prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ブルー きみは大丈夫」

2024年06月24日 | 映画
原題はIf。もしもという意味と、イマジナリー・フレンドという意味の両方にかけている。

主役の女の子がどういうわけか他人のイマジナリー・フレンドが見える設定で、前フリでジェームス・スチュワートが他人には見えないウサギが見える旧作映画「ハーヴェイ」がテレビで放映されている。

ただハーヴェイはスチュワートには存在するが他人には存在しない玉虫色の存在なのだが、それがこのIFでは当人にすら見えなくなっているが本当に実在しているという設定で、それが本来他人である女の子にもその父親にもありありと(それも大勢)見えるしCGがまたこれでもかとばかりにキャラクターの質感量感実在感を出してくる。

イマジナリー・フレンドの側からその主を見つけるのを女の子が手伝い、時にIFが現実に物理的な力を働きかけたりする。
なんか現実的すぎるのです。
IFは一方的に「卒業すべきもの」とは思わないが、当人には差し迫った意義があっても傍からはどうでもいい存在なのが逆さまになっているのは変な感じ。





「違国日記」

2024年06月23日 | 映画
新垣結衣の部屋にある襖みたいなスライド式の板の敷居がきちっと正しい位置になかなか来ないでたびたびズレたり、細めに開いて向こうから新垣の顔が覗いたりと微妙な見せ方をしているのが面白い。
血縁でいうと姉の娘だから姪なのだが、姉と疎遠なのが響いて姉夫婦が事故で亡くなって引き取ったあとも微妙な空気感で一線を守っているのが、この仕切りの扱いに表れているように思える。

部屋はかなり散らかっているが本棚は生理されていて(母親の本棚もそう)、服も普段はだぼっとしたズボンを履いていたり髪もわざとらしい範囲でなくぼさぼさだったりメガネも微妙に太縁のをかけたりで、まあ小説家らしい。もとが美人だからむさくはならない。





「気違い部落」

2024年06月22日 | 映画
すごいタイトルだけれど、公開された昭和32年(1957年)には放送禁止用語というのはなかったから「気違い」も「部落」もパスできた、というわけでもなく、誰がどういう根拠で禁止したのかよくわからないまま同調圧力的に自主規制しているというのが本当のところだろう。

冒頭、幕の前に森繁久彌が登場して口上を述べてから日本橋の川と橋が写るのだが、上を覆っている高速道路は影も形もない。昭和37年のオリンピックを控えて作られたのだからそういうことになる。

そこから十三里半=54キロしか離れていない田舎(に見えるが現在の八王子市西部 )を舞台に村人たちの群像劇が2時間14分かけて展開するわけだが、役者の揃いっぷりは今見るとすごい。芸術祭参加作品と出るから、当時とするとそれなりの格はあったのだろう。

伊藤雄之助が結核(というのがまた時代を感じさせる)にかかっている娘の水野久美のためのストレプトマイシンを駐在の伴淳三郎に用立ててもらったのを薬代のもとをとろうと闇で売ってしまったもので、一時期収まっていた水野の容態が急変して亡くなってしまうというのがなんとも貧しく愚かで悲しい。

村の有力者・山形勲に村八分にされた伊藤が猟銃を持ち出すのを組み付いて止める淡島千景の必死さ、雨の中の水野の葬式とそれまで猥談に興じていたおばさんたちが見かねて傘をさしかけに来る人情味、伊藤が山火事をつけたと思わせて実はという流れが、たんたんとした流れをラストで締める。

ウケ狙いみたいになってしまったタイトルに対して、中身はいまどきの社会と人間に比べればごくごくまとも。




「蛇の道」

2024年06月21日 | 映画
ビデオ用映画だったオリジナルは見ているのだが、こんなだったっけと何度か思った。

廃墟に拉致監禁した男にダミアン・ボナールが可愛い女の子のビデオを自分の殺された娘だと強引に見せ、同時に惨殺された医学的所見を淡々と朗読する場面ははっきり覚えていた。
ゲシュタルト崩壊というのか同じ言葉を何度も繰り返すことで言葉が意味を失う。

隠されていた真相があとで一応はわかる。
オリジナル版のシナリオを書いた高橋洋の著書にずばり「地獄は実在する」というのがあるが、彼の発想には映像そのものが死んでは生き返る呪われたものというのがある気がする。そういう地獄感は描かれる対象としてあるので、映画そのものの呪いといったものはここでは薄い。

食物を与えるかと見せてフードプレートをわざとひっくり返したり、失禁させて放水で身体を洗ったりといった拷問は拷問とするなら割と生温い。人格を侮辱するなら裸にするだろう。
必ずしもサディスティックではなく、むしろ無感情に近い。

もともと同じ哀川翔主演の「蜘蛛の瞳」と二本ペアでリリースされた片割れだけリメイクしたわけで「蜘蛛の瞳」の方は「蛇」よりもっとわけがわからないから外したか。

それにしてもVシネというかビデオ市場向けに作られた一連の作品の保存はどうなっているのか、心配。

柴咲コウの眼のことを作中ヘビの眼だと言うのは言いえて妙。
必ずしも日本人がやらなくてもいい役なのだが監督が日本人なのに合わせたか。というか、それ以外には考えにくい。
駐禁を取り締まるフランス警官が日本のアニメファンというのも今時珍しくはないのだろうが、わざわざ入れるあたりは案外あちらのスタッフが気をきかせたのかもしれない。

(エンドタイトルでオリジナルをリリースした今はなき大映=DAIEIの表示が出たのは気のせいか)






「チャレンジャーズ」

2024年06月20日 | 映画
カメラがテニスボール目線になって激しくラリーを演じたり、テニスコートの地面が透明になって「刺青一代」みたいな真下から撮るアングルになったり、ずいぶんとケレン味のある演出をしている。

音楽が画面に合わせるわけでもなくずうっと鳴り響いていたり、必ずしも必要なく時制が交錯したりというのもケレンに入るかもしれない。ラスト近くで車で出かけるシーンも、なんであんなに風が吹いて紙くずが散ってたんだろう。

ラストのくくり方は、テニスのルールを良く知らないせいなのかどうなのか、ちょっと釈然としない。「ロンゲスト・ヤード」をフットボールのルールを知らないで見るようなもの。

ふたりの男をひとりの女がかわるがわる手玉にとって、どっちが手玉に取り甲斐があるか比べているみたい。





「数分間のエールを」

2024年06月19日 | 映画
輪郭線を書かないで色の塗り分けだけで表現するのは、どこかで見た覚えがあると思ったら「ロング・ウェイ・ノース」や「カラミティ」などのレミ・シャイエ監督の技法だったなと思い当たる。同監督だけの技法とも、直接の影響どうこうとも言えないだろうが。

光の中でホコリが舞って煌めく表現がすばらしい透明感を出している。かと思うとスクラッチ=ノイズをわざと乗せたりしている。
モーションキャプチャーの使い方もこなれてきた。

絵を描くなり音楽を作るなり、動画を撮影・編集するなり、とにかく人が表現に携わるにあたっての悩みをテーマにしているのかと思うと、主人公の朝屋彼方自身はひたすら眠たがっているくらいであまり悩まず、音楽をやっていた教師・織重夕や絵の才能を評価されながらあきらめる同級生・外崎大輔の方が先走って悩んでいる。

自意識過剰な先生の方が無意識過剰な生徒に出会って再生する話としてまとめられるのではないか。夕と彼方がありがちな恋愛感情を持たないのは思い切りがいい。

ただ、ネット動画の再生回数の方を生で見に来た観客より軽く見ているような夕先生の態度はどんなものかと思う。

監督はぽぷりか、副監督はおはじき、アートディレクターはまごつき。なんですか、このふざけた名前は。
舞台は明らかに金沢ですね。




「ブワナ・トシの歌」

2024年06月18日 | 映画
1965年の製作。「拝啓天皇陛下様」が1963年だから渥美清が寅さん(第一作は1969年)に至る上り調子の最中の作品ということになる。

IMDbの評価を見ると10点満点で5点というずいぶん低い評価。同じ羽仁進監督の「アフリカ物語」がやはり5点。アフリカ絡みなので今見ると無意識のうちにPCに抵触したということになるのか。

渥美清はいかりや長介みたいにアフリカによく行っていたらしいが、浮世を離れたかったのか。今ではアフリカも憂き世だろうが。




「ジム・ヘンソン アイディアマン」

2024年06月17日 | 映画
ヘンソンが「セサミストリート」を作るにあたっておおっぴらに実験映画が作れると思ったというのが面白い。
実際、幼児向けに噛み砕くのではなく白紙に思い切り大胆な絵を描くように幼児の感覚そのままに作っている。

セサミより先にクッキーモンスターのキャラクターはあったというのにびっくり。調べてみたら、初登場は1966年 スナック菓子"ホイール クラウンとフルート"のCM(ホイール・スティーラー)なのだそう。

「ダーククリスタル」で架空の言語を使ったら試写を見たお偉方が黙り込んでしまったのでしぶしぶ英語を使うことにしたとか。
舞台裏のメイキングがまた面白い。

余談になるが「新八犬伝」のメイキングがあったらなと思う。メイキングどころか本編が散逸してしまっているのだから話にならないが。

監督はロン・ハワード。ドキュメンタリーでもさすがに安定した仕事ぶり。




「あんのこと」

2024年06月16日 | 映画
河合優実がドラッグから更生しようとする役、というといかにもな熱演が繰り広げられそうで真逆の温度の低い演技というより表現で一貫していた。

佐藤二朗の刑事がガラ悪そうで麻薬からの更生施設を紹介したりヨガのトレーナーやったりして見かけによらず良い人なのかなと思わせて実はという展開なのだが、その実はというのがストーリー上の意外性でひっくり返すのではなくキャラクターとしては地続きでいる。

母親が自分ではなく娘のことをママと呼んでいるねじれっぷりは、ちらっと「にっぽん昆虫記」で父親が娘に対してマザコンめいた感情を抱いていたのを思い出した。

「かくしごと」が杏(あん)主演なもので、混同した。

ざらっとした画面の感触や色味からしてフィルム撮りではないかなと思って見ていてエンドタイトルでラボ(現像所)の文字があったもので違うかもしれないが一応納得。









「かくしごと」

2024年06月15日 | 映画
杏と佐津川愛美の昔なじみ同士が久しぶりに居酒屋で飲み、佐津川がビール2杯くらいどうってことないと自動車を運転した帰りに子供をはねてしまう。車で来ているのに飲むというのも、それを止めないというのもまずいのだが、佐津川が必死で頭を下げて頼むもので、杏もまずいとわかっていても強く言えない。

それではねたどこから来たのかわからない子供を杏が認知症の奥田瑛二と同居している田舎の一軒家に連れ帰るもので、警察に知らせないのかよと思う。酒気帯び運転してたのを隠すわけで、ここで警察に通報するという選択肢を封じることになるが、かくして納得できないのと無理もないと思う間で揺れることになる。

アウトドアで遊んでいて行方不明になった子供らしいというのがテレビニュースでわかり、その子の身体を見ると虐待の跡があるのと、親があろうことか捜索の途中で帰ってしまったというのに反発した杏がその親のアパートを身分を偽って(!)訪れたら果たせるかな父親の安藤政信が昼間から酒をかっくらっている。ここで相当ムリがあるのを強引に突破する展開という点である意味納得する。

タテマエとしてはそれやっちゃダメなのをそれもムリもないとそれ自体は論理的に積み重ねていく展開で、杏の方の事情がそれから描き込まれていくわけだが、杏とはねられた子供と同年輩の男の子と一緒に撮られた写真を見せる一瞬でほぼ事情は呑み込める。事故がどうこうという佐津川のセリフと、写真の子供は登場しないのを併せれば説明しなくてもわかる。

子供のケガを医者に見せるのに保険証を提示しないで全額負担する代わりに親子ではないのをバレないようにするあたり、受付の見た目でいかにも親子に見えるカットを挟むなど、芸が細かい。

ちょっとづつ納得できないところを踏み越えていくのを積み重ねているうちに、杏がはねられた子供を自分の子供とだぶらせて名前も自分の子供の名前を名乗らせるに至って、なんだか踏み越えちゃったなあと思う。

前述の通り、父親は認知症で子供は記憶喪失と、認知機能に問題が生じているもので、ヒロインが引きずられたと解釈してもよさそうな気はする。
ただ納得しきれない澱は残りますね。





「ドライブアウェイ・ドールズ」

2024年06月14日 | 映画
コーエン兄弟が、弟のイーサンとイーサンの妻で共同脚本のトリシア・クックの事実上の共同監督という形に組みかわったわけだが、作風は変わったような変わらないような。
だいたいこれまでの兄弟の作品歴でも内容スタイルともに大きな振幅がある。

生首とかペニスの張方のコレクションとか、かなりロコツに刺激的なアイテムが並ぶのはこれまでにない感じではある。

女三人のうち二人がベッドで過ごしていて、もうひとりから電話がある、その後は電話をかけてきた女とベッドにいた女のうちひとりが主に一緒に行動するという具合に三人の女の妙にアンバランスな関係が興味をつなぐ。

二人組の犯罪者というのは「ファーゴ」にも出てきたな。
太めのキャストが目立つのも兄弟作品の半ばトレードマーク。

ヘンリー・ジェイムズの「黄金の盃」がかなり重要なアイテムらしく登場し、ラストでも「Drive-Away Dolls」のDollsの上に貼っていた紙が剥がれるのだけれど、その下の文字が読み取れず。上にHenry James'sとあったから当てはまるジェイムズ作品があるのかと思って探したが見つからなかった。ビデオだったら簡単に停めて確認できるのだけどね。






「ナイトスイム」

2024年06月13日 | 映画
プールに何か出るのは冒頭のシーンから明らかなのだが、その何かというのが相当に大風呂敷を広げていてふーむと思わせる。

溺れた人間が化けて出るには違いないが、それ以前に水そのものに意思があるような描き方で、なんだかソラリスみたい。考えすぎか知らないが、コップがテーブルの上で滑っていく「ストーカー」のラストみたいな描写もあるので、タルコフスキーがかっているのは偶然ではない気がする。

実際にプールの中で撮っているカットが多くて、相当な危険が伴っただろう。

YouTubeか何かにアップされた短編を膨らませたらしい。今やホラーでは定番のコースです。





「明日を綴る写真館」

2024年06月12日 | 映画
今どき写真を撮るとなったらまずスマホが出てくるところだろうが、これがほとんど出てこない。インスタグラムを使う場面でしぶしぶといった感じで出てくるが、宣伝になるという誘いにも乗らずあっさり引っ込む。

主人公の青年佐野晶哉はすでに写真の大きな賞を何度も取っていてメディアからも注目されているのだが、いともあっさり有名になるチャンスを投げ出して、平泉成の古びた写真館に押しかけ弟子入りする。

物好きな、と思うし、写真館で展示されている平泉が撮った女の子の肖像写真に惹かれたかららしいのだけれど、どこがそんなに特別なのか、写真一発でわからせるというのは相当に難しいというより、まずムリ。
一方でそれなりに注目されながら自分をいてもいなくてもいい存在と感じるという矛盾が、生煮えのまま投げ出されている。

青年は佐藤浩市が持っていた吉瀬美智子の小さな肖像写真を借りたと思ったら、もうパソコンに取り込んだデータをレタッチしている。スキャナーでスキャンしたのかスマホで撮影したのかわからない。

アルバムを被災で失ったお祖母ちゃん(美保純)が亡くなったのを看護人が家族でもない見ず知らずの佐野たちに教えるものかなと思った。ここは一応写真館に連絡をとってきた孫娘の口から言わせるところではないか。
細かいことだが、細かいことだからこそひっかかる。

市毛良枝が結婚式で花嫁姿になりたかったと今になって言うのだけれど、それをサプライズでかなえるというのもなんだか無神経。




「ライド・オン」

2024年06月11日 | 映画
石丸博也の吹き替えで見たのだが(2023年に声優業からの引退を発表したのを例外的に復帰したとのこと)、字幕版は広東語ではなく北京語だったらしい。ジャッキーの全盛期は香港=広東語とは切っても切れなかったから、香港が共産党一党独裁に呑み込まれていくのをどうしても思い出すし、ジャッキーも共産党に迎合していると伝えられる。

とはいえ、今回の映画はジャッキーがかなり率直に老いを隠さず、話も映画界に絞ってかつての出演作の断片を散りばめて見せている。

老いた姿をさらすのは馬でカバーする作戦で、馬がスタントをこなすにあたってかなり危険に見えるシーンもあるのだが、エンドタイトルで「この映画で動物を危険にさらしていません」の掲示が出たかどうか覚えていない。土台、やたら細かい字でずらずらっと大勢の名前が並ぶので読みきれない。

ジャッキーの娘役の劉浩存=リウ・ハオツンが黒目をくりくりさせて可愛いのだが実年齢24歳だから娘というより孫の年だ。チャン・イーモウの「ワン・セカンド 永遠の24フレーム 」でデビューし、「崖上のスパイ」にも出ていたらしい。





「関心領域」(二回目)

2024年06月10日 | 映画
一回目に見た時は「あまりに見せなさすぎではないか」と書いたのだが、見落としているところ、聞き逃しているところはないか、再見してみた。
もちろん二度見てあらためて確認したところはある。走っていく列車の煙が遠くから見えるのは絶滅収容所にユダヤ人を運ぶ列車だし、歯磨き粉に宝石を隠したというのはチューブに入れた練り歯磨きではなく蓋式容器に入れた歯磨きなのに思い当たるという調子。
ただ基本的な不足感には変わりない。

つまり、大量に「処理」されているユダヤ人たちが「生きていた」ところが痕跡ですらほとんど描かれていない。
文字通りないものねだりなのだが、それでいいのだろうかとは思う。ユダヤ人を焼いた灰が川を流れてきて、懸命に風呂で子供たちを洗い流す情景が描かれても、アタマでそれとわかるに留まり、灰の元の人間の姿どころか、なぜムキになって洗っているのかとも実感としてはつかめず、心胆を寒からしめるというわけにはいかない。想像を絶するような大量虐殺が行われているうちに、想像力の方が息切れしてしまう。

個人を数、あるいは量としてカウントはするが、数や量を生き物としてのヒトに改めて還元しそびれているのではないか。

ジョナサン・グレイザー監督のこれまでの作品「記憶の棘」「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」を見た限りでは説明を排して緊張感を保つ文体の一方、裏に貼りついている暗示的な描写に具体や実体が案外乏しい。
少なくともエモーションには結びつかない。

隣がアウシュビッツというのは、慣れるとなんでもなくなる。住んでいる人間だけでなく、観客までそうなる。慣れるなと言われても慣れてしまう。人間はどんなことにでも慣れるものだ、と書いたのは「死の家の記録」のドストエフスキーだったか。
それを改めて恐ろしがるには手が足りない。

ラスト近く、階段の手前で立ちすくんだヘスの姿に、未来の(つまり現在の)アウシュビッツで展示されているだろうガス室やユダヤ人たちの靴や写真の前で掃除している掃除婦たちのフラッシュフォワードが挟まる。あくまで清潔に清掃するのを繰り返しているうちに、描写としては拭き清めすぎたのではないか。

あと、ときどき挟まる白黒のサーマル画面の意味がよくわからない。
マーティン・エイミスの原作読んでみるか。