の学生が欠席していました。(この大切な時にと、ムカッとしましたが、こういう人たちには「今」の大切さをいくら言ってもわからないのです。「て形」がわからぬまま、教室に座っていることの虚しさも通じないのです)

 それで、動詞の「て形」を皆で一斉に言っている時に、目が中を泳いでしまうのです(もともと、単語もそれほど覚えていないし、『ひらがな』『カタカナ』も、五十音図で終わっているくらいですから)。ただ、そのうちの一名は、母国で『初級Ⅰ』は終えてきていたと言っていました。そうは言いましても、頭ではわかっていても、一昨日何度も練習していた皆のテンポについては行けません。

 また、もう一名は、先に自分でも見ていたようでしたし、頭のいいようでしたから、考え考えでも、渡したプリントを見ながら口を動かしていけていました。

 ところが、問題は後の二人です。いわゆる、毎日学校に来て、授業でやってもらわない限り、自分では何にも出来ないという学生です。もうボウッとなって何にも参加できません。とはいえ、他の学生達も余裕がそれほどあるというわけではありません。とにかく毎日練習していかなければ、「て形」の定着は覚束ないことなのです。それで、他の練習中でも「はい、また間違えたね」と、一人が間違える毎に「四課から十四課」までの動詞のカードを使って、「て形」を言わせられていくわけで、昨日は、私の一コマだけでも五回は言わせたでしょうか、全部を(おかしなことで、やらせながら、却って私の方が「偉いな、飽きないんだ」と感動を覚えてしまっていましたが)。

 とはいえ、(この授業に)追いつけなければ、下のクラスが出来た時にもう一度やればいいのです。私としては、今現在、目的意識をしっかりと持って、真面目に勉強している学生達が、授業がつまらなくなって(つまり、常に休んだ学生の方ばかりに目が行き、同じことをまた勉強しているという気持ちになって)来なくなることの方が問題なのです、今の時期は。真面目に勉強していた人が病気とか、何かよんどころない用事とかで休み、そのフォローをする場合は、彼らは何も言いません。当然という目で見ています。

 しかしながら、こういう学生は自分でできるはずのこともしてきませんし、単語も覚えてきませんから、結局他の人が一時間で出来ることに2日も3日もかかってしまうのです。それに付き合わされてもいいとは、いくら大らかな気持ちの人達であっても思わないでしょう。彼らの大半はアルバイトをしながら、大学へ入るための努力をしている「苦学生」なのですから。

 それ故、学校に来ずに、来ても、勉強をせずに、追いつけない学生はそれなりに置いておくしかありません。ただ、ボウッとしていても、来ないよりは来た方がいいのです。聞くだけでもいいのです、こういう人たちにとっては(意味は追々と判っていくでしょうし、耳も日本語に慣れるのですから)。

 だいたい、こういう人たちは日本語を積極的に学ぼうという気がないのです。学びたい、勉強したいという気のある人の方を中心にすえてやっていかなければ、「『一月生』は今年の7月に『N4』」という流れが崩れてしまいます。それに、実際に、合格できそうな学生がいるのですから。真面目に勉強している人を落とすことの方が罪作りです。

 ついてこれない人達は、ディクテーションの時も、どうにも膝の上に本を隠して、それを見て書いているようです。書けないとボウッとしているよりも、(とにかく「ひらがな」や「カタカナ」を見てもいいから)手を動かして書いた方がいいので、注意はせずにおきます。彼らはきっと母国でも学校の授業の時にはこうだったのでしょう。しかしながら、授業中、暇な人というのは強い。何でもないことを耳ざとく聞きつけて、「欲しいの?恋人が欲しいの」とか言って、全く関係のないことに口を挟むのです(何か言いたいし、皆の中に入りたいと気はあるのです。ただそれが勉強には結びつきません。皆の注意を引きたいという気持ちだけなのです。努力をする気持ちはさらさら無いようです)。

 授業中、「していい冗談、それから学生が言ってもいい発言」というのは、教師が決めます(相手はとにかく大人なのです。だから、時々、どきっとするようなことを言ったりしたりすることもあります。そういう時には、非情さが必要になる時もあります)。

 その発言を、授業に取り入れるか、切って捨てるかは、教室の船長である、教師が決めなければならないのです。下手に入れてしまうと、授業が成立しなくなる可能性だってあります。それで大喜びして、楽しかったというのは、勉強はしたくないけれども、皆の中に入りたいという学生だけです。「入りたいなら勉強しろ」という原則を、理解できない学生達だけなのです(日本語学校で勉強している学生達は、短くて一年三ヶ月、長くても二年しか日本にいられません。その間しか、勉強できないのです。そして、普通は一年か一年半くらいで進路を決めなければなりません。そうしなければ、ビザが下りないので、日本で勉強していけないのです)。

 そして、勉強したいという学生達は、「無駄な授業だったな。来ても意味がなかったな」と思ってしまうのです。こういう時(例えば、「て形」の導入と練習のような大切案時)に、勉強しないでごまかそうとしている学生に同情して、同調してみせると直ぐに授業のリズムが壊れてしまいます。つけいらせてはならないのです。

 適当につけいらせて、それでも直ぐに授業のリズムに戻せる、手元に引き寄せることができるという教師のレベルに到るには、かなりの時間がかかるものです。だいたい、日本語学校というのは、常に「どこの国から、どういう年齢の人が、どういう経歴を持っている人が来ている」のかが、わからない状態で始まります。Aという国の人には通じたやり方がBという国には通じないということも多いのです。それに「高卒」か「大卒」か、「社会人を経験したものか否か」でも、全く授業のやり方を変えなければならないこともあるのです(勿論、教える内容は同じです。しかし、他が違ってくるのです。集中力を長引かせるためにはどうしたらいいのかとか、気分転換を図らせるためにはどうしたらいいのかとか、そういったファジーの部分でです)。

 勿論、そういう学生でも、一つの言葉でもいい、授業に参加すれば、褒めます。これは当たり前のことです。学生が嫌いで、厳しくしているわけではないのですから。そうではなく、脇道にそらせよう、自分たちがチャチャを入れて、授業とは別の話で盛り上げよう、つまり授業の流れを阻害しようという態度には、それは悪しきことであるときっちりとけじめを入れているだけです。

 特に、新入生を受け入れて一ヶ月か二ヶ月以内にやっておかねばならないことが、「ここは日本であり、授業をしているのは私である」という決然とした態度なのです(まあ、こう言いましても、90%以上の学生には、こういう態度は必要ではありません。親切に普通通りの授業をしていればいいのですが、残りの5%か10%の学生だけが問題なのです)。

 これがきっちりと出来ていないと、授業中に勝手に出ていく、携帯で遊ぶ、私語を重ねるとなるのです。こういう人達は、ここでは、何が良くて、何がいけないのか、何をどうしてはいけないのかがわからないのです。

 高校を出て直ぐの人達は、指摘されたり非難されたりすれば、引っ込みます。この先生の時には、これを言ったらひどい目に遭うということがわかりますから。しかしある程度年がいっていたり、しかもきちんとした会社で働いたことがなく来日した人は、これがなかなかわかりません。誰もついてこないし、だれか彼に追随して騒ごうとしたら、途端に厳しい叱責か、授業の妨害をするなと激しい目で睨まれますから、まず、しませんね、そんな馬鹿なことは。

一応、何と言いましても、この学校に勉強するといって来ているわけですから、それは貫徹してもらいます、どのような人であっても。

日々是好日
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