写真①:「みあけ史跡公園 鹿部田渕遺跡」(向こうの建物は「鹿部保育所」)
=古賀市美明2丁目で、2011年11月27日午前11時5分撮影
〈古賀・町歩きスポット〉 4
:「みあけ史跡公園」
古賀市美明(みあけ)2丁目の「みあけ史跡公園」=写真①=は、JR「ししぶ駅」近くの市立「鹿部(ししぶ)保育所」そばにあります。古代・大和朝廷の直轄地を管理する「ミヤケ」の可能性がある「鹿部田渕遺跡」を公園化したものです。
平成11年(1999年)、古賀市鹿部土地区画整理事業による発掘調査の結果、「鹿部田渕遺跡」からは、6世紀中頃から7世紀初め頃まで使われた大型の建物群=写真②=が見つかり、注目されました。平成14年には、東の区画溝も確認され、東西を溝で区画した空間の内部に倉庫や作業などに使われた大型の建物4棟をL字状に配置されていることが判明。一般的な古代集落とは大きく異なっており、奈良時代の地方官衙(かんが=役所)と似た特徴を持つ公的な性格の施設と推定されています。
写真②:「鹿部田渕遺跡」の大型の建物4棟を図示した「みあけ史跡公園案内」
=「みあけ史跡公園」で、27日撮影
奈良時代の歴史書・『日本書紀』の〈磐井(いわい)の乱〉の記述には、継体天皇22年(528年)に北部九州の有力者・筑紫君磐井(つくしのきみいわい)が大和朝廷に敗れ、磐井の子の葛子(くずこ)が〈糟谷屯倉(かすやみやけ)〉を献上したとあります。葛子は、筑紫君の本拠地である八女地方ではなく、玄界灘に面した糟谷を「ミヤケ」として献上したのは、大和朝廷が東アジアとの外交を統一するため、筑紫君の海上交通の拠点(港)を献上させたためと考えられています。「鹿部田渕遺跡」の大型建物群は、玄界灘沿岸の糟谷地域に存在した〈糟谷屯倉〉と同時期の遺跡であることから、その候補地に挙げられています。
「鹿部田渕遺跡」からは、弥生土器や土師器、須惠器、赤焼土器、白磁、青磁など弥生時代から中世(16世紀)までの土器が、数多く見つかっています=写真③=。このほか、石製の舟、勾玉などの祭祀具、装飾品の玉類、漁業用のおもり、農業で使う石包丁、石斧などの石製品、中世の銅銭なども出土しています。
写真③:「鹿部田渕遺跡」から見つかった土器や須惠器などの解説表示・「出土品のはなし」
=「みあけ史跡公園」で、27日撮影
東の区画溝が見つかった「鹿部田渕遺跡」の駐車場そばには、「鹿部田渕遺跡想像復元図」のイラスト画=写真④=が掲示されていました。
写真④:古代の様子を分りやすく描いたイラスト画「鹿部田渕遺跡想像復元図」
=「みあけ史跡公園」で、27日撮影
イラスト画は全部で8つあり、「古賀を空から見たら」と題した作品=写真⑤=は、「鹿部田渕遺跡」が位置する丘陵地の北を流れる花鶴川や、玄界灘に浮かぶ相島(福岡県新宮町)、筑前大島と沖ノ島(以上宗像市)、志賀島(福岡市)も描かれ、古代・筑紫へのロマンをかきたてられます。
写真⑤:「古賀を空から見たら」のイラスト画
=「みあけ史跡公園」で、27日撮影
古賀市・「みあけ史跡公園」位置図