prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ストックホルム・ケース」

2022年09月29日 | 映画
ストックホルム·シンドロームと呼ばれる監禁された者と監禁した者が奇妙に親密になってしまう心理状態の語源になった事件の映画化。

銀行強盗がズサンで間抜けで逃げ遅れたところを包囲され、行員たちを人質にして立てこもるとなると、シチュエーションとしたら「狼たちの午後」そのまんまで、そうなるとそこに駆けつけた警官たちと野次馬とメディアの相関図がそのまんま社会の縮図になる鮮やかさ、人間たちのズッコケ芝居ぶりのおかしさ、各キャラクターの関係性の面白さといったスケール感がいちいち少しずつ下がる感じになるノオミ·ラパスの行員がドラマにすると対立しっぱなししている方が疲れるから仲良くとまではいかなくてもこなれて狎れるのは自然なことに思える。






「ピノキオ」(22 実写版)

2022年09月28日 | 映画
ピノキオやデイビー・クロケットのデザインがアニメ版とほぼそのままで妖精だけ大幅に違う(アフリカ系)っていうのは確かにちょっと違和感というか、そうであっていけない理由があるわけもないが、いかにも配慮しましたというわざとらしい感じはありますね。ただそれを叩くのは為にする議論の類だが。
クライマックスで飲み込まれるのが鯨ではなくて巨大な怪魚に替えているのも何の配慮かと思う。

ピノキオの実写版というのは去年のマッテオ・ガローネ監督のイタリア映画「ほんとうのピノッキオ」、2003年のロベルト・ベニーニ監督主演版、ドイツ映画版、ジム・ヘンソンによるパペット版などずいぶんある。ギレルモ・デル・トロ監督版も控えている。
これはあくまで1940年のディズニーアニメが原作といったスタンスだろう。

アップになるとピノキオに木の削り跡があるのは芸が細かいというか、手描きアニメとCGとの差別化か。
最初からデジタル技術をマスターした上で縦横に画面作りを発想してくるのはロバート・ゼメキスらしい。それが自己目的化して一人よがりになることもあるが、今回はコントロールは効いている。

人間の子供になりたい人形の話、とDisney+の解説にもあるけれど、その人間になる瞬間ができる限り簡略化されている。
「美女と野獣」にしても、野獣が人間になるラストでなんだか白ける、野獣の方がキャラクターとして魅力的だったではないかという認識が常識になってきた。「シュレック」なんて逆手をとった実例からずいぶん経つし、このあたりも各方面に気を使った感じ。

子供たちが好き勝手をする国がディズニーランドみたいにも見えた。
子供がお酒を飲むあたりで、GからPG12扱いになったか。

出だしですごく丁寧に爺さんが作った時計を見せていく。鳩時計の鳩の代わりにディズニーキャラクターを使うというのは本家の製作でないとできない真似ですね。
時計の強調というのはディズニーの歴史という意識もあるかもしれない。




「(秘)色情めす市場」

2022年09月27日 | 映画
1974年の釜ヶ崎ロケの生々しさが見もの。ちょっと前、ロマンポルノが始まる前の1968年に神代辰巳が「かぶりつき人生」がやはり母娘の娼婦を描こうとして成人映画ではないから描き切れなかった部分にまで踏み込んだ感じ。

白黒映像がかえってリアル。ロマンポルノで白黒を選ぶというのはかなり抵抗があったのではないかと思うが、クライマックスだけカラーになる、鶏のトサカのアップの赤が画面いっぱいに広がる鮮烈さ。

今年の第78回ベネチア国際映画祭のクラシック部門(ベニス・クラシックス)において4Kデジタル復元版が選出されたとのこと。




「デリシュ」

2022年09月26日 | 映画
フランス革命前夜からバスチーユ監獄陥落の数日前までの時期に設定された物語で、貴族のお抱え料理人が庶民的な食材であるジャガイモを使って新しく創作したデザートを宴会に出したところ、出席した司祭に手酷く貶され謝罪を要求されて謝ることなど何もないと屋敷を出て故郷のあばら屋に戻る。

まともな料理は王侯貴族しか食べられなかった時代で、貴族たちは異常に膨れ上がったエリート意識を隠そうともしないどころかひけらかして恥じない。
提供するメニューは貴族が要求したものだけしか許されない。
誰でも美味しくて栄養のある、また料理人の創造性を発揮した料理をとれる場としてのレストランが誕生するまでの物語として、革命の精神とうまく混ぜ合わせている。

オープニングで調理台に打ち粉が広げられ、さらに粉とバター、卵などが混ぜられて整形さらてタイトルになっている焼き菓子デリシュができるところから始まるわけだが、エンドタイトルでやはり粉が降っているところがバックになっている。あの集まって滋養と美味としてまとめられる細かい粉というのが、いってみれば民衆なのだろう。

公爵自身は美食家として料理の批判はしないのだが、同席した司祭が庶民的な食材を使ったことに理不尽な単に権威を見せるためだけの言いがかりをつけるあたり、宗教的権威に相当に批判的。

あばら家に転がり込んできて手伝いを申し出る謎の中年女性の正体を順々に明かしていくストーリーテリングや、修道院の前でキスしようとしているらしき場面で見るからに意地悪そうな尼僧が鉄格子を叩いてジャマするところだけ見せて直接には見せず、キスシーンはとっておきのところにもってくる構成が上手い。

オープニングのお屋敷の厨房の撮り方は手持ちの移動を多用してダイナミックだが、田舎にひっこんでからは固定カメラを中心に光の使い方に素晴らしいセンスを見せる。

ラストでフランスの野山の自然の美しさに、フランス料理史上の巨人であるオーギュスト・エスコフィエがフランス料理を支えるのは恵まれた自然が提供する食材の豊かさと、家庭で受け継がれてきた料理の伝統だと語ったのを思い出した。


「カミカゼ野郎 真昼の決斗」

2022年09月25日 | 映画
深作欣二監督で、千葉真一と高倉健の共演作。 と言っても 本格的な共演ではなく高倉健の登場は中盤以降の登場で、芝居の上で噛み合うところがそれほどない。千葉真一の主演作に高倉健がゲスト的につきあっているよう。

1966年、にんじんプロダクションと台湾の映画の國光影業との合作でかなりの部分台湾ロケが占めている。
にんじんプロダクションの前身にんじんくらぶはもともと久我美子・有馬稲子・岸惠子の三女優が五社協定縛られない出演をゆるやかに実現するために作られた会社で、そのうち本格的な映画製作、それも「人間の条件」のような規格外の大作に乗り出したが、1965年の「怪談」があまりに製作費がかかり過ぎて事実上倒産した翌1966年ににんじんプロダクションと看板をかけかえて海外(台湾の國光影業 )との合作に乗り出し、東映でなかなか自分の思うような映画が撮れないでいた深作欣二と組んで作ったのがこれ。

深作欣二の演出は相当に乱暴に本当に車やモーターボートを暴走させて撮っているのが主体。このあたりの無茶さ加減は海外ロケでも変わっていない。
千葉真一はかなりコミカルな調子でルパン的なキャラクターをやっている。

ただクライマックスの複葉機にしがみつく場面はかなりあからさまにトリックが目立つ。





「ブレット・トレイン」

2022年09月24日 | 映画
列車が舞台となると映画的な直線構成にぴったりのはずなのだが、不細工で説明的なフラッシュバックがはさまったりして、動いたと思ったら止まってしまうみたいで、どうも流れが悪い。

伊坂幸太郎的にバラバラに見えたかなり複雑な要素がラストでぴしっとジグソーパズルのようにはまる快感も薄い。エンドタイトルが出てきてからのあれが気が利いていたくらい。

コロナもあって実際の日本で撮っているカットは一つもないらしいし、それ自体は別に構わない、というかもっと思いきってヘンテコな日本を出してくれた方が笑えたと思う。
東京五輪2020のキャラクターなんて出されると不愉快。エンドタイトル注視したのだが、あれに関する権利関係については特に出てこなかったのではないか。

真田広之がさすがに立ち回りとなると見事なものだけれど、出番があまりないのは残念。仕込み杖を使い納刀を丁寧に見せるとか、ちょっと座頭市を思わせたりする。





「ブラウン・バニー」

2022年09月23日 | 映画
ヴィンセント・ギャロ監督・脚本・主演・撮影・編集のワンマン映画。
主演しながら撮影するってどうやったのだろう。Toshiaki Ogawa他のカメラオペレーターもいるわけだから、アングルや動きは決めてカメラは別人に操作してもらったということか。
ちなみにチャン・イーモウ撮影・主演(まだ監督はしていない)の「古井戸」はそんな調子だったらしい。

はっきりしたストーリーはなくて、要するに昔の女巡りの話。正直、すごいナルシーな匂いがぷんぷんする。「鬼火」みたいに半過去を追体験しながら生きてきた時間を振り返るが結局空しいというわけ。
カンヌで賛否両論だったらしいが、そりゃ反感買うわと思った。

車を降りてコーラを買いに行く間に座っていた女性と互いに振り返るのがすれ違い続けていたのがタイミングが合って、かなり唐突にキスシーンになるのが魅力的でもあるし相当に違和感もある。

遅れてきたニューシネマって感じもする。「雨月物語」みたいな話が混ざっているのにびっくり。




「アキラとあきら」

2022年09月22日 | 映画
池井戸潤原作の期待と予想を裏切らず甘いといえば甘いけれど爽快感は残る。
娯楽映画とするとイケメン二人が魅力的に描けていればいいということになるし、実際そうなっている。

グループ企業のどろどろを突っ込んで膨らませたら山崎豊子の世界になるだろうけれど、それを良くも悪くもさかさまにしている感じ。




「さかなのこ」

2022年09月21日 | 映画
原作者である本物のさかなクンが近所の魚好きの変人として出てきて子供のころのミー坊に魚のことを教える。
未来の自分、それもここではテレビ等で有名なさかなクンではなく単なる社会不適応者、もしかしたらさかなクンならぬ宮澤正之のあり得た姿として出てくるわけで、のんさんをさかなクン役につけるのと相まって、リアリティラインが通常の映画とズレてる。それで特に違和感やむずかしさは感じさせない。

のんさん、背が高いから詰襟が似合う。というか、この人もともとモデルだし、ファッションセンスが見どころの人でもある。

冒頭で男でも女でもいいではないかといったタイトルが出てくるので、魚によっては性別がはっきりせず、成長の最中や環境の変化によっては性別がひっくり返る現象にひっかけてくるのかとおもったが、別にそういうわけではないみたい。

一応不良らしい連中が出てきて脅しに来たりするのだが、もうマンガみたいでまるっきり怖くない。
ジグザク走行をする場面がある(それもチャリやスクーターで!)のだが、エンドタイトルで「公道をヘルメットなしで走ってはいけません」とかいう断り書きが出るのが可笑しい。

定番の「この映画で動物は殺したり傷つけたりはしていません」は出なかったと思う。
明らかに魚を実際に捌いて食べてるところありますからね。

魚を可愛がりながら食べるというのは別に矛盾ではなくて、畜産農家が可愛がりながら肥育した家畜をやはり食べるのに回すというのはごく普通のことだろう。

魚料理を食べるところで赤ワインを飲んでいる。今どき魚料理には白ワインと決まっているわけでもないが、この場合あえて外しているのではないか。





「グッバイ・クルエル・ワールド」

2022年09月20日 | 映画
大森立嗣監督作はデビュー作の「ゲルマニウムの夜」からほぼ欠かさず見ていて、特に初期は社会の底辺の抑圧された環境の人間たちを、いわゆる社会派的な捉え方とは違う、どこに爆発するかわからないような生々しい鬱屈の生理的な感覚で描く作風に思えたが、商業映画でやっていくにはそればかりというわけにもいかないようで「まほろ駅前」シリーズみたいなコミカルなもの、「日々是好日」みたいな平安な映画も造るようになった。

今回は広告の感じからするとスタイリッシュな犯罪ものかと思わせて実際にそうには違いないのだが、意外なくらい初期の鬱屈と底辺感が本格的に出ていた。

暴力団絡みのカネを強奪する集団のうちにおよそ頼りなげな見るからに素人の男女が混ざっていて、なんでこんなのが混ざっているのかと思うと単なる手引き役、情報提供役で本格的に分け前に預かれるわけではない、という強盗団内部にも格差、作中のセリフを借りると吸い上げる側と吸い上げられる側があるのがわかってくる。

三浦友和の元学生運動家でコンビニ経営者の、コンビニの売上が上がると本部に吸い上げられる割合が増えるという話は、まるっきり累進課税ではないかと思わせる。

当然その先には国の基本的な仕組みとそれを支える市民社会のことなかれ主義が自然に眼中に入ってくる。
西島秀俊の元ヤクザがいったん足を洗いかけても元の身分がバレると逆に封じ込められてしまうあたり、カタギも、というかカタギこそ腐敗したシステムの担い手という視点が出てくるし、だからヤクザがたむろしている喫茶店の皆殺し場面でカタギも区別なく殺されるのにカタルシスがある。

斉藤工の凶悪なクズっぷり、奥野瑛太のおよそ堪え性というものがないチクる意識もなくチクるクズっぷり、そのやられ方ともども思い切りがいい。それぞれ華のある役者たちがクズ比べをしている。
西島秀俊が唯一まともに見えて、キレた時には殺気をのぞかせる。

最底辺のカップルに宮沢氷魚と玉城ティナという外国人の血が入ったキャスティングをしたことで、ヴァイオレンス描写ともども閉塞感からはみ出る感じが出た。
このあたりは商業映画的な配慮か。




「豚小屋」

2022年09月19日 | 映画
近くで噴煙が上がっているような火山性の荒野と、大ブルジョアの屋敷とが代わる代わるに出てきてそれぞれ直接関係のないエピソードが綴られていくという特異な構成。

この二つのパートに両方に出没するのがパゾリーニお気に入りのニネット・ダヴォリで、「アポロンの地獄」が冒頭とラストが現代、間にはさまる本筋が古代という二つの世界を併せ持ってその両方を行き来したのがアンジェロ(天使)という名のダヴォリだった。

前者には終盤の「父を殺した 人肉を食べた 喜びに震えた」という日本の宣伝文句にも使われた以外の呟き以外、一切のセリフ、言葉がないのに対して、前者はもう喋りづめ。このパートは出演しているアンヌ・ヴィアゼムスキーの回想によるとパゾリーニがもともと戯曲として書いたものだという。
そのえんえんたる対話を単調な切り返し、切り返しの連続で描いていくもので、正直こちらのパートはちょっと眠くなる。

顔のアップはパゾリーニの武器のひとつなのだが、特に白黒作品の貧乏人の生々しい顔ではなくブルジョアの着飾った顔だといささか弱くなるみたい。
画としても、どこまでも続く荒野のロケーションに比べて、豪華で広壮であってもブルジョアの生活は貧弱に見える。
実際、ブルジョアとプロレタリアアート、あるいはそれ以前の原初の生の人間という対比はかなりはっきりしている。

荒野編はピエール・クレメンティがボロをまとった以外何も持たず現れに初めは蝶、それから蛇を食べた後、人を殺して食べてしまう。
この殺しの場面のえんえんと追いかけていくあたりの感覚も「アポロンの地獄」を思わせて、あれがもろに父親殺しの話だったのがラストの呟きにつながる。このあたりで剣に加えて銃も使うのがやや近代的だが、銃が断面が四角い特異なデザインだったり、時代や文化圏がどこなのかわからなくしている。
さらにそれに同調する男フランコ・チッティと共に女奴隷を乗せた馬車を襲ったりするが、やがて軍隊に捕まって地面に縛られ犬に食われる。

その一方でブルジョアの息子ジャン=ピエール・レオが突然全身硬直し(「テオレマ」にもあったが、一種の聖性に触れた時にブルジョアが起こす症状といったイメージらしい)、回復したと思ったら豚小屋の豚に食われてしまう。
実際に食われるシーンはなくセリフで語られるだけで、報告するのがダヴォリというのが荒野で犬に食われたクレメンティたちの姿とも繋げる。

図式的に言えば独占資本主義は人が人を貶めて人として扱わず、人が人を食う仕組みということだろう。

監督のマルコ・フェレ―リがちょび髭といい前髪を斜めに流した髪型といいあからさまにヒットラーに似せた扮装で登場、小学生の同級生だったというナチス関係者と手を組む。
そして息子が豚に食われたという報告を受けても口外するなと命じるだけ。人の口に上らなければ存在しないというように。

正直、難解なのが刺激的なのと退屈なのと両方。
プリントの状態は少し褪色していたり傷が入っていたりと、難があるのは残念。アンダーヘアは普通に見えるのはPFFという映画祭だからか。「ソドムの市」が真っ先に完売して見られないのは残念。









「ビースト」

2022年09月18日 | 映画
ライオンのCGはますます本物みたいになっていて、フレームが安定しない手持ちカメラ式で、ライオンも物陰を出たり入ったりしているのにまったくズレたりかぶったりしていない。
本職の人たちには何をそんなことでびっくりしているのかと思われるか知らないが、周囲が人工物のない荒野だけになじませようの徹底ぶりにはやはり驚く。

車の下に潜ったイドリス·エルバに向かってライオンが突進してきて顔を突っ込んで吠えてひっかいてきて血が出てくるあたりのリアリティーは、「レヴェナント」の熊も越えている感じ。

アフリカ系イギリス人のイドリス·エルバがアメリカ人医師役でアフリカに行く話で、こういうと何だが現地の特に密猟者たちとずいぶん柄が違う。
白人を主人公にしてもいい話なのだが、そうしたらこういう微妙なニュアンスは出なかったろう。
妻子のために頑張るのではなく、妻は亡くなっているので娘二人のために頑張るというあたりも、女は守るものという図式が成り立ちにくくなっているせいか。

医者だからケガの手当てはできるが、車を盗もうとしてよくあるワイアを出してつないで発進させるようなワザはないというのがなんだか可笑しい。よく映画には出てくるけれど、あれってそうそうできるものではないはずなのに気づく。





「AKAI」

2022年09月17日 | 映画
赤井英和の息子でボクサーデビューもしたという赤井英五郎が監督編集というのだが、そのわりに息子が父親について、後輩が先輩に突っ込んでいくといった感じが薄い。

もともと聞きにくいことではあるだろうけれど、それだったら阪本順治監督といった存命中の関係者にボクサーあるいはその後役者に転身した赤井英和のどういうところが魅力的だったのか、といったことも聞いて回った方が膨らみが出たのではないか。

英五郎は帝拳ジム所属で、帝拳ジムのホームページで見ると「尊敬するボクサー」の欄にあるのはロベルト·デュラン、マービン·ハグラー、マイク·タイソンといった名前で、父親の名前は入っていない。入れるのは照れ臭いのか知らないが。

基本的に現役時の映像で構成されていて、特にエディ·タウンゼントの記録などは貴重。




「イタリア式奇想曲」

2022年09月16日 | 映画
第44回ぴあフィルムフェスティバルにて。
パゾリーニ特集の一環だが、六編のオムニバスのひとつだから当然パゾリーニだけでは語れない。
監督たちは、マリオ・モニチェリ、ステーノ、ピエル・パオロ・パゾリーニ、 フランコ・ロッシ、 ピノ・ザック(アニメ)、 マウロ・ボロニーニ。

製作はディノ·デ·ラウレンティスで、その奥方のシルバーナ·マンガーノが第一話のナニー、第三話の車内の女、第五話の女王と三役、コメディアンのトト(ニューシネマパラダイスなどにも作中映画に出ていた)が第二話、第四話の二役と別のエピソードにまたがって出ている。

冒頭のマリオ・モニチェリ監督作La Bambinaiaは子供たちがディアボロスとかクリミナルといったタイトルのマンガを読んで喜んでいると、子守女が出てきてそんな怖いマンガはいけません、ペローのおとぎ話を聞かせてあげますとくるのだが、そっちの方がよほど怖くて子供たちがマジで泣き出してしまうというハナシ。

ステーノの監督作は、トトの初老の男が若い女を連れているにもかかわらず若い長髪の男たちにいちいち目くじらを立ててハサミとバリカンを振りかざして丸坊主に刈り上げる。
若者の長髪が流行でもあり反体制の記号でもあり、ハゲにとっては癪のタネでもあった時代の話。製作は1968年。

交通渋滞で車をぶつけたいざこざを扱うマウロ・ポロニーニ作Perche
?を経て始まったパゾリーニ編Che cosa sono le nuvole?はシェイクスピアの「オセロ」をパゾリーニ作品の常連のニネット・ダボリが顔を黒く塗ってオセロ役、トトが再登場して顔を緑に塗ってイアーゴー役(嫉妬は緑色の目の怪物です、という原作のセリフに合わせたか)を、あとデズデモーナ役のラウラ・ベッティは素顔で操り人形よろしく手足に紐をくっつけて演じる。
観客たちがイアーゴーの奸計ついでにだまされるオセロにも怒ってしまい、舞台に殴り込んでぶち壊し、人形よろしく俳優たちはゴミ捨て場に捨てられる。

第五話Viaggio di lavoroはアフリカの架空の某国を訪れた女王が言葉が全然わからないままアンチョコを読み上げたら中身がすり替えられていて大騒ぎというアニメとの合成譚。監督はフランコ・ロッシとピノ・ザックの共同。
ショーン・コネリーのジェームズ・ボンドの写真をそのまんまアニメに取り込んでいる。著作権どうなっているのか。

トリはマウロ·ボロニーニ二本目の「嫉妬深い女」で、全体を貫くテーマも嫉妬という点でゆるく統一されているっぽい。
ファッションや室内の調度品がお洒落。

しかし60年代末から70年代にかけては、こういうオムニバスが多かった気がする。なぜなのか。