prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「第三夫人と髪飾り」

2020年06月27日 | 映画
非常に端正な美しさに貫かれた映画。

一つ所に何人も夫人を置く、大奥みたいな設定なのだが、女性同士の嫉妬や競い合いといったどろどろがなく、あくまで清冽なのはありふれた発想だが、監督が女性のせいか。

何度も蚕がアップになり、蚕という虫は人間の世話がなければ生きていけないのだが、ここでの女性たち(子供や世話役の年を食った女性も含む)のメタファーのようでもある。
そこから出ていく少女をラストに置いている。

漢字を使っているところといい、服装といい、ベトナムがもともとかなり中国文化圏であることをうかがわせる。





6月25日のつぶやき

2020年06月26日 | Weblog


「ラストタンゴ・イン・パリ」

2020年06月25日 | 映画
1972年の公開当時は性描写が話題になり、ずっと後になってバターセックスの場面でマリア・シュナイダーに知らせないで撮影しリアルな反応を引き出したというのが暴露されて非難の的になったりと、何かと騒がれる映画だけれど、今見ると性描写というだけならAVすら飽きられている現在では驚くようなものではない。
第一疑似であることははっきりしている。

むしろ何が騒がれたのか、性描写以上にマーロン・ブランドとマリア・シュナイダーのその人自身も知らない下意識にまでむき出しにした生々しさがかなり衝撃的だったのではないかとも思うが(ふたりとも以後トラウマが残る出演になった)、そういうパワハラ的な演出が今後許されるかどうかといったら難しいだろう。

ヴィットリオ・ストラーロの撮影、ガトー・バルビエリの音楽と美的な密度は高い。





「恋」

2020年06月24日 | 映画
今はなき大塚名画座で見て以来だから、ずいぶん久しぶりの再見。

非常に凝った構成の作品で、少年が年上の美しい令嬢に思慕を抱いて女性の頼みを聞いて作男との手紙を仲介する(原題のThe Go-Betweenはここから来ている)のだが、その本筋にかなり時代が下った時期のフラッシュバックならぬフラッシュフォワードがちょこちょこ入り、ラストでその意味が明かされるという仕掛けになっている。脚色は不条理演劇の劇作家として名高いノーベル文学賞受賞者のハロルド・ピンター。

そのフラッシュフォワードの入り方はもっと違和感をわざと感じさせるようにしてあったように記憶していたが、ずいぶん今見るとあっさりしている。「LOST」ほか、ドラマでもこういう時間構成をいじったものは珍しくなくなったからかもしれない。

イギリスの田舎のお屋敷というのが「ダウントンアビー」でもお馴染みになっているが、ここではもう少しきらびやか一辺倒ではなくざらっとしたリアリズムが入っているのは監督のジョセフ・ロージーの体質か。
とはいえ、田舎の風景も、衣装も、ジュリー・クリスティのヒロインも美しい。

そのヒロインの悪意のない残酷さにロージーの人間の見方の意地悪さが端的に出た。

BBCで同じL.P.ハートレーの原作をドラマ化したものがあるらしい。どういう風に脚色したのだろう。単純な回想形式でも処理できることはできるのだが。






「ホームレス ニューヨークと寝た男」

2020年06月23日 | 映画
住処がないという意味ではホームレスだが、服装や生活態度はほとんどセレブというのドキュメンタリー。
なんだか昔のマンガで社長が趣味でコジキ(禁)をしているみたいな話。

実際、ここまでお洒落でなくても今のアメリカではあまりに家賃が高くなりすぎてちゃんと職があっても住居はないなどという人は少なくないという。
このコロナ禍のなかでどう生きているのかと思う。

実際、住居費がかからなかったら、ずいぶん可処分所得増えると思う。なんで土地に値段がつくのが当たり前になったのかという司馬遼太郎みたいな疑問も生まれる。





「彷徨える河」

2020年06月22日 | 映画
白黒映像で捉えられた南米アマゾンのジャングルの映像がリアルにして神秘的でさまざまな音の豊かさととも大きな魅力。

二つの時間軸が平行して描かれるという、「同じ川に入ることはできるか」というプラトン対話篇のヘラクレイトスの命題(川は流れているのだから水そのものは別のものになっているが、川という流れそのものは変わらない)に対する反論を形にしたようでもある。

先住民の、近代文明とは別の世界観を表現しようとしている野心作だが、ただ映像自体が近代の産物ではないかという矛盾は感じた。





「草原の実験」

2020年06月21日 | 映画
セリフがまったくない野心作。
東京国際映画祭最優秀芸術貢献賞受賞。

ヒロインのエレーナ・アンの美少女ぶりが草原の映像の美しさとともに大きな魅力。
ただセリフがないのはいいのだが、男ふたりが取っ組み合いするところで息づかいすら聞こえないのはさすがに不自然で、サイレント映画のサウンド版みたいでもある。
静かな場面が続くので、終盤の嵐の轟音が効いてくる。





「告白小説、その結末」

2020年06月20日 | 映画
自分のプライベートの告白を小説にして成功したがその後スランプ気味の女性作家エマニュエル・セニエのところに、ファンを名乗るゴーストライターをやっているという美女エヴァ・グリーンが近づいてくる。

「ゴーストライター」というのはもろにポランスキーの旧作にあったが、プライベートの一部が主人公とだぶっているところからして、分身的存在であることははっきりしていて、それにじりじりと本体が侵食されていく展開はポランスキーらしい存在の危うさを感じさせる不気味さ。
侵食してくるエヴァ・グリーンのキツい美貌がぴったり。

階段からの「転落」やケガした脚などの描写がどこかフェティッシュなのもポランスキー印。




6月19日のつぶやき

2020年06月19日 | Weblog

「不滅の女」

2020年06月19日 | 映画
監督脚本のアラン・ロブ=グリエが脚本を担当し、アラン・レネが監督した「去年マリエンバートで」のどこまで現実でどこからが幻想なのか、死んでいるのか生きているのかよくわからない不分明なところはよく似てはいる。

もっともレネみたいな様式感は薄くて、かなりぼうっとした撮り方。
女に対する執着や翻弄される感じはむしろ生々しく出ている。




「ある女流作家の罪と罰」

2020年06月18日 | 映画
冒頭の、普通だったら辛気臭くてかなわないような中年を通り越して初老の売れない作家の生活のスケッチが一方でなんともいえない可笑しさを含んでいる。主演のメリッサ・マッカーシーがコメディ畑の人ということもあるかもしれない。
実際、見方を変えれば、有名人の名前ひとつで値段がバカみたいに上がるのも売買する人間も喜劇的といっていい。

唯一つきあっている男が異性であるにも関わらず両方とも同性愛者なので通常の意味での男女の仲にはならないが、それでも互いに良くも悪くも支えあう関係が成立しているのが面白い。少し、「シェイプ・オブ・ウォーター」を思わせもする。

劇場未公開になったのが惜しがられた映画だが、スクリーンで映画を見るのはなぜなのか、実際これはWOWOWで見た。
数からいけば劇場で見るより自宅で見る方が圧倒的に多いのに、なぜ劇場にも行くのか。習慣だから、大勢と一体になるのが楽しいから、には違いないけれど、コロナ禍以後ますます難しくなっている。




6月16日のつぶやき

2020年06月17日 | 映画

「凱里ブルース」

2020年06月17日 | 映画
「ロングデイズ ・ジャーニー この夜の涯てへ |」のビー・ガン監督の26歳の時の第一作。

前半のとりとめのないカードを配っている感じと後半の超長回しでシャッフルするスタイルはここでほぼ出来上がっている。

原題が路邉野餐で、路傍のピクニックと読むならストルガツキー兄弟によるタルコフスキーの「ストーカー」の原作ということになる。
詩の朗読が全編に散りばめられているのもタルコフスキー調。

「ストーカー」では列車を音だけで予感的に表現していたのが印象的だったが、ここではなんと壁に映写される映像という戸惑うような方法で表現される。

長回しの中で初め追っていたキャラクターから全然別のキャラクターに乗り換えて追い続けるというあたり、ビリヤードの玉の動きみたいで、実際ご丁寧にもビリヤードが出てくる。
その人称性を欠いた、時に臨死体験のように夢幻的で、ひとつのカットの中にさまざまな時間と局面がシームレスに同居し変容していく表現の大胆さ。

長回しの手際は舟から岸に移るあたりで大きくカメラマンが姿勢を崩したり、ややぎくしゃくしたところがある。





「ザ・ビッグハウス」

2020年06月16日 | 映画
ここで写っているミシガン・スタジアムの光景は、公開当時はその10万人もの収容人員数で見るものを驚かせたが、今見るとこの膨大な数の人間が集まることがコロナ禍によりまったく不可能になっていることに驚かされる。

冒頭の降下ショーから、今さらながらアメリカが軍事力と人為的なナショナリズムといった力で一応まとまっていた国であり、それと裏腹におそろしく多様な人種と出自の人々を抱えた国でもある矛盾の力学が画になっている。

想田和弘監督とするといつもの撮影から編集までひとりで行う観察映画のスタイルとは違って、大勢の学生が実習として手分けして撮った映像をこれまて実習の一環としてディスカッションしながら編集構成していくスタイルをとったわけだが、その実習自体が現在不可能になっている。学生たちの実習指導を兼ねて撮らせて編集もディスカッションしながら行ったわけだが、その実習自体も今では不可能になっているわけだ。

途方もない数と種類の人のちょっと狂気がかった集散が、映画の中と外で輻輳している。
ロック・ドキュメンタリー「ウッドストック」にすごい数の観衆が集まったのを「まるで聖書の中の出来事じゃないか!」と形容する若者がいたが、大群衆というのは何か熱にうかされたようになる危うさがあるが、それが現実に噴出している感。




6月14日のつぶやき

2020年06月15日 | Weblog