prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「悪い男」

2006年05月29日 | 映画
なんだか、日活ロマンポルノみたいだな、と思って見た。こういう、悪意に満ち満ちた創作って、けっこう日本にもありましたよ。今だとホラーの方に行っている感じだが。
男が自分で直接手を下さないのが、一段と「悪い」感じ。



悪い男

エスピーオー

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「大日本帝国」

2006年05月28日 | 映画
長いこと右翼反動映画め、と思ってそっぽを向いていた映画(1982年製作)。
で、それをわざわざ見る気になったのは、こちらが「右傾化」した、というか「進歩派」に愛想をつかしたせいもあるが、一番大きいのは脚本の笠原和夫のインタビュー集「昭和の劇」を読んで、作者がどれだけ真剣に「戦争」を描こうとしていたか知ったから。

もっとも、脚本にこめられた意図がそのまま画になればいいのだが、そうはいかないのが映画の難しいところ。
特に戦争の凄惨さの表現については、「プライベート・ライアン」あたりを見ているとどうしても作りもの臭さが目についてしまう。飢えてるはずなのにみんな栄養いい顔してる、とか、機銃掃射で撃たれたらあの程度の傷で済むわけがない、とか。
日本の監督は「リアリズムが身についていない」というのが笠原の主張だが、首肯せざるをえない。演出だけでなく、役者の芝居の質のせいもある。

市村萬次郎の昭和天皇が、メイクから発声からそっくり。
インタビューを読むと、はっきり天皇批判を意図しているのがわかる。「御聖断で戦争が終わるんだったら、なんで早く下してくれなかったんだべ」「天子さまは宮城だよ、ずーっと」「天皇陛下、お先に参ります」「大元帥閣下が、アメリカと手を組むはずがありません」などなど。
フツーに見てこれが天皇批判でないわけないのだが(なんなら「右翼」の側からの)、未だにソクーロフの「太陽」を公開できないこの国の空気の中で見ると不思議とそう見えないところがある。見る側が批判を受け取ろうとしない、というか、直視しようとしないというか(後註・「太陽」公開決定)。

もっともこちらがそれほど天皇を批判的に見ているかというとそうでもなくて、「天皇の戦争責任」(加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣の鼎談集)で提出された、昭和天皇を日本の近代国家としての基礎を作るための立憲君主制に忠実な君主であろうとした存在、と位置づける考えに割と納得したりもしているのだが。

夏目雅子(!)のニ役の一つがクリスチャンで、もう一つが南方のマリアという現地人という作意。恋人の篠田三郎が自分がやったわけでない罪で裁かれて死ぬのは、偽キリストみたい。

なんでも、田原総一郎が公開当時反動映画と呼んでいたのが、後年反戦映画と言い出したらしい。節操がないには違いないが、それだけ重層的な造りということでもある。

やたらとみんな死にたがる。素直に生きのびたがったり、論理的に勝つための工夫をするより美意識に殉じようとする傾向が強くて、非常に自閉的。
(☆☆☆)



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大日本帝国

東映ビデオ

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「ピンクパンサー」

2006年05月27日 | 映画
意外とイケルのですね、これが。
オリジナルは数え方によっては9本もあるらしいのだけれど、テレビで断片的に見ただけだったからいちいち比較しないで済んだせいもある。
スティーブ・マーティンのクルーゾーは、ピーター・セラーズのよりスマート。セラーズは精錬された演技もできるのだが、クルーゾーではやたら泥臭くやっていた。変な東洋人の召使ケイトー(加藤のつもりらしい)との空手ともカンフーともつかないドタバタがないのは助かる。

マーティンは脚本にも参加していて、おバカギャグの羅列かと思って軽く見ていると、意外なところで前のギャグが後で生きているように作っている。

フランス人の設定だが喋るのは英語、ときどき単語の頭のH音が抜けてたりするからフランス語なまりの英語みたい。そのせいか逆にずいぶんと聞き取りやすい発音だった。
(☆☆☆★)



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ピンク・パンサー

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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「オアシス」

2006年05月26日 | 映画
疎外された者同士の、ほとんど格闘に近い感情のぶつけあい。
傷をなめあったり、互いにいたわりあったりする、ありがちな描写、差別という言い方が連想させる弱さ、可愛げがまるでない、きわめて厳しいタッチ。
疎外とか差別というより、自分から他人(家族も)をはねつけているよう。

ムン・ソリの脳性マヒの演技は、ソル・ギョングのとことんゴクツブシに徹した役とともに、よくチャレンジしたなと思わせる。
ただ勇気は別として不随意運動を演技という随意運動で再現しなくてはいけないという本質的なムリがある。その限界を逆手にとるように、ときどきふっとイメージ・シーンで健常者の地を出して自由に動き回ってみせるのが、なんともパセティックな情感を出して、利いている。
手鏡で照らした光がハトや蝶に化けるCGの使い方のセンスの良さ。

ギョングが高速道路でバイクを飛ばしながらドラマの撮影隊のトラックをからかっているうちに転倒するのを、カットを割らずに撮っているのにびっくり。
(☆☆☆★★)



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オアシス

バンダイビジュアル

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「陽気なギャングが地球を回す」

2006年05月25日 | 映画
ライト・コメディ感覚のクライム・サスペンスとはまた難しい題材を選んだもの。
今どき銀行強盗しても、あまり実入りは良くないだろうなあ、と思ってしまう。政府の政策一つで銀行がどれくらい儲けたか思うと、たかが数千万と何兆と金額の桁が5つも違うのだから。
かといってバーチャルな世界の取引で儲けたところを描いたところで、ちっとも見ていてそれこそロマンがないわけで。じゃあ、何がロマンかというと、これが難しい。一番難しいのではないか。

それで、か、衣装・美術ほかこれが作り物の世界であることを強調して、「ルパン三世」ばりのマンガチックなトーンになっている。ただ、カーアクションはCGだとわかるのだから、もっと徹底して現実にはありえない走法をさせた方がよくなかったか。
キザなセリフが多いのは、結構ひやひやもの。わからない外国語で聞くのと比べて不利。
各キャラクターの特殊能力はそれほど生かされていない。

観客をひっかける仕掛けが随所にあって、シーンの組み立て、カット割りともにずいぶん凝っているが、よくあるMTV風の表面だけ凝ってみせるのではなく、ずっと見ていて初めて、あ、そういうことねと思わせるように構成できている。
主役陣も豪華な顔ぶれだが、脇もストーリー上でひっかけがきくようにキャスティングに気を配っているのに注目。

ちなみに、キリンを冷蔵庫に入れる四つの条件、というのは見ていてどういうものかわかった。どこかで聞いていたのかな。
(☆☆☆)



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陽気なギャングが地球を回す プレミアム・エディション

ジェネオン エンタテインメント

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「鉄輪」

2006年05月24日 | 映画
1972年 製作・監督・脚本 新藤兼人。

題名の「鉄輪」(かなわ)とは、能の演目であり、丑の刻参りで五寸釘を藁人形に打ち込む時に頭に戴くロウソクを立てる台のこと。
男の浮気と女の嫉妬がモチーフで、能の上演の情景と、平安時代の浮気した夫を呪う丑の刻参りと、現代(といっても34年前)の夫の浮気現場に執拗に電話がかかる(今だったら、ストーカーだな)さまとが交互にカットバックされて描かれ、時には現代の風景に平安時代の扮装をした人物が現れて文字通りキャッチボールをしたりする。

最近では流行らない実験的な作りだが、色々な要素を混ぜたが化学反応はしないで分離したままという印象。
シナリオを先に読んでいたが、正直文字で読んでいた方がイメージを喚起された。

渋谷駅前のロケーションがあるが、基本的な地形は変わらないのにビルが見事に全部入れ替わっている。

女優だけ白塗りのメイク。どういうわけか、新藤作品はこういう不自然な白塗りが多い。
(☆☆★★★)



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「RENT レント」

2006年05月24日 | 映画
出演者は全員なじみがないが、見事な歌唱力を見せる。
無名というところで役と重なるのは、「フェーム」、ミュージカルではないが「グリニッジ・ビレッジの青春」などを思わせる。オープニングなど「コーラスライン」っぽい。
ただ、彼らがサクセスするかどうかは相当不透明で、金持ちの娘と結婚した黒人の扱いなど、成功すればしたで堕落は免れないのを匂わせているよう。

かたかたいう音とともに、フィルム上映が始まるオープニングで、時代が出る(黒澤の「乱」(1985)のポスターがちらっと見える)。ビデオではないのだね。
ソーホーに貧乏なアーティストの卵がたむろしている情景って、今どうなのだろう。劇中でも不動産屋がしきりと再開発したがっていたが。
エイズは今でも蔓延しているのには違いないが、悲劇性に限って言えば風化した観あり。

最近多いMTV風のちゃかちゃかした映像処理でないのはありがたい。あまり踊りはなくて歌中心のミュージカルなので、カット割りには苦心した感じ。部分的に監督のクリス・コロンバスの初期の「ファンダンゴ」を思わせる音楽処理を見せる。

広告には全然出なかったけれど、ロバート・デ・ニーロが製作に噛んでるのね。
(☆☆☆★)



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レント

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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「ロスト・イン・ラ・マンチャ」

2006年05月23日 | 映画
テリー・ギリアムという人も、「ブラジル」といい「バロン」といい、よくよくトラブルに見舞われる星の下に生まれているみたい。よく今でもまがりなりに映画を作れているもの。

撮影現場の上空をやたらジェット戦闘機が飛びまわったり豪雨にみまわれたり主役が椎間板ヘルニアになったり、ギャグでやってるのではないかと思うくらい次々とトラブルに襲われるのに、悪いと思いながら笑ってしまう。
何が悪い誰が悪いというより、悪い方に物事が転がりだした時の収拾のつかない感じに、見ていてちょっと冷や汗が出る。

保険会社がthe act of God(不可抗力)に対しては保険金を支払わなくていいと主張するところで、「トラ!トラ!トラ!」で、日本側プロダクションサイドが黒澤明が「精神的病気」になったのをthe act of Godとして監督更迭の理由としようとしたが、保険会社に認定されなかったケースと、ちょうど逆だなと思う。
the act of Godだったら支払うというのと支払わないというのと。

出資者Investerを撮影現場に呼んで見学させるなんて場面があるが、数が多いのと割と若いのといやに明るいのとで、記念写真など撮ったりしてまったく観光客のノリ。彼らに出資金は戻ったのかね。
当初の製作費1600万ドル(あとでもっと膨れ上がったみたい)は大金には違いないが、ハリウッドで作ったら低予算だ。今だったらジョニー・デップのギャラでとんでしまうのではないか。

でぶ三人組をあおって撮って巨人に見せるテストフィルムや、数珠繋ぎに枷をかけられた男たち、魚相手にマジメに喧嘩するジョニーなど、断片的に見られる場面だけでもどこを切ってもギリアム印。
どういうつもりか、「鼓動」と書かれたシャツを着ている。「ブラジル」で鎧武者が出てきた時はびっくりけれど、あれはサムライとSam lie サム(主人公の名前)の嘘 にひっかけているとか聞いたけれど(うろ覚え)。



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ロスト・イン・ラ・マンチャ

東北新社

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「小さき勇者たち~ガメラ~」

2006年05月22日 | 映画
ガメラが脱ぎ捨てた後の殻らしい赤い石がガメラの力の源になるらしいのだが、なぜそうなるのかわからず、ガメラを育てる少年がどうやってそれを知ったのかがまたわからず、少年が石を戦うガメラのもとに届けようとするところで、なぜか突然見ず知らずの子供たちが現れて石をリレーして少年のもとに持ってくるのだが、彼らが何者なのかどうやって石のことを知ったのか、少年の仲間の場所をどうやって知ったのか、これまたわからない。
まるで判じ物。

ガメラは何を食べたのかわからないまま突然でかくなるのだが、変な科学者が成長に必要な物質とかいうのを注入しようとして効果があがらないまま、ガメラが外に出るとまた突然でかくなる。「なぜか」大きくなるという設定で通していいのに、なまじっか変に理由をつけようとして、ボロが出た。

少年はしきりとガメラを助けるとかいって、命を大切にしろとかいうわけだが、それで怪獣同士が戦っている危険な場所に近づいて自分の命を危険に曝すとは何事か。男手ひとつで育ててくれている父親だっているだろうが。人の(亀の)命を心配するより、まず自分の命を大切にするのを覚えろよ。

「亀という生物はいない」伊藤和典=金子修介コンビ三部作の世界観を完全に否定して(オープニングだけギャオスが出てきて、三部作風のハードな描写が見られる)、亀を育てたらガメラになっちゃったというハナシは悪くないし、子供の味方にした作りは旧シリーズよりスマートになってはいるが、いかになんでも基本的なスジの通し方がぐちゃぐちゃ。

前半のひなびた海辺の町の風景や、ゲームやパソコン、携帯のない世界にしているのはいい。シーダスとかいう新しい怪獣はまるで魅力なし。ガメラがあまり強くないのはともかく、ここぞという時にいいところを見せる呼吸が今ひとつ。
(☆☆★★)



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小さき勇者たち~ガメラ~ スペシャル・エディション

角川エンタテインメント

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「ナイロビの蜂」

2006年05月21日 | 映画
レイチェル・ワイズはこれでアカデミー助演女優賞を取って臨月姿でオスカー像を受け取ったわけだが、映画の中でも臨月のヌードを見せている。もちろんこっちは特殊メイクによるものだろうが、強い印像を残す。
やたら正義感が強くて常に正論を吐いて周囲を辟易させるようなキャラクターだが、それが干からびた教条性ではなくて、生命全般に対するシンパシーから来るものであることが一見してわかる。

イギリスなどのレイフ・ファインズの生活空間はモノトーンに近く、アフリカの原色の画面とコントラストをなしている。原色も、アフリカの自然の原色と、工場廃液みたいな毒々しい汚染色とを微妙に使い分けている巧みな色彩設計。
時制がひんぱんに交錯して、すでに死んでいる妻を絶えず甦らせて見せる演出。
ファインズが庭先で号泣する場面は、抑制と激情をないまぜて秀逸。
ヒロインの惨死体を見て嘔吐する男が、実は半ば陰謀の片棒を担いでいたことがわかるアイロニー。

製薬会社がアフリカに薬を寄付するのは、使用期限を過ぎた薬を処分するのと税金対策からで、実際には酷暑の中ですぐ使い物にならなくなるというあたり、行き過ぎた資本の論理の非人間性をまざまざと教える。
(☆☆☆★★)



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ナイロビの蜂

日活

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「プロデューサーズ」

2006年05月20日 | 映画
焼け太りというのか、わざとコケる芝居を作ることがプロデューサーサイドとしては儲かるという摩訶不思議なシステムをメインに据えたオリジナル映画のアイデアがなんといっても素晴らしい(余談ながら拙作「フジヤマ・ゲイシャ・ハラキリ」はこのオリジナルのアイデアをヒントにしている。興味のある方は読まれたし)。
もっとも、当時に比べてリスクヘッジがヘッジを通り越してマネーゲームになるというのは、ショー・ビジネスみたいな特殊とされる世界だけでなくごく一般的になっている観あり。
今だったら、弁護士が確実に顔を出してくるだろう。

「ヒットラーの春」なんてトンデモなミュージカルを、ユダヤ人であることを売り物にしているメル・ブルックスが考えた、ということ自体、もろに差別を裏返した笑い。
ラストカットでちらっと顔を出すが、さすがに老けたが、油っ気は十分。若い客だと誰だかわからない向きも多いのではないか。作詞作曲まで堂々とこなしているのだから、すごい。

海千山千という言葉を画にかいたようなプロデューサー、“ピーナッツ”のライナスのように毛布にしがみついている会計士、夫の遺産で男遊びに耽る85歳以上の未亡人たち、ヒットラーかぶれの劇作家、オカマの巣窟みたいな役者と演出家とスタッフたち、と、まあよくこれだけアクの強い連中を集めたもの。
ゲテすれすれだが、役者がみんな指先までみっちり芝居している感じで、見せること。

無理に映画的にしないで、場の感覚を大切にしてがっちり芝居を重ねていくような演出。

ネイサン・レインの部屋に‘KING LEER’というポスターが貼ってある。「リア王」KING LEARのもじりなのはもちろんだが、LEERというのは、「横目、色目、流し目」という意味。未亡人を誘って金を集めているのに合わせているというわけ。
(☆☆☆★★)



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プロデューサーズ

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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エルンスト・バルラハ展

2006年05月19日 | Weblog
東京芸術大学美術館にて。

全体としてまず一つの形、一つの流れ、一つのベクトルを成しているような造形。
同じ「苦行僧」を小さな漆喰像、大きな胡桃材像を並べて見ると、前者に比べて木そのものが持っていた全体としての流れ、ベクトルがより豊かに移されたかのよう。
多くが、当時すでに彫刻の素材としては廃れていた木像というのも、そのせいか。

多くの全体としての形が底辺の広い三角形をなし、足を広げて踏ん張っている人物に対応している。人=像の持つ流れが、何か上から降りてくる大きな力に耐えているとも受けとめているともとれる形。

表現主義とはいっても、映画の「カリガリ博士」のような異様な圧迫感や不安感、歪みとは別物。全体としてのデフォルメはともかく。



「連理の枝」

2006年05月18日 | 映画
女が落とした携帯を隠して、かかってきたところを勝手に出たり、返しもしないで新しく買わせる男を、アナタ信用できますか? 
そんなわけで序盤でつまずいて、ベタな笑いにうんざりし、画面も薄いしで我慢できなくなって、途中で出た。

「四月の雪」でもそうだったが、韓国だと病院でも携帯切らないのだろうか。



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