日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「今日はお花見です。それで思い出したこと」。

2012-04-10 08:38:06 | 日本語の授業
 快晴。風はほとんど感じられません。まずは、「花見日和」と言ってもいいでしょう。けれども、散る桜をこよなく美しいものとする向きから申しますと、少々辛いところですが。

 昨日、今日で、満開と報じられた各地の桜ですが、日曜日、テレビを見ていますと、朝七時前であるにもかかわらず(今日行く予定の)千鳥ヶ淵では、花見に興じる人がごった返していました。

 画面を見ているだけで、「ここは、通るだけ、見るだけです。お早くお通りください」という声が聞こえてきそうでした。彼の地で酒を飲んだり、席を拵えて食事をしたりすることは禁じられています。ただ、いくら通るだけ、見るだけとは言われましても、写真は撮りたいし、じっくりと立ち止まって見ていたいというのは、人の常。誰でも美しいものを見ていながら、素通りすることなんてこと、できはしません。

 今年は、どうでしょう。写真を撮り、撮られするのに夢中になるフィリピン群は、一名を残して3月に卒業してしまいましたから、もしかしたら、案外スムーズに過ぎていけるのかもしれません。

 ところで、「明日は課外活動」という時、行きたくないという学生が出ると、必ずと言っていいほど、思い出す光景があります。

 数年前でしたか、高校を卒業したばかりの学生でしたが、来日して第一回目の「課外活動」を翌日にしたある日のことです。「課外活動」の説明をして職員室に戻っていると、二人が緊張した顔つきで「明日行かなくてもいいですか」と言いに来ました。来日したばかりで、日本の物価高に、そして何よりもアルバイト探しや、またアルバイトが見つかればその疲れとかで、「学校の勉強(教科書を使った)がないのなら、ゆっくり寝たい、休みたい」とでも思ったのでしょう。

 少しかわいそうに思いましたが、たとえ一日休んでも、翌日からは同じような(ある意味では無味乾燥とした)生活が控えています(中国人でも高校を卒業したばかりの学生というのは、ただ大学へ行きたいという目的で来日しているだけですから、アルバイトと学校での教科書による勉強しか考えられないのです)。それと、課外活動に参加する意義とを考えると、やはり参加した方がいいと思い、「不行」と答えてしまいました。彼女らにはおそらく私の言わんとするところの意義というのは、(その時)わからなかったことでしょう。

 彼らが彼らの母国での中高校の時、どのような課外活動を経験していたのかは判りませんが、日本の日本語学校で経験するのとは明らかに違っていたと思います。彼女らは、諦めたように(悄然として)帰っていきました。翌日はちゃんと言われたとおりに定刻に駅に来たのですが、しかしながら、その顔には「無理に来た。先生の言うことは『没道理』。どうして絶対に参加しなければならないのか、こんなの時間潰しの遊びだろうに」と書いてありました。

 それくらい、心身共に疲れていたのかもしれません。夢を抱いて日本に来ても、「日本語が話せない、聞いてもわからない」となると、アルバイト探しも大変です。たとえアルバイト場所が見つかっても、得られた賃金は(労力に比して)微々たるものでありましょうし、またそこに着くまでが一苦労であったでしょう。彼らは学校や寮の近くでそういうものが捜せるほどの日本語力はありませんでしたから。

 ところが、みんなで駅に集まり、点呼を取り、地下鉄に乗り、降りてから東京の街を歩きしているうちに、顔がどんどん明るくなっていったのです。「課外活動」の一つの目的、「気分転換」がうまく行き始めたのでしょう。

 人は誰でも他の人に認められたい。工場では、どうしても採算を上げなければなりませんから、日本語力がなければ、いくら私にはできると思っていてもそれを認めてもらえません。発揮できないのです。それに学校では机について勉強するだけ、大きな声で話をしたり、大声で笑ったりすることにも制限があります。

 ところが、課外活動では、同じ国の人と思う存分話をしたり、あるいは同じ苦労をしている他の国の人と身振り手振りで意思を通じ合ったり、大声で笑ったり、走り回ったり、写真を撮りあったり、つまり、自分を解放できるのです。

 来日して一二ヶ月は、勉強でもアルバイトでも、ある意味では毎日が何かに縛り付けられているようなもの。甚だしき時は、身動きが取れない状態だと自分で自分を押し潰そうとしてしまっているようなこともあるのです。何せ日本語がまだ出来ませんから。誰に何を訴えようにもその手段がないのです。多くは、自分で何とかしなければならないと決意して来日していますから、誰を恨むわけにも行かないのです。

 けれども、ひとたび教室から外に出れば、いつもは怖い顔をして「勉強しろ」とばかり言っているかのように感じられていた教師もそれを言いません。大目に見てくれます。それどころか一緒になって大騒ぎしてくれます。街もいつも見ているにもかかわらず、急に美しく親しげに見えてきます。

 自然と心が解けていき、街行く人を見、いつもとは違って皆と冗談を言いあい、走ったり、笑ったり。日々の生活から解き放たれて、本来の19才の彼女らに戻れたのでしょう。課外活動の時の彼らの顔は、教室で見るときの表情とは全く違っています。

 それからあと、彼らは二度と、「行かなくてもいいですか」と言わなくなりました。

 もちろん、毎学期(四月、七月、十月、一月)と、新入生が入ってくる度に、そういう学生は出てきます。けれども、必ず、「だめ」と言われ、最初は渋々と参加し、一度参加した後は、多くは二度とそう言わなくなります。もちろん、この「多くは」という意味は、本来の目的通り、勉強しようと思って来日した留学生に限ったことですが。

日々是好日
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