拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

実は可憐じゃなかった上から2段目(フィデリオ)

2020-01-16 09:31:26 | 音楽
今回のミサソレ通唱会で至らなかったことばかりの主宰者の私だが(皆様の助けがあっていい会となりました)、一つ、自分を褒めてあげたいのはフィデリオの配役。何人かの方からどこを歌ったらいい?と聞かれたのでその方をイメージして割り振ったのがどんぴしゃ。レオノーレとマルツェリーネのB♭が重なった瞬間、私は世界一幸せだった。ところで、レオネーレは男装して牢獄に侵入し、無実の罪で投獄されていた夫の救出に成功する愛と力を兼ね備えた女性。まるで、ジェンティルドンナはたまたリスグラシューのよう。対して、マルツェリーネ(皆さんが「上から2段目」と言ってた役)は……私、可憐な役と書いたけど、たしかにベートーヴェンが与えた音符は可憐だけれど、その人物はどうだろう。彼女にはヤキーノという婚約者がいた。だが、男装したレオノーレを男だと信じてこちらを好きになる。その際のヤキーノに対する態度の冷たいことといったら。と、書くと、世のご婦人は「そんなの当たり前よ」「えー!?男は一途なんだよ」「馬鹿なだけよ」っておっしゃるかも知れない。まさにこういう会話がマルツェリーネとヤキーノの間で交わされるのである。でも、夫の救出に成功したレオノーレが女だったと分かるとケロッとしてヤキーノに戻る。最後の歓喜の合唱ではマルツェリーネはちゃっかりヤキーノと抱き合っている。なんだこれ?って感じである。ベートーヴェンの理想像はレオノーレのような女性だった。だから、モーツァルトのコシ・ファン・トゥッテ(二つのカップルがあって、男が変装して互いの彼女じゃない方にアタックして落ちるかどうか賭けをする。結局、二女性とも落ちる)の不道徳さに我慢ならなかった。レオノーレみたいな人がいるわけない(?)からベートーヴェンはずっと独身だった。そんな大先生はマルツェリーネのパートをどういう気持ちで書いたんだろう。待てよ。最初に私が「マルツェリーネは可憐」と書いたのは、この役を得意にしていたルチア・ポップのイメージだったのかもしれない。ルチア・ポップは可憐である。だが、男関係は相当派手だった(カルロス・クライバーも手玉にとられた)。おおっ、だからなおさらマルツェリーネが得意だったのか(ガッテン!)。そこへいくと、昨夜酔っ払いながら見た映像でマルツェリーネを歌ってたオリベラ・ミリャコヴィチなどはかなり歳がいった感じでイメージが随分違う。だが、ヤキーノも老けてたから、これはこれでシニアの男女の痴話げんかだと思えば現実感がある。とにかく、何事においてもすぐ影響を受ける私である。テレビで昆布がいいと聞くと昆布ばかり食べてる私である。今回の通唱会で夫婦愛賛歌にどっぷり浸ってパートナーが欲しくなった。フライブルク付近の山の上にあるザンクト・ペーターという農村に一緒に旅してもいいという人を期間限定(すぐ気が変わるから)の大募集!(冗談……だが、St.Peterにもう一度行きたいのは本当である)一つ言っとかないと。フィデリオの役をその方のイメージで割り振ったと書いたけれど、もちろん声のイメージで割り振ったのであって、決して、男を手玉にとりそうだとか、別れるときにけちょんけちょんに言いそうだとか、そういうことを考えたのではござりませぬ。そもそもそういうことは知らないし、私の知ってるお友達はみんな優しい方々ばかりだし(必死のフォロー)。