prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「KIN」

2020年12月30日 | 映画
黒人少年がおそろしく強力な武器を手に入れてしまい、それをどう扱うのか、復讐や憂さ晴らしに使うのか、というB級SFアクションの器ながらかなり倫理的な話になる。

新宿バルト9でかかったのを見逃したのをWOWOWで追い付いたわけだが、このチェーンでかかるのは意外とアクションものと見せて複雑なニュアンスを滲ませることかある。


 

「囚われた国家」

2020年12月29日 | 映画
ちょっと「幼年期の終わり」みたいに超越的な宇宙人による支配と「平和」がもたらされたディストピア世界。
一方でああいう強権性による平和と安定というのが一定の説得力を持つのが今の世界そのものだろう。

エイリアンがトゲトゲだらけのウニの化け物みたいなのが新鮮。

モノトナスな繰り返しが続く音楽が効果的。

 

2020/12/28

2020年12月28日 | Weblog

「ワンダーウーマン 1984」

2020年12月26日 | 映画
悪役があからさまにドナルド・トランプなのだけれど、比べると卑劣さ嘘つきぶりがまだ甘いわけで、あれくらいで反省するようなタマかと現実のトランプが混ざってしまうのは良し悪し。

核心になる願いをかなえる石の扱いが混乱していて、どういうルールで働くのか、そのルールを悪役がどう裏をかくのか、というあたりがあれ?と考え直して整理する必要が出てくるのはちょっと困る。

もうひとりの悪役というか、あこがれ転じてダークサイドに落ちるバーバラ役の最後がどうなったのか次に続くにしても曖昧すぎ。

空を飛ぶのに初めはジェット戦闘機を使うのが、ムチを使い、ついには風に乗って飛ぶクリストファー・リーブ版のスーパーマンをあからさまに思わせる飛行ポーズに至るのが、ストレートなヒーローイメージを体現する。

最初の方に出てくるテレビがSONY製というのが、いかにも1984年。




「エイリアン パンデミック」

2020年12月26日 | 映画
聞くだに安いパクリものみたいな邦題だが、原題はIsolation(孤立)とあるように、人里離れた牛舎が舞台。

そこで飼われている牛に何者かが取りつき牛以外の生き物を産むという「ローズマリーの赤ちゃん」の牛版みたいな話。

話だけだとますますパチモノだが画面作りが本格的で、予算の関係もあるから「エイリアン」ほどではないにせよ、靄がかかった画調や泥や水の質感などかなり美術的。

調べると監督のビリー・オブライエン Billy O'brienは Royal College of Art in Londonの出身。つまりリドリー・スコットの後輩にあたる。短編やCM作りをしていたのも一緒。
出演者は知らない人ばかりなので次に誰が殺されるかわからないのも一緒。






「ネクスト・ドリーム ふたりで叶える夢」

2020年12月25日 | 映画
どこかで見たようなパターンの話だな、と思いながら見ていて、見終えてから思い出した。
「ワーキングガール」だ。
ケヴィン・スペイシーがまだ無名でワンシーンだけのセクハラ男(!)役で出ている頃の映画だから、随分前。

というか、この映画の主演のダコタ・ジョンソンは「ワーキングガール」の主演のメラニー・グリフィス(とドン・ジョンソン)の実の娘とわかってちょっとびっくり。奇遇というべきか。

若い女性がぱっとしない境遇とやる気のミスマッチが過ぎてボスの目を盗んで自分の仕事を勝手に進めてしまいうまくいきかけたところで、というところは一緒。

ただ各キャラクターの性格付けは大きく違う。
ボスが成功者でパワフルな女性というところは一緒だが、ここでは40過ぎてヒットアルバムを出せないでいる黒人の大物女性歌手で、あとはドサ回り的に往年のヒット曲を歌ってまわるしかない、といった悩みが書き込まれて、悪役的な扱いになってもおかしくない(事実「ワーキングガール」のシガーニー・ウィーバーは仇役だった)ところを幅と膨らみのある役になった。

対するヒロインは付き人からプロデューサーに進出しようとするので、ボスにとって代わろうというのではない。
余談だけど、音楽業界におけるプロデューサーの役割って素人には正直わかったようでわからない。
自分で曲も作れるし歌えるのになぜという感じはする一方で、自分は自分はより人を助ける方が楽しいというのもわからなくはない。

ともあれ、かなり堂々とした偶然も含めて、あまりイヤな人間が出てこなくてハッピーエンドというのは、昨今ありがたい。

映画の内容や評価とはまったく関係ないが、DJ役のビル・プルマン(お久しぶり)が持っているLPがはじめフリートウッド・マックの「噂」だったのがカットが変わると別のになっている。かなり堂々としたヘマ。

歌手にとってラスベガス行きというのが、日本でいうドサ回りというニュアンスで使われているのが意外だった。





「バトルオーシャン 海上決戦」

2020年12月24日 | 映画
韓国本国では動員記録(1960万人)を作った大作だが、秀吉の朝鮮出兵の慶長の役を扱っている、つまり日本が悪役になっているせいか劇場未公開。

日本側の描写は韓国側から見たものだから当然ひっかかるところあるだろうと思ったので、御贔屓チェ・ミンシク主演でも見るのを後回しにしていたが、覚悟して見ればそれほど驚かない。ただ本国上映版に比べるといくらか短縮されているらしい。

日本人のメイクで目張りが入っているのはどうかと思った。わかりやす過ぎますよ

後半小一時間えんえんと海戦シーンが続くのにちょっとびっくり。
これだけのスケールと長さの戦闘シーンを描くだけの財力を誇ってみせ、国家的英雄を描くという鼻息が荒い。

韓国側がほぼ黒一色なのに対して、日本側は色とりどりなのだがコーディネートがかなり変。五月人形が並んでるみたい。

李舜臣(イ・スンシン)は韓国の国民的英雄なのだが、王に逆らって投獄されているところから始まる。
そこから再び戦いの最前線に復帰し、文字通り退路を絶って決戦に臨んでの兵士たちに対する演説の場が「ヘンリー五世」ばりにかなりアガる。
王に仕えるというより国に仕える英雄といった解釈になっているみたい。





「AI崩壊」

2020年12月23日 | 映画
いろいろと残念。
AIを使っていた側が追われる側におかれて監視システムを駆使しての追跡をかわしながら無実を晴らすというヒッチコックばりの定番で、定番だからそれだけ強力でもあってさまざまなアイテムを駆使した追っかけは日本映画としてはずいぶん頑張った方。

だけど、AIの発達によるディストピアというのはこうもわかりやすい役に立つ立たないによる人間選別というより、どこで集めたかわからないデータとよくわからない基準によるもっと曖昧模糊とした真綿で首を締めるような排除と選別だろうし、よくわからないから不安でもあるわけただろう。いかんせんわかりやすすぎて嘘っぽい。

アメリカの映画やドラマでもこういう趣向のはいくらもあるけれど、どういうところでもっともらしさが違ってくるのだろうと思う。







「無頼」

2020年12月22日 | 映画
地方ヤクザを通した日本戦後史みたいな二時間半。

「仁義なき戦い」のセリフの引用があるが(エンドタイトルにも笠原和夫「仁義なき戦い」と出典が明記されている)、あれが戦中派にとっての戦後史という側面もあったのに対し、これは世代的には団塊にとっての戦後史といっていいだろう。

ケネディ暗殺、三菱重工爆破、田中角栄逮捕など大きな事件がはじめ新聞それからテレビで伝えられているのが随所にはさまるのと平行して、地方のそれほど大きくはないヤクザの組がどうシノいできたかを描く。
もとよりヤクザはその時々の儲け話に乗るわけで、自ずとその時何が流行りだったかを反映することになる。
M資金に始まり、ソウルオリンピックを控えた韓国との金の取引話、宗教団体と土建屋と政治家の癒着などなど。

時代を彩ったさまざまなアイテムの再現が楽しめる。
インベーダーゲーム、VHSがずらりと並んだビデオレンタル屋の棚、弁当箱ほどもある携帯電話(携帯が登場した頃に真っ先に使ったのはバブル期の地上げ屋。ちょっとでも早く物件情報を手にいれるため)など、おっさんにとってはあったあったと思う今ではないものだらけ。

「赤い天使」上映中の映画館で次回上映が「ウエストワールド」「シノーラ」になっているので、同じ年の公開だったっけと調べてみると「赤い天使」は1966年、「ウエストワールド」は73年、「シノーラ」は72年だからよくわからない。
考証ミスなのか好きな映画を並べたのか。

三下ヤクザが脅しに来た相手の娘が思いがけず親分の女房だったり、中学高校の同級生や足を洗った元組員が町会議員や市会議員だったりする人間関係の濃さが地方ならでは。癒着するなといってもムリ。
先述の笠原和夫がインタビューでこれからのドラマは地方をやった方がいい、日本の問題が端的に現れているのは地方だと言っていたのを実践している感もある。
実は近来の日本映画の秀作のかなりの部分は地方映画になっている。
スケールがコンパクトで人間関係が煮詰まっているからドラマ化しやすいということもあるだろう。

ヤクザがいかに下らない存在かと映画の主演俳優がとくとくとテレビで話すのを見た組員たちが不穏なことを話す場面は、明らかに伊丹十三監督の「ミンボーの女」で伊丹が顔を切られた事件がモデルだろう。監督を主演俳優に変えているが、ほぼああいう発言していたと思う。ああいうこと言われて黙っているヤクザはいないと発言した親分もいた。

木下ほうかが演じる役はマスコミに乗り込んでいって自決するあたり、明らかに新右翼の野村秋介がモデル。
脇の人物であるにも関わらずわざわざフラッシュバックで自決の場面を見せるあたり作者は奇妙に感情移入しているが、なぜなのかはよくわからない。
野村が自決したのは朝日新聞社なのをテレビ局にしたので思想的立場よりはマスコミ全般に対する反発の話になっている。
ヤクザが出所するところを見せた記者とカメラマンにそれぞれ金一封を渡して、おそらく宣伝にすべく書かせるのと対応する。

親分子分の固めの杯を交わした後、記念写真を撮るのがなんだか可笑しい。
ヤクザ映画でヤクザが並んだ儀式の写真はよくインサートされていたが、それを撮ってるところは盲点になっていた。記念写真には違いないわけね。

長尺ではあっても大河小説的なストーリーの太い流れよりはディテールの積み重ねが最終的に自ずと大きなうねりに至るといった作り。
ただ、ディテールがわかる世代の人間にはいちいちピンとくるところも、最初から知らない人にはどこまで通じるかはわからない。

俳優たちがそれらしくはあってもいかにもなヤクザ的な顔、ヤクザ的な仕草の型にはまっていない。
韓国映画の犯罪ものだったらもっと濃い凄みのある顔を敷き詰めるだろうし、昔の東映ヤクザ映画だったらヤクザらしい顔が背景に並んでいたが、今の日本人と日本映画ではムリ、ないものねだりにしかならないということもあるだろうが、安易ならしさや型にはまった見方を排していこうという意向の現れともとれる。

井筒和幸監督らしい大勢の人間がわちゃわちゃしている感じは相変わらずだが、淡泊になった感はある。
暴力描写は凄みはあるが短く簡潔。入れ墨を入れた裸の肌が銃弾を受け血が噴き出す特殊効果が効いている。

紅一点という感じの柳ゆり菜がセクシーかつ和服を含めたさまざまな衣裳を着こなして姐さんのさまざまな顔を見せて好演。

例によってこの映画で動物は傷つけていませんという断りがエンドタイトルに出るが、虎とライオンが出てくるシーンはたぶんCGだろうと思った。ちっともケンカしないので包丁つきの棒でつつくのがぎりぎりの描写だろう。
本当に強い者同士は腹が減らない限りケンカしない、というセリフは暴力団にも国同士にも応用がきく。

見た新宿のケイズシネマは、奇しくも昔はヤクザ映画専門館だった新宿昭和館の跡地。
内容からして圧倒的におっさん爺さんの客が多いのも一緒。




「丑三つの村」

2020年12月21日 | 映画
「八つ墓村」のヒントになった昭和13年の津山二十八人殺しの実話を扱った西村望原作の映画化。

ロケ地になった村が実に不穏な雰囲気でスケール感もあるのだが、映画の内容が内容だから貸してくれる村などなかったのが、近くダムに沈むからというので使用できたという裏話(プロデューサーの奥山和由のインタビュー本「黙示録」より)がなんだか可笑しい。

出てくる女優たちが田中美佐子、五月みどり、池波志乃、大場久美子と綺麗どころばかりで、映画だからには違いないが、「北の国から」の富良野みたいにあんなに美人ばかりの村があるかとツッコミ入れたくはなる。

監督が日活ロマンポルノ出身の田中登だからだろう、セックス描写がロマンポルノ調というか、アダルトビデオ以前の疑似描写。
指とか銃口を口に含んで唾液でぬらぬらしたところをアップにして濡れた性器を暗示するという方法など古式豊かですらある。

古尾谷雅人はロマンポルノで田中登監督の「女教師」や「人妻集団暴行致死事件」などで危険な感じを出していたところの延長上の出演なのだろうが、割りと優しい感じで狂気がかったところは狙いなのかどうなのかあまり感じられない。

戦前のことで、結核で兵役につけないというのが男失格、非国民と見なされる重圧があったのだろうが、あまり実感は出ない。難しいところ。

古尾谷の生前のインタビューで地下足袋にゲートルというのはすごく動きやすい、スニーカーなどよりずっと動きやすいと語っていたのが印象的だった。
おそらく舗装していない地面、戦場での動きやすさとつながってくることなのだろうが、なかなかそういう感じは画面見ている分には伝わらない。

夏八木勲扮する有力者が銃弾を防ごうと何枚も畳を立てるのだがそのたびに弾は畳を突き抜けてしまう、しかしついに夏八木に当たることはない。一番殺したい奴を追い詰めても殺しきれない、というあたりに先の戦争における天皇の存在を暗示している気配もある。

クライマックスの殺戮に次ぐ殺戮はトビー門口による特殊効果(音波で弾着のスイッチを入れて銃を撃つのと服に穴が空いて血が噴き出すのをシンクロさせる)が採用されているのが大げさに言うなら歴史的意義。
門口はこの映画の製作の翌1984年にモデルガンの不正改造で銃刀法違反に問われて以後、活動を停止した。残念。警察がわざとのように(ではなく、わざと)見せしめ的に取締っているのだろう。





「トレイン・ミッション」

2020年12月20日 | 映画
還暦過ぎのアクション・スターことリーアム・ニーソンもいつの間にか無双感という点ではトップになったのではないか。

身体は大きいけれどシュワルツェネッガーほど特別な体格でもないのだが、ぬーっとしていて、およそ負けるとか危ないという感じがない。
危ない真似をしてハラハラさせるというより危ないはずのことをしていても安心して見ていられる。

「アンノウン」「フライト・ゲーム」「ラン・オールナイト」に続くジャコム・コレット・セラ監督との実に四度目のタッグだが、乗り物ものとしては「フライト・ゲーム」の線。
ミステリ的趣向を混ぜての列車アクションだが、カメラワークがデジタル技術を併用して自在に限られた空間を移動してまわるのが新味。
車窓の外から光がしきりと射しているのだが、セットで撮っているのは明らかなので、作り物の光、それもデジタル製だろう。

アクションで大きな見せ場が済んでいるのにまだ小さなサスペンスを仕込むのは蛇足感が強いのは残念。






「サイレント・トーキョー」

2020年12月19日 | 映画
渋谷で見たのだが、パラレルワールド感ハンパない。
駅前交差点の雑踏で誰一人マスクしていないのだから。

コロナ禍前に撮ったのだろうし、渋谷駅前の大オープンセット撮影が売りでもあるし(この再現ぶりは見事)、それはいいとして、肝腎の中身の方がこれがもう 支離滅裂。

だいたい駅前に爆弾を仕掛けたという脅迫が来ていて それが公表されているというのにわざわざ大勢が物見遊山気分で集まって来るってのが信じられない。
警察の方でも まず間違いなく交通規制を行うだろう。

ハロウィンの時の渋谷のバカ騒ぎをそっくりそのまま爆弾騒ぎに当てはめて、それで物見遊山気分でいる日本人は平和ボケだという主張に応用するというのは、いかになんでも一般人をバカにし過ぎてないか。

で、犯人が主張する戦争イメージというのがリアリティがあるかというとこれがさっぱり。
なんで犯行を企てるに至ったのかという理屈が妙にもってまわっておよそ呑み込みにくい。

ネタバレになるから言わないが、平和ボケを突くというなら、平和維持を理由にした自衛隊の海外派兵中に実は戦闘状態になって死者が出たのを隠蔽していたくらいの話にしていいと思う。映画なのだし。
これだったらテレビの「相棒」のいくつかの方がよほど尖っている。

で、テロ描写が画面としては一応迫力あるのはいいけれど、渋谷破壊という発想は「ガメラ3」、CGの使い方は「ソードフィッシュ」だから20年前のもの。
爆死したかと思った人が安直に生きのびていたり、あれくらいの爆発なら原型をとどめない人が出ているはずで、およそヌルい。

テレビの局員と下請けとの格差、ジャーナリズムとして死に体になっている描写も同じくヌルい。

爆発シーンが早モレしてしまったので、クライマックスが爆発するかしないかのサスペンスにならず、犯人の動機の説明、それも回想を使った平板な絵解きそのまんまになるのだからたまらない。
日本映画の悪癖で、回想シーン禁止令出したいくらい。

いちいちツッコミ入れていたらキリがないが、警察は事件関係者の身元くらい洗わないのか。
西島秀俊の刑事がやたらコワモテに力んでるのが、先日のテレビの「逃亡者」の豊川悦司と同じくらいスベっている。
簡単にピストル振り回しすぎ。




「ナイチンゲール」

2020年12月18日 | 映画
19世紀オーストラリアで自分をレイプし子供を殺した男に対する女性の復讐劇だが、そのための道案内役が黒人男という被差別者同士の組み合わせになり、男=女と白人=黒人の差別・被差別の組み合わせが複雑にねじれたものになっている。

白人とはいってもアイルランド人で、「ザ・コミットメンツ」に「アイルランド人はヨーロッパの黒人だ」なんてセリフがあったように白人内部にも差別構造はあるわけで、案内役の黒人が「まったく白人って奴は」と呆れるようにややこしい。

殺した黒人たちの首を戦利品として切り離すあたり、“文明人”の残酷さは傲慢と侮辱が加わっている分、“未開人”の比ではないのを典型的に示す。

出てくる鉄砲が火縄銃みたいな先込め式で、接近戦だと弾をこめている間に刺されてしまうのがやや間が抜けたような分、残酷。






「ヘルムート・ニュートンと12人の女たち」

2020年12月17日 | 映画
ニュートンは1920年ベルリン生まれ。ワイマール共和国の文化環境からナチスドイツ体制に変わっていく中で育つ。
自由が失われ特にユダヤ人として迫害された経験が作品に反映しただろうことは見当がつくが、一方でナチスの党大会やプロパガンダとしてのオリンピック映画を作ったレニ・リーフェンシュタールの、特にゲルマン人の肉体美を賛美する美意識の影響ないし共感を自ら語る。この矛盾。

ピアソラのリベルタンゴが繰り返しかかる。
リベルタ=自由なタンゴを追求したピアソラの曲は、外からの解放であるより自分でつかみとった表現のシンボルのようでもある。

シャーロット・ランプリングが「愛の嵐」の直後のニュートンの写真でイメージを決定づけたと語る。「愛の嵐」で十分すぎるくらいイメージができていたという気もするが、写真を見ると映画の退廃的でガリガリのヌードとはまた別のゴージャス感があった。
彼女自身が選択したともいう。

デヴィッド・リンチに頭の角度を調節されている写真を撮られたイザベラ・ロッセリーニは、モデルは撮影者のイメージの素材だという本質をニュートンはとらえたのだという。

スーザン・ソンタグがおそらくテレビ出演で女性差別だとフランス語で(パリ大学の大学院で学んだのだから不思議はない)批判している。ソンタグは同性愛者だが、通常の女性差別と性格が違うのか変わらないのか。

ハンナ・シグラが自分は下層階級の出だからツイードの服を着せられていたようなお坊ちゃんのニュートンには新鮮だったのだろうと語る。「マリア・ブラウンの結婚」が肝っ玉母ちゃん一代記だったことを思い出す。

ミューズとしての妻ジェーン・ニュートンの存在が語られる。他の女にはあれだけエロチックな迫り方をしていてしかし最終的には妻のもの、というのはありがちでお上手にまとめた感あり
ヘルムート自身の全裸のセルフポートレイトも出てくる。病気のせいもあるだろうが、他人のそれとは対照的で貧相ですらある。

ヘアが当たり前に出てくる写真なので、昔だったらいちいちボカシがかかるところ。どれくらいバカなものになったか、空恐ろしいが、はっきり決断してそうなったのではなく、なし崩しに解禁されただけというのが日本のダメなところ。

荒木経惟やデヴィッド・ハミルトンなど高名な写真家がのちに女性蔑視や虐待で告発非難されるという例はいくつもある。映画監督だとキム・ギドク、ポランスキー、ベルトリッチやヒッチコックなどのセクハラ(というか性犯罪)が告発され批判されている。意識とフェーズが変わってきている反映だが、撮影現場での倫理的問題は作品の評価にどの程度影響するのか、というのは厄介な問題だけれど、基本的に批判的なスタンスに切り替えないといけないなと思えてきた。
場合によっては自分の一部を切り落とすような話にもなるが。
このドキュメンタリーでは対象が故人ということもあって、あまり批判的なスタンスには立っていない。

石田えりのことが出てくるかと思ったが、言及なし。ただこの記事「石田えりを変えた、写真家 ヘルムート・ニュートンの言葉」を読むと、相当追い込んでいって反撥するところを撮る、今だったら批判の対象になるような撮り方もしていたのがわかる。




「世界でいちばん貧しい大統領 愛と闘争の男、ホセ・ムヒカ」

2020年12月16日 | 映画
邦題からは「清貧のすすめ」みたいなのか(古いね)と思っていたが、実際に映画を見ると、ウルグアイが南米にあり、チリやアルゼンチンの近くにあったことが改めてわかる。

つまり、アメリカが糸を引いた軍事クーデターにより今では世界を席巻している新自由主義経済の実験場となった地域で政治犯として投獄された、というのは昔なつかしい清貧ではなく、これからの市民と貪欲と独占の大資本との戦いを先取りしていたということ。

監督でインタビュアーのエミール・クストリッツァにしても分裂した小国の出身で、大国や大資本のエゴイズムはイヤというほど知っているはずで、ほぼ頷いて聞いているだけで自然に共鳴するものがあるように思える。