日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

日本語学校で教える『日本語』の範囲?

2008-11-28 08:01:44 | 日本語の授業
 秋は移り気。一日のうちにゆっくりと晴れから曇り、そして雨へと移っていく。今日は晴れ、明日は雨かというのがなかなか見極められないのです。まるで定めなき人生のようです。

 今日もそうです。出始めに止んでいた雨が、途中から急に強く降り出し、びしょ濡れで学校に着きました。今日、本来ならば、「紅葉狩り」に出かけられたはずなのに、それも延期。一番美しい季節を見ぬまま、冬に突入してしまうのではないかという焦りすら感じてしまいます。

 先日、学生達に「日本庭園」の紹介をするついでに、「紅葉(こうよう)」と「黄葉(こうよう)」、そして「紅葉(もみじ)」についての話をしました。「錦」をいう言葉を使えば、日本人の頭にはすぐに「秋」の山容が浮かびます。中国人も全く同じかというと、そうでもないのです。中国の人とは、同じ漢字を使ってはいても、お互いに勘違いしていることがよくあって、いざ、書き表してみると、何が何だか判らないということも少なくありません。

 上のクラスでは、現在、「日本語能力試験(一級)」に備えて、ヒヤリング・文法・単語などの他に、読み物教材を問題集の中から拾ってやっているのですが、これが難物なのです。一見、漢字が羅列して、中国人は楽だろうと見えるものでも、内容を掴みにくいものがあるのです。

 「一級試験」で、350点近くいくのではないかと思える人でも(まだ勉強し始めて一年経っていない場合)、分野によってはかなり手こずってしまうのです。

 「グラフ」や「表」から、内容を読み取るのは、苦手であるというのは、判っていたのですが(何となれば、そういう教育を受けていない)、日本人の思考回路に対する理解度、或いは、専門とは異なった分野における思考回路の理解度が要求されるような文章になると、手間取ってしまい、変な答えを出してしまうのです。

 彼らの反応から気づいたわけでもないのですが、日本には、いわゆる「良質の『入門書』」が溢れており、その気になれば、学歴の低い者でも、専門家ではない者でも、それを見て勉強できる情況にあるのです。こういう「入門書」は、その道の「一流の人」達によって書かれており(つまり、責任を負える人達)、しかも、それを読む人が大勢いるということは、ある意味では驚くべき事です。

 これは、普通の国では、まず、あり得ないことです。一般大衆はこのような事に関心を持ちませんから、また、持つ習慣もありませんから、こういう本は売れません。商業ベースに乗らないのです。それ故、知識のある人は、象牙の塔に閉じこもり、わけの分からない連中とは断絶した関係になってしまいます。専門的な知識は、エリートだけのものであり、彼らと一般大衆の間には明白な階層分断とでもいうべき亀裂が入っているものなのです。

 日本のように、「一流の人」達が、その道に「疎い人」達のために、このように平易で、しかも「上等」の知識・技能を分け与えるということは、他国ではほとんど見られない現象です。しかも、その道に疎い「一般大衆」も、必要があれば、当たり前のようにそれを読み、知識・技能として生かそうとするのですから。これは、おそらく世界的にも誇っていい日本的な現象でしょう。

 しかし、これが、今、他国から来た学生達を悩ませています。勿論、一年程で「日本語能力試験(一級)」レベルになるには、かなりの能力を必要とすることですから、外国から来た学生すべてがこういう事で悩めるかというと、そういうわけでもありません。ここで言っているのは、能力の高い学生においてということです。

 かれらにしても(いくら能力が高くとも)、母国はそういう情況にありませんから、困ってしまうのです。「日本語」だけじゃないのか…とわけの分からないことを呟いてしまうようなことにもなるのです。勿論、何でも日本語で書かれたものは「日本語テスト」に入ります。いい問題集というのは、「『入門書』レベルである。平易で簡単に書かれているから、理解せよ」と、こう押しつけるものです。

 日本語を学んでいる、せいぜい「能力試験(一級)」レベルの人間から見れば、これはとても難しいことです。同じ日本語であっても、(個人的な差というよりは)科学者には科学者として共通の考え方の回路があり、経済学者には経済学者共通の考え方の回路がある。美術家も然り。文学者もまた然り。なのに、それを理解しなければならないわけですから。

 しかし、これも、まず、一歩ですね。日本語を学んでいるのですから、こういう「関」
を、いくつか越えていかねばならないでしょう、これからも。

 以前、ドイツ人の友人から、
「日本は、ドイツ同様、科学技術の大国である。みんな科学が解ると思っていた。然るに、見たところ、おまえは、カメラでさえ自由に操れない。日本人は『科学』が解らないのに、どうして、日本には『ホンダ』や『ソニー』があるのだ。世界屈指の科学大国と言われているのだ」と言われたことがありました。その時の私の答えはこうでした。
「私のような、『科学音痴』、『技術音痴』の者でも、操れるよう車の技術は開発されたのだ。私のような者が大半だからこそ、これ以上判りやすくて、使いやすいものはないだろうというくらい簡単な技術が開発されたのだ」

そこには、もっとわかりやすく、もっと使いやすくという(「売らんがな」の面もありますが)サービス精神が宿っているのです。

 学問にしてもそうです。学問というものは、結局のところ、みんなのためにあるのです。その共通認識がなければ、だれも応援しません。孤立してしまうだけです。その意味からも、大衆に開放されてしかるべきなのです。日本で学んでいくというのは、こういう精神も学ぶということなのでしょう。

日々是好日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする