prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「110番街交差点」

2022年05月28日 | 映画
1973年製作と、ニューヨークのハーレムが荒廃して犯罪の温床になっていた時代のざらざらした空気を封じ込めた一編。
シネモヴィルといって、撮影機材・照明器具・移動撮影用機材などをパッケージにして一台ないし数台の車に搭載してレンタルする当時新しく登場してきたシステムを採用し、ニューシネマでストリートでロケ撮影がすることが増えたのに対応してさらに技術的向上も保証した。

クライマックスの屋上の追っかけと銃撃戦など「ゴッドファーザーPARTⅡ」の暗殺場面にも使われたような古ぶるしい建物で、今では建物自体がなくなっているだろう。

警部補役のヤフェット·コットーは同じ時期に「007 死ぬのは奴らだ」のマンガチックな悪役ドクター⋅カナンガをやっていて、まあスゴい振り幅。
ギャングの方に顔がよく似たのがいて、セリフでわざわざ指摘していたりする。

製作にアンソニー・クインが加わっているが、彼は白人代表の役のようで実はアイルランド系メキシコ人、母がアステカ族系メキシコ人でメキシコチワワ州生まれと、マイノリティでもあり、事実「アラビアのロレンス」のアラブ人役など白人以外の役をやることが多かった。
それが黒人と協力しなくければいけない立場ながらむしろラストシーンなど断絶を強く印象づける役をやっているアイロニー。




「流浪の月」

2022年05月27日 | 映画
見ていてどうも落ち着かない感じがつきまとうのは、やはり根本的に幼い女の子と年長の男の組み合わせで、イノセントな関係がありうるのかという点に十分な納得が得られないから、ということになる。
だから(松坂桃李)が幼女を誘拐して洗脳したというレッテルを貼られるのが、まったくの「無実」とは得心しずらい。

たとえば「シベールの日曜日」だったら、男の方が戦争による神経症を患っているという性格づけがあって初めて実は「変態」ではないという設定が成り立ったと思う。

ここでの文がいかに親との関係で自己否定的な状態に陥っていたとしても、そこまで納得できるものでありえたか。

ネット上の無責任なデマや誹謗中傷のをはじめとした「世間」と圧力の描写は、困ったことに「顔」がない分、型にはまりやすく若干またですかという感じになりやすい。

横浜流星の「世間一般」を代表しているようで次第にそこを踏み越えて自らを破壊してしまうキャラクター表現が秀逸。

松坂桃李の肉体改造ぶりは凄いけれど、その分感情移入しずらくもなった。





「ワン・セカンド 永遠の24フレーム」

2022年05月26日 | 映画
また思いっきりむさ苦しいというか、中国がド貧乏だったところの田舎の村の感じを徹底的に出している。逆説的に、カネかけられるようになったから再現できたとも言える。
不思議なもので、昔の中国映画のあまりクオリティの高くない映像のリアリズムより情報量は多い分「リアル」でもあり、それなりに綺麗すぎるので逆に作り物っぽくも見える。

荒涼とした砂漠やどこまでも続く道など、何やら「マッドマックス2」の世界観みたい。
背景には文化大革命(1966~76)があるわけで、作中に登場する1964年制作の「英雄子女」っていう映画は実在するものらしいけれども画面を見た感じではなんだか朝鮮戦争での米軍との戦いみたいなんで見ているとなんだか不安な気分になる。

余談だが、監督のチャン・イーモウの父親は国民党軍の兵士で、従って共産党中国ではまともな職にはつけず、母親が働いて赤貧の中で育ったという。だものだから文革で田舎の村に下放(農民から学べというわけ)された多くのインテリ青年はあまりの知的刺激ゼロの環境に参ってしまった中、イーモウは平気で村にいついて写真術を身につけ多くの写真を撮りため、その写真が認められて、北京電影学院撮影学科に入学が認められた という。インタビューで自分の顔は典型的な中国の農民のそれだという意味のことを言っている。
実をいうと、それだけではなくて入学申請時にすでに27歳で結婚していて、当時の夫人の親戚が学院の理事、という縁故入学ってところもあったらしいが。オリンピックの開閉会式の演出の取りまとめといい、しぶといというか世渡りが上手い人と見受けられる。

砂漠の風景が色味を殺した感じで 毎度のことながら撮影監督出身のチャン⋅イーモウは色彩調整に関しては細心の注意を払っている。
巡回映画を扱った映画って言うと「ミツバチのささやき」 があるし、映画館を舞台にした映画としては「ニュー・シネマ・パラダイス」があるわけだが、前者のように映画そのものがいきなり子供の魂を掴むというわけでも、後者のようにノスタルジックに古き良き映画が貴重だった時代の疑似的な(というか、はっきりウソの)映画館を再現?したわけでもない。
さすがにというか、「パラダイス」みたいにフィルム映写機が一台しかないなどという象が映っているくらいの考証ミスはない。

フィルムに焼き付けられた娘の姿を一目見たいという父親の一念に焦点を合わせていて、実物の娘とは会おうとはしない。おそらく会ったら「反革命」分子の娘として巻き込むことになるからだろう。

フィルムが道に引きずられて埃まみれ砂まみれ傷だらけになる。
ここでの映画=モノとしてのフィルムは実際の人間の代わりというか依代みたいな存在としてある。
フィルムを加工して作ったスタンドの傘というのは、突飛なようだがナチスが人の皮を加工してスタンドの傘にした故事を思い出した。

映画の上映の仕方が面白くて ホールみたいなところに真ん中あたりにスクリーンを置いて、その両側に村人がびっしりと詰まっていて 上映されているスクリーンを表と裏から同時に見る格好になる。
実際がどの程度ああいうやり方をしたのかわからないけれども絵としてとても面白い。
またフィルムをエンドレスにつないで 映写室の中を何やらアクロバットのようにフィルムを行き来させて上映する場面などをやはり造形的に面白い。

文化大革命の頃の話なのだろうけれども男の子かと思うような泥棒の子供が最後の方だとまるっきり「初恋のきた道」の頃のチャン⋅ツィイーみたいな感じになる。イーモウの好みなんでしょうね。
また生き別れになった娘とフィルムと泥棒娘とがだぶるようになっている。





「ナック」

2022年05月25日 | 映画
1965年カンヌ映画祭パルムドール受賞作
同じ歳には小林正樹の「怪談」、フランチェスコ⋅ロージの「真実の瞬間」、シドニー⋅ルメットの「丘」などの重厚な作品がずらっと並んでる中で、一番ライト感覚のこれがパルムドールを取った格好。時代を取り込んだ選考ということになるか。

リチャード⋅レスター監督とすると「 ビートルズがやってくる ヤア!ヤア!ヤア! 」「ヘルプ 四人はアイドル」の大ヒットのあと芸術的な評価を得た作品ということになるだろう。
とはいえ今の目で見ると、ビートルズみたいな不滅の存在があるわけではないわけで、当時新しい分、かえって古くなっている印象は否めない。

もとが舞台です とは思えないぐらい徹底的に解体して ロンドンの街をベッドを延々と運ばれるなどレスターのスラップスティックコメディ志向が出てはいる。
冒頭の生きている人間なんだかマヌカンなのかわからないような画一的な白いセーターを着た美女達の集団のグラフィックな演出処理が、軽さの中にひとつの批評的な見方を導入する。
その美女たちにジャクリーン⋅ビセットやシャーロット⋅ランプリングが混ざってるのは割と有名で、ビセットは確認できた。

原題のknack how-to get it 女の子のひっかけ方という意味らしいが、今見ると代理店が女の子をひっかけるみたいなセンスみたいで、実はこれが一番古びているかもしれない。

主演のリタ・トゥシンハムがいわゆる美人とも可愛いとも違う(「ドクトル・ジバゴ」で初めて見た時にはぎりぎり最後まで男か女かわからなかった)、かといってチャーミングではある不思議なパーソナリティ。
男の子たちのツッパリ方とは違う自然な反抗感(「蜜の味」の主演だものね)。





「オードリー・ヘプバーン」

2022年05月24日 | 映画
映画スターとしてのヘプバーンの顔は少しで、結婚生活、家族との生活、晩年のユニセフ大使としての面に多くの尺を費やしている。
とはいえ、スターとしての知名度・影響力がなければ多くの寄付や協力は得られなかったわけで、「良くも悪くも有名人の影響力は大きい」(クリストファー・リーヴ)を地でいっている感がある。
前は有名人がチャリティーをしたりするのは偽善ではないかと違和感を覚えることが多かったが、今では偽善だとして、偽善も善のうちと思うようになった。

ドキュメンタリーとはいっても、俳優になる前に志望していたバレリーナのイメージシーン(もちろん別人が演じている)から始まり、終わる。
いつの間にか、こういう作り物の映像をドキュメンタリーに混ぜても「やらせ」とはいちいち言われなくなった。

「ローマの休日」でアカデミー賞を受賞したすぐ後に最初の夫のメル・ファラーと一緒にパーティに出ている映像がつながるが、知り合ったのはずっと後の「戦争と平和」の共演時だと思った。同作の音楽を担当したニーノ・ロータのインタビューで「彼女(ヘプバーン)はメル・ファラーに激しく恋していた。歌を歌うシーンがあるので、彼女は音楽担当の私に直接教えを請いたいと言ってきた。撮影が終わったあと、お礼の電報が送られてきた。女優にこのように礼儀正しく振舞われたのは、彼女が最初で最後だ」とある。

特に日本では実に70年にわたって洋画専門誌「スクリーン」の人気投票で十位から外れたことがないという驚異的に息の長い人気を誇る。
余談だが、隣の家の娘さんが結婚して家を出ていく時に映画パンフレットを私に譲ってくれたことがあるのだが、「ローマの休日」のリバイバルのたびに違うパンフが何種類もあったものだった。

日本とアメリカ、ヨーロッパでその人気のあり方がどの程度違うのか、違わないのかはわからない。





「ヤスジのポルノラマ やっちまえ!」

2022年05月23日 | 映画
70年代のハプニングやサイケといった流行というのはこういうものかなと思わせる。
ちょっと今見るとアタマがくらくらする。
もともとの殴り書きのような、しかし欲望と憤懣とアナーキズムがごっちゃになった絵にさらに色と動きをつけるのだから、混沌そのもの。

アメリカのラルフ·バクシの「フリッツ⋅ザ⋅キャット」みたいに当時のストリートの匂いとカオスとやけっぱちみたいな、しかも性描写がやたらとあからさまな成人指定アニメ。

ただし日本では共に興業的に大失敗だったらしい。エロアニメとして楽しむにしてもあまりにガサガサしているせいか。
そのため製作会社は解散、長いこと見ることができなかったのが2019年にDIGレーベルでDVDが出たという次第。

今や成人指定アニメは珍しくないどころか佃煮にするほどあるが、だいたいロリ系ではないか。いちいちチェックしているわけではないが、こういうやたらと暑苦しい昭和の男の欲望の対象そのまんまというのはあまりないのではないか。

まとまったストーリーなどなくてちぎっては投げ式の場面の羅列で長編はキツい。
製作過程自体が原作から映像になりそうな部分を抜き出して各パートが自由にというか勝手に膨らませて作ったらしい。

昭和センスというか、酔っぱらいが立ち小便するのが当たり前の時代だったのだな。

「RAW 少女のめざめ」

2022年05月22日 | 映画
「チタン TITAN」のジュリア・デュクルノー監督の第一作というので見てみた。
当然ながら、いたるところに共通するモチーフが見られる。
肉体損傷、暴力的で上下関係に固執する排他的なマチズモは典型だが、細かいところだと突然停車する車で始まるところも共通している。

 カニバリズム(人肉食)がモチーフになってはいるのだが 相手の肉体を取り込むことによる一種の一体化の欲望 あるいは侮辱といった一般的なカニバリズムにまつわる感情とは毛色が違う。

自分の肉体の損傷を外部に投影する形としてのカニバリズムとでもいうのか、「チタン」同様ケレン味が強すぎる感じはするが、今後どうなっていくのか興味は大いに惹く。




 


「ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス」

2022年05月21日 | 映画
同じ役者が違う平行世界でもう別の自分を演じるのは、役者の腕の見せ所になるだろう。

カンバーバッチが今回はフランケンシュタインの怪物がかった役もやっていて、実際、舞台でフランケンシュタイン博士とモンスターをジョニー⋅リー⋅ミラーと交互に演じたりしていた(ご丁寧にもミラーはやはりテレビの「エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY」でホームズ役をやっていた)のを思い出した。

単なる巡りあわせと言ってしまえばそれまでだが、映画(ドラマシリーズも)のキャラクターが何度もリサイクルして使える経済モードに完全に突入して、プログラム・ピクチャー時代の一本一回で完結する世界とはずいぶん違うところに来たものだと思わせる。
早い話、前のストーリーどういうのだったか忘れていることが多い。それでも構わない作りにはなっているけれど、どうももどかしい感じはつきまとう。

監督がサム⋅ライミだからなのか、グロ味が濃いところは相当に濃い。
極端に遠近感を誇張する画面作りもお馴染み。
正直、役者によってはどうも華がなくて場面が盛り上がらないところはある。





「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」

2022年05月20日 | 映画
原題はMy Salinger Year。
すでに隠遁生活に入って久しいサリンジャーに来る手紙の相手をする作家(詩人)志望のインターンの女の子が主人公。

上役がシガーニー⋅ウィーヴァーだから鬼上役に絞られる「プラダを着た悪魔」的な展開になるのかと思うとむしろ逆。
作家という相当に扱いにくい連中を相手すると共に、自分自身がその扱いにくい人種であることを受け入れる話とまとめられるか。
場合によっては悲劇につながることもある。

サリンジャーその人はほぼ出てこないのだが、レイ⋅ブラッドべリは俳優が演じて出てくる。
ワープロとタイプライターが混ざって出てくる微妙な時代。

編集者と作家というと、日本ではマンガでは二人三脚的な関係が成り立つのだうが、純文学だとどこか作家の方が偉い、いや作品を磨くのは優秀な編集者あればこそという間を行き来する気がする。

それにしてもサリンジャーという作家も不思議な存在で、「ライ麦畑でつかまえて」「フラニーとゾーイー」「ナイン·ストーリーズ」と主だったところは読んでいるのだが、そしてつまらなかったわけでもないのだが、ある種の熱狂的なファンの情熱のよって来るところはよくわからない。まあファンというのはそういうものなのかもしれないが、そういうファンを持つ作家とそうでない作家はどこが違うのだろうと思う。





「死刑にいたる病」

2022年05月19日 | 映画
手を握り会うこと,それにまつわる爪(拷問に使われるだけでなく)の表現というのが非常に細かい。 ビールを注文する、注ぐ、飲むといった日常的な行為が非常に不穏な感じが出すように描かれている。

接見する場面が非常に長いのだが 黒澤明の「天国と地獄」以来といっていい、間を隔てるガラスに相手の顔が写ってダブって見え、一種二人が鏡像関係にあるという基本的なことは当然やっている。

がそれ以上に その仕切りがふっと消えてなくなったり 舞台劇風に被害者のイメージが背後の壁に投影されたりといった リアリズムを超えた象徴的な演出がなされている。
照明やアングルの選択など、すごい細かい工夫をしているのだろうな。

接見の最中に一種の謎解きみたいなことを勝手にされて警察としては余計なことをするなと思うのではないかと思ったりもしたが、その間ひたすら聞いているだけのような刑務官が 一種の存在感を感じさせてきて、 実際終盤になると突然渡辺さんっていう名前が呼ばれたりする。
「役割」だけだった人間が急に名前とおそらく意思のある人間になる瞬間。

裁判傍聴芸人こと阿曽山大噴火が二度までも法廷場面で写っているのが楽屋落ち(というのか)。

回想シーンがかなり多いのでちょっと絵解き的になるのと、ラストがホラー映画のルーティンみたいになるのはちょっと残念。

阿部サダヲをローマ字で表記するとSADAWOなのね、当たり前ながら。

連続殺人鬼の手紙の手書きの文字(ワープロ使えないよね)が綺麗なのが不気味。





「ポップスター」

2022年05月18日 | 映画
音楽映画かと思ったら全然違っていた。
いや、ナタリー·ポートマンがタイトル通りポップ歌手のスター役をやるには違いないのだけれど、その歌そのものを見物にしているよりはその裏側に張り付いているコンプレックスやそれを支える大衆心理の側に焦点を当てた作り。

それでも音楽シーンはちゃんと作っているから偉いものではあります。




「パリ13区」

2022年05月16日 | 映画
フランス映画といっても、昔のおフランスのイメージから遠くなって久しいが、ここでもアフリカ系と中国系が当たり前に白人と共に主役になっている。

グーパンチでろくでもないネット苛めをやった奴を殴り倒すのが痛快。
痛快で済むものでもないが。
その一方でネットで直接会わずに次第に距離を縮めていくのが、ネット社会の両面を見せる。

18禁だと知らないで見に行ったのだが、なるほどそういうシーンがいくつもある。
こういうとなんだが、黒人男と白人女のセックスを悪びれずに描くのはなかなか出来ないと思う。





「カモン カモン」

2022年05月15日 | 映画
叔父と甥が一時的に同居する話だが、必ずしも疑似父子関係にならず、「ぼくのおじさん」的な距離感もある。
長幼の序といった縦の人間関係ではなくて、子供と大人でも横の人間関係という感じ。

一方でふっと子供が姿を消す(本当に子供というのは神隠しか何のように姿を消してしまうものだ!)あたりの不安といったらなくて、大人が子供に持たなくてはいけない保護責任感が自然に出ている。

白黒映像は美的にしてリアルという両面性が出やすいみたい。