日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「段取り」。

2008-11-12 07:38:00 | 日本語の授業
 昨日は、「12月の寒さ」だったそうで、薄着の学生達への「物言い」も説得力を帯びてきます。彼らとて、もう生半可な気持ちでは聞いていられないでしょう、このように寒くなり、「グスン、グスン」が続くようですと。

 日本人だったら、「そいつは、『伊達の薄着』ってもんだ」と、笑って済ましてしまうところですが、相手が「無知」から来る薄着なのですから、始末に負えません。10月の頃には、いわゆる「馬耳東風」「蛙の面に何とやら」という按配でした。

 こういう学生達を見ていると、日本人の「結果から逆に(順繰りに)、『今』と対処しよう」という習性をつくづくと感じます。ただ、季節に関係しますから、これは期間が短く、せいぜい数ヶ月のものなのですが。

 「こういう格好をしていると風邪を引く」、だから、「今は、厚着をしなければならない」というふうに。

 私のように「段取り」が苦手な人間でも、ある程度は「追われるように」します。もうそれは習い覚えた第二の天性のようなものです。

 中国にいる時には、中国人が「計画を立てない」というのに驚きました。準備しないで、その時に「バアッと」やってしまうのです。オリンピックの時ですら、遅々として、少しも進んでいるようには見えませんでした。日本人からすると、どうも落ち着かず、ヤキモキしてしまうのですが、彼らは別に遅いとは思っていなかったようです。「ケセラセラ」なのでしょう。

 彼らと、一緒に何かをしようとする時には、「計画を立てておかねば安心できない」という日本人と、「どうにかなるさ」的な中国人の間で、いろいろなことが問題になったものでした。

 もっとも、日本人だとて、「何事でも計画、計画という『計画魔』」でも、自分の将来の事には至っていい加減で、大して威張れるものではありませんが。視線が短いのです。

 「時代を見る目」を、おそらく教育で重視してこなかったからでしょう。否、避けてきたということかもしれません。「時代を見る目」を養うためには、必ず「誠実に」過去と向き合わねばなりませんから。

 「歴史を学ぶ者」の使命というのは、その時代の人々に「警鐘を鳴らす」ことです。

 「これまでの歴史」と照らし合わせ、「これから起こりうるであろう事」を、人々に告げることです。

 ある意味では「予言者」のようなものなのかもしれません。ですから、予言者につきものの、「孤独」と背中合わせなのです。強くなければ、歴史と、正面から向き合えるものではないでしょう。それほど、「人類」は、また「各民族」は、愚かなことを繰り返してきました。時代に先駆けて、「言葉」を発するわけですから、その人を理解する者など、いるわけがありません。もし、その人が「その時の人々」に理解され、歓迎されたとしたら、もう既に「予言者」ではなくなり、「時代に迎合する者」でしかないわけなのですから。

 けれど、「時代を見据える目」は育てなければなりません。しかし、これを培うことは難しい。簡単にできることではありません。歴史学者たりとも、眼前の研究対象に夢中になり、「人類に対する『本来の使命』」を忘れがちになってしまうくらいですから。

 これからは、専門家に期待するのではなく、個々人が、子供の時からそういう教育を受けるべきなのでしょう。

 子供は子供なりに、「『今を見る。過去を見る。そして、将来を見る。未来を見る』ことが出来る」ような教育が必要となっているのかもしれません。

日々是好日
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