吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2012年2月19日/〈日記〉455・「象使い」の唐子を描いた津屋崎人形

2012-02-19 07:45:56 | 日記

 

 

写真①:象使いの唐子を描いた津屋崎人形の写真

=福津市津屋崎3丁目の「筑前津屋崎人形巧房」で、2011年10月24日撮影

 

象使いの唐子(からこ)を描いた珍しい津屋崎人形が、あることを知りました。福岡県直方市から福津市・〈津屋崎千軒〉の町歩きに来られたご夫婦の観光ガイドをした2011年10月24日津屋崎3丁目の「筑前津屋崎人形巧房」(原田誠当主)を訪れた際、アルバムに収録されていたカラー写真を撮影させていただきました=写真①=。同人形巧房のお話では、型が保存されており、注文生産で作る大型の人形という。

 

唐子は、中国風の服装や髪形をした子供、また、その姿をいい、唐子の姿をした人形を「唐子人形」といいます。また、唐人(韓人)は、古くは「からひと」といい、中国、または朝鮮の人のことです。江戸時代初期の慶長12年(1607年)から同後期の文化8年(1811年)まで12回にわたり、朝鮮李王朝の使者・「朝鮮通信使」が日本の信頼を得るため国書(信書)を持って来日、徳川将軍からの返書を持ち帰っています。使者の一行は、3百人から5百人で、福岡藩主は玄界灘の相島(福岡県新宮町)に寄港した使節団を接待するため、津屋崎浜(福津市津屋崎)から船に乗って出迎えに向かっていました。

 

「朝鮮通信使」の一行の接待のため、福岡藩は相島に客館=写真②=を毎回新築し、食糧の猪や鹿は立花山(新宮町)、能古島(福岡市)、津屋崎の渡山(わたりやま)で獲っていました。「朝鮮通信使」の来日のたびに、津屋崎浦の領民は藩主の相島への渡海船の漕ぎ手や荷物の運送などの水夫役、鯛を中心とした魚の提供など相当な迷惑を被ったという。

 

 

写真②:相島(福岡県新宮町)の畑に立てられた「朝鮮通信使客館図」(吉村青春著『津屋崎学』から)

 

ただ、「朝鮮通信使」の一行には書や漢詩に詳しい文化人や舞踊・楽曲を披露する芸能人も含まれ、日本各地で文化交流も行われ、異国の装束に身を固めた使節団の行列を見る人だかりができたほど。津屋崎人形は、18世紀の江戸時代中期から作られており、「朝鮮通信使」一行の唐子姿を描いた「唐子人形」の作品を生んだのも当然の流れでしょう。2011年2月、兵庫県たつの市立室津海駅館で開かれた「朝鮮通信使ゆかりの人形展」では、この「象使い」の津屋崎人形が展示されています。

 

江戸時代中期の享保14年(1729年)、清(中国)の商人がベトナムから入ってきた象を八代将軍徳川吉宗への献上品として長崎から江戸まで送っています。象は「象使い」と長崎街道を歩き、福岡県飯塚市も通っています。「筑前津屋崎人形巧房」は、江戸時代中期の安永6年(1777年)が起源ですが、珍しい「象使い」の姿は筑豊から津屋崎にも当時の絵画などから伝わったのかもしれません。今月18日、同人形巧房を訪ねた際、原田誠・7代目当主は「唐子人形の型は、『象使い』のほかにも二つ伝わっています」と話されていました。「朝鮮通信使」や「象使い」の唐子人形――津屋崎人形にまつわる歴史や文化のエピソードを知るのも楽しいものです。

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