prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

3月31日のつぶやき

2021年03月31日 | Weblog

「コリーニ事件」

2021年03月22日 | 映画
それにしても、ナチスの犯罪を許さない態度の徹底ぶりには驚かされる。法律を作るだけにとどまらず、その運用に穴があったら埋めることをかなり強引な方法で押し進めようというのだから。

もとよりそうしなかったらドイツという国が周囲の国との関係を築くこと自体が不可能だからには違いないが、ここではそれを押し進めるの弁護士が父がドイツ人母がトルコ人との混血という境遇であり、しかも事件の被害者が個人的な恩人でもあるという複雑な力学が設定されているのは原作のシーラッハの力量のみせどころ。

故殺と謀殺の違いというのは、日本の刑法にはないので、しかもここでは「Law & Order」あたりでしきりと出てくる英米法とはまた違う大陸法での使い方なので、どうもややこしい。





「燃えよスーリヤ!!」

2021年03月21日 | 映画
インド映画というとちょっと前まではこちらの常識とはまったく違う世界という印象だったが、身障者や女性に対する差別問題を取り込んでしかもカンフーアクションも取り込んで、世界的潮流とシンクロしてきた感じ。
ディテールではやはりぶっとんでいるが。

痛みを感じない症状というのは実際にあって、ケガや病気をしていてもわからないから命の危険にさらされるのだが、メタファーとして他人と自分の痛みがわかるようになるドラマにもしているわけだろう。





 

「ビバリウム」

2021年03月20日 | 映画
サバービア(郊外)の画一的な大量生産の住宅街は「シザーハンズ」で見るように中産階級の生活のシンボルなのだが、その人工性と画一性を極端にしたような寓話的であると同時に妙に生々しい不気味さを持った世界観の造形が面白い。
ウルトラセブンの「あなたはだあれ?」に出てきた団地全体が侵略者の基地に入れ替わったみたいなテイストもある。
マグリットの絵のような町の風景の色合い、特に雲の形。

どうしても脱出できない設定という点ではブニュエルの「皆殺しの天使」を、「子供」が発する奇声は「SF ボディスナッチャー」をちょっと思わせた。
主人公の若夫婦が住む家が9番というのは「プリズナーNo.6」を上下逆にしたものか。

生活して子供を育てて死んでいくといった一生を極端に凝集しているわけで、見終えてしばらくすると寓意があからさますぎる気もしてくるが、才気まんまん。

屋根に書いてある四文字語をFUKUとスペルを間違えているのはアメリカの市民的常識に反するということか。

ロルカン・フィネガン Lorcan Finnegan 監督のFOXESという短編をYouTubeで見てみると、同じようにイギリスの画一的な中産階級向けテラスハウスの住宅街を舞台にしているのがわかる。フィネガンという名字からしてアイルランド系だろうか。

ベルギー、デンマーク・アイルランド合作。映画本編が始まる前の製作会社のタイトルがやたら多くて、目ぐるましいほど。




「許されざる者(1960)」

2021年03月19日 | 映画
原作者のアラン・ルメイはジョン・フォード監督の「捜索者」の原作者でもある。
並べてみると、インディアンに育てられた白人の話という点で一致している。
「捜索者」でインディアンにさらわれて育てられたナタリー・ウッドが白人の世界に戻った後の話みたいな趣もある。

映画史的にはおおむねオードリー・ヘップバーンが柄でもなく西部劇に出演した失敗作として扱われているし、実際今の目で見るとインディアン(あえてPC的に問題のあるこの言葉を使う)役を明らかに白人が演じていたりと違う意味で問題あるのはわかるのだが、かなり複雑なモチーフを扱ってもいるように思える。

「捜索者」は実話ネタであることがわかってきていて、白人とインディアン(
インディアン相手だというのに黒人の蔑称であるニガーという言葉を投げかけているのだから有色人種一般というべきか)、征服者と被征服者の関係に親と子供、父親と娘、キリスト教者と非キリスト教者といった関係がだぶり、しかも単純に一対一ではなくあちこちねじれている。

考えてみるとオードリーは出生も出演作の舞台もヨーロッパの人で、アメリカ映画界からすると異邦人ではあった。
もとよりアメリカ自体が異邦人の集積だが、スターイメージとしてはヨーロッパのモードの表象で、アメリカ内部には収まらなかったように思う。

バート・ランカスターのプロダクションであるヘクト・ランカスター・プロの製作であることも目を引く。
ランカスターは「アパッチ」「ワイルド・アパッチ」とロバート・アルドリッチと組んで自らインディアン役を演じたのも含めて今見ると西部劇のお約束を破った西部劇も作っている。
アルドリッチは母方がロックフェラー一族で、親族に上院議員や州知事や大銀行頭取がごろごろしているのだが、鬼っ子的にも反アメリカ的な映画を作り続けた監督だ。
同じくアルドリッチと組んだ「合衆国最後の日」では核ミサイル基地を乗っ取ってアメリカの恥部である文書の公開を迫る役をやっているのだから、かなり大胆なアメリカ批判的な企画に参加あるいは主導してきたといえるだろう。

アメリカ映画史上最大の人種差別映画にして最も重要な傑作「国民の創世」の主演者であるリリアン・ギッシュが、「狩人の夜」に通じるライフルを構える老婦人役で出てくるのも既視感がある。





「コロンバス」

2021年03月18日 | 映画
監督のコゴナダ Kogonada は小津安二郎監督とのコンビで有名な脚本家・野田高梧からとった仮名。スター・ウォーズのヨーダが溝口健二監督とのコンビで有名な依田義賢からだったり、脚本家から名前をとるという発想はなかなか日本にはないだろう。
小津作品に関する論文で博士号 Ph.D をとっているらしい。

この作品も全編見事な構図の静止ショットの連続で、切り返し、切り返しのつなぎ方もあからさまに小津。
さらに現代建築の造形美とも結びついている。

ただし内容は当然ながら完全に現代アメリカのもので、主人公もそれを演じるジョン・チョウも韓国系。

正直アートし過ぎていて見ていて面白いってのとは違うが、つまらないのとも違う。なんだかマイノリティーが過剰にインテリたらざるを得ない境遇というのが感じられる。




「アウトポスト」

2021年03月17日 | 映画
大半のシーンが敵の真っ只中の圧倒的不利な態勢での戦闘という点で「ブラックホーク・ダウン」以来といえるし、異国で異人種に囲まれている孤立した砦でのアメリカ軍の戦いという点では西部劇以来でもある。

砦があるのが高台ではなくすり鉢型の地形の底なのだから、敵のタリバンにとっては360°どこからでも姿を隠したまま攻撃できるわけで、なんでこんなところに砦を構えたのかと呆れてしまう。

音響効果の凄まじさ、いつどこから砲弾銃弾が飛んでくるかわからない恐怖とショックの醸成にすぐれ、どうやって撮ったのかと思うカメラワークも随所に見られる。

実話もので、大勢の兵士たちをいちいち名前つきで紹介するが、ドラマとして特定の誰かをピックアップして粒立てる処理はあまりしていない。上官も含めて、あくまで兵士としての駒たちとして扱われる。ドラマでいう人物紹介やキャラクター描写はないに等しい。

クリント・イーストウッドの息子のスコット・イーストウッドが主役の一人として出ているが、あくまで大勢のなかの一人という扱いにとどまる。

エンドタイトルで本物の兵士たちのうち戦死した者の写真を俳優のそれと並べて享年とともに一人一人紹介する。
中には自分の役を自分で演じた人までいる。
実話ものにある、本当にあったことなのだという強調が極めて強く出ている。

それだけこの絶望的な戦いを戦い抜いたことはアメリカにとっては賞揚することらしい。
正直、勝ったわけでもないし、第一あんな所に砦を構えた段階で戦略としては失敗しているのだが、すんなり勝つのでは戦いの意義を説くにはあまり効果的ではないのだろう。
絶体絶命の時にちょうど空爆されるのがまた、西部劇の騎兵隊の到着のよう。

タリバンはもちろんだが、周辺の部族の長老たちの描き方も、西部劇での信用できない異人種のパターンそのまんまなのは、ほとんど開き直って中途半端に異人種の扱いに気を使わず小状況の話としてアメリカ軍内部の視点で統一した結果ではあるだろう。
このあたりは「ブラックホーク・ダウン」同様の、敵を意思や個性のある人間として描いていないという批判が当然成り立つ。

もちろん異人種にとっては信用できないのはアメリカの方で、裏切ってきたのもアメリカの方であるのは言わずもがなだから映画を見ている間はそういう批判はいったん引っ込めて見ていた。しかし一定の満足感をもって見終わってからしばらく経つと、批判は批判として保持しないとと改めて思う。

見事なくらい男しか出てこず、姿すら映らない(兵士の一人の妻の写真もほとんど見えないくらい)ので、ラスト近くで女の声が聞こえるとほっとする。
そこで終わればよかったのだが、姿まで見せてしまうのは蛇足気味。




「ルース エドガー」

2021年03月16日 | 映画
ダイアローグが見事だなと思っていたら、エンドタイトルで原作が戯曲だと出てなるほどと思った。

完璧な優等生で通している学生がちょっと瑕疵が入ると一気に怪物になってしまう、というのは作中でルースがオバマに喩えられているのに見合って、理想(というほどのものでなくても)が崩れたら一気に逆方向に振れてしまう力学を良く現した。

そのどちらともつかない不安はルースという名前が光という意味なのが象徴するように、光あるところに闇もあり、光が強いほど闇も深く感じられてしまう。

ルースが本当は何をしているのか、していないのかはまったく画面に出ない不気味さ。おそらく戯曲の時に設定されたルールだろう。

セリフのやりとりの、光か闇かどちらの極の間で磁力が釣り合うような緊張感が見事。

選んだ人物の代弁をするという学校の課題でフランツ・ファノンを選ぶと教師の方が顔色を変える。
先日、NHKのEテレ「100分で名著」でファノンの「黒い皮膚・白い仮面」を取り上げていたが、ファノンは黒人自身が持つ乳白化、内面化された差別意識、白人になりたがる心理(日本人の名誉白人意識ともつながるだろう)を描いた作家で精神科医なわけだが、それをとがめた黒人女性教師のどこか身に覚えがある(だからルースのことを気にかける)ということだろうか。




「野球少女」

2021年03月15日 | 映画
プロになるには女子という体力的にも社会的にも大きなハンデを負ったヒロインが、ムリに速球を投げるのではなく回転数の高さを生かしてナックルを投げる投法に切り替えるのが、一本の物差しに囚われるのではなく、それぞれのやり方で進化すればいいという多様性の考えを見事に現した。

ヒロインを追い越してプロ指名を受ける同級生の男子の描き方がいい。
幼なじみでリトルリーグからずっと一緒に野球をやってきたが高校卒業時には残っているのは二人だけ、小学生の時はヒロインより全然身体が小さかったのが(そういえば小学生から中学初めの頃は女子の方が身体が大きいのだったな、と思い出した)高校になってぐぐっと身体が大きくなり、それまで負けていた悔しさをばねに力をつけたという設定で、それなりにコンプレックスを自分の美点で克服したともいえる。

前半羨望や嫉妬の色を見せていたヒロインが、ラスト近く仲間意識を確認して(変に恋愛がらみにしない)プロになれたのを素直に祝福するまでになるのがとてもいい。

厳しくあたる母親も、かなり生活能力のない父親もそれぞれ仇役がかって描こうとすればできたのを、それぞれ感化されて変わっていく、
ちょっとだけ出るアメリカ帰りの女子の点描に至るまで、キャラクターそれぞれに目が行き届いていて、良い意味で優等生の模範答案みたい。

しかし、昔だったら夢物語かお笑い草だったような女性のプロ野球選手の話がこれだけ堂々としたドラマになる(ハードルが高いからドラマになるのだが)のだから、時代は変わるもの。




「あの頃。」

2021年03月14日 | 映画
客観的に見たら相当にどうしようもないオタク連中を笑い者にするのでも同化するのでもなく、微妙な距離感をもって描いているバランス感覚に優れているのは美点。
特にアイドルに興味があるわけではない人間でも入り込める。

ただ、その分彼らが時間が経ってもオタクを“卒業”するとも、続けるともつかないで、実際にあったこととはいえかなり外的な要因で終わりを迎える後半はどうも締まらない。
このあたりで終わりそう、と三、四回思ったくらい。

松浦亜弥その人が出てくるシーンで後ろから撮るとかして外すかと思ったら、山崎夢羽が完コピしているのにびっくり。一瞬当人が出ているのかと思った。
ここで一回個人的には“卒業”してはいるのでしょうね。

松坂桃李が引き受けたことで成立したという感じがかなりする。
およそ冴えない外観に成りおおせているのは役者だから当然とはいえ、やったことのない役をやるのと映画企画として成立しにくいものを成立させるのに利するのと、両方の役割を果たしている。

仲野太賀がしきりと標準語だと「おまえ」「あんた」という代わりに関西弁で「自分」と呼ぶのが、本当に自分にかえってくる言葉と機能している感じ。




「ガンズ・アキンボ」

2021年03月13日 | 映画
殺人ゲームとその中継を娯楽として消費する大衆という話は70年代の「デスレース2000年」「ローラーボール」、80年代は「バトルランナー」と連綿と作られてきていて、これもその延長上にある。

違うといえば違うのは中継するメディアがテレビではなくネットになっていること。もっとも中継して儲ける責任者はいるので、それをやっつければ勧善懲悪としては成立するけれど、肝腎の無責任に人の殺し合いを楽しんでいる連中は問われないまま。

akimboというとなんだか日本語がかった発音だが英辞郎によると
  • 両手を腰に当て肘を外側に張って
  • 〔手や足を〕折り曲げて
という意味らしい。どちらも映画の銃と腕を強引に融合させてしまった
タランティーノがかったセンスの姿には近いけれどかなり違う。

映像と音響のソリッドな刺激が身上の作り。その限りではまずまず。
ダニエル・ラドクリフがハリーポッターの頃からはすでに大幅に変わったことを前提にしたみたいなやさぐれ感全開。




「ターコイズの空の下」

2021年03月12日 | 映画
ソ連による日本兵のシベリア抑留と強制労働はよく知られているが、ソ連の衛星国になったモンゴルの建国にも日本兵の強制労働があったということは、正直初めて知った。

抑留中にモンゴル人女性との間に娘をもうけた元日本兵(麿赤児)が、復員後実業家として成功したが、息子が早く死に跡継ぎたるべき孫(柳楽優弥)が金に飽かせて遊び呆けているので、日本で麿の持ち馬を盗み出して東京の街を走らせたモンゴル人をガイドにモンゴルにいる娘を探しにやらせる。

こうやって書いてみてもまわりくどくて建てつけが良くない話で、それだけ成功しているのだったら早いとこまともな調査能力のあるスタッフに娘を探しにやらせたらいいのではないかとか、あんな広い平原でどうやって探すのかとか、それ以前にまずモンゴル抑留というのが具体的によくわからない。

戦争とその後の処理をストーリーに絡ませるにはあまりに描写が手薄。
シベリア抑留のイメージを応用するしかないのだが、不可侵条約を一方的に破ってきたソ連と極寒のシベリアと平原が続くモンゴルではずいぶん国のありようも視覚的にも違う。
モンゴルと日本との関わりを描くのだったら、それこそモンゴル出身の力士のスカウトの話にでもした方が自然ではないか。

あと、子供がいるのに帰国した後連絡をとった形跡もないというのは森鴎外の「舞姫」ではあるまいし、今では受け入れにくい。

現代の在日モンゴル人が何を思って馬を盗んで道路を走らせたのか、モンゴル人から見ると不自然に人工的な環境にいる馬を解放したかったらしいと思うほかないのだが、それもなんとなくそう解釈するしかないという程度にとどまる。

モンゴル平原のおおらかな風景はさすがに魅力的。
もっとも平原で立ち小便するというイメージはユーモラスというにはあまりセンスよろしくない。

柳楽優弥は日本でカネを持て余して遊び呆けている時とモンゴルの自然の中では目付きがまったく変わる、というかそちらの方が本来の持ち物だろう。

モンゴルの人気俳優だというアムラ・バルジンヤムの茫洋とした佇まいも魅力的。こういうとなんだが、ちょっとピエール瀧に似てると思った。




3月11日のつぶやき

2021年03月11日 | Weblog


「スカイライン 逆襲」

2021年03月10日 | 映画
エイリアンの星に行ってからは、もうあからさまに「エイリアン2」そのまんま。何しろ原題がALIENS(エイリアン2の原題)ならぬSKYLINESだ。

部隊が不意打ちで大幅な損害を出すところから、女性兵士の自爆から、火炎放射器による殲滅から、エイリアンを格納庫から吸いだして退治するところから、パクリとかオマージュというのを通り越して、そういう共通基盤があってファンが共同で享受するのを前提にしたみたいな作り。

エンドタイトルにSkyline,Beyond Skyline,Skylinesを応援してきた世界のファンに感謝しますと堂々と出てくるくらい。

SFアクションにカンフーもフューチャーして、エンドタイトルに撮影中のアウトテイクを堂々と出す(グリーンスクリーンが堂々と写っている)というのもタランティーノ以後というか、好きなものをごっちゃにしてみんなで楽しむ式の作り方楽しみ方の産物という感じ。




「汝のウサギを知れ」

2021年03月09日 | 映画
ブライアン・デ・パルマの初期の自主制作作品Greetings('68)Wedding Party('69)Hi Mam!('70)はそれぞれ日本では「ブルーマンハッタン Part2 黄昏のニューヨーク」「御婚礼 ウェディング・パーティ」「ブルーマンハッタンPart1 哀愁の摩天楼」のタイトルでロバート・デニーロやジル・クレイバーグが出ていたりしているからVHSリリースされたわけだけれど、日本公開に関してはかなり不遇。
一応メジャー系で撮った最初の映画であるこれも今までビデオも出ていないしこのCS放映が日本語字幕つきで見られるのが初めて。

正直、それもムリないところもあって、おおむねコメディを狙って外してるのだから相当に見ていてツラい。

キャサリン・ロスのフィルモグラフィーで「あなたのウサギを知ること」のタイトルで「ステップフォードの妻たち」(のちにニコール・キッドマンでリメイクされた、そのオリジナル版)と並んでちらちらと見ていた。
そのロスの出番も半ばを過ぎたあたりだし、綺麗で可愛く撮れているのはいいとして(何しろ役名がTerrific-Looking Girlだ)、あまりに主人公に都合いいので何だろうと思う。

考えてみると、デパルマは「キャリー」「アンタッチャブル」といった大予算の大ヒット作も作る一方で、「ミッドナイトクロス」みたいな大予算の大コケ作品
も大家になってからも小規模予算の作品も行き来しながら作っていて、批評的にぶっ叩かれたことは数知れず。

双葉十三郎が「ブライアン・デ・パルマ作品はどこか欠陥商品的なところがある」と書いていたけれど、はたから見た作風が確立している割に妙に外れることがある。一番一応好きなものを作れた時期にすでに外しているのだから。