prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「カティンの森」

2011年05月31日 | 映画
視点を頑ななくらい、事件の真相がわからないまま、二転三転するいいかげんな説明だけ聞かされてただ待たされている人たちに固定しているので、情報としてのカティン事件を知るという点ではかなり制限されている。
ラストの虐殺場面にしても、どうやって殺されたのか知ったのか、という点ではあまりはっきりしない。護送されている犠牲者の手帳に残った手記が画として再現されるのだが、途中から白紙のページがずっと続くようになる。どうやって殺されたのかは当然記録できなかったわけで、虐殺した方の証言が出てくるわけでもなく、方法論とすると不徹底なのだが、父親をこの虐殺でなくしているワイダとしては虐殺の光景を出さずにはいられなかったのだろう。

もう少し「有名」な事件、たとえばナチのホロコーストなどだったら、その時どうなったのかある程度知っているから白紙のページがずっと続くシーンや割れた墓石などの暗示性能がもっと効いただろうが。



「脳内ニューヨーク」

2011年05月30日 | 映画
奇想天外、が売り物になっている脚本家のチャーリー・カウフマンの初監督作。

君塚良一が「シナリオ通りにはいかない!」のカウフマン脚本の「マルコビッチの穴」の分析で、実はああいう奇想天外な発想のシナリオは世界中のプロデューサーの机の上にある、そのままでは商売にならないので角をとるよう書き直して映画化するのが普通なのだが、これは初稿の書きっとばし感がどういうわけかスポイルされないで残っている、と書いていた。先の展開がわからないのは当たり前で、作者もわからないで書いているからだ、展開に詰まると必ず夫婦の危機に戻るとも指摘している。
そして「作者は意外と、まじめな人」とも。

で、監督したら、映像上のケレンがあまりない分そのまじめさが表に出てきた感で、あまり融通がきかない調子で家庭と仕事両方の行き詰まりがえんえんと描かれて、なかなかエンジンがかからない。
劇作家が人生の真実をすべて舞台に乗せようとしたらどんどんセットも大掛かりになりキャスティングもいつ果てるともしれなくなって収拾がつかなくなる、というのも人生をそれこそ綴り方みたいにそのまま描いている感じ。

映画の製作だが、完全主義的リアリズムを追求してサイレント映画なのに実際に鳴るベルをセットにつけさせたエリッヒ・フォン・シュトロハイムのエピソードあたりの方が実話なのに神話的というか、ホラっぽい。
(☆☆☆)



「レッド・バロン」

2011年05月29日 | 映画
複葉機、という宮崎駿が好きなクラシックタイプの飛行機を扱っているのだが、はっきり宮崎作品とは描き方に違うところがある。飛行機が「飛び立つ」映像がないことだ。「コンタクト」という合図があって整備兵がプロペラを回し草原を滑走して飛び立つ、というおなじみといっていい場面がない。
最後に飛び立つ場面では「コンタクト」という声だけは聞こえるが、主人公のアップだけで終わってしまい飛ぶところすら見せないのだから、どうも意図的なのではないかと思える。

最初に飛んでいる姿を見せるのは撃墜した相手の葬式に追悼の文句を書いたリボンを投げ込む場面で、撃墜した相手に敬意を持ち続ける古きよき騎士道的態度といった感じ。さらに撃墜した相手が遠縁にあたることが語られ、第一次大戦で空を飛べたのは貴族階級だけで、ヨーロッパの貴族階級は国こそ違え、みんな親戚同士みたいなものだとわかる。

とうぜん、地べたを這いずり回っているのは平民で、最初のうち複葉機同士の空中でのドッグファイトを描いていたのが、最後の方になると地上の兵に爆弾を降らせるのが飛行機の役目になってくる。
これが第二次大戦前夜のゲルニカの爆撃では兵士どころか一般市民に爆弾を落とし、しまいには原爆まで落とすことになる。
飛行機が騎士の乗り物から「汚い戦争」の担い手となるのに沿った描き方ということになるのだろう。
その分、複葉機の雄姿を見せるという意味では尻つぼみ気味。

もっとも、一応平民の代表者が看護婦だけ、というのはジョセフ・ファインズのイギリスの飛行機乗りとの三角関係未満はあるにせよ、薄味。
毎度のことながら、主にドイツとフランスの戦いを描いているのにセリフが英語、というのは違和感バリバリ。
(☆☆☆)



「ブルーバレンタイン」

2011年05月28日 | 映画
なんともいえず痛い映画。
ジョン・カサベテス作品を思わせて一見してラフな、それだけにリアルな撮り方でどうしようもなくなった男女をしつこく追い続ける。

働かなくて家事をするわけでもなくて子供だけは可愛がる、というダメな男と思って見ていたが、考えてみるとこれ女だったら結構許されるのではないか、とも思えてきた。

過去と現在とを交錯させる技法はやや疑問で、それほど図式的に対照させているわけではないがどうしてもそう見えるし、軸がはっきりしないからこれといってカタルシスを感じる山場がない。
あとになって思うと、結婚指輪を投げ捨ててしまってからまた探すあたりかな、といった感じ。
(☆☆☆★★)



「雲のむこう、約束の場所」

2011年05月27日 | 映画

「エヴァンゲリオン」にしてもそうだが、人類が滅びかけたとか日本が南北分断しているといったものすごい大状況がある中で、まったく今の日本と同じような「平和」で退屈で凡庸な生活が続いているというイメージをなんで出してこれるのか、なんだか不思議。

平和ボケとかいうより、この国ではもともとあまり尖がった対立や葛藤を好まない、というより忌避するみたい。先日の大震災でも言われたように穏やかとか秩序だった国民性とも言えるが、自主規制に巻き込む、真綿で首を絞めるような息苦しさが裏に張り付いているのも確か。
ここでも恋愛絡みの展開だが、それが息苦しさを突き抜ける力と結びつくわけでもない。

アニメには本来ない「光」の表現が印象的。遠近法を効かせた構図が多いのも画面に深みを与えている。
(☆☆☆)


「ホースメン」

2011年05月26日 | 映画
競馬の映画みたいなタイトルだが、黙示録の四騎士のこと。
「セブン」ばりに聖書になぞらえた連続殺人と、「羊たちの沈黙」ばりの檻の中の凶悪犯とを混ぜた作り。
ラストの謎解き、というか犯人の動機にあまり説得力が感じられません。単なる異常者・狂信者で済ませるわけにいかない事情もあるし。

チャン・ツィイーはZiyi Zhangと綴るのね。イニシャルがZZとは珍しいのでは。
「初恋の来た道」ばりのおさげ髪で登場するのはいくら東洋人が若く見えるとはいえもはやムリがあってブキミと思ったら、すぐすごいヘビ顔になって本当にブキミになる。この変身シーンが唐突すぎて刑事の夢か幻想かと思った。
もっとも凄んでいるわりにストーリーにはあまり絡まないのは困ります。

刑事が死体の歯の状態から年齢・性別・暮らし向きを割り出す専門家という設定も最初しか生かされていない。
(☆☆★★★)



「ファイナル・デッドサーキット」

2011年05月25日 | 映画
シリーズ四作目、もともと3Dで作られたのをテレビで2D版で見る。
ふだんメガネをかけなくて映画を見るときだけメガネをかけているもので゜、3Dはメガネがいきなり二重になって煩わしくて好きではないのだが、これはやたらと飛び出すアングルをとっているのでちょっとどうなっていたのかなとは思う。
劇中の映画館で上映中の映画も3Dで、スクリーンから二重に飛び出てくる効果があったのだろうかと思う。

いったん大事故で死にかけて助かったと思った人たちが、実は死ぬ運命からは逃れられず偶然(?)が重なったあげく死を迎える、というパターンはもちろん一緒で、これカートゥーンでおなじみのやたらまわりくどい発明品のホラー版バリエーションと思えてアメリカでは笑いを誘うのだろうと想像する。
(☆☆☆)



「SOMEWHERE」

2011年05月24日 | 映画
初めのうちスティーヴン・ドゥーフがやっている男の素性がまったくわからず、同じところを車でぐるぐる回ったり、ホテルの部屋に双子のポールダンサーを呼んでセクシーなダンスをぼうっと眺めたりしているだけで、だんだん映画スターだとわかってくるのだが、わかってきたからどうということもなくぼうっとした調子に変わりはない。
エレベーターでベニチオ・デル・トロと一緒になったら一般人だったら大騒ぎだが、どうということもない。

華やかに見える映画界も内側から見ればどうってことないのですよというのかもしれないが、つまらないことをつまらないまま描いているだけの印象。何も起こらない場面をえんえんと写しているシーンがやたら多い。何にも起こらない淡々系だったら、日本製のをイヤというほど見たわい。
これで監督(ソフィア・コッポラ)が大物監督(フランシス・フォード・コッポラ)の娘という予備知識なしで見たら何言いたいのかもつかめまい。

折りたたみ式で持ち運びできるポールダンス用のポールというのを、初めて見た。しかし、どうやって固定するのだろう。時には二人分の体重が全部かかるのだから、相当しっかり固定しないといけないはずだが。
(☆☆☆)


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SOMEWHERE - goo 映画

第64回カンヌ映画祭授賞式

2011年05月23日 | 映画
カンヌの授賞式をテレビで見るのは初めてだが、レッドカーペットやばかでかい会場やずいぶん派手で、アメリカのアカデミー賞とさほど変わらない。

知人がカンヌに商談で参加して、映画祭以外のカンヌは日本なら熱海みたいな盛りを過ぎた保養地だと言っていたが、そういうところはもちろん写りません。
基本的に受賞基準はオリンピック同様「政治」だとも言うが、そういうところも写りません。

日本の受賞はなかったけれど、「切腹」のリメーク(「一命」)というのはまずいのではないかと思えた。オリジナルで主演した仲代達矢が「グランプリ取れるかと思った」と語っていたが(パルム・ドールはヴィスコンティの「山猫」)、ハラキリものは西洋では興味をひく一方で反発を買ったのではないかと想像する。
今だとこれに賞出すとオリジナルを落とした(審査員特別賞はとったが)のと比較して格好がつかないことになるのではないか。

市川海老蔵と瑛太が六つ歳違いなだけで姑と婿の役をやっているというが、オリジナルの仲代と石浜朗とでは三つ違いだ。当時仲代は29歳で孫のいる役をやっているのだから、恐れ入る。

最高賞はテレンス・マリック作「ツリー・オブ・ライフ」。1978年の「天国の日々」が監督賞を受賞して以来だが、同じ年に審査員長のロバート・デニーロの「ディア・ハンター」があったのだから、ずいぶん経ちます。


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「アンノウン」

2011年05月23日 | 映画
舞台をベルリンにして英語がほとんど通じない上、元スパイが生存しているという設定がなかなかうまい。本当なら東京でも成立するはずなのだが、日本映画でまともに諜報員や諜報活動が描かれたことないね。

「バルカン超特急」や「フライト・プラン」ばりの、全記憶がよってたかって否定されアイデンティティが危機にみまわれる話だが、誰も知らない存在になるのを主人公にしたのが成功、たいていこの手の話は謎解きで白けるのだが、アクション絡みでなんとか乗り切った。

助けてくれる女性が移民というのも身分証明をを持たない同士という意味づけではあるだろうが、これはフツーの娯楽映画なのでそんなに深く描いているわけではなく、かなりゴ都合主義的。なんであんなに一所懸命に助けてくれるのだろう。一目惚れしたともあまりきちんと描かれていないが。
(☆☆☆★)



「鬼神伝」

2011年05月22日 | 映画
初めのうち悪役扱いだった鬼が途中から実は都の人間たちに侵略されている先住民でしたという展開になるのだが、「ウルトラセブン」の「ノンマルトの使者」みたいにそれまでに十分時間をかけて善悪がはっきりした世界観が確立しているところで逆転させるのならともかく、中途半端なところで話の腰を折るみたいに良いモン悪いモンが逆さになるというのは、作品の視点を混乱させる。

話は現代から平安時代にタイムスリップしてしまった中学生を軸にして展開するわけだが、もともと平安京の住人と鬼とのどちらにも属さないよそものが割り込んできて争ってはいけないなどと「平和」を説くというのは、結果として進歩的文化人的な上から目線になるもので気色悪くていけない。自分が身体を張っているわけでもない奴が、なんだ偉そうにと見えてしまう。
それに、結局強い力を持つものが権力を掌握しない限り、平和、というか治安は保てないというのが、歴史の事実だろう。
もうひとつ言うと、エコというのも既に文明と科学技術の恩恵を受けている者の贅沢っていう面はあると思う。

鬼の正体が明らかにアイヌのような格好をしているのは、「太陽の王子ホルスの大冒険」を思わせる。

タイムスリップの描写がすっぽ抜けていたり、タイムパラドックスをまったく気にしていないのは珍しい。なくてもそれほど気にはならないが。

鬼や襖絵に描かれたもののけたちのデザインや時代考証は良くできている。
(☆☆☆)



「M<エム>」

2011年05月21日 | 映画

主婦売春ってエロネタとしては新味ないし、描写としても中途半端。
ドラマとすると旦那がぼうっとしていてほとんど絡まず、片思い(というのか)している若い男だけ暴走するというのは、なんだか釈然としない。
長まわしが多いのはテレビ画面で見るのはきつい。
(☆☆☆)



「恐怖のカービン銃」

2011年05月20日 | 映画
もとになった人質強盗事件が起きたのが昭和29年6月13日、主犯逮捕が同年7月22日、そしてこの映画の封切が8月3日なのだから、驚くべき早業。
隠し撮りを含めてものすごい早撮りをしたと思しく、それがかえってリアリティを出した。
見るからに低予算のせいかロケが多くて、今はない日比谷の三信ビルなど当時の東京の風景がふんだんに見られるのが、今となると貴重な記録になっている。

天知茂の悪役というのが、新東宝っぽい。のちには明智小五郎を当たり役にした人もこの頃は悪者ばっか。

なお、この年の4月26日には「七人の侍」が、11月3日には「ゴジラ」が公開されている。



大相撲・五月技量審査場所 十一日目

2011年05月19日 | Weblog
生まれて初めて生で大相撲を見てきました。升席の前から五列目、ふだんだったらいくら人気が長期低落傾向にあるといっても手に入らないような席が思いがけず手に入っての観戦。
興行ではないから、ふだんの入場料は取らないし、懸賞もつかない。アルコール類も売っていないし、だいいち売店も閉まっている店が多い。ここでの勝ち負けが番付に反映するのは本場所そのものなのだし、むしろ余計なものが入らない分、すっきりした印象すら受けました。

土俵入りをはじめ儀式はそのまんまだし、何より生で見るお相撲さんの肌がつやつやしているのがわかったり、ぶつかりあう音が本当に聞こえたりと、テレビではわからないことがいっぱい。幕下の相撲はテレビでやっていてもあまり見ないし。
電光掲示板で負けた側のランプが消えるタイミングが、勝ち名乗りに合わせてだとわかったのもテレビではわからないところ。不戦勝でもそうなのですね。

NHKのテレビカメラも入ってました。カメラそのものはソニー製、スタビライザーはキヤノン製。
あと、テレビには写らない職員や関係者がいかに大勢いるかもわかりました。

とはいえ幕内力士で六人、十両で八人が年齢的なものも含めてだけれど「引退」したのは寂しく、取り組みそのものの数も当然減っていました。

相撲博物館も見てきましたが、小錦のサインが意外と線が細くてスマートなのがなんだか可笑しかった。


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「あさき夢みし」

2011年05月18日 | 映画

低予算で王朝ものを作る、という相当ムリな挑戦をどう実相寺昭雄監督以下のスタッフが実現したかという、かなり不純な興味で見る。

レンズにワセリンを塗って余分な空間をボカす技法は実相寺作品としてはこのあたりから始まった印象。CMを含めて正確なフィルモグラフィーがあれば照らし合わせてみたいが、とりあえず検索した中では見当たらず。

岸田森の阿闍梨が惚れた女の前で興奮して引きちぎって床に散らばった数珠の珠ひとつひとつに女にのしかかる姿が写るショット(たぶん元はヒッチコックの「見知らぬ乗客」の地面に落ちたメガネに写る殺人現場)をはじめ、実相寺らしいシャープなアングルの積み重ねを楽しむ。暗い屋内と外の光の対照も効果的。
元寇を絵巻物で済ませたのはいいとして、さすがに市場のセットなどは苦しい感じ。セットの外景がときどきまるっきりのっぺりしたホリゾンそのまんまというのもどんなものか。

脚本が詩人の大岡信なのだけれど、意識的にせよセリフがぶつかり合わず全体として半ばナレーションのように流れていく(当人の言によると「日本語のマチエールをもう少し堅牢なものにしようとした」とのこと)のに、絵物語のように映像がかぶさる印象。