今朝はいつもより早く起きだしてみると…、早く起き出た者には、それなりにいいことがあるようです。まだ東南の空には、星座がいくつか残っていました。昨晩はきれいな月を見、今朝は星です。
星物語が好きな割には、目にした星座の名を言い当てることができなくて、子供の頃、友人達によく笑われたものでしたが…、未だにその病は続いているようです。
残念なことに、今、目にしている星座の名が言えないのです。あの形は記憶がありますから、名がつけられていることはわかっているのですが…こういう名だったと、胸を張って言い切ることができないのです。
夏の終わり、秋の初めにかけて、明け方の東南の空に残っている、あの星座は何と名づけられていたのでしょうね。
今はもう、早朝は、秋の虫たちの天下になりました。つい先頃まで蝉たちが「我が世の春」を謳歌していましたのに。
「エノコログサ」の穂も色を失い、ほおけ立ち、ぱさついた姿になっています。「オオマツヨイグサ」は、まだ花の姿は見られるものの、柔らかな薄緑の色が退いて、白っぽくなってしまい、葉も、ところどころが茶色になっています。
…昨日、日曜日、皆で地区の公園の掃除をしたのですが、地面を覆った緑の草の間に、いつの間に落ちていたのか、数知れぬ落ち葉が、しっかりと挟まっていました。枯れ葉を集めて見ると、栄枯一炊の夢ですね、蟬の脱殻がいくつも入っていました。子供達に拾われ損なったのでしょう。私も子供の時に毎年蟬の脱殻を集めては、机の引き出しに大切のとっておいたいましたっけ。引き出しの中には、きれいなビー玉などの他に、遠足で行った山の中で拾った三葉虫などの化石の欠けらなども入っていましたっけ。
自分だけの宝だと思っていても、友人に聞くと、皆、大切に持っていたようでしたから、皆、これは自分だけの宝だと思い、密かに隠していたのでしょう。子供の、一種の「習い」めいたものなのかもしれません。
子供の頃の「価値基準」というのは、大人になってからのものとは違うのです。
あの頃は、皆、自分達なりの、モノの価値を判断する上での「基準」というものを持っていました。もちろん、時代の流行というものはありましたけれども。ただ、それは、金銭では計れない「カブトムシ(甲虫)」だの、恐竜だのといったもので、流行はあるといっても、そこには、そこそこに、自分だけの美というか、かっこよさを対象に感じ、他の人とは違うという部分が、確かにあったのです。
年が長けて行くにつれ、それが画一的になっていき、その「基準」というものも、豊かで便利な「生活」に結びついた価値基準で、「夢」に基づいたものではなくなったような気がします。
蟬の脱殻を見る度に、そんなことが頭をよぎります。まだ、あのころの「価値基準」は自分の中に残っているのでしょうか。
夜が少しずつ白み始めています。私の起きた頃に既に車を出した人が、このマンションにもいました。車の中からいつもこの白みゆく空を見つめているのでしょうか。或いは、すべては「仕事」にまとめられてしまう生活の一部である、で終わってしまっているのかもしれませんが。
五時を過ぎたので、(もういいだろうと)プラスチックごみを出しにいくと、階段がまだ濡れていました。夜中に、また雨が降ったようです。空が洗われて、それで、星がいくつも見えていたのでしょう。
さあ、一週間の始まりです。
日々是好日
星物語が好きな割には、目にした星座の名を言い当てることができなくて、子供の頃、友人達によく笑われたものでしたが…、未だにその病は続いているようです。
残念なことに、今、目にしている星座の名が言えないのです。あの形は記憶がありますから、名がつけられていることはわかっているのですが…こういう名だったと、胸を張って言い切ることができないのです。
夏の終わり、秋の初めにかけて、明け方の東南の空に残っている、あの星座は何と名づけられていたのでしょうね。
今はもう、早朝は、秋の虫たちの天下になりました。つい先頃まで蝉たちが「我が世の春」を謳歌していましたのに。
「エノコログサ」の穂も色を失い、ほおけ立ち、ぱさついた姿になっています。「オオマツヨイグサ」は、まだ花の姿は見られるものの、柔らかな薄緑の色が退いて、白っぽくなってしまい、葉も、ところどころが茶色になっています。
…昨日、日曜日、皆で地区の公園の掃除をしたのですが、地面を覆った緑の草の間に、いつの間に落ちていたのか、数知れぬ落ち葉が、しっかりと挟まっていました。枯れ葉を集めて見ると、栄枯一炊の夢ですね、蟬の脱殻がいくつも入っていました。子供達に拾われ損なったのでしょう。私も子供の時に毎年蟬の脱殻を集めては、机の引き出しに大切のとっておいたいましたっけ。引き出しの中には、きれいなビー玉などの他に、遠足で行った山の中で拾った三葉虫などの化石の欠けらなども入っていましたっけ。
自分だけの宝だと思っていても、友人に聞くと、皆、大切に持っていたようでしたから、皆、これは自分だけの宝だと思い、密かに隠していたのでしょう。子供の、一種の「習い」めいたものなのかもしれません。
子供の頃の「価値基準」というのは、大人になってからのものとは違うのです。
あの頃は、皆、自分達なりの、モノの価値を判断する上での「基準」というものを持っていました。もちろん、時代の流行というものはありましたけれども。ただ、それは、金銭では計れない「カブトムシ(甲虫)」だの、恐竜だのといったもので、流行はあるといっても、そこには、そこそこに、自分だけの美というか、かっこよさを対象に感じ、他の人とは違うという部分が、確かにあったのです。
年が長けて行くにつれ、それが画一的になっていき、その「基準」というものも、豊かで便利な「生活」に結びついた価値基準で、「夢」に基づいたものではなくなったような気がします。
蟬の脱殻を見る度に、そんなことが頭をよぎります。まだ、あのころの「価値基準」は自分の中に残っているのでしょうか。
夜が少しずつ白み始めています。私の起きた頃に既に車を出した人が、このマンションにもいました。車の中からいつもこの白みゆく空を見つめているのでしょうか。或いは、すべては「仕事」にまとめられてしまう生活の一部である、で終わってしまっているのかもしれませんが。
五時を過ぎたので、(もういいだろうと)プラスチックごみを出しにいくと、階段がまだ濡れていました。夜中に、また雨が降ったようです。空が洗われて、それで、星がいくつも見えていたのでしょう。
さあ、一週間の始まりです。
日々是好日