prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「女子高生に殺されたい」

2022年04月24日 | 映画
自分の死に方は自分で決めたいというもっともらしいけれど、とんでもなく変態的ではた迷惑でもある欲望を妙に冷静に計画的に進めていくのと、主に元カノが軸になってそれを阻止しようとするのと、偶然で計画が狂うのと同時に捌くのが芸の域に入ってきている。

窓の外に赤と青の二つの風船がペアのように浮かんできて止まり、片方が自然に割れるともう片方がそのまま上昇して見えなくなるのが、窓の中の元カノ元カレ同士の男女の関係のメタファーになっている。
どうやって片方だけ割ったかな。

エンドタイトル後に原作者古谷兎丸によるペンタブレットによる作画の映像が見られる。
劇場用特別映像というけれど、DVDに収録されないのだろうか。ちょっと考えにくいのだが。

「アイ⋅ラヴ⋅ユー」

2022年04月23日 | 映画
1999年の日本映画で、本当の聴覚障害者である忍足亜希子がろう者の役をやっている。(マーリー・マトリン主演「愛は静けさの中に」は1987年)
「ボクちゃんの戦争」などの大澤豊監督と共同でやはり聴覚障害者の日本ろう者劇団主催の米内山(よないやま)明宏が共同で監督。

ろう者だけの劇団に参加して「美女と野獣」(ディズニーアニメ版は1991年)を上演する大筋を縦糸に、手話ができる聴者の夫と娘との関係、同じ障害者でも遺伝性のと途中から聴力を失うの、教育を聴者と一緒に受けるのとそうでないの、さまざまな問題を盛り込んでいる。

マジメ映画なのだけれど、ヒロインや娘役の岡崎愛に魅力があるので自然に見ていられた。
芝居に本筋を取り込んでクライマックスの趣向もうまくいっている。

拍手を意味する手をひらひらさせる手話は先日のアカデミー賞授賞式で見られたけれど、ここですでに登場している。

(ろうと平仮名で書くのも、障碍者と書き換えるのもどうもしっくりこないのだが)
写真の手話は「アイ・ラヴ・ユー」の意味。「グワシ」ではありません。




「ハッチング 孵化」

2022年04月22日 | 映画
フィンランドの、森に囲まれた、どの部屋にも小綺麗な花柄などの壁紙が貼ってある、おもちゃのような家のヴィジュアルが、すでにここに住む一家の母親がしきりと演出してネットで世界に発信し続ける完璧に幸福な家庭像そのまんま。

もちろんそんなわざとらしい完璧に幸福な家などありえず、カラスが突然部屋に乱入して部屋中のガラスや陶器の家具を壊してまわる冒頭からして、そんな家庭像、特に母親と体操選手として期待をかけられている12歳の娘との関係の裏にある脆さと暴力性を典型的に画にしている。

娘役のシーリ⋅ソラリンナが未成熟な肢体で体操の練習をする姿が脆さや痛々しさを抱えたまま母親の期待に応えようとするムリをこれまたわかりやすく表す。

母親に殺されたカラスは生ゴミとして捨てられるが、それが象徴するものはもちろん消えず、娘は森から奇妙な鳥の卵を拾ってきてこっそり育てる。
そして生まれた奇怪な鳥が成長するに従って姿がまさに娘の隠されたオブセッションそのものになっていく。

象徴やメタファーというより、ずばり心の内のまがまがしい部分をずばり具体的なモノとして表現しているのがわかりやすく、グロテスクで、力がある。

生まれてきた「それ」が、娘が吐いたゲロを食べて育つというただグロいだけでなく、鳥の習性(ペリットとか)に近い不気味さ。

母親役のソフィア⋅ヘイッキラがヘアメイク完璧でカメラの前に立つ時と、娘の前のエゴ丸出しの顔、娘周辺の怪異を見た時の思いきりグロテスクに歪んだ顔と七変化的にコワい。

比較すると姉の変貌に気づいて親に知らせても無視される弟、ろくすっぽ気づきもしないどころか蚊帳の外に置かれている父親と、男家族は影が薄い。
外部の乳呑み子を抱えた男やもめは男でも娘の変貌や異変に気づく。

おそらく監督は女だろうと思っていたら、案の定。
86分という上映時間もグッド。

「レディ・マクベス」

2022年04月21日 | 映画
タイトルがタイトルだから(原題もLady Macbeth)シェイクスピアの「マクベス」のマクベス夫人の若いころの話だと思って見ていたら(「カッコーの巣の上で」の看護師長マチェットの若いころを独立したドラマにして「マチェット」みたいな)、今まで夫がマクベスだと思っていたキャラクターがアレクサンダーという名前からして違うらしいと気づいて当惑した。

マクベスというのは一種の象徴的な意味で使われているので、マクベスの前日談というわけではないとやっと気づいた。紛らわしい。

横暴な夫と義父に差別され卑しめられ、肌の浅黒い使用人と密通するようになり、ついには人を死に追いやることになる。

もとのマクベスの上演もマクベス夫人を悪女⋅毒婦として描くのが減ってもう少し誰にでもありそうなこととして描くのが増えているせいもあって、これとマクベスくっつけるのはやや不自然に思った。

19世紀くらいのクラシックなイギリス風のお屋敷を舞台にして、使用人も黒人が目立つのが目新しい。

フローレンス⋅ピューの初主演作だというが、すでに堂々たる貫禄。




「スパークス·ブラザーズ」

2022年04月20日 | 映画
「アネット」の音楽を担当したスパークス·ブラザーズ、というより、「Tommy トミー」がザ⋅フーの特にピート⋅タウンゼント作による劇音楽が先にあったように、スパークス·ブラザーズの音楽が先にあってそれを映画化したというのが正確らしい。

40年以上のキャリアにわたるおそらく膨大な映像を手際よく変遷ぶりがよくわかるように、しかも音楽的に編集している。
ちょび髭を生やして不愛想でいる弟のロンはキートンとチャップリンを足して二で割ったみたい。
なんともいえずユーモラスでリラックスした雰囲気だが、内実がのんきなものではないのは、普段から無駄遣いせず経済的に苦しい時期を乗り切ったあたりも描かれる。

原作・工藤かずや、作画・池上遼一による日本の漫画「舞 Mai」のティム・バートンによる映画化にたずさわる予定だったのが流れてしまい、すごくがっかりしたという。劇音楽志向というのはかなり前からあったと思しい。
池上遼一の画がスクリーンに拡大されて見られる。





「すばらしき映画音楽たち」

2022年04月19日 | 映画
映画だから描ける映画音楽のすばらしさ。

映画を見ている時の観客の視点は自分で勝手に動かしているようで実は操作されているという指摘。

20世紀フォックスの会社ロゴにかかるファンファーレがサミュエル・ゴールドウインに却下されてダリル・F・ザナックに採用されたものだという話。

実際の映画の抜粋とと共に音楽が流れて、時代の変遷に従ってどれだけ音楽が変化してきたかよくわかる。
音楽が映える映画の抜粋というのは、ほぼ全部さわりというかサビの部分だからそこだけ見ても感動したりする。

効果音やセリフと音楽とどうシーンによって配分を変えバランスをとるかといった作業も見てみたくなった。


ディズニーの製作担当がビジネスの複雑さがコストを押し上げているとぼやく。

あちらは予算が潤沢だから余裕あるかといったら全然そんなことないらしい。





「余命10年」

2022年04月18日 | 映画
生きている人間の側から余命短い人間を見ているだけでなく、生きているけれど命を大事にしない、生の実感のない青年と対比と思わせない配置で平行して描いているのが、死病で泣かせる映画の臭みを感じさせないスマートな処理。

冒頭から繰り返される桜吹雪の超スローモーションの映像が、はかなく散るかのような命を果てしなく引き延ばし体感するのをそのまま画にしている。





「廃棄の城」

2022年04月17日 | 映画
「藍色夏恋」の易智言 (イー・ツーイェン)監督初の3DCGアニメ。
レジ袋や使い切ったスプレー缶などのゴミたちがキャラクターとして登場するが、モノそのまんまで特に擬人化はしていない。
それでいてレジ袋の二つの持ち手が下にくると脚のように、上にくると腕のように見えたりする。
唯一の人間型のキャラクターが悪役というのがアイロニカル。

もともと初めからアニメにするつもりだったわけではなく、製作を開始してからゴミがキャラクターとして機能するからというのでアニメにしたという。

苛められっ子で自信を持てず自分をゴミのように思っている少年が本当のゴミが生きている世界に入り込んで、葛藤の末、自分はゴミではないと肯定して戻ってくる。
途中でゴミたちに対しておまえたちは(おそらく自分も)ただのゴミじゃないかと毒づくのがいかにもありそう。

台湾文化センターによる無料(太っ腹)配信によるイベント。
配信のあとに江口洋子(台湾映画コーディネーター)氏による、女優出身のプロデューサー・李烈(リー・リエ、声の出演もしている)と監督の企画開発のプロセスなどの解説あり。
脚本のコンペなんていうのがあるのね。




「東京自転車節」

2022年04月16日 | 映画
ウーバーで実際に働いた人が監督。ジャーナリストが現場に潜入して実際に働いて取材と生計を立てるのを両立させる(古典的な例では鎌田慧の「自動車絶望工場」)のに近いが、その生計を立てるのが本当に大変。まともな「仕事」ともいえない。
実働時間と報酬がいちいち字幕で出るのが生々しい。
当然のように実働時間がゼロなら報酬もゼロなのだが、ゼロというのが本当に恐ろしい。
実働十四時間なんてのが平気で出てくる。

しかし本当に映像=映画はどんな境遇の人でも発信できるツールになった。

主題歌が祭でよく使う「月がー出た出た、月が出た」の替え歌なのがやけっぱちみたいと思ったが、考えてみると「炭坑節」自体過酷な労働と労働争議と馘首で有名(去るも地獄、残るも地獄、と言われた)な三池炭鉱の歌ですからね、つながっているわけ。

コロナ禍の狭い部屋でフィットネスやっているのが悪いのだけれど笑ってしまう。

緊急事態宣言下の人が本当にいなくなった新宿の街が見られる。
今だと良くも悪くも人出が戻ってしまっているので、貴重な映像。

政府の発する「新しい日常」とかいったコトバがいちいち何をぬかしているのかいった神経にさわる。
おばあさんが唐突に出てきて空襲で焼け野原になった東京を語るのに合わせて「2020年の東京も焼け野原だ」と字幕に出るが、2022年も焼け跡は一向に復興してない。




「SING シング ネクストステージ」

2022年04月15日 | 映画
前作のメンバーが今度はラスベガスみたいなショービジネスの本場でショーをうつ話。

それぞれのキャラクターの歌はもちろんだが、踊りをどうやって3DCGアニメで表現しているのだろうと思う。
生身のダンサーにモーションキャプチャーをつけたりしているのか、とにかくキャラクターに重力がちゃんと働いている感じがする。
アニメなのだからそれこそ空を飛んだっていいのだが、文字通り板についていて、本物のショーに近い感じ。

ただ二作目にありがちなのだけれど、前作から引き継いだキャラクターと新キャラクターとがせめぎあってどちらも書き込み不足気味。

日本語吹替版の方が上映回が多いので時間の関係でそちらの方で見たのだが、歌は吹替だがディズニーみたいに文字まで日本語にするところまでいかない、通常の実写映画の日本語吹替版に近い作り。
これくらいでいい。前作に続いて吹替の出来が良く、ミュージカル(既成曲を使うジュークボックス・ミュージカルというらしい)仕立てだが歌唱が違和感ないのは日本もずいぶんミュージカルが浸透したものだと思う。





「夜叉ヶ池」

2022年04月14日 | 映画
ずいぶん前にテレビで見ていて、これはちょっと、と思っていたし世評もよくなかった。その後、長いことソフト化されておらず幻の映画になっていて、その間に再評価の声も聞こえたような気がした、海外の評価も高かったりしたので再見したが、やはりダメでした。

玉三郎をまんま女形でやらせたことといい、冨田勲のシンセサイザーの既成曲をまんま使ったことといい(なんで新曲じゃないんだ)、「妖怪大戦争」かと思うような作り物っぽい妖怪のメイクといい、舞台ならそれなりに効果的だったかもしれないことが映画でやると上滑り通り越して、自分はナニを見ているのか不安になるレベル。

見せ方として顔を出すまで気をもたせた分、玉三郎がアップで出た時、ぷぷっというか、むむっというか、とにかく違和感ばりばりだった。
加藤剛が登場する時に総白髪というか銀髪で登場するのがまた面妖な感じ。

クライマックスの大洪水のあと、いきなり南米のイグアスの滝の実写になるのもイグアスそのまんま過ぎて時空がワープしたみたい。
リアリティラインが凄く変なのです。これが松竹系の劇場でかかるようなシネマ歌舞伎かオペラみたいな初めから舞台を映像として見せる前提の作りだったら納得できたかもしれないが、通常の映画のカメラのリアリズムが常に足をすくう。

もとより玉三郎の二役は人間、すくなくとも常識的な人間を離れた役だから女形を配するというのは頭ではわからなくもない。
というか、頭で考えたところで止まっている。
篠田正浩監督作にありがちなのだけれど、これは特に極端。

冒頭の顔を白塗りにした葬列は寺山修司っぽい。
寺山を映画(「乾いた花」の脚本)に引き込んだのは篠田だったな。

松竹の玉三郎がいる演劇部門と映画部門はもともと仲が悪くてなんとか垣根を越えて主演映画を完成したはいいが興行的に失敗、仲がまたこじれたせいか他の理由もあってかずいぶん長いことソフト化されていなかったらしい。
出来の個人的な評価はともかく、ソフト化が実現したのは慶賀すべきこと。

余談だが泉鏡花の原作戯曲はゲアハルト・ハウプトマンの「沈鐘」を元にしていて、同じ「沈鐘」をアレンジしたのが「大魔神怒る」(二作目)。

だからというわけではないが、クライマックスの洪水シーンの矢島信雄特撮監督による特撮は見もの。
こういう大々的なミニチュアワークやレイアウトがきっちりした合成は今では逆に見られない。
合掌造りの民家の茅葺き屋根が大量の水で吹っ飛んだり、壁が破れて大量の水がなだれこんでくるカットなどモノの量感質感が魅力的。




「シャドウ・イン・クラウド」

2022年04月13日 | 映画
1943年、太平洋戦争中のニュージーランド、米軍のB-17爆撃機に秘密任務と絶対開けてはいけないという鞄を携えたギャレット大尉(クレア⋅グレース⋅モレッツ)が乗り込んできてサモアに飛び立つ。
そこにグレムリンと日本の零戦が襲ってくる。

グレムリンというとジョー⋅ダンテ監督、フィービー⋅ケイツ主演の水をかけると増えるイタズラなぬいぐるみみたいなクリーチャーの方が有名だと思うが、もともと第二次大戦中の飛行中の飛行機のエンジンにイタズラする化け物の都市伝説がもとで、さらにそこから「トワイライトゾーン」の「高度20000フィートの悪夢」にも発展した。
その大もとを再現した格好。

敵の襲撃と平行して、モレッツの任務とは何か、鞄の中身は何かといった謎解きが進む構成。
上演時間は83分という近頃珍しい短さで、正直これだけでちょっと手を合わせたくなる。
冒頭の命令書のアップから、ギャレットなどという大尉はいないといったやり取りの回収など短い中にてきぱきと整理してうまく構成している。

撮り方、演出(中国系女性監督ロザンヌ·リャン)がまた視点をあちこちに散らさず限定していて、前半かなりの尺数をモレッツが鍵をかけて他の乗組員が入ってこられなくした銃座の中だけの一人芝居で通し、その間の乗組員たちの紹介も通常だったらそれぞれの部署についている姿を写すが、イメージカット式に真っ暗なバックに原色のライトをあてたアップで替えている。
(ただキャラクター紹介をはしょったため、キャスティングがやや弱いこともあって、誰が何の部署についているのかわかりにくくなった)

その後も視点の限定は徹底していて、飛行機がアクロバット飛行して姿勢を変えるシーンも飛行機内にアングルを限定するため世界が逆さまになった状態がかなり続く。
激しくあちこちの様子をカットバックすることでスリルを出すのとはかなり違う方法論。

大げさに言うと、ヒッチコックが「救命艇」「裏窓」などで通した方法に通じる。

モレッツは童顔は相変わらずだがいつの間にかえらく堂々たる体格になった。

飛行機のボディにFOOL'S ERRAND(アホの使い走り)という落書きが白痴的グラマー美人の絵と共に描かれている。
米軍の妙な習慣だが、ここではモレッツが乗り込んだ機の乗組員の男たちのひどいセクハラそのまんまの発言と共にあからさまな男尊女卑、女性嫌悪ないし蔑視の現れで、これは完全に娯楽映画以外の何者でもないけれど(だからと言うべきか)それに対するカウンターの立場をとっている。

エンドタイトルに流れる大戦中の米軍の女性兵士たちの実写映像からもそれはうかがわれる。
大戦中の女性兵士というとソ連のそれは有名だが、アメリカにも相当いたらしい。





「永遠の831」

2022年04月12日 | 映画
怒りにかられると時間が止まったように感じられる、のではなく本当に時間を一時的に止めてしまえる能力を持つ少年が、それを利用してテロを行おうとする組織とそのリーダーの妹と絡む。

831って何かと思ったら、8月31日つまり夏休み最後の日のこと。
813だったらアルセーヌ⋅ルパン(三世ではない方)、731だったら細菌部隊だが、別に関係はない。ただ、こういう風に数字にすることで象徴的でものものしくはなる。
永遠の夏休みを過ごしたいという願望とその不可能性の象徴か。

時間を止めるとは凄い能力なのだが、大風呂敷を広げるとウソくさいし、あまり小さい話にしても物足りない。難しいところ。
新聞配達というかなり古めかしい印象の仕事をしながら(外国人がもっといていいのではないか)、テロが現実になる近未来と近過去とが微妙に混ざった世界観。

しかし今の日本アニメの女の子キャラクター、妹的に可愛らしすぎるの多すぎないか。





「アネット」

2022年04月11日 | 映画
タイトルになっているアネットとは主人公のアダム·ドライバーとマリオン·コティヤール夫妻の間にできた娘の名前なわけだが、これをなんと人形で表現しているのにびっくり。
幼児なのに堂々たる歌声を聞かせるというありえない存在なのだが、まずそのありえなさに見合った表現方法をとった格好。

また、妻のコティヤールが海で水死した話題性(ちょっとナタリー・ウッドの水死で夫のロバート・ワグナーが疑われた実例を思い出した)を利用して遺児を見せ物的に歌わせて金儲けしているわけで、本物の子供だったら搾取⋅虐待と見なされかねないことをやっているわけ。
しかし人形なら宙吊りさせようがいくら働かせようが構わないことになる。

余談だが、最近の映画の動物がCGで描かれることが多いのは、虐待という非難を受けるのを避ける目的もあるのではないか。アニマトロニクスの導入からすでにそうだったかもしれない。

ミュージカルナンバーがドラマに挟まる形式ではなく、「シェルブールの雨傘」式に全編歌で運ぶやり方をしている。
ミュージカルというと、どうしても個人的には歌と踊りという生きる力そのものの表出と思ってしまうのだが、内容的には悲劇的だったりエロスに対するタナトス志向なものの少なくない。これもそう。
何しろ幽霊まで出てきますものね。
ただし終盤、人形と人間が分裂するという形でエロス側に転換したともいえる。
それから一種の枠物語にして閉じた世界を逆に解放した。

アダムの役名はヘンリー⋅マクヘンリーHenry Mchenryという変な名前。Mcというのはアイルランド系の名前などで~の子孫といった意味。ファミリーネームがファーストネームの子孫というのだから、名前自体一種のどん詰まりを現していると考えていいだろう。






「スピリットウォーカー」

2022年04月10日 | 映画
12時間ごとに魂=意識が次々と別の人間に移ってしまうという奇妙な症状に見舞われ、その上過去の記憶が失われていて自分が何者なのかわからない男ユン⋅ゲサンが、自分が何者なのかを探し求めるのと共にわけのわからない暴力沙汰に巻き込まれ、更に腕っぷしの強い謎の美人イム⋅ジヨン(魅力的)が敵か味方かわからないままに絡む。

ユン⋅ゲサンの顔と今取りついている男の顔とが交互に出てきて、当人の意識にある顔と客観的に見た時の顔(鏡に写った顔を含む)とが別物であることが示されるわけだけれど、かなりややこしい。
わからなさがスリルに傾くのと混乱に傾くのと剣が峰を歩くみたいな展開。

次々と乗り移っていく男たちにある法則があるのがだんだんわかってくる構成で、なぜそういう症状に見舞われたのかという理由付けはおよそ荒唐無稽なのだけれど、それなりに前記の法則と、美人との関係につながってきて、うまく(強引に)まとめる。
カーアクションや銃撃戦、肉弾戦の激しさ共々リクツより力技。

なんだかハリウッドでリメイクされそうなアイデアストーリー。「メメント」っぽいか。