prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ザ・ギフト」

2016年11月30日 | 映画
高校時代を過ごした土地に戻ってきた夫婦のうちの夫役のジェイソン・ベイトマンと、しきりと変になれなれしく贈り物をしてくる夫の同級生役のジョエル・エドガートン(監督・脚本も)が割と顔が似ている、というのはかなり狙ったものと思える(エドガートンはヒゲを生やしているので見分けがつくのも演出だろう)。

どちらがどちらか不分明な分、前半なかなか誰がいいもんで誰が悪者なのか、どんな関係に着地するのかはっきりせず、かなりゆったりしたテンポに何か不安な描写が挟まれていくじわじわした調子から、後半話の軸がはっきりしてから、前半に散りばめられた伏線が立ち上がって戦慄的なクライマックスまでたたみ込んでくるという計算が立っている。

エドガートンが監督脚本を兼ねているのに一見目立たない、同級生にいたらしいが忘れてしまったという影の薄い調子でやっていて、役者としての自分をきっちりコントロールしている。

話の基本にあるのはアメリカの田舎の閉塞的な雰囲気と学校というやはり閉ざされた社会での力関係というのも、いずこも同じかと思わせる。会社の出世競争の裏側のセコさも同様。

アメリカの小金持(起業家で大成功とまでいかず、ずっと年下の起業家の元で働いて出世しているといったレベル)が飼うのが犬とともにおそらく日本の錦鯉、というのがなかなかおもしろい。
(☆☆☆★★)

ザ・ギフト 公式ホームページ

映画『ザ・ギフト』 - シネマトゥデイ

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11月29日(火)のつぶやき

2016年11月30日 | Weblog

「サウルの息子」

2016年11月29日 | 映画
サウル、と表記されているのではっきりしないが、これは使徒パウロのユダヤ名としてのサウロのバリエーションではないだろうか。
もともとユダヤ人でキリストを迫害していたサウロがなぜかしばらく目がほとんど見えなくなり、それから「目からウロコのようなものが取れ」(目からウロコという表現はこれが元)キリストを見出し、名をパウロと変え、最も熱心な伝道者になったという話。日本にもある聖パウロ学園のパウロね。

この映画の際立った特色として、ほとんど全編サウルの周囲にカメラの画角を限って他の人間や風景がろくすっぽ見えないという点がある。
初めのうち、ポーランド映画「パサジェルカ」で収容所の囚人を犬に食べさせるのを背後に置きピントを外して撮って、想像に任せることでかえって生々しさを増す技法の応用かと思っていたが、それだけでなくしきりとサウルが探している息子というのが何度も周囲に聞いては否定されることで本当に存在したのか観念上の存在なのか曖昧になってくる。

とすると、ラストでさっと視界がそれまでの限界を外れて、つまり目からウロコがとれて見出した子供、というのはキリストのメタファーか少なくとも救いの象徴ではあるだろう。ただそれをキリスト教的な視点からではなく描いているということなのかもしれない。
正直、キリスト教ともユダヤ教とも馴染みのない人間にはそうなのかなと推測するにとどまるが。
(☆☆☆★★★)

サウルの息子 公式ホームページ

映画『サウルの息子』 - シネマトゥデイ

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11月28日(月)のつぶやき

2016年11月29日 | Weblog

「溺れるナイフ」

2016年11月28日 | 映画
原作は未読なので、初めの方で鳥居のある泳ぐのが禁忌になっている神様の海をタブーをものともせず金髪にした菅田将暉が泳いでいるのが、中上健二脚本・柳町光男監督の映画「火まつり」みたいだと思ったら、本当に火祭りが出てきたのだから驚いた。舞台でロケ地になっているのが同じ熊野ということもあるのだろうが、かなり神話的な構造や性格を底流に持っていると思える。

平凡な神を蹴散らす荒ぶる神というか、ヒロインから見たヒーローが日常に突き刺さる、あるいは突き破る存在で、ヒロインが東京から田舎に来ていて周囲からすると異人であり芸能人という非日常的な存在だけれども、さらにそこから飛躍した存在として見られるという二重の構造になっているのがおもしろい。

菅田将暉の登場する場面のクイックカットでこの世のものとも思えない感じを出した演出といい、まことに力を入れて惚れ惚れとした調子で撮っている。
ローカル色を生かしながら感覚がモダン。

ただ途中、最初の火祭りの夜の事件でいったんヒーローが堕落するわけで、そこから復活するのかというとどうもそのあたりがヒロインが二度目に襲われるあたりの映像処理の曖昧さとともにはっきりしない。

「火まつり」の主人公の男は完全にあっち側に行ってしまい、家族を人身御供に捧げるという惨劇に至るのだが、ここでは殺し合いにこそならないがヒロインと互いに刺し合うようなヒリヒリと痛い感じは出ていて、日常と地続きな分つらい感じですらある。

東京=芸能界の描き方のイメージがいささか軽薄で、軽薄な世界だからそれでいいというわけでもなく映画自体を軽くしてしまっているのは問題。

ど田舎の何にもない感じ、というのが最近の日本映画(日本に限らない感じもする)でずいぶんリアリティを持つようになって久しい。恋愛の相手ではない男友だち役の重野大毅の「おら東京さいくだ」の調子外れの熱唱が印象的。

渋谷の劇場で見たのだが、観客のどれくらいがどこの出身でここに共感したのかしないのか気になった。
(☆☆☆★)

溺れるナイフ 公式ホームページ

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映画『溺れるナイフ』 - シネマトゥデイ



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11月27日(日)のつぶやき

2016年11月28日 | Weblog

「回転」

2016年11月27日 | 映画
映画の原題はThe Innocentsだが、ヘンリー・ジェームズの原作のはThe turn of screw。邦題の「回転」は原作の「ねじの回転」の省略形だが、これだと意味がよくわからない。何かが回転しているわけではないのだから。
脚色にウィリアム・アーチボルドと並んでトルーマン・カポーティがクレジットされている。

出だしがダ・ヴィンチなどの素描を思わせる祈るように組み合わされた手のアップで、ラストこの手のアップに戻ってくる。
何を祈っているのか、という内容がつまり本筋になる。

映画字幕翻訳家の岡枝慎二氏によるとThe turn of screwというのはねじを回して得られる圧力、強迫観念といった意味らしいのだが、新しく豪壮な屋敷の二人の子供の世話を頼まれた家庭教師が以前この屋敷にいた前任の家庭教師と庭男の姿を見ていくのが強迫観念の産物のようでそれを超えた幽霊のリアリティを持っていく描き方が文学的。怖がらせるためにショーアップされた出し方とは一線を画する。

家庭教師が子供たちの無垢さと裏腹の邪悪さに触れていくわけで、イノセンスというのはアメリカ文学的なモチーフだしカポーティが呼ばれたのもそのせいだろう。

のちに怪奇映画の監督に進出するフレディ・フランシスの白黒撮影が見事。なんとなくおかしいのが、陰影の濃い画面を作っていても主演の当時40歳のデボラ・カーの顔はくっきり撮っていること。




11月26日(土)のつぶやき その2

2016年11月27日 | Weblog

11月26日(土)のつぶやき その1

2016年11月27日 | Weblog

「グリーン・インフェルノ」

2016年11月26日 | 映画
フィクションだということを隠さない「食人族」のリメイクといった一編。
白人側が環境保護という体裁になっていて、しかし傲慢と資本主義の論理べったりぶりは「食人族」のテレビクルー同様にひどいし、かといって食人「土人」も野蛮で残酷で汚らしくておよそ肯定的なニュアンスはない。
おまえら平等に価値が「ない」という感じ。

そしてそういったヒドイ連中に何らかの天罰の類が下るかというとそんなこともなく、作り手の悪意が徹底しているのは気持ちいいけれど、ただ「食人族」風の行き当たりばったり的散漫な構成まで踏襲したみたいで、全体とするとかったるい。切り株シーンを丁寧に撮っているのは期待通りだけれど、もっと見たくなるから怖い。
スマホで自撮りしながら環境保護を訴えるのが今風だけれど、生中継でないとあまり意味ないのではないかな。






11月25日(金)のつぶやき その2

2016年11月26日 | Weblog

11月25日(金)のつぶやき その1

2016年11月26日 | Weblog

「速水御舟の全貌―日本画の破壊と創造―」 山種美術館

2016年11月25日 | アート
御舟の二十代の時のかなりリアルな虫や木の葉などの写実と抽象的な画とが平行して展示されているのを見たあとで、小さな別室に置かれた「炎舞」がぽつっと置かれていると、なるほど両者の描写法がこの一枚に流れ込んでいるなと思わせる。
しかもこれは三十一歳の作品で、亡くなったのが四十歳というから頂点も終わりも早すぎということになる。

しかし美術展もあまり大がかりだと見るのが大変で、これくらいの規模のがじっくり見られていいなと思う。負け惜しみじみるけれど、若冲展は4時間とか5時間待ちというので結局見逃したが、若冲そのものは実はけっこう他で見られてはいるし。

「速水御舟の全貌―日本画の破壊と創造―」 山種美術館



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11月24日(木)のつぶやき

2016年11月25日 | Weblog

ダリ展

2016年11月24日 | アート
ダリの15歳くらいからの画を順を追って見ることができるのが収穫で、初めはあからさまに印象派風、それからキュービズム風と当時の先端を追っていたこと、ポスターや衣装デザインなど商業美術も早くから手掛けているのもわかる。

10代の頃の自画像があって、20代の後半に差しかかった頃にまた肖像画があるからまた自画像かと思うとルイス・ブニュエルのでした。この頃の二人は結構顔が似てる。
ダリとブニュエルの二人が共作した「アンダルシアの犬」の上映に黒山の人だかり。かつて封切りでは上映禁止になり、カソリックの司祭がスクリーンを聖水で清めてまわった映画がこういう扱いになろうとは。

舞台デザインと並んで舞台の実写もモニターに映され、ダリの多彩な仕事ぶりをうかがえる。
ヒッチコックの「白い恐怖」の夢の場面の美術案のデザイン(ヒッチコックに言わせるとイングリッド・バーグマンの顔が割れて無数のアリが這い出して来るといったとても映画にできないようなアイデアだらけだったらしい)なんてのがあったら良かった。

ダリ展 国立新美術館



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