prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「さんかく窓の外側は夜」

2021年01月30日 | 映画
よくわからないタイトルだが、実際に見てもよくわからない。
原作は読んでいないのだが、主役二人のキャラ設定や世界観が霊能だか超能力だかが関係あるのはわかるのだが、それがどういう性格でどういう目的で使われるのかさっぱりわからない。

わからないまま話が勝手に進んで、ところどころ回想がちょこちょこと説明的に入り、しかも説明になってない。それで最終的にヘンな新興宗教みたいな世界が描かれるのだから、何が何やら。

解説を見ると心霊探偵の(ホームズとワトソンのつもりか)らしいけれど、何しろスジがわからない。
話の軸が何なのかも曖昧なまま。
流血描写も多いわりにあまりぱっとしない。




「なぜ君は総理大臣になれないのか」

2021年01月30日 | 映画
2003年に32歳で初出馬した時から(初当選は2005年)2020年春までの小川淳也現衆議院議員を大島渚の息子大島新監督が追ったドキュメンタリー。コロナに感染する(2020年11月17日公表)ところは入っていない。
国会質問とかツイッターでの発言見ている限り、監督が追う対象として半ば偶然のように長丁場の取材になったのもわからなくはない。

それだけ長期にわたると、6歳だった長女が12歳になって父親の活動の手伝いをするようになり、それから大学に進んでからは中だけ見ると越してきたばかりのマンションみたいな衆議院議員宿舎で同居しているといった具合に時間が経っているのがわかる。

選挙区で弱く、比例でなんとか当選していたので、当選回数の割に発言力は弱い。裏を返すと、自民党が選挙区・地元利権で強いのがつまり選挙に強いというのが炙り出される。
現在地方が疲弊するから票が離れるかというと逆で、苦しくなる分なおしがみつくことになるのだろう。

「本当の敵は世の中の空気だと感じていた」とある。空気が読めないというわけでもないのだが、妙に支持がとりつけられない方に周囲が動く巡り合わせにあるのは確か。

無所属は格好いいわねえ、とぼそっと言う。組織に属していないと国会質問もできないし、力もふるえないのだが、組織内である程度の地位につくには巡り合わせも重要になる。
前川誠二についたので初めて大きな役職につけたわけでもあるけれど、それが後年プラスになったかというと疑問。とはいえ、「政権交代したあたりが一番輝いていた」と大島監督がナレーションで言うのは当然だし、それを生かせず長さだけ史上最長の安倍政権を裏から支える格好になった旧民主党の責任は重い。
本当に旧民主党系は離合集散ばかりしているのなと思わせる。

小池百合子あたりの政界遊泳術に長けた政治家の方が強いという憂鬱な事実。

赤坂の店で安倍政権の弁護人みたいだった田崎史郎と会食しているのが意外といえば意外な図。

監督のナレーションが父親の大島渚と声も喋り方も良く似ているのがなんだか可笑しい。





「海山 たけのおと」

2021年01月29日 | 映画
ジョン・海山・ネプチューンのCDは人づてに半ば偶然のように手元にあるのだが、それを聴いていてもどういう人なのかはあまり考えたことなかった。

実は外人が尺八を吹くという目新しさ以外あまり意識しなかったのだが、素材になる竹を採って加工し、時に他の楽器を創作してしまうあたり、もっと音楽=音の始原に遡る姿勢をここで知ることになる。

子が親を撮るドキュメンタリーというのは、アルゲリッチやハスケル・ウェクスラーを対象にした「アルゲリッチ 私こそ音楽!」とか「マイ・シネマトグラファー」といったのがあるが、物理的に遠慮なく接近できる利点と、撮っている側の感情が自ずと混ざってくるものだが、これは後者は押さえ気味。





 

「デンジャーゾーン」

2021年01月28日 | 映画
2036年という近未来、東欧で独裁者が戦略核兵器を所持して使用を目論んでいるのを阻止しようとする二人の兵士の話だが、一人は大の虫を生かすためなら小の虫を殺せるタフな兵士、もう一人はアンドロイドで、一風変わったバディものにもなっている。
ただこの組み合わせがどこで対立しているのかという設定がやや曖昧。

身体が半透明になっているあたりな「エクス・マキナ」みたいだし、人間の兵士に混ざって人間型とは離れたロボット兵士が使い捨て式に戦闘に参加していたりといった世界観は、「ターミネーター」「ロポコップ」他さまざまな先行作品を真似てごっちゃにした結果、見たことあるようなないような妙な味わいが出た。

小型戦術核兵器が独裁者が本気で使うあたり、ありそうで気持ち悪い。




「れいわ一揆」

2021年01月27日 | 映画
候補者のよしとみ歩氏が選挙戦で全国を馬でまわるというのが何と言ってもユニーク。とくにユーゴンという白馬が小さいが実に美しい。
馬は道路交通法だと軽車両扱いで、車道を走るのはありなのだそうだが(実際、観光で馬車が走っていることはある)、何かというと警察やJRの職員などがケチをつけにくる。ルールを守らせるというより、ケチをつけるためにありもしないルールを口実にしている構造がよくわかる。
明治記念館近辺で演説しようとすると実質追い払われるあたりの奇妙な意味のない妨害も同断。
候補者たちが候補者らしくないアウトサイダーだらけなので、寺山修司的な異形の集団とも見える。

選挙になると妙にアガる人というのは一定数いるのだが、一種のお祭りでもあり勝負事でもあるからだな。

選挙を描いたドキュメンタリーとすると想田和弘監督の「選挙」「選挙2」があるわけだが、これは表裏一体のように新人候補が自民党による組織・資金・経験のバックアップを受けた場合と受けない場合とを描いていた。
そこでは完全に政策はキャッチフレーズにもなっていない符丁に成り下がっている。

この選挙戦はおよそその対極。何をしたいかの言葉がある。
だから逆になじみのない人はスルーするし、最初からシンパシーを持っている人はアガるという具合に二極化する。本来はその二極化自体が問題なのだが、マスメディアはむしろそれを煽る。不偏不党という口実を盾にした体制寄りなのだから当然。
だから今のメディアに取り上げられるのだったら敗北、というのは極論ともいえない。とにかくマスメディアの硬直ぶりはちょっと異常。

意味のないことをするのは暴力、というのはわかる。
国会も意味がなくなっていて、議員が居眠りしているのが当たり前になっている惨状。
それを言い出すと、学校で意味もなく退屈な時間をガマンするのも意味がないということになるだろう。

別に魅力的な候補者や政党がないから投票しないというのは、ひな鳥ではあるまいし、口をぽかっと開けて何かいいもの降って来ないかなと待っているみたいな話だ。少なくとも、ろくでもない候補者や政党に対する批判票を投じるくらいの積極性(ともいえない)やエネルギーを持たないと。

選挙活動そのものがポスター、選挙カー、街頭演説といった型にはめられていて、しかもそれが思い切りダサくて魅力がない、魅力がないから興味を引かず、投票率が低くなり、つまり組織票・固定票を持つ候補者・政党が強いという図式がずうっと続いている。

その中でも公明党=創価学会員の候補者が本来の池田大作先生の教えに今の公明党は反していると言って立候補するのは当然とも思える。
それにしても、池田先生、今どうしているのか。

ゾンビの解釈というのはピンと来なくて、ゾンビというのは無気力で生きているようでまるで生きていない日本人あるいは有権者のことではないかと思って見てた。

永遠に中間報告であり続けるような記録。
「ジョニーが凱旋するとき」が全編に流れるのが威勢がいいような、本来ついている厭戦的な歌詞の内容からしてやけっぱちのような。





「キング・オブ・シーヴズ」

2021年01月26日 | 映画
マイケル・ケイン主演で爺さまたちが大量出演しているから「ジーサンズ」風に年取っても(犯罪方面にだが)頑張るコメディかと思ったら、実話ネタということもあってか、まるで印象が違う。

端的にいってここに出てくる爺さんたち、可愛げがない。
というか、犯罪者なのだから猜疑心が強く乱暴で性格悪いのは当たり前なのだけれど、どうもスーパーあたりで店員にクレームつけてる爺さんがかぶったりして、見ていてあまり気分良くない。
普通だったら敵役にまわる警察に頑張ってもらいたいと思うくらい。

もっとも警察はやすやすと監視カメラや盗聴機を駆使して彼らの身元を洗い犯罪歴まで割り出してしまうのだから、これなら犯行自体防いだ方が良くなかったかと思わせる。

第一、ケインが犯罪計画から途中から外れてしまうのでなんだか締まらない。
ラストで出演者の過去の出演作の抜粋が出てくるのは良いけれど、役柄自体がそれらを参照しているというわけでもない。

基本的な設計で計算違いを犯しているとしか思えない。残念。




「プロジェクト・パワー」

2021年01月25日 | 映画
飲むと全身火の玉になったり「童夢」ばりの超能力を発揮できたりするようになる薬を巡って、元傭兵ジェイミー・フォックスと警官ジョセフ・ゴードン=レヴィットと売人の少女ドミニク・フィッシュバックが互いに味方になったり敵対したりしながら戦いを挑む。
薬を飲むと発揮するさまざまなパワーの描写とアイデアが見もの。

少女が黒人でラッパーを夢見ているあたりは今風だし、イメージカットがぱっと入ってくる表現もちょっと余計な気もするが目新しい。

惜しげもなく見せ場を打ち出してくるからおよそ退屈しない。
関節の取りっこに会わせてカメラが回転したり、カメラワークにも工夫が見られる。




「43年後のアイ・ラヴ・ユー」

2021年01月24日 | 映画
原題はRemenber Me。
CGアニメの邦題「リメンバー・ミー」の原題はCoco(人名)だからややこしい。

昔愛した女優がアルツハイマーで施設に入っているのを知った元劇評家が自分もアルツハイマーのふりをして入所して自分を思い出させようとする、というよく考えるとずいぶんな話。
倫理的な問題もそうだし、施設の人間がそうそう騙されるものなのかどうなのか。

オープニングタイトルでしゃれこうべを持った男の画があるので「ハムレット」なのがわかり、続いて「ロミオとジュリエット」だろう離れた男女が出てくるので、シェイクスピアが絡むなと思ったら案の定。

「冬物語」がアルツハイマーにかかった元女優の名演として再演するクライマックスは感動的だけれど、あまり馴染みがない演目なのでなぜ「冬物語」なのかよくわからなかった。





「Mank マンク」

2021年01月23日 | 映画
初めの方で、ベン・ヘクト(風と共に去りぬの最終稿をノンクレジットで書いた)、チャールズ・マッカーサー(ヘクトと共作したのが四度にわたり映画化された「フロント・ページ」)などといった脚本家たちがスタンバーグやセルズニックに向かってまだ一行も書いてないシナリオの内容をキャッチボールするようにピッチ(プレゼン)して何だかもう完成したみたいに思わせるあたり、昔の日本の具流八郎(鈴木清順、田中陽造、曽根中生ほか)、ジェームズ槇(三木ではない、三木の方がパロディーとしてペンネームにした、小津安二郎、池田忠雄ほか)などの共同作業としてのシナリオ作成を思わせる。
誰が「市民ケーン」のシナリオを書いたのかというポーリーン・ケールの「スキャンダルの祝祭」以来論争を一種無効化するようでもある。

オーソン・ウェルズはここではのちの映画作家としての監督というより、マーキュリー劇団の座長としての権力と仕切りを見せている感じ。
もともとヌーヴェル・ヴァーグで映画作家として祭り上げられたのを、映画は共同作業による創作だという持論において批判したのがケールという図になる。

映像メディアを徹底的に利用した政治権力者であるヒトラーの名前がちらっと背後に聞こえるのがこの頃がまさにメディアと政治が分かちがたく結び付いた時期なのがわかる。

メディアと政治というのが分かち難く結びつき、建前としての公平と金の力によるショーアップによる知名度による権力の合法的な権力の再生産と強化という実態の対比がひとつのモチーフになって、そのメディアの担い手のひとりであるハリウッドの脚本家であるハーマン・マンキヴィッツが、自分自身にも責任のある立場ながらドン・キホーテとして挑む、その背景にはケーンのモデルであるランドルフ・ハーストの愛人マリオン・デイヴィスに対する敬意がある。
この「マンク」「市民ケーン」そのものでは大根役者として描かれたマリオンの名誉回復の感もある。

メディアと政治は今ではこの当時とは比べ物にならないくらい発達して、トランプという鬼っ子すら産んだ。

ゲイリー・オールドマンは現在62歳だから40代のマンクを演じるのにデジタルメイクを使ったのだろうな。
マンクがアルコール依存演技(オールドマン自身依存症の治療を受けたわけだが)を照れ隠しのようにてこにした、強大な権力者に言いたいこと、言うべきことを言う長いシーンは見事。

デジタルカメラで撮られているだろうに、ところどころフィルムチェンジを示すマークが現れるのが細かい。




「大コメ騒動」

2021年01月22日 | 映画
なんだか民衆が我慢できなくて爆発する怒りの盛り上がりがいかにもヌルい。怒りを向ける相手も微妙にズレている。

怒るべきことがいくらでもあるのに何だか燻ったままでいるのが今風といえばいえるけれど、せっかくある程度自由がきく時代劇なのにそれを生かしきらず今の日本映画(映画に限らないが)の腰が引けた感じのまんまというのはもったいない。





「恋する遊園地」

2021年01月21日 | 映画
なんと遊園地の遊具に恋する女の子の話、しかも実話ダネだというからびっくり。

人間ならざるものとの恋愛話とすると人形相手のものは何本もあるが、まったくの機械、それも擬人化が入りようがないごつくてでかい(原題はJUMBO)機械相手となると、ちょっと記憶にない。

もっとも遊具だから動いたり光ったり、おびただしい油を流したり多少は生き物っぽくはあるが、むりに感情移入するようには作っていない。そのため正直、終止当惑しっぱなし。こういうことあるのかと思うし、あるかもとも思わせるのはひとつの狙いだろう。

ノエミ・メルランは「燃ゆる女の肖像」に続く主演。同じ人だとはまったく思わなかった。必ずしもエキセントリックな調子ではなく、人間の男を相手にすることもある。フェチというのとも違う。




1月20日のつぶやき

2021年01月20日 | Weblog
ジム・キャリーはブレイク前に「ダーティハリー5」に出ている。

「ジョゼと虎と魚たち」

2021年01月20日 | 映画
2003年に池脇千鶴・妻夫木聡主演、犬童一心監督で実写映画化されているけれど、身体障害者をアニメで表現すると生の肉体がない分美的に表現できる(悪く言うときれいごとになる)のと、健常者では限界のある表現にも突っ込める可能性はある。もっとも基本的には前者寄り。

劇中で使われている重要な小道具である絵と絵本がアニメだと自然に全体と一体化して生かされている。
背景などはリアルで、実写のキラキラ映画と両方から寄っている感じではあるけれど、画としてはアニメの方が魅力的。




「ザ・プロム」

2021年01月19日 | 映画
ブロードウェイで最新作がコケたミュージカルタレントのチームが、インディアナ州の同性愛にして白人黒人の女学生カップルがプロムへの出席を拒絶されているのを知ってイメージアップに利用せんと押しかける。
山田洋次の「同胞」ではあるまいし究極の上から目線なのだが、それを押し付ける皮肉を批判する視点がまだ不徹底で皮肉になりきっていない。

ミュージカルとマイノリティの問題の組み合わせは直ちにテレビシリーズ「glee」を思わせて、実際監督はあれのクリエイターであるライアン・マーフィ。ミュージカル・ナンバーは堂々たる出来で、マイノリティを排除するプロムに普通に出席できる田舎ではマジョリティの側も歌と踊りで融和するくらいは出発点として作劇しておく性格のものではないか。





「ミッション・マンガル 崖っぷちチームの火星打上げ計画」」

2021年01月18日 | 映画
インド映画ではあっても歌も踊りもない。派手なアクションもない。かといってアート系でもない。CGは高度だが、それ自体はリアリズムの範疇で使われてそれ自体を見せ場にしているわけではない。
実話ベースのサクセスストーリーという、今のハリウッド映画の一つのトレンドを取り込んだような娯楽作。

インド製のロケットで火星に到達するのにどこが画期的だったかというと、コストパフォーマンスが良かったというのがなかなか強引。
ヒロインが主婦も兼ねたロケット技術者で、家事もしながら宇宙管制センターに通うのがちょっと「ドリーム」のフェミニズムとインド式ホームドラマがごっちゃになっている感じ。「パッドマン 5億人の女性を救った男」の製作チームらしい。
この女性の節約志向と火星ロケットのコストパフォーマンスとを結びつけるというのは、結構強引。

地球などの重力を利用して衛星を加速する(減速もあり)いわゆるスイングバイはどこかで聞いた技術だと思って調べたら、はやぶさ2で使っている。かなり前の水星探査機マリナー10号が1974年2月5日に金星を用いたのが最初。
わかりやすく説明するには好都合だけれど、必ずしも特別な工夫ではなかったみたい。