prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「不戦勝」

2011年03月31日 | 映画
「トゥモロー・ワールド」で採用された複数のカットをつなぎ目なしにつなげて見せるソフトウェアや、「エルミタージュ幻想」で正真正銘90分ワンカットを実現したデジタルカメラの登場などのデジタル技術の発達により、今では映画の長まわしといってもあまり騒がれなくなった気がする。映像に写っているものが現実に存在するものをまるで保障しなくなったということでもある。

しかしアンゲロプロスや相米慎二が人気を博した(というべきか)20年くらい前は、日本未公開だったにも関わらずその長まわしゆえにときどき言及されたのが、全部で35カットで構成されたという、このイエジー・スコリモフスキ監督の「不戦勝」ということになる。

今回WOWOWで放映されたのを見たわけだけれど、それほどどうですこの長まわしを御覧なさいという感じではなく、意識しなければすんでしまうような使い方だが、クライマックスのバイクが追いかけてくるのを列車の側からえんえんと捉え、最後に列車から主人公が飛び降りるまでを追ったカットはすごい。
(☆☆☆)

出演
アンジェイ・レシュチツ イエジー・スコリモフスキ
テレサ・カルチェフスカ アレクサンドラ・ザヴィエルシャンカ
コンビナート長 クシシュトフ・ハミェツ
駅の娘 エルジェビェタ・チジェフスカ
マリアン・パヴラク アンジェイ・ヘルデル

スタッフ
監督 イエジー・スコリモフスキ
脚本 イエジー・スコリモフスキ
撮影 アントニ・ヌジンスキ
音楽 アンジェイ・トゥシャスコフスキ


「レギオン」

2011年03月30日 | 映画
悪魔ではなくて天使が人間を襲う、というのが一応のアイデアなのだけれど、もともと神さまの方がよっぽど天罰を下して人殺してるわけで、あまり意外性なし。というか、天使で話を止めているのが中途半端なので神さままで話がいかない。そこまでいったら、キリスト教文化圏では映画館が焼き討ちにあいかねないからか。

イナゴの大群が襲ってくるのはお約束で(どうやって逃れたのか、よくわからない)、意思を失った人間たちが襲ってくるあたりはゾンビもの風、子どもは殺さないだろうと思うとその通りになる(別に殺されるところ見たくないが)、といった具合であまり新味なく、「トレマーズ」風にド田舎の僻地で限られた人間たちが襲われる話の割りに、妙に神だ天使だともったいぶって風呂敷を広げてかえって型にはまっている感じ。
(☆☆★★★)



「フローズン・タイム」

2011年03月29日 | 映画
短編を膨らませたらしいが、その膨らませ方にまるで芸がなくて同じことの繰り返し、邦題通り時間が凍り付いて動かないが如し。画は写真家出身の監督らしく一応凝っているけれど、それだけで二時間はもたない。
長編にしないと流通しにくいのだろうが、見る側には関係ないものなあ。
(☆☆★★★)



「アレクサンドリア」

2011年03月28日 | 映画
四世紀ギリシャを舞台に初期のキリスト教徒とユダヤ教徒との争いが描かれるが、明らかに現代のイスラムとキリスト教の争いも射程に入れている(イスラムの開祖ムハンマドは六世紀後半の生まれ)。
総じて一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教はアブラハムの宗教と総称する)内部の内ゲバで、傍から見ているとどこが違うんだということになるのだが、小さな違いを認めない不寛容がエスカレートして大勢が殺され、どちらにもつかない女性哲学者もそういう態度は認められず魔女扱いされるあたり、あまりに現代そのもので、セリフが英語なこともあってちょっと鼻白むところもある。

抗争や暴動の場面になると人が虫みたいに見える大俯瞰のアングルをとり、しばしば宇宙から見た地球全体の映像が入ってくるのが争いの種の「小ささ」をありありと見せる。
背後に賢者の石像とともに動物をモチーフにした像がしょっちゅう写りこんでいるのが、ギリシャの多神教的な世界を暗示しているみたい。

原題はAGORA(広場)で、さまざまな意見を自由を述べ合い選択できる空間であるはずが、言論の内容より火の上を歩いて渡るといったケレンで衆の耳目を引き付けた者が勢力を伸ばすあたりも現代に通じるアナロジーになっている。

竹田青嗣の受け売りになるが、世界を説明するのに宗教は物語を使うため異なる共同体の間の壁をなかなか乗り越えられないのに対し、哲学(それから派生した科学)は原理をもって世界を説明するため、異なる共同体にも通用するし、小さな島と異なる人々の集まりだった古代ギリシャで哲学が発達したのはそのせいだ、という。

だから哲学者は同時に科学者、天文学者でもあって、地球が太陽のまわりを巡っているという説がすでに古代ギリシャにあったことが紹介され、しかし季節によって太陽の大きさが違うのはどういうことか、という命題が出されて、地球の軌道が円だと考えていたが、実は二つの焦点からの距離の和が等しい図形であるところの楕円であると考えるあたり、二つの焦点がつまり映画でのユダヤ教とキリスト教(あるいは対立軸一般)にあたる寓意が良くも悪くも明白でわかりやすい。
もっともわかりやすくても、こういうインテリ体質が勝った作りだとスペクタクルとして作っていても観客動員という点では苦しいみたい。
(☆☆☆★★)


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「ソーシャル・ネットワーク」

2011年03月27日 | 映画
出だしの二人の会話を一見けれん味なくアップのカットバックとフルショットの組み合わせで描いたオープニングから、まったくなじみのない出演者たちの演技と見えない演技にぴたりと焦点を合わせて、わずかにレガッタのシーンで川の両岸をぼかしてちょっとジオラマ風に見せる不思議な処理をしているくらいで、演出は一見するとほとんど画に興味をそらさない。
ネットの向こうの顔の見えない相手ではない、目の前にいる顔の見える相手との具体的なやりとりをもっぱら描いている。

ところがそのやりとりが、しばしば挿入される聴聞会のフラッシュ・フォワードに寸断され、その聴聞会でも弁護士が横槍をいれ、質問される方もまじめに答えず、で妙に噛み合わないまま勝手に事態が動いている、ビジネスの成功が個人的な美徳とはまるで関係ないというあたりが「今」の人間関係を描いた映画だなと思わせる。バーチャルリアリティがどうとか仮想と現実との違いがわからなくなっているとかいったズレた視点が入らないのがいい。
聴聞会が「真相」「正義」にたどり着くといったことがなく、というか初めからそんなことは想定しておらず、もっぱら両者が納得できる落としどころを探っているのが英米法的。

主人公マークのエゴイズムからハーバードの学長の「公正」さまで、色合いはそれぞれにせよ傲慢と無関心と慇懃無礼が全編を貫いているのが通り一遍でないエリートのいやらしさをよく出した。

それにしても、東大もそうだがなんでボートレースがエリートのスポーツということになるのだろう。忍耐力が試されるからだ、という説もあったけれど。

一夜漬けで現代美術の勉強をネットで済ませるシーンが初めの方にあるが、フェイスブックの登録者数が100万を超える時のオフィスがなんとも変てこな具合に現代美術を配している。
(☆☆☆★★)


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「蟹工船」

2011年03月26日 | 映画
端的にいって、1929年に書かれた小林多喜二の原作小説が現在のワーキングプアが搾取されている姿にストレートにつながるのか、といったらかなり疑問、というよりはっきりこじつけと思え、特に「団結」して資本家に対抗するという処方箋は日本に限っても組合の腐敗(今の民主党はそれに根を生やしている)による労働貴族こそがむしろ弱小労働者を搾取しているように思えて、とてもそのままでは通用しない。

すべての男たちのバックにある「貧困」にしても高度成長以前の日本社会の貧乏ぶりとそれに立ち向かう全盛期の日本映画のリアリズムの迫力にはとても及ばないし、それが作り手もわかっていてか、いやに大きな歯車が並ぶ船内の工場など、どうも中途半端に表現主義的なセットによってリアリズム離れを試みているが、ではどこに向かうのかというとよくわからない。
(☆☆☆)


「TAJOMARU」

2011年03月24日 | 映画
黒澤明監督「羅生門」の“独自の解釈”によるリメーク、というのはいくつかあって、「MISTY」「藪の中」の他、日活ロマンポルノで田中登監督によって映画化されかかったのが橋本忍の抗議でぽしゃったり、木俣堯喬監督(「相棒」の和泉聖司監督の父親)がシナリオ化したのを渋谷の古本屋で見かけたりといった未映画化まで含めるとどれくらいあるのかと思うが、何を核にしてどっちに膨らませるのか、というのはそれほど違わない気がする。

ひとつには「羅生門」が日本映画と黒澤明が世界にデビューして以来積み重ねてきた伝説を背負った「世界に売れる」というビジネス上の後光であり、本来だったらそれとつながるはずのコスチュームプレイのエキゾシシズムとエロチシズムということになる。
黒澤自身、「ラショーモン」が受けた理由を冗談めかしてだが「強姦の話だからねえ」などと語っているのだが、ところがリメークとなると後者の処理に必ずといっていいくらい足をとられて失敗してきた。
要するに時代の変遷に合わせて性描写をエスカレートようとするとコスチュームプレイの格調や三者三様の証言がぶつかる硬質の構成とぶつかってしまい、どっちつかずになってうまくいかないということで、ここではそれ以前に設定や道具立てをべつのものしたところで止まってしまったみたい。

さて、「羅生門」で三船敏郎が獰猛な野獣そのものとして体現した盗賊・多譲丸は初めのうち松方弘樹が扮して出てきて、小栗旬はこれと戦う身分の高い武士・森雅之にあたる役なのが戦った後どういう理屈かキャラクターが入れ変わってTAJOMARUを襲名することになる。
オリジナルでは三者三様の証言が食い違い鋭く対立したのが、半世紀たったらキャラクターが一向にたたないまま液状化してごっちゃになったかのよう。

萩原健一と松方弘樹が全体のアンサンブルそっちのけで場面泥棒にいそしんでいる。
(☆☆★★★)



「サヨナライツカ」

2011年03月23日 | 映画
ああいう「豪華」なホテルやらエキゾチックなアジアの風景やらが魅力的に見えているつもり、というのは二十年くらい感覚がズレてますね。韓国映画のセンスの泥臭さが悪い方に出た。
ついでにというか、中山美穂をきれいに撮ろうとしていないみたいなのは商業映画としていささか論外。下手に老けのメイクをさせたりして、なんのつもりだろう。
(☆☆★★)




「ATOM<日本語吹替版>」

2011年03月22日 | 映画
なんだか公開しましたよという配給会社のアリバイ作りみたいにそそくさと封切ってすぐひっこんだ印象だったので、「ゴジラ Godzilla」みたいなとんでもない代物見せられるかと思ったら、割とまともでした。
もっとも変なところは多々あって、一番困るのはアトムのキャラクターの設定がぐらぐらしていること。ロボットなのだけれど意識はトビオ(トビー)といっても、どこでその意識を「取り出した」のか。外から作られたものなのか、元からのが移植されたのか、どうも曖昧。

意外だったのは上戸彩の吹き替えは上戸彩がやっているのはほぼ忘れていたのに、役所広司の吹き替えには顔がちらつくこと。

どうも日本発アメリカ版リメークには、あまりに解釈が違うこともあるし、こちらに純血主義が根強いこともあって、ビジネスとしてはありでも、微妙な反発が忍び込む。
早い話、ハリウッド映画が日本で受け入られたからといって、アメリカ人がいちいち喜ぶか?
(☆☆☆)



「ろくでなし」

2011年03月21日 | 映画
金持ちと貧乏人それぞれにろくでなしの若者を平行して描き、どちらにも肩入れも感情移入もしない作り。吉田喜重らしい高尚な作りで、安手のニヒリズムに陥らないのは偉いが、俗な意味で引っ張っていく要素がまるでないのでおもしろくはない。

「トロル2」

2011年03月20日 | 映画
「トロル2」とはいっても、「トロル」とは何の関係もない「ゴブリン」という映画をレッテルをはりかえて公開したらあまりのひどさに最初は無視されたが、そのうちあまりのひどさが逆に話題になって妙な人気が出てきて作り手が映画祭の類に引っ張り出されるのを追ったドキュメンタリー。

サイテー映画をそのサイテーぶりを楽しむ、という見方がいつごろから現れたのかよくわからないが、実感としては今はなき東京ファンタスティック映画祭の初期の熱狂がそれにあたると思う。
「死霊の盆踊り」などは正式出品されないで番外上映にまわされてしまったわけだが、ビデオが急激に普及してとにかくなんでもいいからリリースしなくてはいけないものだから強引な宣伝を仕掛けたのと、観客の側が映画をありがたがって見ないでツールとして利用する見方とが一致して「お祭り」化したのと軌を一にしたように思う。「カルト」なんて便利な言葉も出てきたのがうまくオモチャ化、お祭り化をそれと思わせなくした。

当時としてはもったいぶった映画の見方に対するアンチテーゼみたいな気分があったのだが、たちまち映画を内実や作り手と関係ないオモチャ化するようになったと今にして思う。

サイテー映画「トロル2」の作り手側がマニアのおもちゃになって最初は喜ぶが途中から憮然とするあたりはどうも痛ましい。当時サイテー映画にはしゃいでいた身としてはどうもいたたまれないような気分にもなる。「カブキマン」を見たと「カブキマン」の配給会社の人に言ったら、あんなもの見たんですかと言われたのを思い出す。

前はそんなにひどいなら見てみようという気にもなったが、今では時間のムダだとわかったので見ない。作り手にとってはオモチャになるのと無視されるのとどっちがいいのか、という究極の選択になるが、いちいち考えなくなった。

「死霊の盆踊り」の監督などは映画祭の後も正式出品作だと思っていたらしいが、だとしたら幸せだ。


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「早春」

2011年03月19日 | 映画
長いことビデオ化もされずWOWOWでやっと見られた一編。
実はテレビ(当時の東京12チャンネルだったか)で見た時は、等身大のヌード女性の立て看板を持ってロンドンの地下鉄をうろうろしたりするのが下手なセックスコメディみたいに思えたのだから、ひどい見方をしていたもの。

その時はなんと白黒テレビで見たのだったが、ヒロインのジェーン・アッシャーの黄色いコート、タオル地のガウンの白、そして冒頭からラストのペンキの赤と、色彩設計が綿密な映画なのが、こちらは見られないでいる期間に山田宏一の文章で触発されて勝手に白黒画面に記憶の中で色をつけていて、これと実際の色彩は当然違うので奇妙なデジャ・ヴに近い感覚を味わう。

主人公の少年が憧れるヒロインが親切かと思うと意地悪になったり、好意を寄せているのかと喜ばせると別の男たちと遊んでいたりするあたりの残酷さが粘っこく、昔よくあった初体験ものの一種と見せて、五つ年上のポーランド監督ポランスキーがやはりイギリスで撮った「反撥」のように性的抑圧を梃子にして商業性と作家性とを両立させようとしているみたい。
ダイヤを舌の上に乗せた口のクロースアップなど、異様な感覚の映像が随所に現れるのが商業映画のルーティンを破っている。