prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

drunken angel(1)

2005年08月13日 | drunken angel(小説)
 朝の4時、ぼくは目を覚ました。覚めてしまったというべきだろう。窓の外はまだ暗く、ガラス戸を通して寒気が伝わってくる。
 そのままベッドに潜り込んだまま、時が経つのを待とうとした。テレビをつけ、ニュースをしばらく見る。画面の隅に時刻が表示されている。分の数字が4から5へと一つ増える。じいっと見ていると、長い時間だ。起き出さなくてはならない時刻までの限られた時間が、その分確実減った。
 時間をムダにしてはいけない。
 そっと階段を降り、サンダルをつっかけ、音をたてないようにして玄関のドアを開けて、外に出た。
 もうすぐ四月とはいえ、未明の空気は冷える。上を羽織ってくるのだった。足早に2ブロック離れたところにある一番近いコンビニに向かう。
 店には他に客は誰もいなかった。店員の姿も見えない。
 ぼくは迷わず店の奥の棚に向かう。
 素早くいくつも並んだ似たようなデザインのチューハイ缶のアルコールの度数を一瞥する。5%、6%、7%と少しづつ違う。
 7%のを2本抱え、レジに向かう。
 黙って無人のレジの前に立っていると、すぐ無言で店員がとんできた。いつもながら、どうやって知ったのだろう。
 機械的にレジが打たれる。
 374円になります。
 財布の中を探って1円玉を四つつまみ出しておく。あとは500円玉だけだ。ごそごそ小銭を漁る。十円玉は…三つだけ、五十円玉は、ない。
 504円からお預かりします。130円のお返しです。ありがとうございました。
 この鬚面で右耳だけピアスをした店員と顔を合わせるのは何度目だろう。この時間だと週のうち三日は詰めているみたいだから、一月通ったとして、十二回は顔を合わせている計算だ。
 こっちが顔を覚えているのだから、先方も当然覚えているだろう。できれば覚えないでほしいのだが。
「お酒、タバコは未成年には売りません」
と、表示が出ている。
 何を今更、と思う。体に毒だというのなら、未成年相手だろうが成人相手だろうが、毒には違いないだろう。酒屋が酒を自動販売機で売るのは自粛しても、その分コンビニを売っていれば同じことだ。本当に体に毒になるのを心配していただけるっていうのだったら、酒など売らなければいいだろう。税金をとれるから売らないわけにもいかないのだろうが。
 役人のやることは、辻褄合わせばかりだ。ちっとばかり酒税を増やしたからって、酒で体を壊す人間が増えたら医療費が増えてかえって損だぞ。俺が言うのも変だが。
 2本のロング缶を入れた袋をぶら下げて、コンビニから出た。 
 人通りはないが、胸に隠すように抱えて急ぎ足で戻り、そっと玄関のドアを開けて忍び込む。誰も起きてくる気配はない。
 足音を殺して階段を上がり、自分の部屋に入って鍵をかけ、少しほっとした。
 胃が荒れているので、すきっ腹になると むっと吐き気がわき上がってくる。
 すぐプルトップを開ける。甘ったるい匂いが鼻をついた。少し酔っている時の方が、鼻はきくようだ。
 そのまま一気に中の液体を喉の奥に流し込んだ。いちいち口に含んで味わったりはしない。胃が刺激され、吐き気が改めて噴き上げてきそうだ。だがすぐ胃に何かがしみこんできて、感覚がすぐ麻痺し、吐き気が薄れる。
 頭がぼうっとしてきた。テレビをつける。さっきと同じニュースを繰り返しやっている。ただ、時刻だけは着実に進んでいた。
 朝食までの短い空白の時間、それから後の長い空白の時間を想像しただけで、頭が押しつぶされそうな気分になり、二口目、というより二回目の流し込みをやった。
 感覚が麻痺する。
 頭の回転が鈍り、時間が経つのが早くなる、というより知らないうちに勝手にとっとと進んでいってしまうようになる。自分が自分でなくなるような気分。
 天気予報、いや最近は気象情報か。今日は晴れるらしい。ありがたい。
 さらに占い。今日の運勢は良くない。チャンネルを変える。こっちの方がいい。こっちを信じるか。いや、どうせ朝からこうべろべろで良い一日になるわけがない。悪い方を信じるか。いや、信じるというより悪くするのだ。
 七時。そろそろ用意しないと。まだ一本残っている。いくらなんでも、これをまた一気飲みは無理だ。飲み終えた方の缶は、鞄の中に隠す。
 鍵を開けて、階段を降りる。ふらふらして、危ない足取りだ。意識して手すりをしっかり握りながら降りる。玄関に来ると、来客用に用意された消臭スプレーの缶が目にとまった。ふりまいてみる。これで自分の酒臭さがいくらかごまかせるだろうか。

 台所に立った。かなり年期が入り、暖かくなったせいか、最近めっきりと動きが鈍くなったゴキブリを見かけることが増えた。
 炊飯器で飯が炊ける匂いが鼻をくすぐったが、さっきと違って、酔いがまわりすぎたせいか、あまり匂いを感じない。
 冷蔵庫を開け、野菜室からホウレン草を一束つかみ出す。トマト一つに、バナナを一本。あと、卵を三つと牛乳と飲むヨーグルト。蜂蜜は冷蔵庫に入れておくと固まるので、ガスコンロのそばに置いてある。 
 一度、IH調理器具にするという話が出たことがある。年寄りが火を使うと、危ないからという理由でだ。母が女優の浦辺粂子が炊事をしていて着物の裾に火がついて焼け死んだというニュースをいつまでも覚えていて、突然言い出した。だが結局、実際に炊事をするのは息子だからという理由で改装はされなかった。年金生活でそれほど余計に使える金があるわけもなかった。
 冷蔵室からは出来合いのヒジキの煮付けに、豆の煮たもの。
 並べてみると、結構まともな献立に見える。実は料理らしい料理というと、これから作る目玉焼きだけなのだが。あとはトマトを切って、バナナと牛乳とヨーグルトと蜂蜜をミキサーで混ぜてバナナシェーキにして。栄養あるわりに手がかからない、はずだ。
 老人二人を起こしに行く。年寄りは朝が早いなどというが、血圧がさほど高くないせいか、いつまでも寝ている。体力が落ちている分、休まなくてはならないのだろう。
 のろのろと親が起き出す。母が雨戸をあけ、父はシビンの中身を開けに行く。
 その間、こちらは新聞を取りに行く。テーブルに広げて読むふりをする。ニュースはテレビかインターネットかでとっくに知っていることばかりだから、わざわざ読むまでもないのだが、読んでいるふりでもしないと間がもたない。
 父が顔を洗い、鬚を剃っている。後にすればいいのに。席につくと、すっとインシュリンの注射セットを出す。血糖値を計り、いちいち手帖に記録し、注射する。面倒な話だ。だがそうしないと目が見えなくなったり足を切らなくてはならなくなるというのだから、仕方ない。
 血がつながっているのだから、こちらも糖尿の因子は持っていると考えなくてはならない。だから本当は酒のがぶ飲みなどしていいわけがない。カロリーも高いし、膵臓を痛めるのでインシュリンが出なくなるという。そう知っていて、だがまだ一本残っているチューハイのロング缶で頭が一杯だった。
 アルコールの匂いが鼻をついた。一瞬、自分の匂いかと思ったが、注射前の消毒用エタノールのものであることがすぐわかった。いくらかでも自分の匂いが紛らわされるのを、期待した。
 フライパンにサラダ油をほんの少し入れて、火をつける。油が温まってサラサラしてきたのを懸命にフライパンを傾けて全面に広げる。これでカロリーオフのつもりなのだ。
 フライパンを振っているうちに、頭がぐらっとしてきた。
 いったん火をとめ、急いで二階に上がり、部屋にとびこむと急いでプルトップを開け、500mlの中身をニ口、三口で一気に胃に流し込んだ。間にあった、と思った。これで固形物を胃に入れてしまうと、酒は入らなくなる。
 また階段を降りる。炊きたての米の匂いに、熱くした油の匂いが混ざっていた。洗面所から石鹸や整髪料の匂いがしてくる。チューハイにはいかにも人工的な匂いがつけられているから、区別はいけにくいかもしれないと思う。
 ちらと壁の鏡に目をやる。顔は赤くなっていない。だいたい、あまり顔に出ないたちなのだ。しかし、肌が荒れてあちこちに吹き出物が出ている。内臓に来ているのだろうか。口から息を吐いて掌で受けて嗅いでみる。自分では匂いはわからない。
 キッチンに戻り、フライパンに卵を割り入れ、火を細めにつける。割った卵の殻で少量の水をすくって卵のそばにじゅっと空け、すぐ蓋をする。
 長ネギを切る。切ってから、洗うのを忘れているのに気付く。片手鍋にネギを入れ、ジャーからお湯を注ぐ。顆粒状の出汁をひとつまみに、袋に詰まった味噌を絞り出して入れる。どうでもいいことだが、褐色の味噌がにゅうっと狭い穴から絞り出されてくる光景は、どう見てもおかしな連想を呼ぶ。
 そのままコンロの上に置いておく。味噌漉しを使わなくても、湯につけておけばふやけて溶ける。フライパンの下の火を消す。フライパンの蓋の下で、水と油がはじきあっている音が響いている。
 酔っているのに、刃物や火はできるだけ使うな。まだそういう理性が働いているようだ。
 炊飯器の蓋を開け、しゃもじで縦横に切るようにして混ぜる。全体を均一にするため、と母に教わった技だが、本当に味が変わるものかどうか、わからない。感覚が麻痺していなくても、わからないと思う。
 お茶をいれるのを忘れていた。急須の蓋を開けると、お茶の出し殻が入ったままになっている。また一つ余計な手間がかかる。内心うんざりするものを感じながら、シンクに持っていって中身をざっと開けて水で洗う。三角コーナーに水切り袋がセットされていないので、茶の葉はそのまま下水に流してしまう。いいことではないが、仕方ない。
 頭の中に何か詰まっているようだ。細かいところに気がいかなくなっている。アルコールがまわると、ちょっとしたことができなくなる。というより、ちょっとしたことこそできなくなる。
 やっとの思いで御飯と味噌汁をよそう。足元がふらつき、雲を踏んでいるようだ。
 目玉焼きの出来はまあまあだった。白身に細かい穴がぽつぽつと開いている。見てくれも悪いし、舌触りも良くないだろう。一度火を止めた時の余熱が思った以上に残っていて、沸騰したせいらしい。まあ、腹に入れてしまえば、一緒だろう。
 一汁一菜に、お茶に細かい残り物。完璧だ。
 “あれ”はまだ新聞を読み続けている。声をかけると、テーブルに見ていた紙面を開いたまま置く。ちらと見ると、求人面だ。意識してこっちに見せようとしているのだろうか。あと一月で35歳で、事務職の経験のない人間とすると、ほとんど見てもムダに思えて、目をそらしたまま新聞を畳んで片付ける。
 ほとんど自動的に食卓に三人集まり、食事が始まる。もっとも食べ出すタイミングはバラバラだ。父はまだ新聞を読んでいる。母は洗濯物から下洗いするものを分けている。
 自分だけ真っ先に、ぼそっと小声でいただきますと言う。だがいざ食べようとして、箸が出ていないのに気づく。
 くそっ、なんでこんな簡単なことを忘れるんだ。
 箸は洗い槽に干したままになっていた。取って戻ると、父も母も食卓についている。いや、“父”と“母”という感じが感覚の麻痺とともに薄れてきていた。“あれ”と“それ”とでも呼んだ方がぴったりくる気がしてきた。
 食べはじめる。少しもうまくない。むっという温気が鼻をつく。息をとめるようにして、かきこむ。
 ふと気付くと、母が冷蔵庫から目玉焼きにかけるソースを出してきていた。また、忘れた。
 何もかけずに目玉焼きを食べていた。不審に思われないだろうか。
 母が黙って父の目玉焼きにソースをかけている。だが、こちらには一瞥もしない。
 文字通り味気ない目玉焼きを御飯の上に乗せ、味噌汁をかけてすすりこむ。息を止めて、吐き気がしないかどうか、確かめる。
 そそくさと席を立ち、牛乳とヨーグルトとバナナと蜂蜜をあらかじめ入れておいたミキサーをかけてバナナシェーキを作り、三つのカップに分けて、それぞれの前に置く。初めから作っておけば手間が省けるのだが、時間が経つと色が黒くなるのがイヤだという、“あれ”の一言でいったん食べ終えてからいちいち作るようになったのだ。
 バナナシェーキは抵抗なく喉を通る。わざわざ一汁一菜など用意しなくても、これだけで朝食済ませていいのではないか、とふと思う。だが、一応固形物を胃に入れているから無茶飲みしても、まだ体がもっているのだ、と自分に言い聞かせる。
 汚れた食器をざっと水ですすいで自動食器洗い機に並べる。本当は洗剤で下洗いした方がいいのだが、その一手間がとんでもなく億劫に思える。いちいち皿を重ならないよう立てるのがうまくいかない。蓋を閉めようとすると、箸がひっかかって閉まらない。
 思わずうなり声をあげて、強引に閉めるがストッパーがかかってスイッチが入らない。汗が噴き出してきた。その時、洗剤を入れるのを忘れているのに気づいた。再び蓋を開いて箸の位置を直し、洗剤を入れ…、やっと動き出した。全自動といいながら、この機械を入れたらかえって面倒になった気がする。
 なんて細々とした手間がかかるのだ、家事というのは。素面の時でも億劫なその一つ一つが、酔った頭ではとんでもない手間暇に感じられる。だが、それを億劫がっていたら、すぐ“それ”の説教がとぶ。とにかく表面を取り繕って、とりあえず文句を言わさないのが肝腎だ。
 肝腎、か。
 そそくさと自分の部屋に戻りながら、苦笑する。肝腎、といえば肝臓と腎臓。肝心とも書いて肝臓と心臓。どっちにしても、相当痛めつけているのは間違いない。ある時期から、血液検査を受けても結果の数値を見なくなった。確か、一度医者にγ-GTPの値が正常値の上限の3倍だと聞かされたような記憶がある。
 言われなくても右の脇腹が中で突っ張ったような感覚からして、相当悪いのは自覚できた。ただ突っ張っているだけでなく、何かごろごろしたものがあるようだ。“沈黙の臓器”と言われる肝臓が悲鳴をあげている。
 お腹がごろごろいいだした。物を入れたので、胃腸が動き出した。だが、相当に緩いことがすぐわかったので、急いで二階のトイレに閉じこもった。
 勤めている時でも、よくトイレに閉じこもったな。ちくちくイヤミを言われ続けて、お腹が本当に痛くなって、トイレの個室にこもっていると、外からノックしてまたイヤミを言う。よくああいう性格の奴らが、人を使っていられたものだと思う。
 用を済ませるとずっと下痢が続いているせいか、お尻が腫れていて痛んだ。ウォッシュレットを入れればずいぶん楽になると思うが、そんな要求ができる立場ではない。せいぜい出せるだけ出しておいて、外でまた用を足す必要にかられないようにするしかない。
 ワイシャツを着てネクタイを締め、スーツを着る。
 スーツというのも便利な服装だ。これを着ていれば、とりあえず格好はつく。人畜無害であることを証明しながら街を歩くことができる、気がする。高級ホテルに行っても風俗に行っても、それなりにサマになる。
 食事が胃の中で落ち着くにつれ、酔いが収まってきた。
 改めて鏡の中の自分の顔を見る。頭がはっきりしてきたような気がする割に、心なしか顔が赤くなってきたようだ。早く家を出た方がいいだろう。
 2本の空のロング缶を鞄に詰め込み、階段を降りる。
 玄関で靴べらも使わず革靴に足を突っ込むと、“それ”がハンカチを持てと持ってきた。受け取って、そそくさと外に出る。家を出て、やっと一息ついた。
 これから、また長い一日が始まる。

隠れ酒(2)





drunken angel(2)

2005年08月13日 | drunken angel(小説)
 缶コーヒーの自動販売機のそばの缶専用のゴミ箱に、鞄に入れてきた2本のチューハイのロング缶を捨てた。うっかりすると、部屋中に缶がゴロゴロなんてことになる。部屋のゴミ箱はすぐいっぱいになり、机の引き出しにもタンスの引き出しも、開けてみると空き缶だらけ、ということになり、それを自分で忘れていてシラフの時にひょいと開けてぎょっとしたことがある。
 もし“それ”が部屋に入ってきて手近な引き出しを開けてビールだのチューハイだのの空き缶がごろごろしているのを見つけるだろう。ちょっと前だったら、ストレートの焼酎の空瓶がやはりごろごろしているのが見つかっただろう。
 仕事を辞めて無収入になった人間とすると、金をかけずに時間を潰す方法をいろいろ考えないといけない。
 暇つぶしにパチンコする人間は多いのだろうが、そんなムダ金を使う余裕はない。勤め出してから間もなくやったことがあるが、ビギナーズ・ラックはなくてあっという間に一万円スッてしまい、呆然としたことがある。パチンコをやり慣れている人間にはどうってことない金額なのだろうが、これ稼ぐのに何時間働いただろうかと思うと、目がくらんだ。我ながら、気の小さい話だ。
 駅前のパチンコ屋の前を通りかかる。まだ開店時刻まで二時間以上あるというのに、もうたむろしている客が十人近くいる。一体、何をやっている連中なのだろう。自分を棚に上げて、不思議に思った。
 駅のガードをくぐり、反対側の商店街に出る。家族が買い物をするスーパーマーケットは駅のこちら側だから、反対側にまで来ることはまずない。商店街のコンビニに入ると、こっちでも酒を扱っている。焼酎のミニボトルを二本買う。
 ついでに雑誌を立ち読みしていく。今、8時ちょっと前。9時まではまだ時間がある。
 学生たちがごちやごちゃおしゃべりしながら出入りしている。遅刻しないか、と思う。何をあんなにしゃべっているのだろう。自分が学生の時は、おしゃべりする相手などいなかった。別にそれが寂しいとも思っていない。誰かと顔を合わせるのが苦痛なのは、今に始まったことではないようだ。
 考えてみると、学生時代の写真は身分証明書に張るのに使うもののように撮らないといけないのを除いて、一枚もない。何か、自分の姿を残しておくのが気色思えたからだ。それくらい、自分と周囲を嫌っていたのだろう。
 突然、得体の知れない怒りが沸き上がってきた。何に対して。自分が望んでいたような自分でないことか。そういう気もするが、土台どんな人間になりたかったのか、よく覚えていない。もともとそんなものはなかったのかもしれない。
 学生たちは入れかわり立ちかわりして、いっこうに店からいなくならない。うっとうしくなって、店から出た。
 頭の中は、今買ったばかりの焼酎で一杯だった。だが、ストレートで飲むのにはきつすぎる。このあたりには公園もなく、水を飲める場所はない。そう気付くと、踵を返してまたコンビニに戻り、ビールの350ml缶を手にしてから、どうせなら割安な方がいいとロング缶に切り替えた。
 鞄にビールの缶と焼酎のミニボトルを入れたまま、商店街を歩いた。たいした商店街ではないが、人通りが絶えない。そのまま通り過ぎて、図書館のそばに来る。まだ開いていない。さらに歩いて、人通りの少なくなる場所を探した。だが時間帯のせいか、通勤か通学かで誰かしら歩いている。図書館の裏にまわる。さすがに誰もいない。図書館のスタッフが準備で出てこないか心配しながら足を止め、鞄の中で素早くミニボトルの蓋を開く。
 こぼさないようにボトルを口に運び、一口含んで薬でも飲むように大急ぎで飲み下す。カッと喉がやけるところに、これまた急いでプルトップを開けた缶のビールを流し込んで冷やす。それからこれまた人に見られないようにそそくさとボトルの蓋を閉めて、鞄に戻す。こぼした覚えはないが、鞄の中はかなりアルコールの匂いが染み付いていた。
 缶は開けたら蓋をすることはできないので、その場で飲み干さなくてはならない。だが、さすがに続けて飲むことはできない。無理にこれ以上飲んだら、噴き出してしまいそうだ。炭酸が入った飲料は、これだからイヤだ。だかといって蓋を開けた缶を鞄に戻すわけにもいかない。
 人があたりに現れないのをひたすら祈り、一息ついたらビールを一気に流し込み、鼻をつまんで逆流を防ぐ。鼻がつんとして、涙が出る。
 これほどうまくない酒というのも、ないだろう。こんなまずい酒、さっさとやっつけてしまうに限る。続けて何度かに分けて喉にビールを流し込む。焼酎はとりあえず後回しだ。
 やっと缶が空になった。空き缶は鞄に戻す。そのへんに置きっぱなしにはしない。こんなところで、イイコぶっても仕方ないのにな、と苦笑した。
 図書館の表玄関にまわる。まだ開いていない。ふらふらとその場を離れる。商店街に戻ろうか、そのへんをぶらつくか。同じところを通って、顔を覚えられるといけない。知らない道を選んで、あてもなく歩き出した。戻る時困るかもしれないが、その分時間が潰れる。
 きちんとスーツを着てネクタイを絞めた働き盛りの年頃の男とすれ違った。外観だけだったら、自分も似たようなもののはずだ。すれ違いざま、ちらと視線をやるが、相手は見向きもしない。そんな暇はないのだろう。また、こっちも見かけはそれほど変ではないのだろう。そう思うことにする。
 汗がどっと噴き出てきた。飲んだビールがそのまんま汗になったみたいだ。たまらず汗をハンカチで拭くが、すぐぐしょぐしょになってしまう。まったく、スーツというのはなんて暑苦しい格好だろう。
 たまらず、引き返した。幸い、やっと図書館が開いていた。
 中に入ると、冷房はきいていないが日射しをさけられるだけ楽になった。
 もう数人が入館している。年輩の、隠居暮しをしているらしい人もいるが、ずっと若いせいぜい40代らしき人もいる。何をしている人なのか、わからないし、知りたいとも思わない。先方もおそらく同じだろう。
 ぼくは本棚を見てまわった。
 集中力が落ちているから、まとまった本は読めない。雑誌コーナーに行き、適当に選んでぱらぱらめくる。すぐ別の雑誌を手に取り、拾い読みして戻す。
 席の温まる間もなく、手洗いに行く。
 誰もおらず、人に見られる心配もなさそうだが、念のため個室に入って鍵をかける。鞄を開け、再びミニボトルを出す。深呼吸し、中身をぐいとやって、すぐ外に出て洗面台の蛇口をひねり、水を掌ですくってがぶ飲みする。ちょっとでも酒というより薬のような味が口の中に残らないよう、口のなかを水ですすぐ。
 鼻を通る空気が妙に熱くなる。頭の芯が痺れたようになる。やっと人心地ついたような気がした。
 もう一回、口をすすいでから手洗いを出た。
 本棚をあてもなく見て回る。家庭用医学書が何冊が並んでいるので、取り出しては拾い読みした。
 アルコールの過剰摂取による身体疾患の例がいくつも並んでいる。
 もちろん、飲み過ぎれば肝臓が悪くなる。肝臓がアルコールを分解できる限度は一日にビールで中瓶一本程度らしい。その程度で満足して飲むのをやめる酒呑みなどいるだろうか。バカげた指標だ。
 その限度を越えて飲み続ければ、壊れた肝臓の組織が繊維化して固まってしまう。おそらく今はその段階だろう。もっとも脂肪肝程度だったら一ヶ月とか長くて三ヶ月禁酒すると、たいていは回復するという。もっとも、実際にやるとなると、その一ヶ月の長いことといったらない。
 なぜ俺は飲むのか。シラフでいると、長い長い無為な時間に押しつぶされるようになるからだ。それ以上行くと、アルコール性肝炎になる。もっとも割合からいくとウィルス性の肝炎の方が9割がたを占めている。よっぽど飲まない限り、そうそう簡単にはならないらしい。とはいえ、黄疸になった
 さらに悪化すると、肝硬変になる。
 そうなると黄疸が出たり、手のひらが赤くなったり(手掌紅斑)、胸の皮膚に毛細血管が蜘蛛の足のように浮き上がってくるクモ状血管腫、男でも乳房が大きくなってくる女性様乳房、腹水、アンモニアなどの老廃物が肝臓で分解されなくなって毒素が頭に回ってくる肝性脳症など、よくもまあというくらいロクでもない症状が並ぶ。
 幸い、どれもまだ自分には当てはまらない。
 アルコール性肝硬変はたとえどんなに重篤でも移植はしてもらえないという説があるが、本当だろうか。すぐ飲んでしまうからムダという判断もあるだろうし、たいてい収入もないまま飲み続けているから、手術費用など捻出できるわけもない。アルコール性ではないが、政治家の河野一郎がやはり政治家の息子の河野太郎から生体肝移植を受けた時の費用が二人合わせて2000万円とかいっていた。どこまで正確な数字か知らないが、政治家でもなければ出せない金額だ。もちろんそんな鐘など、逆さにして振ってもこっちに出てくるわけもない。
 飲み過ぎると、悪くなるのは肝臓だけではない。膵臓がアルコールで痛むと、膵臓が分泌する消化液で膵臓自身が消化されてしまう。劇画原作者の梶原一騎が五十歳で死んだ直接の死因は心臓発作だったが、その前に倒れたのは「激症壊死性膵臓炎」だったはずだ。医者が手術のために開腹したらほとんど膵臓は溶けたも同然の状態だったという。致死率が100%に近く、癌の方がまだ見込みがあるとすら言われた病からいったん回復する体力がありながら、結局長続きはしなかった。
 股関節。大腿骨骨頭壊死といって、大腿骨の股関節を形成する部分(骨頭)が腐ってくる。痛みのために次第に歩けなくなり、日常生活にも支障をきたすようになり、美空ひばりが晩年これで苦しんでいたという。酒は骨まで侵すということか。
 飲み過ぎて血を吐くというのは、肝臓が痛むので血が流れにくくなって食道近くを通っている静脈に血が余分にまわってきて破ける、ということらしい。
 アルコールを大量に取り続けていると、脳が縮んでくる。
 小脳が縮むと足腰が立たなくなって飲酒していないのに千鳥足になる(小脳性歩行)、舌がまわりにくくなる(構音障害)などの症状が出現する。
 大脳、特に高度な意識活動を司る大脳の前頭葉が小さくなることがある。前頭葉を人為的に削除する手術(ロボトミー)は、どんな凶暴な精神病患者でもおとなしくなる代わり“人間性が破壊される”という理由で禁止されている。
 我ながら、いろいろ知ってる。知識だけはある。
 知ってるのはいいとして、だからアルコールが体に悪いってことに変わりがあるのか? 悪いとわかっていて、なんで飲むんだ? 気持ちがいいからか? ちっとも気持ちよくないぞ。むしろ気分は最低だ。
 アルコール依存症だな、と思う。自分で思う。思う、ではなくて依存症だ。客観的、医学的な事実だ。
 十年とか長い期間ずっと飲み続けていると、アルコールで脳が変質して“普通”の飲み方ができなくなる。いったん飲むとほどほどのところでやめることができなくなったら、たとえ酒を年がら年中飲むわけではなくても、依存症なのだ。
 酒を飲んでいない時は別になんともなくて、何ヶ月でも何年でも、場合によっては何十年でもずうっと飲まないで過ごせるのであっても、いったん飲んだら止められなくなり、元の木阿弥になってしまうのが、依存症なのだ。
 アルコール依存症は、「否認の病い」だという。つまり、自分が依存症であることをなかなか認めない。いつでもやめられる、とかセーブできる、とか言い訳を並べる。事実、一回ニ回ちょっと飲んでやめる、程度のことはできたりする。だが、何かの拍子で飲み出したら線が切れたように飲み続ける。
 自分は、否認はしない。なるほど自分はアルコール依存症だ。格好つけずにアル中だ、と言ってしまっていいではないか、とも思う。
 もっとも、自分がアル中だと認めたからって、偉いわけでもなければ何らかの解決になるわけでもない。
 ミニボトルは、二口飲んだ。一本はいつも三口に分けて飲むから、あと一口と一本あるわけだ。そう思うと、安心した。
 席に戻る。いいかげん、アル中の本をまた読む気にはならず、つまみ食いをするようにあちこちの本を引っぱり出してはちょっと拾い読みしてはまた戻すのを繰り返した。

隠れ酒(1) 隠れ酒(3)



drunken angel(3)

2005年08月13日 | drunken angel(小説)
 こういう日を過ごすようになって、もう一年を越す。
 収入らしい収入もなくて、よくこんな生活ができるものだと思う。そうできるのは、一応働いていた時の貯えがあるのと、親元にいて衣食住が一応足りているからだ。もっとも貯えの中から一応一定金額は家に入れてはいるが、いつまで続くことか。
 こういう生活を送るようになるとは、つまり勤めを辞めることになるとは思わなかったとも言えるし、予感はあったとも言える。
 もとより、一つの会社にずうっと勤めていられるとは、初めから思っていなかった。高校いや中学の時から、いわゆる勤めを続けられるとは思っていなかった。というより、できるわけがないという妙な確信があった。勤めるというのは、やりたくないこと意に染まないことをやるということで、それに耐えられるとは思えなかった。かといって、何がしたいというでもなく、何をしたいのかもわからなかった。ただ、嫌悪感だけがあった。
 高校も行きたかった高校ではない。大学も行きたかった大学ではない。だからといって、他に本気で行きたかったところがあったわけでもない。それでも登校拒否をするわけでもなく中退もせず落第もせず、しかしおよそぱっとしない成績だが見かけは大過なくとにかく卒業だけはした。
 面接には落ち続けた。いくらあらかじめもっともらしい答えを想定していても、面接官は意地悪くその隙を突いてきた。どこがどう悪いというより、必ずなぜうちの会社を希望したのか聞かれ、そんなことわかるか、と思い続けたのが、顔に出たのだろう。
 いくつ面接を受けても落ちた。何十社受けたか、覚えていない。業種も職種もまちまちだった。そのうち、自分はこの社会で必要のない存在だと思えてきた、というより前からそうだと思っていたのが確認できた。
 受け続けているうちに一つ、ほとんど面接らしい面接もしないで受かった会社があった。商品取引の会社だった。実のところ、商品取引とはどんなものなのか、全然知らないで受けたのだ。商社の一種かと思っていたくらいだ。
 研修はハードだった。同じグループの会社を合わせてとはいえ、100人近くが合同で合宿したのには驚いた。今どき、なんでそんな大勢雇うのか不思議だったが、後でそのわけはわかった。
 とにかく、毎日6時起床の筈が、研修生の誰かが“やる気”を見せるために5時半起きすると、すぐそれが全体の基準になって毎日5時半起きになってしまう。
 営業するためには登録外務員という資格をとらなくてはならない。そのための勉強が毎日あった。しかし、正直大して難しい試験ではなく、わかりきったことを何とも毎日反復するのにたちまち飽きた。その一方で、ソフトボールの試合をこれまた毎日やり、負けるとグラウンド10周させられたりした。一体、ソフトボールと商品取引と、何の関係があるのかと思う。要するに、やみくもな根性論と、とにかくバカげたことでも上の言うことを聞くように洗脳するための無意味なシゴキ、としか思えなかった。
 バカになれ、としきりと訓練員は繰り返した。訓練員といっても、一年前に入社した、まだ新人に近い社員たちで、これが本物の新人が何か問題を起こしたりあまり教えたことが身についていなかったりすると、たちまち上から雷が落ちる。その分、ますますこっちの管理はきつくなる。バカになれと言われなくても、いちいち物を考えていたらやっていられなかった。
 何かというと、大声を出した。「俺はーっ、どこそこの、なんとかだーっ」と名乗ってから、一日の目標、遠い目標を絶叫する。同じものを何度も使えるわけではないので、いちいち考えなくてはならず、いちいちでっちあげるのに苦労した。

  研修を終わり、仕事が始まった。まず、テレコール。電話帳や名簿をごっそり集めてきて、片端から電話をかけてまわる。中には、どこから持って来たんだと思うような名簿もたくさんあった。
 商品取引とは、簡単にいえば相場のことだった。株の代わりに小豆(あずき、ではなく専門用語でしょうず、と読んだ)や大豆の相場の上下を見越して売買して利鞘を稼ぐ。正確にいうと、客に利鞘が稼げますといって勧誘し、手数料を稼ぐ。
 実際に小豆や大豆などを売買するわけではなくその価格だけをやりとりする。ふと、人間も全部点数をつけて分類選別するのと同じ流れなのか、と思ったりした。しかも、取引の全額を用意する必要はなく、ずっと小額の証拠金だけ出せば、莫大な金額の取引ができる。儲かる時は大きいが、損する時も大きい、ハイリスク・ハイリターンだとしきりと上は主張した。
 だが何か新しい価値を作るわけではなく、損する者から得する者へ金を移すゼロサムゲームだ。誰か得するためには誰か損しないといけない。そして損した者は普通ニ度と手を出さない。事実、ほとんどの客が一見さんだった。要するに、元から体力のある者が、ない者から吸い上げるシステムではないか、と思い出すと、そうとしか見えなくなった。
 “良心的”だからといって、それが何か意味をもつわけもない。そういう意味のことを上に提言してみたこともあったが、「それはおまえ、愚痴だぞ」と一言で済まされた。
 損すると目をつりあげて乗り込んできたりする客もたまにいた。突然飛び込んで着て、あたりかまわず大声で喚き続ける。驚くのは新人だけだ。一年以上在社している者は、またかという視線をちらと送ったまま、無視し続ける。担当の社員が相手をする。のらりくらりと言い逃れを続ける。ラチがあかないからといって、上役を呼び出すところまでいくこともある。だが、上役というのは、のらりくらりの場数をより踏んだ者という意味だ。呼び出したところで、何らかの進展があるわけもない。むしろ逆行しているのだが、それに気付く者はいない。土台、まともな思考能力など働かない状態になってから乗り込んでくるのだ。冷静な、あるいは冷ややかな態度を崩さなければ、子供がだだをこねるのを軽くあしらうのと大して変わりはない。
 勧誘する時はおいしいことしか言わない限り、食い付いてくるわけもない。損するかもしれませんと言われて、納得して金を出す人間がどこにいるというのか。おいしいことを言わせておいて、損した時だけ文句をいうというのも勝手に思え、そのうちこちらも慣れてきた。
 先輩は、営業というのはモノを売るんじゃない、自分という人間を売り込むんだ、と酒を飲むと教えたりした。だが、登録外務員試験を受かるまでは本当は営業してはいけない。だからといって、何もしないで机につけておくわけにもいかない。そこで、先輩の名前を名乗ってテレコールを繰り返した。何回も、何十回も、自分のでない名前を名乗り続ける。自分で自分を洗脳しているようなものだ。
 そのうち、登録外務員の試験を受け、あっさり合格した。同期入社のほとんど全員が合格した。しなかった者もいたらしいが、それがどうなったかは知らない。持っていたからといって、他の業種ではおよそ何の意味のない資格だ。ただ、試験を受けに行く時だけ会社から離れられてほっとしたのはよく覚えている。試験を受けるのが嬉しかったのなど、およそなかったことだ。
 合格すると同時に、自分の名前を名乗れるようになる。それで楽になるかというと、ひたすら電話口に向かって自分の名前を繰り返していると、名前が意味のない音の連なり、記号になってしまい、これまた一種の洗脳であることに変わりはない。
 また、毎日営業日記をつけることが義務づけられていた。だが、一日中ただ電話をかけ続けていて何の成果もないのに、何を書けというのか。うんうんいいながら、なんとかもっともらしい“成果”や明日につながる反省の弁をでっちあげたりする。管轄官庁のお達しらしいが、これまた管理してますよというアリバイ作りとしか思えず、手間暇そのもの以上に徒労感にさいまなされた。
 さらに、何の意味もないのに先輩が残っているからという理由だけで定時に帰るのがはばかられた。ただ残ったところで成果が上がるわけもなく、時間をムダにする焦りから、ますます時間がおそろしく長く感じられるようになった。
 やっと解放されると、とりあえず一杯やり、こわばった頭を少しでもほぐすのが習慣になった。脳が麻痺すると、一転して時間の流れがおそろしく早くなる。そのわずかな自由時間をむさぼるように、さらにアルコールを喉に流し込んだ。眠る時間も惜しんで飲んだ。
 そんなことを繰り返しているうちに、突然会社で倒れた。単なる寝不足だったのか、二日酔いだったのか、体が仕事や会社を拒絶したのか、よくわからない。
 とにかく、いきなりぶっ倒れたもので周囲も驚いて、近所の病院に担ぎこまれた。気がついてから医者の診察を受けたが、どこも悪くないというので、歩いて会社に帰った。
 今、思い出したのだが、あれは仮病だったのではないか。自分でやっておいて“ではないか”というのもおかしな話だが、どうしてもテレコールが続けられなくて、最後の手段として病気のふりをしたような気がする。そんなことをすること自体、普通ではないので広い意味の病気だったとはいえるだろう。
 とはいえ、倒れたというので一時的に「能力開発室」という人事部の一部という位置付けの部署に移された。そこで何をするかというと、何もすることはなかった。一日中机にしがみついて、新聞の切り抜きをするか、取引についての自習するか。本棚にはまとまった数の資料があった。アメリカの穀物メジャーについての解説書もあれば、登録外務員のテキストもあった。
 自分だけではなく、上司たちも普段何をするというでもなかった。一種の閑職のたまり場みたいになってたらしい。それでも時々思い出したようにテレコールしていた。ただ、相手は学生のようだった。就職の決まらない学生に電話し、あわよくば会社に呼び出して、そこそこの相手だったらさっさと内定を出してしまう。自分がそうだったように、いやに簡単に内定が出てしまう。こんなに簡単に出していいのたろうかと思ったら、すぐそれでいいことがわかってきた。
 人事に来てすぐ、研修で一緒だった連中が次々と辞めていくのがわかった。作ったばかりの名刺が、百枚揃ったまま一枚も使われることなく、シュレッダーにかけられて粉々になっていくのを、何度も見た。見覚えのある名前ばかりだった。まだ配属になって三ヶ月と経っていないのに、続々と辞めていく。
 要するに、とにかく人数を揃えるのが大事なのだ。もともと歩留まりが悪いのだから、どんどん採用して、辞める者は辞めてもらって結構、というより全部残られたらむしろムダに人件費がかかっていけない、という態度なのだろう。客がほとんど新規の客ばかりで、リピーターはほとんど出ないから常に幅広くテレコールしてまわって新規客を開拓しなくてはいけないのと、同様だ。
 使い捨てか、と今更ながら思ったのを覚えている。
 能力開発室勤めは間もなく解かれ、元の営業部に戻された。同期の中には、すでに新規を開拓した者もいた。
 気を取り直してテレコールに取り組んではみたが、かけた相手がすでに死んでいて、夫人らしい年輩の女性に何を親しそうに電話してるんだと罵られ、すぐめげた。あるいは、相場は家訓で禁じられてます、という者、黙って電話を切る者、詐欺師扱いする者、とにかく全滅だった。
 しまいには、うちの会社と取引して大損したという相手が出てきた。古い名簿を何度も使っているのだから、そういうこともあると、後になって思ったが、そう受話器越しにそう言われた時はびびった。それでも、その番号を控えておき、後で家に帰ってからかけてみた。会社の人間ではなくて、個人としてどんな状況だったのか、知りたかったからだ。ふざけるなと断られるかと思ったが、意外にも会ってくれるというので、いいかげん遅い時間だったが待ち合わせて喫茶店に入り、話を聞いた。
 特に話自体に新味はなかった。しつこく粘られて一枚(いうのが、売買の単位)だけのつもりで買ったら上がったから買えの、下がったがここが頑張りどころだから買えの、で契約を増やされ(つまり手数料も増やされ)百万単位の損をしたという。まあ、致命的になる損ではなかったが、二度とごめんだ、と。
 不思議とあやまる気はしなかった。理屈からいくとあやまるいわれはないのだが、普通こういう時は頭下げるものではないかと頭では思ったが、あやまりはしなかった。会社の代表あるいは代わりという意識がまったくなかったからだろう。普通に礼を言い、勘定は自分が持って、それで話は終わった。相手もこっちに対して、文句もアドバイスもしなかった。

 ついに、電話をかけるふりをして受話器に向かって一人芝居を始めた。名簿を見ながら、実は存在しない番号にかける。あるいは、#ボタンや*ボタンをさりげなく押す。そしてどこにもつながらない電話に向かい、いかにも誰かと話しているようなふりをする。これで一応、仕事をやっているように見えるはずだった。
 しかしそうしているうちにも、先輩同僚の何人かは実際に電話ではなく会って話を聞いてくれる誰かをひっかけていく。先輩には、行って帰ってきて、びっしり札束が詰まった鞄を持って帰ってくる者もいた。あるところにはあるものだ、と思った。
 そういう成績はもちろんグラフになり、表になり、一目で誰がどんな成績をあげているかわかる。底にぴったりへばりついているのが、自分も含めて数人いた。
 そのうち、これまた嘘の相手をでっちあげて、会ってくると称して外出した。だが、外出して一息ついたはいいが、もちろん相手がいないのだから契約などとれるわけがない。携帯の電源を切り、あてもなく街を歩き回った。コンビニに入り、焼酎の小瓶を買い、ビールをチェイサー代わりにして飲み干した。
 よくこんな最低の社員を雇ったものだ、と思った。この程度の奴を雇うのだから、この程度の会社なのだろう、とも思った。
 気が大きくなったのか、何も考えなくなったのか、時間を潰した後会社に戻り、適当に言い訳したが、もちろんさんざん怒られた。だが、それは契約が取れなかったことを怒られたのであって、電話に向かって芝居したことや、嘘をついて外出したことはバレなかった。不思議なことに、酒を飲んでいることも怒られなかった。まさかそんなことはするまい、と思っていたからだろうか。
 詳しい報告書も提出させられた。もちろんその中身はすべてでっちあげだった。もしそこに書いた電話番号に確認の電話一本入れられればすぐばれただろう。だが、誰も逃した魚を再び追うようなムダな手間をかけようとはしなかった。
 この程度のウソやデタラメも見破れないのか、とまた傲慢にも思ったのを覚えている。帰ってから、あまり迷わず辞表を書き、翌朝早く出て行ってあまり出勤する者がいないうちに提出した。もちろん遺留はされなかった。
 家族には、会社を辞めたことは知らせなかった。正社員と同じ時間帯で働くバイトの口を探し、それまでとほぼ同じように朝出て夜帰る生活を続けた。食費だけはなんとか入れ続けた。正社員の口も一応探したが、また落ち続けたので、すぐやる気をなくした。
  それも30を過ぎると、次第に口がなくなってきた。そのたびにアルコールの量が増えた。それでも、それが原因で首を切られることはなかった、と思う。少なくとも、表だっては。
 そうこうするうち、ついにまったく働き口がなくなった。本気で何でもするつもりならまだあったかもしれないが、そこそこ食えるとなるとイヤな思いをしてまでやってられるか、という気になる。
 国民年金は、払っていない。会社を辞めるとともに支払いは自分でするようになったのだが、もちろんそんなのを払っていられる余裕はない。減免制度といって、収入が少ない場合は申告すれば半額にしたり全額減免にしたりできて、その期間は未払い扱いにならないというので申告したのだが、ふざけたことに却下された。個人の収入ではなく、世帯の収入で審査するので、夫婦で年金収入があるうちの家族は対象にならないというのだ。年金を払っておいて、その中からまた払い返せというのだろうか。人をバカにするのもいいかげんにしろ、と思って確信的に払うのをやめた。
 どっちにしても、こっちが年金を受け取ることがあるとして、雀の涙ほどの支払いしかないのは、はっきりしている。それ以上に、支払いがある歳まで生きているものだろうか。それまでの長い長い、おそらく無為な時間を想像すると、その長さに押し潰されそうになり、改めて酒に手が伸びた。

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drunken angel(4)

2005年08月13日 | drunken angel(小説)
 そろそろ正午だ。昼食を取る時間だ。しかし、食欲がない。本当なら酒だけでなく固形物を胃に入れた方がいいのだ。あまり飲み過ぎると、食べても胃腸が弱って栄養、特にビタミンを吸収できなくなり、それでまた脳が萎縮したりするという。もう萎縮しているみたいなものだが。
 それでもあまり胃を空っぽにしておくと吐き気がするから、いくらかでも食べておくことにする。
 図書館を出て、来た道を帰る。あまり親は駅のこっち側に来ないが、たまにこっちの肉屋で安売りしていたりすると来ることがある。それでばったり顔を合わせるとまずいが、安売りは土曜日に決まっているので、今日は大丈夫だ。
 実際の土日は、どう過ごしていいのか難しい。一日中家でごろごろしているのも鬱陶しい。かといって、どこかに行くにも金がかかる。金がかからない場所は普段行っているので、いいかげん飽きている。天気のいい日は隣の駅近くの公園でごろ寝したこともあるが、これが結構冷えて、一度風邪をひいてしまった。これ幸いと、「会社」を休むことにしたが、断りの電話をするのでまた芝居をするはめになり、これがまた結構面倒だ。“それ”が上司は何と言ったかとか、休んで問題ないかとか、ごちゃごちゃ聞いてきて、そのたびにいちいち作り話をしなくてはいけない。ひたすら無事で留守がいいのは、亭主だけではないようだ。
 またコンビニに入る。ここではお湯も提供しているから、カップラーメンを作って食べれば一食分とすれば一番安上がりだ。お握り一個で済ませたこともあったが、それだといくらなんでも晩までもたない。ダイエットするにはいいか知らないが、胃が空になって気持ち悪くなるのがたまらない。野菜不足なのは明らかだが、二食を家で食べると、いくらかは補給できる。
 思いきってコンビニ弁当を買うこともあったが、量が多すぎて後で酒が入りにくくなる。たまに酒を控えようと思い立ったりした時は、あえて買ったりもするが、ふだんは敬遠している。
 結局、いつものようにカップラーメンで1.5倍のボリュームというのにする。申し訳程度に、真ん丸のチャーシューと乾燥野菜がついている。前は韓国風のピリ辛味だったので、今日はとんこつ味にしよう。
 それからひとりでに足が店の奥に向かった。冷えたビールが並んでいる。手が自分のものでないように伸びて、ロング缶を一本取って籠に入れる。まだ焼酎のミニボトルが一本、鞄の中にある。万引きしたと思われないだろうか。レシートはとってあったか。まあ、実際に万引きしたわけでもないのだから、びくびくすることはない。罪悪感というのは、癖になるものだろうか、嘘をついていると、別に悪いことをしていなくても、しているような気分になってくる。
 もちろん何の問題もなく、カップラーメンとビールを買う。ラーメンはすぐお湯を入れるからと、袋に入れるのは辞退する。これでゴミの減量にはなるだろう。こんなところでちょっとした“いいこと”をしても始まらないのだが。
 アイスクリームが入った冷蔵庫のガラス蓋の上でカップラーメンを包んでいるビニールを破り、蓋を開けてスープとかやく、チャーシューがそれぞれ入った小さなビニール袋を開けて麺の上に散らす。ビニール類は、それぞれきちんと燃えないゴミのコーナーに捨てる。お湯を注いで、図書館に向かう。隣の駅近くの公園まで歩くと、時間がかかりすぎて伸びてしまう。いささか変だが、図書館の裏で食べることにする。
 いざ裏に来ると、昼休みだからか自転車でやってくる来館者がけっこういる。その眼が気になったが、もたもたはできない。植え込みのコンクリートの枠のふちに腰を下ろした。
 スーツ姿でビール片手にカップラーメンをすすっているというのも、妙な図だろう。
 自転車から降りて、ちらとこっちを一瞥して図書館に入っていく利用者が何人かいた。その視線に気付きながら、一切眼を合わさないようにして急いで麺をすすった。まだずいぶん熱い。スープを口に含み、舌が灼けそうになるところに、冷えたビールを流し込んだ。
 結構、絶妙な組み合わせ。
 熱いところに冷たいビールだけでなく、酔いがまわっているところに汁気の多い麺類は水分補給になっていいのではないか。
 さらにスープをすすり、ビールで舌を冷やす。麺はふにゃふにゃで頼りなく、これで胃が収まるだろうかと思う。
 ビールの減り具合が、案外早い。少しセーブする。
 カップラーメンは冷めるのが早い。最後の一口は麺もスープもあまりしゃきっとしない。本式の丼のラーメンの最後の一口を飲み干して、あーっと言うような気にはならない。代わりにビールで締めた。10点満点で8点くらいのフィニッシュ。最後の一口はビールで締めないといけない。
 下らないことを考えながら、図書館に戻る。燃えるゴミ、燃えないゴミが分別されている。缶・ビン類も分けるようになっている。さすが、公共機関。ビール缶とカップをそれぞれ分別して捨てる。後で収集に来る時、ビールの缶を見てどう思うだろうか。まあ、見たからといって捨てないでとっておいて、誰が捨てたか追求するということもないだろうが。しかし追求されたらどうなるだろう。もしかして、この近くに監視カメラがついているかもしれない。金目のものが置いてあるわけではないが、この御時世どこでカメラで撮られているかわからない。それらしいレンズは見当たらないが、今のカメラはものすごく小型化しているのだから、見たってわかるものではない。
 毎日のように図書館に来ては、本を借りるでもなくひたすら読んで出ていく、格好だけはもっともらしくスーツで決めている男。世間で怪しまれるには、十分だ。こういう怪しいやつのデータベースが、作られているということはないだろうか。被害妄想か。
 なんだか、思考がどんどん非生産的な方向に向かっている。
 腹が満たされたら、突然眠くなってきた。だが、眠ってしまうと途端に館員が起こしに来る。不思議なことに、いくら椅子を長いこと占領していてもとりあえず文句は言われないのだが、眠った途端起こしに来る。邪魔なことには変わりないだろうと思うのだが、役所の規則とするととにかく眠るのは許されないらしい。
 眠気を我慢して、くわっと眼を見開いてソファの上でグラフ雑誌の写真を見入った。
 いくら本を読んだところで、何の目的もないと一向に頭に入らない。それでも形だけは整えないといけない。まるで、自発的に辞めるよう追い込まれた窓際社員の図だ。それでも会社に勤めていれば給料は出るのだが、こうやっていても何にもならない。
(誰かが見ている)
 そんなはずはない。アル中の幻覚か。いや、幻覚というのは酒が切れると出てくるものではないのか。本当に誰か見ているのか。
 今日は天気もいい。一日屋内に閉じこもっていることはない。散歩でもしよう。
 追われるようにそそくさと立ち、外に出る。
 腹が立つほどいい天気だ。雨に振られるのも嫌だが、こうやって意味もなく天気がいいのも、癪にさわる。
 隣駅まで行って帰ってくることにする。歩いていると日が首筋にさしてきて、汗がいやにだらだら流れた。心臓がバクバクする。体の中がひどく暑苦しい一方で、首筋や背中に出る汗は出る前からもう冷えてしまっているようだった。
 これは、いけない。直感的にそう思った。そういえば、何日酒が抜けていないだろう。一週間? 二週間? 今日は何日だ? さっきの図書館で新聞の日付けを見てくればよかった。何をしているのだ。携帯を持っているではないか。腕時計は前のが壊れたきり買っていない。収入がないのだから、買っていいわけがない。
 携帯は、今どき持っていないと不審がられるので、持つようにしたら芋づる式に家族割引だなんだと代理店に言い包められて一式持たされてしまった。実際問題として、仕事のない人間に緊急の連絡などそうそうあるわけがない。通話だウェブだと使っていたら、いくらかかるかわからない。
 だから電源は切っておく。変な場所にいるところに、家族から電話でもあってうっかり出てしまったら、面倒なことになる。現にそういうことが一回あった。盛り場で鳴ったのをうっかり取ったら、流れていた音楽に仕事をさぼっているのかと疑われた。
 とにかく、金は使わないこと。
 稼げばいいではないか、と言われそうだが、わざわざ稼がなくて生きていけるのなら、何をわざわざ劣等な経験を嘗めねばならんのか、と高等遊民風に言ってみたくなる。そして、嫌な思いをしてそれが将来につながる保証はどこにもないのだ。
 とにかく、山ほどある携帯機能のうち、使うのは時計とカレンダーくらいときている。
 しかし、カレンダーを見たところで、スケジュールを見たところで、予定もなければ、どこで何をしたという記録もない。第一、いつから飲み出したのか、覚えていないのだから、何日飲んでいるかは正確には知りようがなかった。
 曜日の感覚もほとんどないので、何日スーツを着ていなかったか、思い出そうとした。4、5回は着ていた気がする。ということは少なくとも足かけ三週間。下手するとひと月。
 これはさすがにまずい、らしい。よし、今日はこれ以上飲むのはやめよう。やめられるはずだ。やめないといけない。
 その時、奇妙な感覚に襲われた。正確にいうと、襲われたらしい。

 息を切らせて歩きながら、誰かが肩をつかんで揺さぶった感触と、灼けたアスファルトの熱さと、冷たい汗、そして体の芯に巣くう寒気が同時に体に残っている。
 前後の感覚がない。どうやら、道端でぶっ倒れていたのを誰かに起こされたらしい。それが誰なのか、怪んで起こしたのか、親切で起こしたのか、まったくわからない。
 追いかけてくる気配はないようだ。
 もう飲むな。誰かがそう叫んでいる。叫んでいるが、聞こえるのは小さな声だ。
 時間の感覚がない。
 まだ、日は高い。どっちに向かって歩いているのかも、わからない。
 人通りは、少ない。
 むやみやたらと、見知らぬ裏通りを、より細い、よりこみいった通りを選んでやたらと忙し気に、もちろん無意味に急いで歩き続けた。
 息が切れてきた。
 立ち止まった。汗がやっと気味の悪い冷たい感じから、運動した後のような暖かみを帯びてきたようだ、ような気がする。わずかにそう思おうとして安心しかけたところで、また心臓がばくばくいい出した。
 落ち着け。
 深呼吸をする。汗を拭く。下着はもちろん、ワイシャツまでびっしょりと汗が染みている。だが、脱いで着替えるのも乾かすのも、もちろんできない。
 あたりを見回す。どこにでもありそうな、日本の街角だ。木造の二階建ての家が立ち並び、そこかしこに車が停まっている。電柱や塀には町名が貼られてあり、番地がある。だが、地図は見当たらない。どこにどうつながっているのか、さっぱりわからない。
 頭の中は、まだ酔いによる霧が晴れていない。だが、一時的な心地よい酩酊感はすっかり薄れ、右の下腹部と左の下腹部が交互に痛むのがわかる。それぞれ、肝臓と膵臓だ。心臓が叛乱を起こしたのが収まりかけてきたと思ったら、これだ。
 うつむき、やっと顔を上げると、どこかで見たような風景が見えた。
 ずいぶんぐるぐるあちこち歩き回ったつもりだったが、図書館のすぐ近くでうろうろしていただけだったのだ。
 安心しかけた時、思い出したように、吐き気がせり上がってきた。
 その上、下腹部に怪しい蠕動を感じる。
 これはまずい。ぶっ倒れただけでもおかしいのに、こんな道の真ん中に吐いたり垂れたりしたら、えらいことになる。間違いなく警察沙汰だ。
 冷や汗がこみあげてきて、そろそろと図書館に逆戻りした。上から先にするか、下から先にするか、最低の選択だ。
 汗を流しながら、さっき出ていったばかりの図書館に戻り、やっと手洗いに辿り着いた。個室が塞がっていたらどうしようと思っていたが、幸い開いていた。洋式だ。
 ズボンを脱ぐのが手間がかかる分、下を優先させることにする。
 なんとか間に合った。
 と、思うまもなく吐き気が催してきた。なんてことだ。コンビニに袋が鞄に入っていないか、探した。
 幸い、一番小さい袋が見つかったので、せいぜい口を大きく広げて、中にさっき食べたばかりのほとんど消化されていないカップラーメンを吐きこんだ。
 そのはずみで腹に力が入り、水のような便が改めて噴き出した。
 最低だ、まったく最低だ。
 喉の奥にいがらっぽい嫌な味がした。吐瀉物に赤い塊が混ざった。アルコールで胃の粘膜が溶けて出血したらしい。
 個室の外に人の気配がした。
 匂いが漏れないように袋の口をしっかり縛る。
 誰か知らないが、なかなか出ていかない。自分の匂いと腹痛と吐き気で、眼がくらんできた。
 袋を床に置き、下の始末を済ませる。
 洋式便器でよかった。手が開いていたから、なんとか両方同時に始末できたのだ。 
 外にまだいるのか、どうかよくわからない。
 立って、ズボンをはいた。たぷたぷとした液体が大半を占める汚物が詰まった袋をどう始末するか。
 下痢と一緒に水で流すか。
 流れなかったら、どうする。
 外のゴミ箱に捨てておくか。ゴミを集めに来た人が何と思う。以後、不審者を警戒するようになるかもしれない。
 えい、と袋の口を開けて思いきって逆さにして中身を出し、水を流した。袋は細く畳んで流れに乗せた。
 うまく、汚物にまみれたコンビニ袋は、流れに乗って姿を消した。
 手に少しゲロがついたようだが、おおむねひどい汚れは出さないで済んだようだ。
 鞄を持って個室から出た。小便器の前には、誰もいない。あれほどびくびくしなくてもよかったらしい。
 手を洗って、何食わぬ顔で外に出た。
 女性館員が近づいて来て、つとよけるようにしてすれ違った。
(匂うのではないか…)
 不安に襲われた。
 冷水器のところに行って口をすすぎ、できるだけ水を飲んだ。口がふさがれると鼻から呼吸する空気が、自分でも匂うのがわかる。
 それから日が暮れるまで、水を飲み、机で本を読み、また水を飲むのを繰り返した。
 酔いはどんどん醒めていく。
 だが、心臓はまたバクバクいいだした。冷や汗も止まらない。冷房もついているはずなのに、体が外にいた時のようにほてる。
「離脱症状…」
 酒浸りに慣れた体からアルコールが抜けることで、それまで麻痺していた神経がやたら興奮して起こる、いわゆる禁断症状だった。
 見れば、ページをめくる指先が意思とは関係なく細かく震えていた。

隠れ酒(3) 隠れ酒(5)





drunken angel(5)

2005年08月13日 | drunken angel(小説)
 結局、迎え酒をひっかけることにした。血を吐くほど吐いたすぐ後の胃に酒が入るものかと思うが、不思議と入るものなのだった。
 家には遅くなると電話した。指先が震えているところを見せるわけにいかない。
 まだ日は高かったが、手の震えを抑えるためだという大義名分があるせいか、もうあまりこそこそしないでコンビニの前でチューハイをあおった。缶ジュースみたいなパッケージだ。甘ったるい味に、人口香料の匂い。工業製品、という感じがした。いや、「感じ」ではないか。
 何か腹に入れておくかと考えたが、もう受け付けないだろうと思い、ひたすら飲むことに決めた。
 飲んでいると、あっという間に時間が経つ。
 日が暮れて、ほろ酔い加減のサラリーマンの姿がちらほらしだした。飲み屋に入って飲むのは高くつくのでやめざるをえないが、お仲間ができるとこちらも安心して再び缶ビールをあおった。
 いつのまにか、手の震えは治まっていた。
 コンビニに入って、ざっとマンガを立ち読みし、一本缶チューハイを買って出て一気に喉に流し込み、街をふらふらして、本屋があったら中に入り、またちょっと立ち読みする。新しい本など読めず、これまで読んだ本をなんべんも繰り返して読む。
 気がついたら、もう9時をまわっていた。
 そろそろ帰るか。いや、中途半端な時間に帰ると、“あれ”たちに何をごたごた聞かれるかわからない。もう少し、時間をつぶそう。
 突然、強い吐き気に襲われた。
 パチンコ屋のトイレに入る。店の目立つところはけばけばしく飾っているが、案外トイレは薄暗く古ぼけている。遠慮なく吐きに吐いた。
 さすがにそれ以上は飲む気がしなかったが、これまでに吸収したアルコールがまわってきたらしい…

 気がついたら、家のふとんで寝ていた。
 いつ帰ってきたのだろう。記憶がない。時計を見ると、3時を過ぎている。
 寝巻きに着替えず、下着姿で寝ていた。スーツがハンガーにかけてある。自分でかけたのだろうか。おそらくそうだろう。鍵がかかっているから、“あれ”はこの部屋には入れないはずだからだ。
 しかし、呑んでいたのは、ばれただろう。仕事のつきあいで呑んできたと思っただろうか。
 風呂にも入っていないようだ。翌朝下着が出ていないと、“あれ”がうるさい。
 起き上がると、ずきんと頭が痛んだ。チューハイだけだと、あまり頭痛はしないのだが、ビールが多すぎたのだろうか。
 そっと足音を忍ばせて階段を降り、明かりをつけずに脱衣所に忍び込んだ。そっと洗面所の蛇口に口を当てて水を飲む。少し無理をしてでもがぶ飲みする。
 下着を脱ぎ捨てて、暗いままの風呂場に入る。そのまま洗いもしないで、風呂桶につかった。だいぶ火を止めてから経っているとみえて、お湯はかなりぬるんでいた。まだ酒がまったく引いていない状態で熱い湯に入ったら心臓に良くないだろうから、ちょうどいいだろう。
 そのままぬるま湯にしばらくつかり、ざっと体を拭いて出て下着をつけてそっとまた階段を上がって自分の部屋に転がり込んだ。
 カラスの行水なんてものではないな。
 頭を洗ったのは、三日前か。まあ、それくらいなら別にどうということないだろう。
 暗い中、湿気がとばないままの体で、敷きっぱなしにしていたふとんに潜り込んだ。
 目をつぶるが、頭は冴える一方だ。しかし考えることは、ほとんど一つ、女のことばかりだった。
 といっても、具体的な相手がいるわけではない。
 以前ちょっと好きだったアイドルのグラビアで見た肢体を思い浮かべる。すでに結婚して(できちゃった結婚だった)子供を産んで引退したアイドルだ。それほど執着があるわけでもなく、何も今さら思い浮かべることもないのだが、習慣、というより惰性になってしまっているのだろう。
 右手で股間のペニスをつかむ。ぐにゃついていて、しばらく揉んでみても一向に勃たない。
 そのくせ、妙な高揚感に襲われ、本格的にマスをかくことにした。
 パソコンの中にしまってある画像を開いて目当てのアイドルのを初め、いくつかのグラビア写真やネットで集めて来た画像をまとめて見る。あまり露出度の高い写真はない。あっても、胸がぺっちゃんこのコのばかりだ。意識して集めたわけではないが、結果としてそうなっている。
 …俺が何か大きな事件でも起こして逮捕されて家宅捜索されて、このファイルを見たら何と言われるだろう、とふと思った。
 ロリコン、ではないな。いくら細身でも、どれも高校生から上の年齢のばかりだ。だが女性と積極的な関係を結べない男、とかいうレッテルは貼られそうだ。
 そして、それは間違いではない。
 女の子をデートに誘って、映画を見たり遊園地に行ったり食事したり、といったことは何度かある。だがデートから帰り、特に失敗もしなかったとほっとして、その後のフォローをしない。
 セックスする時も、やれやれ何とか大過なくすんだか、とさっさと身支度してしまったりした。
 そんなこんなで、後が全然続かない。こちらから何度かメールを送ると、返事があるが、それっきり。パーティか何かで一緒になると、別の男と来ていたりする。こちらも挨拶する以外は特に何も言わず、先方もしれっとしていちゃついていたりする。
 そうこうするうち、女とはすっかり縁遠くなってしまった。一番大きい理由は会社を辞めて収入がなくなったので、女に注ぎ込む余裕がなくなったからだ。女に貢がせる奴というのも世の中にはいるらしいが、こっちには見当もつかない。
 性欲を処理するだけなら、マスターベーションで十分なのだ。
 だが写真を見ていても、なかなか勃起しない。半勃ち程度で、マスをかくというより揉んでるみたいだ。
 もう少し刺激を強くするかと思って、別の文書ファイルを開く。気にいった官能小説の一節を写したものだ。女を思いきりむごたらしくレイプする描写がえんえんと続いている。その女の名を、今まで見ていたアイドルの名に変換してみる。そして自分が思いきりむごたらしく強姦している場面を妄想する。それでやっと興奮してきたが、途中でまた萎えてしまう。
 女が悲鳴をあげたり泣いたりするところをせいぜい空想するが、どうもどこかで見たような場面ばかりみたいで、もう一つ気がいかない。それほどアダルトビデオの類は見ていないはずなのだが、見る前から想像に型がはめられているみたいだ。
 今度は、最近ちょっとお気に入りの女子アナの名前に変えて再度試みて、今度はやっと射精にまで至った。
 精液を拭いたティッシュをゴミ箱に投げるが、入らず床に落ちた。
 徒労感がどっと襲ってくる。 
 前はさらに眠気が襲ってきたものだが、頭がとろとろしているが眠りに落ちるには至らない。アルコールは一時的な眠気を誘う作用はあるが、連用していると深い眠りはかえって阻害するという。
 半覚半醒というのか、寝ているような起きているような奇妙な状態が続く。
 いつのまにか、ふとんに入ったまま宙に浮いていた。
 そのまますごい勢いで宙を飛んでいく。目をつぶったままなのだが、雲がちぎれとんでいくのがわかる。
 あ、これは夢だなと思う。
 ジェットコースターに実際に乗るよりスピード感があった。
 いつのまにか、あたり一面に原色の蝶がうようよしている。普通ならきれいに感じそうなものが、なぜか触ると痛いように思える。目の前に、蝶がはばたきながら迫ってくる。
 この夢から醒めなくてはと思う。
 懸命にまぶたを開く。
 天井の丸い明かりの消えた蛍光灯が見えた。そこに、蝶がとまっている。
 じっと蝶を見続けた。寝ぼけマナコだったが、妙に集中していた。 
 今の季節に蝶などいるものか、あれは日本にいる種類の蝶か、部屋の中になんで蝶がいるんだ、といったことは、後になって思ったことで、その時はただ蝶が見えていた。
 ふっと、それが夢の中に出て来たのと同じ蝶で、それが薄暗く酒臭い自分の部屋という現実の中に当たり前のようにずれこんできたのに、なんともいえない、背中が何かにべったり貼り付くような恐怖感を覚えた。
 目を思いきり見開いた。やはり蝶が見えている。南米にいるような、金属のような光沢を持った蝶だ。
 突然、消えた。
 どっと汗が噴き出した。
 目を懸命につぶる。だが、暗くなった視野に、奇妙な魑魅魍魎が現われては、消えていった。
 木の棘の塊が迫ってきて、ちくちくと頬を刺した。
 虹色のキャンディーがよじり合わされて人のような形をしたやつに手首をつかまれて目がくらむような高さの高層ビルの屋上から屋上へと引きずりまわされながら、跳んでまわった。
 背中がむずむずし、無数のミミズやゴカイが体の中から湧きだしてのたうちまわった。
 そのたびに、冷や汗をかきながら目を覚ます。だが、悪夢から醒めても安心はできない。また、あの蝶のように化け物たちが現実に侵入してきたらどうする。そう思うと、ゆっくり目をつぶることもできない。暗い中で半分目を開けてひたすら横になっているしかない。
 禁断症状だ。迎え酒で抑え込んだつもりだったが、よほど大量のアルコールがまわっている状態が普通になっていたのだろう。ちょっと酒が切れてきただけで、睡眠が妨げられて悪夢に襲われる。これがもっとひどくなったら、悪夢ではすまず、起きている時に幻覚をみるようになるのだろう。
 せいぜい肝臓に血液をまわすつもりで、右側が下に来るようにして寝転がった。
(貴様など死んでしまえ)
 と、いう声が耳もとで聞こえた。
 自分で自分に頭の中で呼びかけているはずなのだが、誰かが思いきり耳もとで怒鳴っているようにありありと聞こえる。
 そうだ、俺ほど最低の人間はいない、生きていても仕方ない、さっさと消えるべきだ。
 俺が死んだところで、誰も困りはしない。これ以上生きていたところでロクな死に方をしない。
 貯えもないまま体を壊して、自分で死にきる力もなくして、のたれ死にするのが関の山だ。
(あ、自殺念虜が出て来た)
 自殺念虜というのは、要するに死にたくなる状態のことだ。酒を飲み続けていると、必ずといっていいほど出てくる症状の一つに過ぎない。肝臓を悪くしたり、胃を悪くしたりといったのと同じ、ごく当たり前の化学反応の結果にすぎない。人生に関わることには違いないが、だからといって深遠な哲学や他には窺い知れない意義があるわけでもなんでもない。
 そうわかっている一方で、どうすれば楽に死ぬか考え続けた。
 大量のアルコールで昏倒したところに、練炭を燃やして一酸化炭素を発生させるか。どこで練炭など手に入れるのだろう。二酸化炭素でも一酸化炭素ほどではないが、毒性はあるはずだ。大量のドライアイスを買ってきて、お湯にぶちこむというのはどうだ。しかし、この部屋でやるというのは、死ぬ前に見つかる公算が大きい。
 車の排気ガスをホースで車内に引き込むか。そんな車、どうやって借りる。免許は持っているが、長いこと運転していない。人気のない場所に行き着くまでに、事故でも起こしたらどうする。
 薬を飲むか。医者にかかって、眠れないと訴えれば睡眠薬くらいくれるだろう。それをアルコールと一緒に一度に大量に飲み干す。それから、頃合をみてビニール袋を頭からかぶる。酸欠で気を失うので、苦しまないで済むという。
(本当かい?)
 試してみる。コンビニに袋を頭からかぶる。下が空いているので、息はできるが、かなり息苦しく暑苦しい。しばらくそのまま袋をかぶっていたが、急に恐怖に襲われ、袋をびりびりに破った。
 暗い中、また横たわる。
 死んだ後は、墓になど入らない。遺言を遺していくか。今の日本では土葬というわけにもいかないはずだ。火葬になった後は、灰は海にまく、というのは格好よすぎる。トイレに流せばいい。
 ぼうっと時計が見える。ずいぶん長いこと寝たり起きたりしたような気がしていたが、時刻は、まだ3時前だ。
 まだ、朝食の時間まではかなり間がある。“あれ”と顔を合わさなくてはならない時までは。
 それからひたすら寝返りをうち、襲ってくる鬱の合間を縫ってひたすらマスをかいた。高校生の時でもこんなにかかなかったぞというくらいかいた。なぜか知らないがやたらと性欲が昂進し、猿がマスターベーションを覚えた時のようにかきまくった。しまいには、面倒になっていちいちティッシュで拭かず、パンツの中にぶちまけた。量は少しづつだが、激しく匂った。
 ただでさえ体がだるいのに、余計に体力を消耗して、ふとんの中でぐでっとへたりこんだ。
(バカなことしちゃったなあ)
 それを言うなら、大酒をくらってぶっ倒れていること自体が愚行の極致なのだが。
 突然、吐き気が襲って来た。胃の中が空っぽになって、荒れた胃壁が剥き出しになったかららしい。
 半身を起こして激しくげえげえいったが、何も吐くものなどなかった。
 また汗が噴き出し、震えがくる。
 ふとんに倒れ込み、大の字になる。それでも体がひどく重く、これ以上体を休めるポーズはないものかと真剣に考える。
 眠れない。
 喉が乾く。そっと廊下に出ていき、花瓶の水を飲む。腹をこわすか知らないが、何、どっちにしても下痢するのに決まっている。
 時計の針はゆっくりと、しかし着実に動いていく。
 とても朝までに完全に回復するなどできない相談だ。
 そうこうするうち、窓の外が青みわたりカラスの鳴き声が聞こえてくる。
 右側を下にして横たわっていると、左側、つまり膵臓がある側もどくん、どくんと脈拍を感じる。相当に痛んでいて、体が少しでも直そうとして血を送り込んでいるのだろうか。それとも、単に臓器が痛んできたので血流に敏感になってきただけだろうか。
 枕元でノートパソコンを開き、アルコール依存症で検索して症状が並んだページを見る。離脱症状の数々が列記してある。
 指の震え、悪寒、発汗、幻覚(に近い夢)、ことごとく当てはまる。絵にかいたようだ。これで親にバレずにすむものだろうか。
 朝食までのあと数時間を少しでもムダにするまいと…、眠らないことに決めた。
 結局、迎え酒をひっかけることにした。血を吐くほど吐いたすぐ後の胃に酒が入るものかと思うが、不思議と入るものなのだった。
 家には遅くなると電話した。指先が震えているところを見せるわけにいかない。
 まだ日は高かったが、手の震えを抑えるためだという大義名分があるせいか、もうあまりこそこそしないでコンビニの前でチューハイをあおった。缶ジュースみたいなパッケージだ。甘ったるい味に、人口香料の匂い。工業製品、という感じがした。いや、「感じ」ではないか。
 何か腹に入れておくかと考えたが、もう受け付けないだろうと思い、ひたすら飲むことに決めた。
 飲んでいると、あっという間に時間が経つ。
 日が暮れて、ほろ酔い加減のサラリーマンの姿がちらほらしだした。飲み屋に入って飲むのは高くつくのでやめざるをえないが、お仲間ができるとこちらも安心して再び缶ビールをあおった。
 いつのまにか、手の震えは治まっていた。
 コンビニに入って、ざっとマンガを立ち読みし、一本缶チューハイを買って出て一気に喉に流し込み、街をふらふらして、本屋があったら中に入り、またちょっと立ち読みする。新しい本など読めず、これまで読んだ本をなんべんも繰り返して読む。
 気がついたら、もう9時をまわっていた。
 そろそろ帰るか。いや、中途半端な時間に帰ると、“あれ”たちに何をごたごた聞かれるかわからない。もう少し、時間をつぶそう。
 突然、強い吐き気に襲われた。
 パチンコ屋のトイレに入る。店の目立つところはけばけばしく飾っているが、案外トイレは薄暗く古ぼけている。遠慮なく吐きに吐いた。
 さすがにそれ以上は飲む気がしなかったが、これまでに吸収したアルコールがまわってきたらしい…

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drunken angel(6)

2005年08月13日 | drunken angel(小説)
 気がついたら、家のふとんで寝ていた。
 いつ帰ってきたのだろう。記憶がない。時計を見ると、3時を過ぎている。
 寝巻きに着替えず、下着姿で寝ていた。スーツがハンガーにかけてある。自分でかけたのだろうか。おそらくそうだろう。鍵がかかっているから、“あれ”はこの部屋には入れないはずだからだ。
 しかし、呑んでいたのは、ばれただろう。仕事のつきあいで呑んできたと思っただろうか。
 風呂にも入っていないようだ。翌朝下着が出ていないと、“あれ”がうるさい。
 起き上がると、ずきんと頭が痛んだ。チューハイだけだと、あまり頭痛はしないのだが、ビールが多すぎたのだろうか。
 そっと足音を忍ばせて階段を降り、明かりをつけずに脱衣所に忍び込んだ。そっと洗面所の蛇口に口を当てて水を飲む。少し無理をしてでもがぶ飲みする。
 下着を脱ぎ捨てて、暗いままの風呂場に入る。そのまま洗いもしないで、風呂桶につかった。だいぶ火を止めてから経っているとみえて、お湯はかなりぬるんでいた。まだ酒がまったく引いていない状態で熱い湯に入ったら心臓に良くないだろうから、ちょうどいいだろう。
 そのままぬるま湯にしばらくつかり、ざっと体を拭いて出て下着をつけてそっとまた階段を上がって自分の部屋に転がり込んだ。
 カラスの行水なんてものではないな。
 頭を洗ったのは、三日前か。まあ、それくらいなら別にどうということないだろう。
 暗い中、湿気がとばないままの体で、敷きっぱなしにしていたふとんに潜り込んだ。
 目をつぶるが、頭は冴える一方だ。しかし考えることは、ほとんど一つ、女のことばかりだった。
 といっても、具体的な相手がいるわけではない。
 以前ちょっと好きだったアイドルのグラビアで見た肢体を思い浮かべる。すでに結婚して(できちゃった結婚だった)子供を産んで引退したアイドルだ。それほど執着があるわけでもなく、何も今さら思い浮かべることもないのだが、習慣、というより惰性になってしまっているのだろう。
 右手で股間のペニスをつかむ。ぐにゃついていて、しばらく揉んでみても一向に勃たない。
 そのくせ、妙な高揚感に襲われ、本格的にマスをかくことにした。
 パソコンの中にしまってある画像を開いて目当てのアイドルのを初め、いくつかのグラビア写真やネットで集めて来た画像をまとめて見る。あまり露出度の高い写真はない。あっても、胸がぺっちゃんこのコのばかりだ。意識して集めたわけではないが、結果としてそうなっている。
 …俺が何か大きな事件でも起こして逮捕されて家宅捜索されて、このファイルを見たら何と言われるだろう、とふと思った。
 ロリコン、ではないな。いくら細身でも、どれも高校生から上の年齢のばかりだ。だが女性と積極的な関係を結べない男、とかいうレッテルは貼られそうだ。
 そして、それは間違いではない。
 女の子をデートに誘って、映画を見たり遊園地に行ったり食事したり、といったことは何度かある。だがデートから帰り、特に失敗もしなかったとほっとして、その後のフォローをしない。
 セックスする時も、やれやれ何とか大過なくすんだか、とさっさと身支度してしまったりした。
 そんなこんなで、後が全然続かない。こちらから何度かメールを送ると、返事があるが、それっきり。パーティか何かで一緒になると、別の男と来ていたりする。こちらも挨拶する以外は特に何も言わず、先方もしれっとしていちゃついていたりする。
 そうこうするうち、女とはすっかり縁遠くなってしまった。一番大きい理由は会社を辞めて収入がなくなったので、女に注ぎ込む余裕がなくなったからだ。女に貢がせる奴というのも世の中にはいるらしいが、こっちには見当もつかない。
 性欲を処理するだけなら、マスターベーションで十分なのだ。
 だが写真を見ていても、なかなか勃起しない。半勃ち程度で、マスをかくというより揉んでるみたいだ。
 もう少し刺激を強くするかと思って、別の文書ファイルを開く。気にいった官能小説の一節を写したものだ。女を思いきりむごたらしくレイプする描写がえんえんと続いている。その女の名を、今まで見ていたアイドルの名に変換してみる。そして自分が思いきりむごたらしく強姦している場面を妄想する。それでやっと興奮してきたが、途中でまた萎えてしまう。
 女が悲鳴をあげたり泣いたりするところをせいぜい空想するが、どうもどこかで見たような場面ばかりみたいで、もう一つ気がいかない。それほどアダルトビデオの類は見ていないはずなのだが、見る前から想像に型がはめられているみたいだ。
 今度は、最近ちょっとお気に入りの女子アナの名前に変えて再度試みて、今度はやっと射精にまで至った。
 精液を拭いたティッシュをゴミ箱に投げるが、入らず床に落ちた。
 徒労感がどっと襲ってくる。 
 前はさらに眠気が襲ってきたものだが、頭がとろとろしているが眠りに落ちるには至らない。アルコールは一時的な眠気を誘う作用はあるが、連用していると深い眠りはかえって阻害するという。
 半覚半醒というのか、寝ているような起きているような奇妙な状態が続く。
 いつのまにか、ふとんに入ったまま宙に浮いていた。
 そのまますごい勢いで宙を飛んでいく。目をつぶったままなのだが、雲がちぎれとんでいくのがわかる。
 あ、これは夢だなと思う。
 ジェットコースターに実際に乗るよりスピード感があった。
 いつのまにか、あたり一面に原色の蝶がうようよしている。普通ならきれいに感じそうなものが、なぜか触ると痛いように思える。目の前に、蝶がはばたきながら迫ってくる。
 この夢から醒めなくてはと思う。
 懸命にまぶたを開く。
 天井の丸い明かりの消えた蛍光灯が見えた。そこに、蝶がとまっている。
 じっと蝶を見続けた。寝ぼけマナコだったが、妙に集中していた。 
 今の季節に蝶などいるものか、あれは日本にいる種類の蝶か、部屋の中になんで蝶がいるんだ、といったことは、後になって思ったことで、その時はただ蝶が見えていた。
 ふっと、それが夢の中に出て来たのと同じ蝶で、それが薄暗く酒臭い自分の部屋という現実の中に当たり前のようにずれこんできたのに、なんともいえない、背中が何かにべったり貼り付くような恐怖感を覚えた。
 目を思いきり見開いた。やはり蝶が見えている。南米にいるような、金属のような光沢を持った蝶だ。
 突然、消えた。
 どっと汗が噴き出した。
 目を懸命につぶる。だが、暗くなった視野に、奇妙な魑魅魍魎が現われては、消えていった。
 木の棘の塊が迫ってきて、ちくちくと頬を刺した。
 虹色のキャンディーがよじり合わされて人のような形をしたやつに手首をつかまれて目がくらむような高さの高層ビルの屋上から屋上へと引きずりまわされながら、跳んでまわった。
 背中がむずむずし、無数のミミズやゴカイが体の中から湧きだしてのたうちまわった。
 そのたびに、冷や汗をかきながら目を覚ます。だが、悪夢から醒めても安心はできない。また、あの蝶のように化け物たちが現実に侵入してきたらどうする。そう思うと、ゆっくり目をつぶることもできない。暗い中で半分目を開けてひたすら横になっているしかない。
 禁断症状だ。迎え酒で抑え込んだつもりだったが、よほど大量のアルコールがまわっている状態が普通になっていたのだろう。ちょっと酒が切れてきただけで、睡眠が妨げられて悪夢に襲われる。これがもっとひどくなったら、悪夢ではすまず、起きている時に幻覚をみるようになるのだろう。
 せいぜい肝臓に血液をまわすつもりで、右側が下に来るようにして寝転がった。
(貴様など死んでしまえ)
 と、いう声が耳もとで聞こえた。
 自分で自分に頭の中で呼びかけているはずなのだが、誰かが思いきり耳もとで怒鳴っているようにありありと聞こえる。
 そうだ、俺ほど最低の人間はいない、生きていても仕方ない、さっさと消えるべきだ。
 俺が死んだところで、誰も困りはしない。これ以上生きていたところでロクな死に方をしない。
 貯えもないまま体を壊して、自分で死にきる力もなくして、のたれ死にするのが関の山だ。
(あ、自殺念虜が出て来た)
 自殺念虜というのは、要するに死にたくなる状態のことだ。酒を飲み続けていると、必ずといっていいほど出てくる症状の一つに過ぎない。肝臓を悪くしたり、胃を悪くしたりといったのと同じ、ごく当たり前の化学反応の結果にすぎない。人生に関わることには違いないが、だからといって深遠な哲学や他には窺い知れない意義があるわけでもなんでもない。
 そうわかっている一方で、どうすれば楽に死ぬか考え続けた。
 大量のアルコールで昏倒したところに、練炭を燃やして一酸化炭素を発生させるか。どこで練炭など手に入れるのだろう。二酸化炭素でも一酸化炭素ほどではないが、毒性はあるはずだ。大量のドライアイスを買ってきて、お湯にぶちこむというのはどうだ。しかし、この部屋でやるというのは、死ぬ前に見つかる公算が大きい。
 車の排気ガスをホースで車内に引き込むか。そんな車、どうやって借りる。免許は持っているが、長いこと運転していない。人気のない場所に行き着くまでに、事故でも起こしたらどうする。
 薬を飲むか。医者にかかって、眠れないと訴えれば睡眠薬くらいくれるだろう。それをアルコールと一緒に一度に大量に飲み干す。それから、頃合をみてビニール袋を頭からかぶる。酸欠で気を失うので、苦しまないで済むという。
(本当かい?)
 試してみる。コンビニに袋を頭からかぶる。下が空いているので、息はできるが、かなり息苦しく暑苦しい。しばらくそのまま袋をかぶっていたが、急に恐怖に襲われ、袋をびりびりに破った。
 暗い中、また横たわる。
 死んだ後は、墓になど入らない。遺言を遺していくか。今の日本では土葬というわけにもいかないはずだ。火葬になった後は、灰は海にまく、というのは格好よすぎる。トイレに流せばいい。
 ぼうっと時計が見える。ずいぶん長いこと寝たり起きたりしたような気がしていたが、時刻は、まだ3時前だ。
 まだ、朝食の時間まではかなり間がある。“あれ”と顔を合わさなくてはならない時までは。
 それからひたすら寝返りをうち、襲ってくる鬱の合間を縫ってひたすらマスをかいた。高校生の時でもこんなにかかなかったぞというくらいかいた。なぜか知らないがやたらと性欲が昂進し、猿がマスターベーションを覚えた時のようにかきまくった。しまいには、面倒になっていちいちティッシュで拭かず、パンツの中にぶちまけた。量は少しづつだが、激しく匂った。
 ただでさえ体がだるいのに、余計に体力を消耗して、ふとんの中でぐでっとへたりこんだ。
(バカなことしちゃったなあ)
 それを言うなら、大酒をくらってぶっ倒れていること自体が愚行の極致なのだが。
 突然、吐き気が襲って来た。胃の中が空っぽになって、荒れた胃壁が剥き出しになったかららしい。
 半身を起こして激しくげえげえいったが、何も吐くものなどなかった。
 また汗が噴き出し、震えがくる。
 ふとんに倒れ込み、大の字になる。それでも体がひどく重く、これ以上体を休めるポーズはないものかと真剣に考える。
 眠れない。
 喉が乾く。そっと廊下に出ていき、花瓶の水を飲む。腹をこわすか知らないが、何、どっちにしても下痢するのに決まっている。
 時計の針はゆっくりと、しかし着実に動いていく。
 とても朝までに完全に回復するなどできない相談だ。
 そうこうするうち、窓の外が青みわたりカラスの鳴き声が聞こえてくる。
 右側を下にして横たわっていると、左側、つまり膵臓がある側もどくん、どくんと脈拍を感じる。相当に痛んでいて、体が少しでも直そうとして血を送り込んでいるのだろうか。それとも、単に臓器が痛んできたので血流に敏感になってきただけだろうか。
 枕元でノートパソコンを開き、アルコール依存症で検索して症状が並んだページを見る。離脱症状の数々が列記してある。
 指の震え、悪寒、発汗、幻覚(に近い夢)、ことごとく当てはまる。絵にかいたようだ。これで親にバレずにすむものだろうか。
 朝食までのあと数時間を少しでもムダにするまいと…、眠らないことに決めた。

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drunken angel(7)

2005年08月13日 | drunken angel(小説)
 階段を降りていくと、足が段を踏みしめる感覚がなく、何か雲でも踏んでいるにふわふわとしていた。
 傍から見ると、ふらふらしているのだろうか、という考えが頭をかすめた。“あれ”が…親たちが見てばれないだろうか。包丁を使う時、指でも切らないだろうか。年寄りとはいえ、二人の食事を用意するのを男一人がやるのは無理があるんだ、と思う。
 だからといって放っておくことはできない。
 いつものように下に降りて声をかけて起こし、新聞をとってテーブルにおいておく。さらにテレビをつけて、せいぜいこっちに注意が払われないように撹乱する。
 冷蔵庫から出した豆腐を掌の上に乗せて切ろうとすると、豆腐がぷるぷる震えていた。
 手の震えが止まらない。
 まずい、と思ったが、なんとか精神を集中して包丁を豆腐に押し付ける。だが、豆腐はいともあっさりいささかなまった包丁を受け入れ、包丁が押しつけられたのは掌の方だった。
 豆腐を小鍋に放り込んだ後、掌が切れていないか、確かめる。幸い、切れてはいないようだ。
 それから、いつもの習慣と化した朝食作りが進む。
 頭がぼうっとする。足がふらふらする。
 アルコールをいれなくなって12時間以上経つから、酔いはかなり醒めているはずなのだが、脳神経の麻痺はまだ続いているらしい。
 食欲などまるでない。だが、作らなくてはならない。ああ、なんという“親孝行”!
 冷蔵庫の残り物を並べ、お茶をいれて、一応食卓を飾る品数は揃った。
 “かれら”とともに、食卓を囲む。
 “かれら”の片割れに箸がないと言われる。あわててシンクに取りに行く。
コンロの火がつけっぱなしになっている。
 内心ぞっとしながら、火を消した。
 箸を取って戻ってくると、今度は味噌汁がよそっていないと言われる。
 どうも、やはり頭がぼけている。
 必死に集中しながら、箸をとった。手が震えているので、うまく扱えない。 
 湯のみを手に取る。驚くくらい手が震え、熱い中味が手にかかった。さすがにちょっと目がさめ、湯のみをテーブルに置く。
 箸の方が扱うのが難しいから、手の震えの影響が大きいかと思ったら、そういうものでもないらしい。親指を上にすると、震えが大きくなるようだ。
 そっと両手で包むようにして湯のみを持ち、中味をすすった。両手が互いに震えをカバーするようで、なんとか目立たないですんだ、と思う。
 食欲がないのと、複雑な手の動きができないので、メニューを全部ごはんの上に乗せ、味噌汁をかけて流し込む。いささか行儀が悪いが、なに、アジアではこういうなんでもごはんにかけて混ぜて食べるのが普通なのだ、と妙なことを考えて、それほどおかしくは見えないだろうと思う。
 再び、お茶を飲む。汗がどっと噴き出す。心臓がまだばくばくいっている。
 相変わらず、食欲はない。まったくうまいと思わない、というより味など感じない。 
 残りのビビンバもどきをすすり込む。
 むりやりにでも食べているから、これだけバカ飲みしてしてもなんとかもっているのだ、と自分に言い聞かせる。
 顔が痒い。吹き出物がでているようだ。顔を洗わないと。
 内臓、特に肝臓や腎臓が痛んでいると、ジンマシンが出たりするらしい。そこまではいかないが、それに近い。
 やっと食べ終わる。
 “かれら”はまだ食べている。
 食器をさっさとシンクに持っていって、さっさと洗って洗い籠に上げ、さっさとニ階に上がろうとした。
「ちょっと待て」
 と声がした。
 びくーん、と背中がひきつった。
「おまえ、少しおかしい。目が変だし、足もふらついているし、手も震えている。どこかおかしいのと違うか。会社はいいから、病院に行ってこい」
 ついに、その時が来た。
 アル中だということがバレた。
「わかった」
 やっとそれだけ言って、ニ階に上がる。
「ちゃんと会社に電話しろよ」
 小学生に言うのではあるまいし。電話する会社など、ないというのに。

 そのまま上着だけ残してワイシャツとズボンとネクタイはつけて、ふとんの上に横になったまま、病院が開く時間を待った。体がひどくだるいが、早く行った方がいい、朝早い年寄りたちがすぐやってくるからと、“それ”が言うので、ふとんを丸めて棚に押し込んで、出ることにした。
 ついてくるというので、それはきっぱり断った。
 保険証持ったかとか、初診だから余分に金を持っていけというのを聞き流して、そそくさと靴をはき、逃げ出した。
 どこがいいか、と思う。内科だろうか、神経科だろうか。
 内臓がぼろぼろであるのはかからなくてもわかるし、“かれら”のかかりつけのホームドクターは内科なので、そっちに行ったら情報が漏れるかもしれない。医者の守秘義務などというが、家族にはぽろっと漏らすことが十分考えられる。しかし、神経科といっても、心当たりはまるでない。
 駅前の、今は数少なくなった公衆電話に備え付けてあった電話帳をめくり、近くの内科をみつくろった。
 いくらかかるかわからないので、できるだけ手をつけないようにはしていてもじりじりと残高が減っていく預金を少し多めに取り崩した。

 クリニックが開くまでのあと30分ちょっとの時間を持て余して近くのコンビニに入ると、酒が並んでいた。
 あわてて飛び出し、とにかくクリニックのドアにもたれかかる。
 体がひどくだるく、立っているのも辛い。
 爺さんがのそのそやってきて、モゴモゴとそこにいると邪魔という意味のことを言った。うっかり文句を言うと暴力をふるわれるとでも思っているのか独り言みたいな言い方なのが、かえってカンに触ったが、黙ってドアの前からどいた。
 立っていられなくなり、しゃがみこんでしまう。
 おそろしく長い時間が過ぎ、やっとクリニックがオープンした。
 一番ゲットという感じで、爺さんがとびこんで診察券を提出する。どうでもいいけど、いい歳をして一番乗りするのがそんなに楽しいのだろうか。
 初診なので、住所氏名の類を書かされる。
 驚いたことに(驚くことではないのだが)、手が震えて字が書けない。思いきりボールペンを握りしめて紙に押し付けてみても、ふざけているようにペンは勝手に踊ってもつれた線を描くだけだった。
 字を書くという意識を捨てて直線だけ組み合わせて字に見せようという作戦も失敗。線がまともに引けないのだから。
 一文字書くのに汗をだらだら流しながら悪戦苦闘している姿を、事務員が不審な目で見ている。いや、それはこちらの気のせいで、医院には容態のおかしい人間が来るのが当たり前でいちいち変な顔をしているわけではないのかもしれない。だが、まともに顔を上げられずにいると、そういう顔をしているように思えてくる。
 これ以上ごしゃごしゃした落書きをする前に、やむなく事務員に代筆を頼む。別に嫌な顔もしないで言う通りに書いてくれたが、その間に爺さん婆さんが続々とやってくる。なんでこんなに朝早くから先を争うようにやってくるのか。事務員が一人しかいなくて、それを自分が占領しているものだからその年寄りたちが刺すような視線をそれぞれ送ってくる。これは絶対気のせいではない。
 こっちの様子を見て、看護婦が血液を採りにきた。すぐに結果を教えてくれるのかと思ったが、そういうわけではないらしい。
 やっと医者にかかると、診断はごくあっさりしたものだった。
「アル中ですね」
 そんなことは、わかってる。
「一生、飲めませんよ」
 簡単に言ってくれるなあ。
「飲みだしたら、止まらないでしょう」
 まあね。
「アル中というのは、治りませんよ。脳がアルコール漬けになって変質して、ほどほどに飲めない体質になっているんだから。元には戻りません。まあ、治らない病気というのは、いっぱいあるから。糖尿とかね。こういう病気とは気長につきあえば後は普通に過ごせるので、自棄になってバカ飲みなんてこと、しないように」
 知ってるよ、だいたい、そんなこと。とにかく、この手の震え、なんとかしてくれ。
「酒をやめるしかありませんね」
 いや、だから何か早く回復する薬か何かないのか。
「離脱、いわゆる禁断症状ですが、治まるにはまあ三、四日かかります。飲めば治まるみたいに思えるかもしれないけれど、神経麻痺させてごまかしているのだから間違えないように。家族は?」
 いません、と言っておく。一人暮しだと。
「家族の協力がいるんですけどねえ」
 家族に知らせたくないから、アル中になってるんだ。
「シアナマイド出しておきましょう。酒が飲めなくなる薬。これ飲んで酒飲むとものすごく苦しくなるから、絶対飲んじゃダメだよ」
 知ってるよ。さんざん、本で読んだ。ネットでも見た。なんか、すごく苦しくなるらしい。アルコールが胃で変化してできる毒物アセトアルデヒドを分解するのを邪魔するので、全然酒飲めない人がムリに飲んだのと同じことになるという。どんな風なのか、ちょっと興味あるな。
 よっぽど生活態度をつかまえて説教されるかと思ったら、あっさり「はい、次」という感じで終わってしまった。
 2週間経ったらまた来いという。
 会計で、保険を使ってもここ一カ月の小遣いがとんでしまった。こんなの、月に2度もやるのか?

 外に出る。これからの一日、どう過ごす? 
 無為の一日の長さを思うと、一杯飲みたくなってきた。コンビニに入り、いつものようにチューハイのロング缶を二本買い、物陰に隠れながら飲んだ。
 それからもらったばかりのシアナマイドを飲むことにする。
 小さなポリタンクのような容器に入っていて、スポイトで量を計ってちゅーっと喉の奥に噴射する。味も何もわからない。うまいものではないようだ。
 飲んだからといって別に体には何も起こらない。こんなので、どうにかなるものだろうか。
 と、思ったら突然猛烈な吐き気が襲われて、その場に思いきり朝食べたものをぶちまけてしまった。
 顔がはち切れそうに紅潮し、頭ががんがんするが、とにかく人目を避けてとにかく大急ぎでその場から離れた。
 吐くものを全部吐いても、吐き気は収まらない。頭が割れるように痛む。
 これでは、家に帰ってなんでもないとはごまかしきれない。遅かれ早かれ、いずれアル中だとばれてしまう。いや、アル中だと家族に告白し、協力を得ないとアルコール依存症から立ち直るのは無理だ、なんて言ってたな。それができたら、苦労しない。
 わずかな貯えも、こんな風に治療費がかかるのでは、すぐ底をついてしまう。また人と交わって働くなど、ありえない。
 八方ふさがりだ。

 息子がアル中だなどとは、考えたこともありませんでした。
 え? 今はアル中だとは言わない? アルコール依存症? やっぱりそれはそのなんですか、差別と関係あるのですかねえ。
 そうではなくて、イッキ飲みでぶっ倒れるのをアル中といって、長いこと酒飲むのが習慣にしていて脳が変質して、いったん飲み出したら止められなくなるのをアルコール依存症という? 
 いえ、家では飲んでいませんでした。隠れて飲んでいた? そういえば、目が変になっていたようなこと、ありましたね。いわゆる、目が座ったというか。いえ、それで乱れたり暴れたりとかはしていません。
 一緒に住んでいて気がつかないってことあるかって、いえ、もともと変なところ、ある子でしたから。
 叱ったり説教したことは、ありませんでした。放っておいても、自分で決めていましたから。
 手のかからない子でした。
 それで、やはり酔って階段から落ちたということですか。それだけではない? 目撃によると、自分から頭から突っ込んでいったみたいだった? なんでそんなことしたんでしょう。
 いいえ、心当たりはありません。本当に。
 
<終>

隠れ酒(6)