prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ケイコ 目を澄ませて」

2022年12月31日 | 映画
エンドタイトルに音楽担当のクレジットがない。 全編にわたってヒロインの弟が弾く ギターぐらいしか音楽が全く流れず、 BGM はゼロ。 

ヒロインが 聴覚障害者と言う 設定が合わせたともいえるだろう。 全く口をきけないわけではなくわずかにはいと言ったりとか 叫んだりはするのだが意味のあるセリフは全くと言っていいぐらいない。
ほとんどサイレント映画と思えるような映画的に純粋な表現に迫ってるところすらある 。

人の言うことが聞こえないのだから はたからみると 文字通り聞く耳を持たない意固地な態度のように見えることがある。
見えるだけでなく、そういうところも確実にあるのだろう。

岸井よしのがボクサーになりきる肉体的訓練のみならず、さまざまな感情を、それも表に出さない感情を言葉に頼らず肉体化しきっている好演。
三浦友和がすこぶる いい感じに 煤けていて、こういうとなんだが、山口百恵と結婚した当時はこれだけ味のあるいい役者になるとはおよそ思わなかった。

16mmフィルムで撮ったというが、明るすぎないどこか沈んだようなトーンが出ている。映像の情報量勝負とは別の表現を向いているよう。





「Never Goin' Back ネバー・ゴーイン・バック」

2022年12月30日 | 映画
A24作品というのでハイブロウな映画かと思ったら、出てくる連中見事にバカとクズばっか。
当然のようにろくなことが起こらず、若い女の子二人の 明るい地獄めぐりといった感じ。

周りにいる男どもがまた輪をかけたクズな貧乏人ばっかで行動も台詞も思いっきり 下品で笑ってしまう。

もっとも主役の女の子二人でホットパンツ姿でとび跳ねているけどよく見ると精練された美人で、あれだけ下品な罵倒セリフというのも才能なかったら出てこない。

ラストの括り方など行き当たりばったりみたいで、そこに持っていくのに相当計算されているのでカタルシスがある(危なっかしさも裏に貼り付いているが)。





「東京クルド」

2022年12月29日 | 映画
劇映画「マイスモールランド」でも描かれた在日クルド人が難民認定されず、法律的にはどこにも当てはまらず、働かなくては食べていけないので働くと今度は収容所送りというシステムの根本的な欠陥はドキュメンタリーで見るとなお理不尽さが際立つ。

主人公が若い男なので腕力は強くもっぱら解体工事に従事しているのだが、象徴的に日本という
国が壊れているのを画にしているように見えてくる。

「なんでこの国にいるの(よそに行けよ)」という電話のやりとりの最後の捨て台詞。それがネット上でなく現実にぶつけられる非人間的環境。

もとより日本にはこれから自己をどういう国にするのかというヴィジョンが欠けている、とは実は1970年の大阪万博の、特に日本政府館をまわって見ての荻昌弘の評言。
「自分の何を、どう訴えたいか、その訴求のヴィジョンが、統一感・方向感はおろか、だいいちヴィジョンじたい、欠落しきっているからである。なにもない。あるのはただ、雑然たる自慢の、ちまちまといじけた、抽象的羅列だけであった 」
もう少し長い引用はこちら。
万博やら五輪やらがまたぞろ性懲りもなく効果があるかも検証もされない経済的起爆剤だのといった空虚な

経済成長が自己目的化して、そのカネをどう使うのかという目的はついに不分明のまま今に至って、そしてカネがなくなったら何も残っていないという惨状。
そこにエアポケットのようにまがりなりにも国の後ろ盾を持たない外国人がはまってしまい出られなくなっている。

万博に限らずヴィジョン、つまり全体像がないからそこから出発した細かいところを整合性を保ちながら設計することができない。
惨憺たる、といった現状をすこし





「月の満ち欠け」

2022年12月28日 | 映画
大泉洋のところに、彼の事故で死んだ娘は私が愛した女性の生まれ変わりですという若い男が現れたり、連れてきた小さな女の子がまたその生まれ変わりですと主張する女が現れたりと、これって言われる側からしたら娘をなくしたという治らない傷に何度も塩をすりこまれるような話じゃないかな。どうもひっかかる。

小さな女の子が前世の記憶をとうとうと語るって、人格が変わっているわけで、イタコの口寄せか。ホラーに属する話だと思うのだけれど、売りとすると泣ける映画らしい。

映画館の早稲田松竹の実物が出てくるのだが、一番早い時期の1980年頃はまだ今の建物ではなくリニューアル(1994)前のはず。
それはまだしも、「アンナ·カレーニナ」(ヴィヴィアン·リー主演版らしい)「地球に落ちてきた男」の二本立てというのも組み合わせとしてかなり変だし、話の流れからして「アンナ」ではなく小津の「東京暮色」を主人公二人が見ているのも変。松竹製作だからか。
(「アンナ」は列車に轢かれて死ぬという点で本編の内容とかぶる)
作中でかなり時間が経つのだが、同じ番組がかかりっぱなしなのも変。あそこの番組は週替わりなのだから。
映画の中で、映画あるいは映画館の扱いが変というのは困ります。

子供は親を選んで生まれて来るというセリフがあるが、いやいやいや、子供は親を選べないでしょ。

有村架純が年上の女(ひと)的な役やるようになったか。
ラブシーンでくるっと身体の向きを変えると左手の薬指に指輪がしているのが自然に目に入るのはいい(わざわざアップで強調しない、スクリーンで見るのには必要ない)。




「プレデター ザ·プレイ」

2022年12月27日 | 映画
17世紀後半、アメリカ先住民がまだ白人の侵略をそれほど受けていなかった時期、コマンチの少女とその仲間の前にプレデターが現れるという、時代劇とSFとを組み合わせたような趣向。

コマンチは銃をまだ使わず、弓矢やトマホーク(斧)を武器としているのだが、相対するプレデターも矢を使ったりする。つまり相手に合わせているわけで、条件を接近させた上で狩りを楽しんでいるらしい。
その相手にまだ武力が近代化されていない先住民、それも女とぶつけるとは、考えたもの。

外宇宙から宇宙船に乗って来られるくらいの科学力があるくせに、妙に野蛮なやり方にこだわってたりする。ある意味、人間みたいともいえる。
プレデター自身、狩人であり戦士ということなのだろう。

一作目の南米の密度の高いジャングルとは違い、北米の広々とした野山を舞台にしたのも目先が変わって面白い。

白人たちの中にフランス語を話しているグループがいたりして(白人から見た「新大陸」にはイギリスと共にフランスも大挙して渡った)、まだ様々な勢力が混在している状態で、その中で戦いを通して戦士としてイニシエーションを潜り抜けるのは男だけではないというあたりのフェミニズムと未開?の世界との混淆も上手い。

しかし、アメリカにライオンがいるのか?




「夜、鳥たちが啼く」

2022年12月26日 | 映画
十代で文学賞を取ったものの、その後鳴かず飛ばずの小説家と、同じ敷地でわずかに離れた家屋に住んでいる シングルマザーとその連れ子との半同居生活を描いている。

その空間を生かす演出が練達の腕で、住んでいる 住居の位置関係が そのまま二人の関係を表してるようで 同棲ともつかず 作中の表現を借りると結婚してない家庭内別居といった微妙な味わい。
もう少し離れたところになぜか鳥籠があってこれがタイトルの由来になっているのだが、必ずしもどういう意味なのかはよくわからないながら、どこか詩的な味わいがある。

R 指定なのだけれども 絡みの場面で バストトップも見えないのは不満というより不思議。雰囲気はエロティックなのだけど、描写そのものはそれほどでもない、あるいはそれほど見せなくてもエロティックになっている。
女が言い寄られて浮気?していると思い込んで女の上司のスーパーの店長をボコボコにするあたり、よく警察沙汰にならなかったもの。店員がボコボコにし返したので喧嘩両成敗になったか。
このあたりのクズっぷりは貧乏文士ものの定番でむしろお楽しみ。

とはいえ昭和のそれのようなじめじめドロドロした話かと思ったらラストは意外と爽やか。
子供が ひねくれていないせいか。





「THE FIRST SLAM DUNK」

2022年12月25日 | 映画
バスケットの試合シーンで、それぞれのキャラクターがただでさえ複雑な動きをしているのを表現しているだけでなく、骨格や筋肉まではっきり感じさせる。
モーションキャプチャーも使っているらしいけれども、これだけ大勢の人間が絡み合いながら動いて交錯する競技でそれを分割再構成した技術とセンス は 驚嘆に値する。

「ライオン・キング」3DCG版のメイキングで動物をCGで描くのにCGで骨格を作り、筋肉を貼り付け、解剖学的に正確に造形して動かすという解説を見て驚いたものだが、いつの間にかそれが当たり前になってしまった。(「シン・ゴジラ」でそういうやり方をCGスタッフが提案したら怪獣の動きはぬいぐるみの動きだと監督に却下されたとか)
で、そういう人体の骨格や筋肉、人体の構造の実在感・動きを説得力をもって表現することが日本でもできるようになった、それも日本の2Dアニメの親しみやすさを担保したままで。

それだけでなく、原作マンガのキャラクターを3Dに丸め込むこれまでありがちなやり方ではなく、マンガの画が持っている実在感を拡大し動かしている。

試合をまるまる描くあいだに各キャラクターの階層が挟まるという構成なのだが キャラクターを追いながらドラマを織り成していくというよりはまず試合の興奮と スピードと熱量で 突っ走ってそこに 各キャラクターが絡んでくといった感じ。
それだけに決定的瞬間の音が消え、スローモーションになる処理が効く。





「ラーゲリより愛を込めて」

2022年12月24日 | 映画
悲惨な出来事を描く時に常につきまとう問題に、現実の撮影現場ではそこまでの悲惨さは再現できないこと(旧「野火」で主演の船越英二が飢えを表現するのに絶食したらふらふらになって演技できなくなってしまった例がある)と、仮に出来たとして今度は悲惨すぎると誰も見なくなりかねないというジレンマがある。

今回は見た目のリアルさという点では役者たちが頬が削げるくらいには減量しているからまずまずではあるけれど、外国映画での寒さや汚しの技術と見比べるとやはり見劣りする。
とはいえ、前半の収容所の描写でも旧帝国陸軍の階級が温存されて、絶対的な上下関係のままに陰険な暴力がふるわれたり、ソ連兵士の暴虐など十分過ぎるくらいムカムカする域に入っている。



それで終わっていたらたまらないが、二宮和也の山本というキャラクターが絶対に諦めないで生き抜くんだと力むのでなしに竹がしなうように生き延びる靭さを出して、たとえば「人間の條件」の梶の剛に対する柔といった感じの珍しいヒーロー像を作っているのが救われる。
二宮和也の柔らかい中に芯があるようなパーソナリティが生きた。

黒い犬を小道具として使ってるのはいいのだけれども、ホームランボールをくわえて持ってきて帰ってきたところで 抑留者が頭を撫でてやったりしないというのはちょっとした手抜かりだと思う。
 
山本が死んでしまった後がかなり長く、手紙やその朗読を交えてかなり複雑な技を使っていて持たせているが、いくらなんで現在までくるのは 長過ぎでいささか蛇足の感がある。





「シコふんじゃった」(ドラマ版)

2022年12月23日 | 映画
30年ぶりの続編というかリメイクというか、学生相撲というモチーフは一緒で特に出だしの展開などセリフまでそのままなのだが、まるっきり違うのが女子と相撲との関係。

映画版では女子は土俵に立つことすら許されていない時期の話で、それをどう土俵に立たせるのかというのがひとつの肝になっていたわけだが、こちらではなんとただひとりの相撲部員(つまり自動的に主将)が女子になっている。
この主将役の伊原六花が四股から股割りからすり足まで見事なもので有無をいわさない説得力がある。
経歴を見ると、ダンスの経験が豊富で大阪府立登美丘高校のダンス部キャプテンとしていくつもの大会で優勝した、とある。

途中から登場する元新体操の女性キャラクターというのがやはり体幹やバランス感覚が優れていることが一目でわかる。
ダンスと相撲ってつながるものなのか、ちょっとびっくりする。

別にフェミニズムに配慮しましたという感じではなくいつの間にかそれだけ時代が変化したのを自然な形で取り込んでいる。

相当にポンコツなのを含めて様々な個性のキャラクターが揃っているのもオリジナルと一緒。連続ドラマとして時間をとれるのがそれぞれのキャラを描きこむのに貢献している。

自転車に2人乗りする場面など「明日に向って撃て!」風。
途中で漕いでいる側の胴体にしがみつくかと思ったら、そうはしないのだね。
こういう一種水くさい関係というのもいいもの。

相撲の撮り方はより土俵上にまでカメラが踏み込んで接近して撮っている感じ。

オリジナルのキャラクターの30年後が登場して、え、と思うような地位についていたり、まるっきり変わっていなかったりするのもお楽しみ。
IMDbの評価を見ると、オリジナルの映画より点が上だったりする。

男女が土俵で向かい合うラストシーンで、絵柄は同じでもどう関係性が変わったか、時代の変化をうまく取り込んでリニューアルしている。

製作がディズニーのせいか、モデルになっている人物はいないか、いたら承諾をとったかずいぶんうるさく言われたらしい。モデルって、教立大学が立教大学のもじりなのはあからさまだけれど、そういうのはモデルっていうのか。




「あちらにいる鬼」

2022年12月22日 | 映画
瀬戸内寂聴と井上光晴とその妻の三角関係を描いた井上荒野の小説の映画化。
井上荒野は井上光晴の娘なのだから、父親の不倫を描いているわけで、画面には井上の娘たちも写っているのだからどうも凄い話。

ドキュメンタリー「全身小説家」でも捉えられていたが、とにかく井上は文学の私塾に集まっている弟子の女性たちに競ってちやほやされていて、瀬戸内寂聴以外にも手をつけてる女は数知れずという感じで呆れてしまう。
瀬戸内寂聴の説法会に集まってくる人たちの雰囲気に通じるものがある気がする。
本妻の広末涼子が呆れかえった夫に対して能面のような無表情のようで微妙な感情が揺れている顔を見せて絶妙。

井上の妻が実は自分でも小説を書いているというくだりは実際は証拠はないらしいがありそうな話。
ドストエフスキーの妻アンナが夫の聞き書きや秘書的な役割だけでなく女性の言葉遣いや習慣の考証さらにはキャラクターの造形など創作の内実にも関わっていたのではないかとか、小説ではないがバッハの妻のアンナ=マグダレーナが結婚前の楽譜に筆跡を残していて、やはり影響はあるのではないかといった説はある。おそらくそういった埋もれた妻の創作というのはもっとあるのではないか。

2022年12月時点で廣木隆一監督の三本の新作が同時に公開されていて、この一年だと全部で5本、他にドラマシリーズもあるのだから凄い。

ここでは引いたサイズの移動を交えた長回しに超アップをぱっと繋ぐ、といったかなり見慣れた同監督のスタイルがはっきり出ている。
正直先日見た「母性」にはそういったスタイル感覚が乏しく首をひねったのだが、この違いはどこから来たのだろう。

あと「母性」でも70年代の左翼活動について触れているところがあるけれど、こちらではたとえばバーに機動隊に追われて転がりこんできた学生運動家男女二人にヒロインがカンパしたり(あさま山荘以前は一般市民にも学生運動にシンパシーを持つことは珍しくなかったらしい)、テレビで東大闘争や三島由紀夫の割腹を伝えるニュースが流れたり、井上の三島に対する反感丸出しの文章の引用が朗読されたりと、かなり細かく左翼周辺の空気を書き込んでいる。
脚本が荒井晴彦ということがやはり大きいか。





「ブラック·アダム」

2022年12月21日 | 映画
スーパーヒーローはみんな強いに決まっているが、特にムチャクチャに強くてそれが破壊的な方向に向かい、かといって悪役というわけではない、という位置づけ。

通常兵器としては最強の装備で固めている部隊をいともあっさり全滅させてしまう前半の名刺代わりの大暴れが一番痛快。
とある物質に触れると力が吸い取られて出せなくなるという設定は当然「スーパーマン」で、裏スーパーマンといった趣あり。

タイトルになっているブラック・アダムという名前にしてもずっと別の仮の名前で呼ばれ続けてラストでクレジット一枚に登場するだけ、つまりブラック・アダムというキャラクターの誕生譚でもある。

白人ヒーローがあまり出てこない。元007のピアース・ブロスナンくらいか。その退場のさせ方といい、どう(表面的にでも)多様化させるか腐心している感じ。PC的にというか、世界を相手にしている商売なのだから自ずとそうなるのだろう。

ユニバースものもこう多くなってくると、細かく他の作品とのキャラクターのつながりがわかったようでわからなくなってくる。
話がとぶが、バルザックの人間喜劇ものというのは同じキャラクターが別の小説に時には主役時には脇役になり、歳や立場も変わって再登場するという形式なわけだが、結果それに近くなっている。というか、お話をつづけていく都合に従って編み出された技法ということになるかもしれない。違うのは作るのも描かれるのもチームというところ。





「グリーン·ナイト」

2022年12月20日 | 映画
アリシア·ヴィキャンデルが主人公サー·ガウェインの婚約者と旅先での領主のお妃の二役を演じていて、これに全然ガウェインが気がつかないあたり、完全にリアリズム無視。

「進撃の巨人」みたいな画面が出てきたのにはいささか驚いた。
また、やはりアーサー王伝説をモチーフにしたカズオ・イシグロの「忘れられた巨人」の忘却というモチーフもかぶっている感じで、緑の騎士を求める旅という直線的な構造からどんどん脱線する。

故郷から離れていくの表現するのに画面上ではもっぱら左から右にいてるように描いていたのだが帰郷する場面でも やはり左から左から右なので違和感を感じていたのだが、案の定単純に行って帰ってくるのではない、一種メビウスの輪のようにねじれた構造になっていた。

動物が口をきいたり、緑の騎士の造形などファンタジー風だけれど、それ以上に音楽=サウンドデザインともどもアート系の感触。かなりわかりにくい。

ガウェイン役のデブ・パテルはロンドン生まれだけれど両親ともにインド系で人種容貌からするといわゆる騎士とは違うが、アーサー王宮廷では円卓に象徴されるように騎士たちは全員平等という理念はあったのだろう。





「MEN 同じ顔の男たち」

2022年12月19日 | 映画
ミソジニー(女性嫌悪)を図解したような映画。
男の被害者意識の皮をかぶった加害者の陰険さは、たとえばフェミニストや性加害者を告発した人に対する嫌がらせ粘着としてネット上で日常的に目にするけれど、そのヘドロのような言葉に顔と姿を与えた。

当てつけ自殺のような死に方をする、窓の外を落ちていく夫と目が合ってしまう悪夢のような感覚のシーンから始まり、当たり前のようにセクハラ的言動をしてきたり、夫が死んだのはあなたのせいではないですかと取り澄ました顔をしてひどい言葉をかけてくる神父など、男たちがクズを通り越して後半怪物化してくるホラー。

木からリンゴがぽとりぽとりと大量に降ってくるシーンがあるが、聖書でのアダムがイブに受け取った果実と言われるリンゴにひっかけている、つまり人間の原罪は女が誘惑したのから始まる聖書にまで遡っている感じ。
男たちの中に神父が混ざっているのも含めて、寓意があからさますぎてもっと複雑な意味をこめているのかなと考えるくらい。

無調な響きに人声が混じる音楽が実験映画的で刺激的。

クライマックスの奇想イメージの展開はアレックス·ガーランドの旧作「エクスマキナ」同様、今の映像技術で何ができるか知った上で発想しているよう。





「ただ悪より救いたまえ」

2022年12月18日 | 映画
日本で在日ヤクザを始末した半引退状態の殺し屋が復讐を誓ったその弟に狙われるプロットと、殺し屋の別れた元妻が殺され誘拐された娘がタイの子供むけ臓器売買組織に売られるのを阻止しようとするプロットとが同時並行するのだが、考えてみるとこの二つは直接の関係ないのだね。くっつきそうでどうも建付けが良くない。

日本とタイという韓国国外でのシーンが多い。分量も多いし、生き生きしているのはタイの方。撮影条件が協力的だったのではないか。
アクションシーンが迫力はあるけれど、やや自己目的化に傾いている感じ。





「あのこと」

2022年12月17日 | 映画
画面サイズが1:1.37というほとんど正方形に近いサイズ。 だから ほとんど ヒロインだけが画面を支配する主観的な世界という形になっている。 

人工中絶の話なのだが 相手の男はほぼ出てこない 。大学の男の教官が進路についての相談に限って相談の相手になるくらい(というか、立場上相談しないわけにいかない)。
フランスで中絶が非合法だった時代の話で、医者も協力したら罪に問われて免許を剥奪されるだろうからまったく当てはならない、その孤独感が凄い。

望まない妊娠で実際に一生が逸れていってしまった女性が無数にいることをことさらに強調はしていないが、明らかに背後に透けて見えて、原作者アニー·エルノーおよびオドレイ・ディワン監督の中絶体験をもとにしているというから、そのキャリアを棒に振っていたかもしれない可能性と恐怖が裏に張り付いている。

徹底してヒロインが一人だけで自分の肉体も未来も引き受けければいけないのを被害者意識でなく苦痛とともに 自分で選び取ってくのが凄みがある。アナマリア・バルトロメイ のまなざしと声が全編を圧している。

トイレで具体的に何がどうなっているのかどうもよくわからないのだが、昔の日本だったらあそこにボカシがかけられていたのだと思うとややマシになったか。
これとは別に、日本でのバースコントロールの認識と制度の遅れっぷりも十分一本の映画になるだろう。