小雨。
昨日、ちょうど帰りに大粒の雨に降られてしまいました。「来た、来た」と大慌てで自転車を走らせて戻ったのですが、着くともう小降りになっています。こんなことならスーパーに寄るのであったと、プンプンしながらうちに入ったのですが。
もっとも、ずぶ濡れにならずにすんだだけましだったのかもしれません。いつぞやは、学校に来る途中、やられましたもの。着いた時はグッショリ、濡れ鼠でした。本当に僅かの距離ですのに、雨の威力たるや、ものすごいものです。
あれ、ここまで書いて気がつきました。急に小鳥たちの声が喧しくなっています。すぐに雨が止むのでしょう。
さて、学校です。
『初級Ⅰ』のクラスでは、机の最前列から最後列に至るにしたがって(四列しかないのですが)、学生達の声が小さくなるという、お決まりの現象が起きています。これが、同じ『初級』でも、2冊目に入っていますと、「眠い人は後ろへ」と言えるのですが、まだ、「形容詞」が入ったばかりという四月生には、それはできません。
それに、日本語が殆ど話せない彼等は、アルバイトなんてありませんもの。ただ単に勉強する習慣がない、あるいはする気がないだけで、私たちが、「こんなに眠いのに、よく来た」と言いたくなるような、ある種の学生の状況とは違うのです。
宿題も、やらない。もっとも、これは、「これまで(母国で)そういうものをやったことがないから、やらなければならない」という「気持ち」がないからなのでしょう。ディクテーションにしても、こちらが見て訂正した後、ノートを返す時に、「間違えてあるところをもう一回書きなさい」と言っても、そういうことをしたことがなければ、そんなことを言われているなんて想像もつかないのでしょう。
日本では小学校の時に、少しずつこういう習慣がつけられていきます。ですから、全く言葉がわからない国にいっても、教室で、こういう状況であったら、「おそらく、こんなことを言われているのだろう」と察することができると思うのですが、彼等はそうではないのです。
もちろん、言われなくても、すぐにノートを見てチェックする学生はいます。けれども、それは、彼一人だけのことで、教育の一環としてそういうことがなされているわけではないようです。
もっとも、日本の学校に於いても、皆が皆、同じことをしなければならなかったというわけではありません。
若い教員と話して、中学校に入っても、担任が当日の持ち物検査をしていたと聞き、「へっ?」。私たちのところでは、それは、各担当教員の問題で、担任がすることではありませんでした。まあ、授業が始まる前に、その授業の教科書やノートなどを出しておかなければなりませんでしたが。
日本語学校に来る学生達の多くは、最初、午前であれ、午後であれ、学校に着くと、そのまま、何もせずに椅子に腰かけています。机の上にはまだ何も出していません。つまり、始まる前に、来たらすぐ、教科書やノート、鉛筆や消しゴムなどを机の上に出しておくという習慣がない人たちが多いのです。
教室に行ったらすぐに、「机の上に教科書を出しておきなさい」と、初めのころは言っていたのですが、そうすると、教科書だけ出すのです。で、ノートも鉛筆も出さない…。「全部出せ」と言っても、「全部とは何かいな」くらいのもので、ピンとは来ない。
それでも、毎日きちんと学校に通ってくるうちに、少しずつわかってくるようなのですが、そうではない人たちは、いつまで経っても、この「学校に来たら、すぐに教科書やノートなどを机の上に置く」ということができないのです。日本の会社に入れても、次を考えて行動することができなければ、使い物にならない人と思われてしまうのではないかと、…それを言っても、わからない…。
もっとも、四月生は、四月に来たばかり、やっと一ヶ月ほどが経ったばかりですから、今まだ、準備できるのは、せいぜい教科書一冊くらいのもの(もう、毎日使うモノを覚えてよと言いたくなるのですが、それもグッと堪えて)。「単語の本」と言うと、慌ててカバンからそれを出す。「鉛筆」と言うと、今度は、また鉛筆を探す…。「全部机の上に置いておけよなあ」とため息をつくのですが、国での習慣というのはなかなか変えられないのです。
けれども、そういう学生達を見ていると、日本のやり方の方が特殊なのかもしれないなという気がしてきます。「すぐに次の作業ができるように。時間を節約できるように。タラタラしない」と、効率ばかり追求している…ような気がするのです。
彼等は、一つ終わると、隣の人とペチャクチャおしゃべりをし、あちらこちらを見、また一つ終わるとペチャクチャとおしゃべりし、周りを見る、非効率この上ない…ことはそうなのですが。けれども、彼等は、別に、大学に入りたいのでも、いい専門学校に入りたいのでもないのでしょう。適当に日本語学校で2年、専門学校で2年、それが終わってそれなりに日本語が聞いて判る程度になったなら、どこか友達が勤めているところに引いてもらえれば、それでいい。あるいは帰国するかもしれない。
だったら、こちらがそれほどシャカリキになって、勉強させようとしないほうがいいのかもしれない。慣れないことをさせられる彼等は、被害者になったような気がするでしょうし。
もっとも、『初級Ⅰ』は、だれでも、楽に楽しめて、それで終われるようなレベルですから、それでもいいのですが。
ただ、大半の学生達の来日の目的は、日本の会社で働くことですから、そのためにも、ある程度は考え方を改めてもらわなければならないところもあるのです。
日々是好日
昨日、ちょうど帰りに大粒の雨に降られてしまいました。「来た、来た」と大慌てで自転車を走らせて戻ったのですが、着くともう小降りになっています。こんなことならスーパーに寄るのであったと、プンプンしながらうちに入ったのですが。
もっとも、ずぶ濡れにならずにすんだだけましだったのかもしれません。いつぞやは、学校に来る途中、やられましたもの。着いた時はグッショリ、濡れ鼠でした。本当に僅かの距離ですのに、雨の威力たるや、ものすごいものです。
あれ、ここまで書いて気がつきました。急に小鳥たちの声が喧しくなっています。すぐに雨が止むのでしょう。
さて、学校です。
『初級Ⅰ』のクラスでは、机の最前列から最後列に至るにしたがって(四列しかないのですが)、学生達の声が小さくなるという、お決まりの現象が起きています。これが、同じ『初級』でも、2冊目に入っていますと、「眠い人は後ろへ」と言えるのですが、まだ、「形容詞」が入ったばかりという四月生には、それはできません。
それに、日本語が殆ど話せない彼等は、アルバイトなんてありませんもの。ただ単に勉強する習慣がない、あるいはする気がないだけで、私たちが、「こんなに眠いのに、よく来た」と言いたくなるような、ある種の学生の状況とは違うのです。
宿題も、やらない。もっとも、これは、「これまで(母国で)そういうものをやったことがないから、やらなければならない」という「気持ち」がないからなのでしょう。ディクテーションにしても、こちらが見て訂正した後、ノートを返す時に、「間違えてあるところをもう一回書きなさい」と言っても、そういうことをしたことがなければ、そんなことを言われているなんて想像もつかないのでしょう。
日本では小学校の時に、少しずつこういう習慣がつけられていきます。ですから、全く言葉がわからない国にいっても、教室で、こういう状況であったら、「おそらく、こんなことを言われているのだろう」と察することができると思うのですが、彼等はそうではないのです。
もちろん、言われなくても、すぐにノートを見てチェックする学生はいます。けれども、それは、彼一人だけのことで、教育の一環としてそういうことがなされているわけではないようです。
もっとも、日本の学校に於いても、皆が皆、同じことをしなければならなかったというわけではありません。
若い教員と話して、中学校に入っても、担任が当日の持ち物検査をしていたと聞き、「へっ?」。私たちのところでは、それは、各担当教員の問題で、担任がすることではありませんでした。まあ、授業が始まる前に、その授業の教科書やノートなどを出しておかなければなりませんでしたが。
日本語学校に来る学生達の多くは、最初、午前であれ、午後であれ、学校に着くと、そのまま、何もせずに椅子に腰かけています。机の上にはまだ何も出していません。つまり、始まる前に、来たらすぐ、教科書やノート、鉛筆や消しゴムなどを机の上に出しておくという習慣がない人たちが多いのです。
教室に行ったらすぐに、「机の上に教科書を出しておきなさい」と、初めのころは言っていたのですが、そうすると、教科書だけ出すのです。で、ノートも鉛筆も出さない…。「全部出せ」と言っても、「全部とは何かいな」くらいのもので、ピンとは来ない。
それでも、毎日きちんと学校に通ってくるうちに、少しずつわかってくるようなのですが、そうではない人たちは、いつまで経っても、この「学校に来たら、すぐに教科書やノートなどを机の上に置く」ということができないのです。日本の会社に入れても、次を考えて行動することができなければ、使い物にならない人と思われてしまうのではないかと、…それを言っても、わからない…。
もっとも、四月生は、四月に来たばかり、やっと一ヶ月ほどが経ったばかりですから、今まだ、準備できるのは、せいぜい教科書一冊くらいのもの(もう、毎日使うモノを覚えてよと言いたくなるのですが、それもグッと堪えて)。「単語の本」と言うと、慌ててカバンからそれを出す。「鉛筆」と言うと、今度は、また鉛筆を探す…。「全部机の上に置いておけよなあ」とため息をつくのですが、国での習慣というのはなかなか変えられないのです。
けれども、そういう学生達を見ていると、日本のやり方の方が特殊なのかもしれないなという気がしてきます。「すぐに次の作業ができるように。時間を節約できるように。タラタラしない」と、効率ばかり追求している…ような気がするのです。
彼等は、一つ終わると、隣の人とペチャクチャおしゃべりをし、あちらこちらを見、また一つ終わるとペチャクチャとおしゃべりし、周りを見る、非効率この上ない…ことはそうなのですが。けれども、彼等は、別に、大学に入りたいのでも、いい専門学校に入りたいのでもないのでしょう。適当に日本語学校で2年、専門学校で2年、それが終わってそれなりに日本語が聞いて判る程度になったなら、どこか友達が勤めているところに引いてもらえれば、それでいい。あるいは帰国するかもしれない。
だったら、こちらがそれほどシャカリキになって、勉強させようとしないほうがいいのかもしれない。慣れないことをさせられる彼等は、被害者になったような気がするでしょうし。
もっとも、『初級Ⅰ』は、だれでも、楽に楽しめて、それで終われるようなレベルですから、それでもいいのですが。
ただ、大半の学生達の来日の目的は、日本の会社で働くことですから、そのためにも、ある程度は考え方を改めてもらわなければならないところもあるのです。
日々是好日