日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「大切なものとは何か。何を守らなければならないのか」。

2011-06-06 08:42:22 | 日本語の授業
 晴れ。まさかこのまま酷暑に突入するのでは…。思わず、ぞっとしてしまうほどの晴れようです。確か、もう梅雨に入ったはず…。

 日本の政治は、蝸牛の角の上で行われているようです。歴史は繰りかえすと言いますが、繰りかえしてはならない歴史もあります。戦前、やはりこのように政治が単なる政争に明け暮れ、業を煮やした民衆が、耐えかねて、一見「決断力」のあるかにみえた軍部に政治を任せたことがありました。

 その結果は、悲惨なものでした。普通の思考ができる人間なら決してしないであろうことを、次々としてのけ、しかも、だれもが人を殺しそして自分も死ななければならないような、そういう道へ日本人を誘い込んだのです。

 ある詩人は戦後、こういうことを言いました。「私たちは誤った人に国政を任せた。けれども、当時、だれも、日本がどういう状態にあったのかも、世界がどういう状態にあったのか、日本のことも世界のことも何も知らなかった。しかし、今は違う。今度おかしな人間に国政を任せたら、それはあなたたちが愚かだからだ。なぜなら、これほど情報が溢れている世の中に、知らなかったなどと言うことは、通用しないからだ」

 以前、随分前のことですが、某国の将軍が、「戦場にいる軍人は戦争を欲しない。戦争を欲するのは、軍需産業の株主か、軍需産業から献金をもらっている政治家だけだ」と言い、「私は戦争を欲しない」と、大統領の考えに非を唱えたことがありました。現場で命をかけている人たちと、中央でデスクの前に座っている人との温度差を如実に表した言葉であったと記憶しています。

 日本人は、日本の国がおかしくなり始めた数十年前からずっと、政治家は育てなければならないものだと、耐えてきました。それを気づいていないのは、「国の政をやろう、この国の人々が、この国に生まれてよかったといえる国を作ろう」という志で政治の世界に入った者ではなく、「得だからとか、偶然に入ってしまった(頭数で入った人もいたといいますから。それで給料を取るなよと言いたくなってしまうのですが)とか、親が選挙基盤を持っており、その関係でこの職業が一番簡単になれたから」などというような、いわゆる普通の政治家くらいでしょう、それが大半であるとも言われているようですが。

 いつの間に政治家は「上から視線」が普通になってしまったのでしょう。教師が、ベテランと言われるようになろうとも、「教壇が怖い」という感覚を忘れてしまったら終わりだと言われるようなものなのでしょうか。いえ、それが、聞く人を唸らせるのは、そうでなくとも、教師をやめさせられることはない(公立学校の教師です)からなのです。

 政治家は「落選」が一番怖い、なんとなれば「ただの人になる」わけですから。「載舟覆舟」というのとは違います。この言葉はだから善政を布けであって、こういうふうに、封建主義の時代の言葉を持ってこられると、お前は君主かと罵りたくなってしまいます。

 思えば、「ただの人」という言い方も、人を小馬鹿にした言い方です。自分たちだけが偉いとでも思っているようにも聞こえるではありませんか。

 けれども、この大惨事(まだ続いていますが)のおかげでわかったことがあります。地方の行政機関が、それまで言われていたよりも、ずっと人々の事を考え、動いていたということです。この人たちの大半は、現場にいるのです。被災地の現場にいて、目の前にいる市民なり村民なり町民が苦しんでいるのと、同じ生活をしているのです。だから、苦しみを分かち合うことができるのです。そして、必死でどうにかしようと考えるのでしょう。即ち、我がことですから。 

 これまで、国は、地方は「人がいない」から、と言って、権力や権限の委譲をして来ませんでした(口実の一つです)。如何に今はそれが本当の「サボり」であったのかがわかります。地方にも人材はいます。「国がモタモタしているなら、自分たちの力で」という町長さんも市長さんも村長さんもいたではありませんか。もちろん全部ではありませんが。もっとも、市町村議員の声があまり報道されていないので、こういう人たちの活動は見えないのですが。

 何でも直接民主主義がいいとは思いませんが、「国民のレベルが反映される」ような政治が、ある程度なされるためには、政治家も国民保険に入るべきであり、一般大衆と同じ国民年金でいいのです。特別待遇がなされているから、親がこんな得な商売はないと自分の子を政治家にしようとするのです。

 普通の生活さえできればいいのです。他の職業と大した違いがないような待遇であっても、政治の世界に入りたいと政治を志す人は、いると思います。現在、高い能力を持っている若者で、「NPO」や「NGO」の世界で頑張っている人がたくさんいるではありませんか。きっとこういう人たちの中から、国政にも、あるいは、市町村、都道府県の政にも、夢を抱く人たちが出てくるものと思います。

 市民運動から「成り上がった」人が、一人くらい失敗しても、個人の資質以外に、それまでずっと国政を私してきた人たちの「漬け」を払わされたという面もあるわけで、市民運動家すべてを「だめだ」というのもおかしなことです。

 とはいえ、国の政に夢を持ち、政治の世界へ入ろうという若者や、己の哲学を(拝金主義や権力がほしいというような輩はごめんですが) 人々に語りかけることのできる若者が、簡単に選挙にうってでることができるのは、いつのことでしょう。

 「投票率85%(たとえばの話です)以下の場合、その選挙は無効である」というような法律ができないものでしょうか。投票率が低くとも、絶対主義国家の100%に較べればまだマシなどとは、もう言っちゃいられません。そうすれば、投票率40%で、そのうちの10%を得たからといって、「偉そうに)政治家である」なんて言える人がいなくなるでしょうし、自分の主張や哲学がコロコロ変わる人もいなくなるでしょう。隣のおじさん、おばさんであれば、皆覚えています。

 どちらにせよ、日本が安全な国ではなくなったことが悲しいのです。
 絶望的な国難に際しているにもかかわらず、好悪とか損得で動いているかに見える政治家を擁している国であると見られていることが悲しいのです。
 何が大切で、何を守らなければならないか、そのために命まで落としている人が、東北地方にはたくさんいたのに、それすらわからず、駆け引きに明け暮れている人々がいることが、そしてその人々が多くマスコミに登場し、日本人がそんな人ばかりであるように外国人に映ることが悲しいのです。

 そういう人々を選んだという私たちは、本当にあの人たちと同じレベルなのでしょうか。悲しい目で彼らを見ながらも「その国の国民は自分たちと同じ程度の政治家しか選べない」という言葉を反芻しています。

日々是好日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする