prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「SYNCHRONIZER」

2018年03月31日 | 映画
他人や他の動物と脳波というか脳の働きをシンクロさせるという発想はずうっとあるわけだけれど、超低予算で和風のお座敷を舞台にしても一種のSF的な発想を発展させることはできるのだな。

もともと脳の中の映像を具体化するの自体が半ば不可能なので逆に画の厚みは要らないといえば言えるわけ。

それを強引にぶっとんだ画にしてみせたのが「エクソシスト2」で、あれもずいぶん先駆的な作品だったなと思うことがこのところ多い。

和テイストのSF(そう断っているわけでもないが)というのも、また別の発展や工夫の仕方もあるのではないかと思った。

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3月30日(金)のつぶやき

2018年03月31日 | Weblog

「ブラックパンサー」

2018年03月30日 | 映画
人類誕生の地であり資源大陸であり、しかし現実には搾取の対象であり続けたアフリカに隠された最先端の技術を備えた国があって、これまではモンロー主義を通していたアメリカさながらに対外的には没交渉を貫いている、という設定が途上国と先進国、黒人と白人、アフリカとアメリカの関係を反映しながら何重ものねじれを伴っている世界観がスリリング。

現実の関係を単純に転倒させているだけでなく、黒人内部に入り込んでその中の分裂も取り込んで対立者とヒーローとの関係に反映させているのが、新しいフェーズに入った感。

戦士としての女性たちが大きな役割を果たして、単に男たちが埋めていた席をいくらか譲ったという以上のレベルに達している。

政治的な正しさに配慮しているのではなく、正しさの方を相対化している感。

アクションシーンがやたら凝りに凝ったアメコミ映画のそれに慣れた目にはやや愚直なくらいストレートな演出。

やや意地の悪い見方をすると、現実のアフリカ黒人たちにこのアメリカ製先進アフリカ像はどう映るのか、という気はする。
国別ボックスオフィスを見てもあまりアフリカの国は見当たらない。
(☆☆☆★★★)

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3月29日(木)のつぶやき

2018年03月30日 | Weblog

「ジェーン・ドゥの解剖」

2018年03月29日 | 映画
タイトル通り、ジェーン・ドゥつまり身元不明者の女性の解剖の話だけれど、何しろ死体だから動き回るわけではなく登場人物も極端に少なく場所も検視所周辺にほぼ限られていて、相当な低予算なのではないかと調べたが製作費はわからず。
ただしBox Office Mojoによると全世界の興収が600万ドルというからずいぶん少ないし、イギリス・アメリカ合作だが、foreign(=外国というのが、どこのことをさすのかはっきりしない)が99.8%というのはずいぶん偏っている。それでも採算がとれるのかどうなのか。

ただし音響はドルビー・アトモス。ホラーでは音が特にものを言うから手をかけたか。

あまり動きをつけられない設定の中でいろいろ気をもたせる展開と演出を工夫しているけれど、かったるい感じは免れていない。
ただしジェーン・ドゥの正体の設定には感心した。もっと早くから明かしてもう少し派手な見せ場を作れたらよかったけれど、予算がなかったか。
(☆☆☆)





3月28日(水)のつぶやき その2

2018年03月29日 | Weblog

3月28日(水)のつぶやき その1

2018年03月29日 | Weblog

「アシュラ」

2018年03月28日 | 映画
内容はまあ東映ヤクザ映画の実録ものに近いようなところがあって利権を巡って政治家と飼い犬と化した警察とさらには検察まで加わって一応法の担い手とされている連中が勢揃いして争うのだが、これがみんなクズっていうのがまことに徹底している。
社会正義もへったくれもないタイトル通りの修羅の世界。

検事がコーヒーを飲みながらちょっと置く代わりに紙カップを口にくわえたままやり取りしたり、市長が下半身丸出しのまま子分たちを人を人とも思わない扱いで接するあたり、役者たちの役作りの凝り方がとことんいやらしくこってりしていて、食べている物が違うという感じ。

上下関係にやたら敏感なマウンティングの連続みたいな人間関係なのだけれども、さんざん板挟みになったキャラクターがマゾスティックな隠忍自重に行かないで鬼気迫る反撃をしてくるのが日本と韓国との違いか。
類縁関係が頼りになるものである以上にしがらみとして縛り付けてくる息苦しさは共通している。

中盤のカーアクションのデジタル処理込みのカメラワークなども目を見はらせる。
あと、韓国映画って人が下に投げ飛ばされたり飛び降りたりするのを追うカメラワーク多いのではないか。
(☆☆☆★★★)

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3月27日(火)のつぶやき

2018年03月28日 | Weblog

「ハードコア」

2018年03月27日 | 映画
「ヒッチコック/トリュフォー」にあるトリュフォーの発言で、最初から最後までワンカットという映画はすべての映画監督の夢想だろうというのがあるのだが、デジタルカメラの発達で技術的には素人でもただワンカット長回しだけだったらできるようになってある意味ありがたみが薄れた。

これは全編ワンカットでこそないが、ほとんど一人称で通しているからワンカットに近い。その上で飛び降りたり殴り合ったり銃撃を演じたりとあらゆるアクションをこなす、その仕掛けの凝り方が見もの。

ただ初めのうちはおお凄い凄いと目を見晴らされる思いで見ていたのだが、それがずうっと続くとどんなに凄くても、というより凄いからこそだんだん飽きてくる。

一種シューティングゲームの画面がずうっと続くのに近いが、困ったことにシューティングゲームだったら自分で操作できるから飽きないが、ただ見せられるだけだと生理的にきつい。

ヒッチコックの全編長回しで通すのは結局愚かな芸当で、映画というのはやはりカット割りが基本だという発言に帰ってくるのだろう。

それとやはりトリュフォーを引用すると、感情移入できる人間っていうのは視線を共有するキャラクターではなくて観客と視線が交錯するキャラクターだということになるのだが、実際顔も知らない相手に感情移入するのは難しい。
感情移入できなくてもいい作りというのもあるが、この場合はずうっと一体化して動き回るのだからそういうわけでもない。
(☆☆☆★)

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3月26日(月)のつぶやき その2

2018年03月27日 | Weblog

3月26日(月)のつぶやき その1

2018年03月27日 | Weblog

3月25日(日)のつぶやき

2018年03月26日 | Weblog

「北の桜守」

2018年03月25日 | 映画
吉永小百合という存在は、まわりが全員アンタッチャブルなものとして扱うものからなのかどうなのか、歳をとるようなとらないような不思議な時空の歪みみたいなものができているんのではないかとかなり本気で思った。

阿部寛と夫婦役という出だしから、ん?と思うわけだが、複雑に(というかムダに)時制が交錯する展開の中に舞台で演じられる場面がちょいちょい入ってくるという不思議な作り。

なんで舞台が入るのか、オリヴィエの「ヘンリー五世」みたいに元が舞台劇でシェークスピアの頃の舞台の再現から始まり次第に映画的に広がっていくといった作りの先例もあるわけだが、この場合どんな意味や意図でやっているのかよくわからない。

意地の悪い見方をすると、戦後の風俗の再現を映画でリアルにやろうとすると金がかかりすぎるから舞台にしたのかとも思うが、その割に避難民たちのモブシーンや船が魚雷攻撃を受けるシーンなどは一応のスペクタクルにしてある。

劇中の舞台の演出をやってるのがケラリーノ・サンドロヴィッチというちゃんと名のある演出家なのだから贅沢といえばずいぶん贅沢な話だけれど、元の狙いがわからないからどうにも座りが悪い。
実験的な作りにするのはいいとして、狙いや効果を突き詰めず生煮えのまま完成してしまった感。

吉永小百合は「母と暮せば」で死んだ息子との共同生活を営むといった幽玄定かならぬ世界で主演していたわけだが、ここでの世界観って認知症を発症しているヒロインの主観に沿ったものなのかどうなのか、妙な歪みが全編を覆う。

おにぎりが妙に母の味の象徴のようにものものしく描かれていて、アメリカ発祥のホットドッグチェーンの日本第一店の経営者となった息子堺雅人がホットドッグが売れないのを日本式にしたらどうかという部下の提言を拒絶したりしなかったりした後、いきなり母のを元にしたおにぎりを売り出したりする。(お値段は塩50円、具が入ると55円といった具合。タクシーの初乗り料金は160円の時代)

堺が店を開いたのが1971年という設定だからさてはと思って調べてみると、日本マクドナルド第一号が銀座に開店したのがまさに1971年。

この堺の店というのがずいぶん面妖な店で、コンビニみたいな品揃えの一方のカウンターでホットドッグを売り、続いておにぎりを置くあたりマクドナルドとコンビニをくっつけたみたい、それはまだしも、保健所に許可を取ってないというのは雑すぎやしないか。
この社長、さらに店をほっぽり出して母親にくっついて回って連絡がつかないあたり(もちろん携帯のない時代)、母親同様認知症ではないかと思ったぞ。
それをアメリカ出身らしき夫人とその父(篠原涼子と中村雅俊が時々英語を使うのがまた居心地悪い)が認めるというのもよくわからない。

初め出てきた時は子供は二人いるはずなのに時代が下ると堺雅人一人しか出てこない、後の一人はどうなったのだろうと不思議に思っていたら、突然思い出したようにいなくなった事情が描かれる。このあたりの構成もかなり変。

あちこち力の入ったロケーションの画が見られるのだけれど、全体として日本映画にありがちな、力の入れ具合を間違えた一編。
(☆☆)

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