prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ライフ・イズ・コメディ! ピーター・セラーズの愛し方」

2005年02月22日 | 映画
ジェフリー・ラッシュはピーター・セラーズにあまり似ていないが、素顔のセラーズは見ているこっちにはわからないし、もともと“素顔”のない男として描くのが狙いだから、それほど問題にはならない。

ラッシュがセラーズが演じたさまざまな顔をさらに演じていくと、まるで逃げ水のように“実像”が逃げていく。
しまいにはセラーズの両親など周囲の人間まで演じて、セラーズについてのコメントを発したりする。虚実皮膜ならぬ虚虚皮膜の間という感じで、これだけ凝って演じるのだったら、逆にラッシュその人までさらけ出してよかったのではないか。

私はクライマックスに置かれている「チャンス」being thereを映画化される前に原作(イエールジ・コジンスキー)を読んでいたが、映画化できるとはまったく思わなかった。生まれた時から一つの屋敷から出たことがなく、外界はテレビを通じてしか知らない男の役など誰がやるのかと思う。だから映画化されたのにも驚いたが、その出来映えにはもっと驚いた。
畢生の名演、というか、演技がまったく見えない演技です。

脱線するが、この男のモデルは作者のコジンスキー自身。金持ちの未亡人と結婚していた時期、テレビを見る以外何もしていなかった生活を元にしたという。
こういうウソみたいなホントってあるのだね。

さらに余談だが、セラーズはやらせドキュメンタリーの元祖であるところの「民族の祭典」ほかのレニ・リーフェンシュタールが批判の嵐を浴びていた時に擁護する立場をとったことがある。ウソが好きなのか。

全体とすると、表面的な印象。
一番人工的なストレンジラブ博士の役を借りて母親に思うところをぶちまけるシーンが、逆に一番本音が出ていたみたい。

ソフィア・ローレンやスタンリー・キューブリックがまるで似ていないのは、ちと興醒め。
(☆☆☆)


「サスペクト・ゼロ」

2005年02月22日 | 映画
ジョン・ソールの「暗い森の少女」あたりと同様に、殺人者の犯行を見てしまう超能力者の苦悩と悲劇を描いているのだが、困るのはそれをまた超能力者の捜査官の眼を通して描いているので随分とまわりくどいものになっていて、ベン・キングスレーをもってしても十分に表現できたとはいえない。
テレパシーで見ている人間と見られている情景とのカットバックと普通のカットバックとの見分けがつきにくいので、誰がどこで何しているのかわかりにくい。ストーリーの都合上伏せているところがあるので、なおのこと。

クライマックスの荒野に音楽がちらっとインディアン調になるのは、呪術にでも使うのか石を螺旋状に並べてある真ん中に格闘した直後の二人がいるのを俯瞰で撮ったカット(全然石の並びが乱れていないのは変)からしても精神世界つながりだろうか。
(☆☆☆)

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