拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

魔法の笛・卒歌宣言

2020-01-18 11:26:48 | 音楽
一昨日の飲み会で料理を切り分けてたら女子力が高いと言われた。褒め言葉である。某女史は、これも切れと言わんばかりに別の皿を「ほれ」と言って手渡してくれた。自らの存在価値を確認して萌えた私である(それと引き換え、A合唱団で練習後に会場のモップがけをしていたら、某おばさまが私がやりますと言って私からモップを奪おうとした。私の人格を損ないかねないお申出である。手放してなるものかと私はモップを死守した)。さて。月曜日のミサソレ通唱会では全体での練習時間を1時間ほどとったのだが、私のクラリネットはこの練習のときはほぼ完璧だった。しかし、私もリードもここで精根尽きて本番はぼろぼろ。「ペース配分」も実力のうち。まだまだである。オペラ歌手も本番直前のリハではオクターブ下げたりして本気では歌わない。ただ、まれに熱血漢がいて、ゲネプロで本気でばりばり歌って本番をキャンセルしたヘルデンテナーがいた。すると私も熱血漢か。女子力の高い熱血漢の酔っ払いである(おまけに腕力も強い)。まあ、私の出来はそんなもんだったが、ミサソレ通唱会の木管全体は素晴らしかった。そう言えば、初めて生のホールでベートーヴェンの交響曲を聴いたときは、それまでレコードで聴いていたのと違って木管の分厚い和音にびっくりしたものだが、会場に通うにつれだんだんそっちが普通になってきて(レコードは録音技師の調整が入る)、例えば、第九をサントリーホールの舞台真横で聴いたときなどは、第三楽章の例のヴァイオリンの細かいパッセージが遠くの彼方で聞こえる反面、木管がすぐそこで分厚いハーモニーを作り出している。それを聴いていて、揺りかごにに揺られているような幸福感につつまれたものだ。私は10代でばりばり吹いていたときより今の方がクラリネットが好きである。(他の管楽器もそうだが)口から出た息が黒い管を通ってあの綺麗な楽音となって出てくる様は、まさに「魔法の笛」である。ヴァイオリンも、去年再開したときはあまりの腕のにぶりように愕然としたが、練習曲を弾いてるうちにかなり戻って来た。てなわけで、強烈に楽器に回帰している私である。その反面、歌は自信を喪失する一方。だからここに宣言する。私、これからは楽器をやる。歌は趣味程度に止める……まてよ。これまでも、歌は趣味だ(楽器も)。だったら、別に何も変わることはなかった(しゃん、しゃん)。