prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

ウチとヨソ

2005年02月19日 | Weblog
日本アカデミー賞の発表があったらしい。授賞式の司会が関口宏という段階で見ないことにしているが、作品賞が「半落ち」というのに、相変わらず東映作品は組織票があるから強いなと思う。これまでの授賞歴を見ていればわかること。
他の結果を見ても、相変わらずどこかズレている。

そういえば、「誰も知らない」がアメリカのアカデミー賞外国語作品賞部門の日本代表になった時(結果、ノミネートされず)、是枝裕和監督が「外の作品」が代表になったのは79年の「泥の河」以来とおエライさんに聞かされて、「外」という意味がわからなかったという。つまり“大手”映画会社以外という意味。バカではないか。とっくの昔に製作は外部のプロダクションに任せて安全な配給だけに限っているのに。

話はとぶが、ライブドアのニッポン放送株取得について政財界から批判相次ぐという話にも、センスの古さを感じる。株を上場している以上、誰が買おうと文句を言えた立場ではないだろう。フジテレビ会長ほかが「金さえあれば何をしてもいいのか」って言ったというが、自分だって株を独占しようとしていたのに、よく言えると思う。
第一、「金さえあれば」とか「数字さえとれば」という“風潮”は今の政財界が作ったものではないのか。
独占体制にあぐらをかいて、それが当たり前だと驕っているから、たまに当たり前ではないと知らされると逆ギレしているとしか見えない。ガキっぽい。

放送事業者は外国企業の株を取得できないようにするという法案が提出されるとかいう。それを聞いて逆に今のマスコミの一枚岩を見ていると、逆に外国企業に身売りして「外の眼」が入ってきた方がいいと思った。


「北の零年」

2005年02月19日 | 映画
吉永小百合の座長芝居みたい。
他の登場人物が時代の変化によって大きく変動する中、一人だけブレずに全体の要になっているが、その分単調。
ラストでは一同をバックに御挨拶みたいな正面切った決め台詞まである。もっとも芝居と違ってカメラのレンズが寄るとさすがに苦しい。

もっとも、その他大勢の変化がキャラクターのさまざまな面を見せるという具合に必ずしもうまくつながらず、場面によってバラバラ。バックグラウンドの書き込みと膨らみがあまりないからだろうか。
食うにも事欠く状況を今の日本人の肉体で表現するのは、まず無理。

よく考えると、一つの集落とその周辺の話なのだが、このくらいの規模の方が映画ではスケール感が出るみたい。でかくしすぎると書き割りみたいになってしまうので。
オープンセットや四季に渡るロケーション等、丁寧なスタッフの仕事ぶりが見もの。故・篠田昇キャメラマンの名前がなぜかエンド・タイトルに特に職能抜きで出るが、ときどきディフュージョンや色あいなど篠田調の画面が混じる。

西洋人(踊りからしてスコットランド人)(後註・実在の人物エドウィン・ダン)は英語を喋っていて、アイヌが日本語を喋るってなんだ、しかも豊川悦司が演じるっていうのはどうも、などと思っていると実はアイヌに触れるのは避けている。実際問題として今の日本のスタッフでアイヌの生活をリアルに描くのは不可能だから安全パイなのか知らないが、アイヌが前から住んでいるという視点が完全に抜けているあたり、アメリカの西部劇でいうなら60年代以前のセンス。「零」年って、それまで蝦夷地に人がいなかったみたい。
(☆☆☆)



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