prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「みじかくも美しく燃え」

2017年11月30日 | 映画
とにかく綺麗な映画、撮影に風景、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第21番第2楽章」ヴィヴァルディの「ヴァイオリン協奏曲」と。
そしてヒロインのピア・デゲルマルク。

「鏡の国の戦争」「さよならを言わないで」それから未公開の吸血鬼もの「バンパイア・ハプニング/噛みついちゃってごめんなさい」と映画出演作は四本だけ、あとテレビが一本だけで姿を消しても一部では根強く忘れられていない人。1993年にドキュメンタリーに当人として出ている。この映画の邦題そのまま(原題はエルヴィラ・マディガン=ヒロインの名前)。
とはいえ、リアルタイムでは見ていない自分も漠然と伝え聞いてはいた。で、実見するに及んで、まあ映画全体がこの人に溺れこんで引き立てるために存在しているよう。

ただ全体として音楽を含めてぶつ切れのつなぎが多くてぎくしゃくした感じがするし、綺麗すぎてときどきぐらっと眠くはなるが。

綱渡り芸人のヒロインが駆け落ちした先で芸人を募集しているので応募しに行くと、綱の上で踊れますというのに床の上で脚を見せて踊るのを要求される。どう考えても綱の上で踊る方がただ脚見せて踊るより芸としては上等なはずだが、19世紀ではドガが描くような踊り子のように半ば風俗嬢のような扱いを受けていたのを思わせる。

最高画質版で見たのだが、4K映像を見ているのかと思うような鮮明さ。




11月29日(水)のつぶやき

2017年11月30日 | Weblog

「オトトキ」

2017年11月29日 | 映画
たまたま先日見た坂本龍一のドキュメンタリーが9.11から3.11に至るショックを受け止めてどう考えや創作が変わっていったかを捉えていたのに対して、ほぼその間に重なる時期解散していた(2001年1月には活動停止して2004年に正式に解散、2016年に再結成)イエロー・モンキーはほとんどその間本当に解散していたのかと思うような変わらなさ。

ライブの最中に突然、吉井和哉が声が出なくなりうがいをしたり加湿器に口を当てたりしている間、周囲も(おそらく聴衆も)焦った顔を見せずに囲ん、そして再開するところからぱっと解散時期についての吉井のインタビューにつなぐのが示唆的。おそらく解散している間も同じようにふつうに過ごしていたのではないかと思わせる。

何度かバンドのメンバーを「家族」と呼んでいるが、あるいはツアーの様子がほとんど修学旅行のような仲のいい男子たちが騒いでいるみたいに楽しく見えたりする。

何度か監督がインタビューしているところがあるけれど、写ってはいても後ろからだったり影だったりで「市民ケーン」の新聞記者みたいにほとんど顔が写らないので主観と客観の間を揺れている不思議な印象。

冒頭の代々木の再結集ライブに集まった客に子供連れや妊娠中の女性がいるのをピックアップするのと対照するように、エンドタイトルでは解散している時期に生まれたのでおろう子供たちがイエロー・モンキーの曲を歌っているところを見せるのが、いかにも歌が受け継がれている感じを出した。

曲の大半が途中でカットされているのでもっと聞いていたい気分になるが、曲そのものを聞かせるのが第一義ではないのだろう。

オトトキ 公式ホームページ

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映画『オトトキ』 - シネマトゥデイ



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11月28日(火)のつぶやき

2017年11月29日 | Weblog

「スペースインベーダー」

2017年11月28日 | 映画
ゲームのスペースインベーダーが出たのが1978年というからもう40年近く前、この映画が公開されたのが1986年なのだから、いいかげん邦題にするには証文の出し遅れだったろう。原題はThe Invation From Marsで、1953年(日本公開は「スター・ウォーズ」のヒットにあやかって1979年)の同じ原題の「惑星アドベンチャー スペース・モンスター襲来」のリメイクだが、どちらも邦題には恵まれていない感じ。

出てくる小学校がメンジーズ小学校というのは、明らかに「惑星アドベンチャー」の監督のウィリアム・キャメロン・メンジーズからとっている。「風と共に去りぬ」の第二班監督・特殊効果担当でもある人。

インベーダーのデザインがどう見ても「Dr.スランプ」(1980~84)のニコちゃん大王というのは困ったけれど、デザインはスタン・ウィンストンという一流どころ。なんでしょ。

前半、見慣れた人たちがまったく別人のようになる、というのは「盗まれた町」('56)などとも共通する50年代の冷戦期の共産圏=洗脳の恐怖から来たものだというが、このリメイクでのトビー・フーパーの演出だと主人公の両親の顔が影に入ると直感的に人外になったのがわかる、といったあたり、何やら黒沢清監督みたい(製作時期からいって逆だが)。

ズームアウトと前進移動、あるいはその逆の組み合わせによる、大林宣彦いうところの逆ズームがただ話しているシーンで使っているのが、「ポルターガイスト」でいかにもここぞというドラマチックなシーンで使っているのと逆手なのが妙におもしろい。ら
ラストに近づくにつれて、その「ポルターガイスト」で組んだスピルバーグの「未知との遭遇」に画が似てシチュエーションが逆になる。

オスカー女優が悪ノリしているというのか、小学校の女教師役のルイーズ・フレッチャーがインベーダーに取りつかれる前から主人公の男の子(「パリ、テキサス」のカーソン・ハンター)をいじめるわ、取りつかれたらカエルを咥えるわ、しつこく追いかけてくるわ、すごい顔で喚くわ、しまいにはインベーダーに食べられるわ、もう大暴れ。

カレン・ブラックが良い女教師をやっているというのが意外。こちらが怖い役をやっても不思議ないと思うのだが。

「宇宙戦争」そのままにインベーダーを「理解」しようとしてメチャクチャなやられ方をする学者など、いくらなんでも50年代そのまんまの描き方でちょっと笑ってしまう。

製作会社がキャノン・フィルムというのが何やら懐かしい。




11月27日(月)のつぶやき

2017年11月28日 | Weblog

「マイティ・ソー バトルロイヤル」

2017年11月27日 | 映画
レッド・ツェッペリンの「移民の歌」が予告編で使われていて、前にやはり同じ「移民の歌」を予告編で使っていた「梟の城」の本編にこの曲が使われていなくてがっかりしていたものだから、ここぞというところでどーんと恰好よくかかるのに感激。こうこなくちゃいけません。
(話とぶけど、やはり篠田正浩の「悪霊島」の「レット・イット・ビー」の使用は意味不明だったなあ)。

今回はシリーズの初めの方から出ていた主要キャラクターがかなり退場して、ソーの髪型も変わって、話もラストでは新しいフェーズに入る。こういうデカい話をアメリカで扱うと聖書がかるのが定番みたい。

死の女神ヘラ役のケイト・ブランシェットがあたりを圧する貫録で、全体の構成とすると話が割れてしまってヘラがなかなかメインキャラと会わないのだけれど、その間ほとんど一人でもたせてしまう。
インド人みたいなメイクのジェフ・ゴールドブラムがまた悪ノリぎみに怪演。

ユニバース化というのか、話があとからあとから続いてそれぞれのキャラクターが別の世界観を持っているとなると、間を空けるとかなり忘れているのが困る。いちいち前のを見直して予習するわけではないもの。
(☆☆☆★★)

マイティ・ソー バトルロイヤル 公式ホームページ

映画『マイティ・ソー バトルロイヤル』 - シネマトゥデイ

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11月26日(日)のつぶやき

2017年11月27日 | Weblog

「Ryuichi Sakamoto: CODA」

2017年11月26日 | 映画
オープニングは東日本大震災で津波の被災を受けて水に漬かった、というより水に浮いていたであろうピアノのキーを坂本龍一が叩くところ。

さぞひどい音になってしまっただろう、という予想に逆らって、ちょっとプリペアドピアノのようなおもしろい響きを出しているのであれっと思うと、かなり後になって坂本龍一が良い音を出していると思いました、というのになるほどと首肯した。
音の良し悪しに階梯を作らない、という考え方には納得できる。

イエロー・マジック・オーケストラの頃(1980前後)の記録映像を見ると、かなり古めかしく見えるのだがそれが同時に最先端とみなされていたのが、同じころのさまざまな位相の時が同居した「ブレードランナー」の未来像が登場したのと同じころなのだなと思わせる。

器楽音だけでなくあらゆる物音、沈黙も含めてすべての音は音楽だという考えは必ずしももう珍しくないが、まず電子音楽で有名になった人がそちらに接近していくのは一見対局にあるようで、どこか自然ななりゆきに思える。

「シェルタリング・スカイ」のプロデューサー、ジェレミー・トーマスにいきなり呼び出されて40人のオーケストラが待っているところでスコアを書けという無茶な要求をされ、そんなのムリだというとエンニオ・モリコーネはやったぞと言われてやむなく突貫工事式に仕上げたという。
「ラスト・エンペラー」も相当な突貫スケジュールで、映画音楽というのはおおむねどこでも時間的余裕はないらしい。

タルコフスキー映画の水音が非常に好きだそうで、「惑星ソラリス」の抜粋やタルコフスキーが撮ったポラロイド写真の写真集をめくっているところ(木の葉が栞代わりにはさまっているのは「サクリファイス」のダ・ヴィンチの画集に木の葉がはさまっているシーンの引用だろう)

日米と世界、9.11と3.11がつながり、タルコフスキーが幻視していたカタストロフが現実になってきているのが坂本龍一というアーティストを介して自然に見えてくる。

Ryuichi Sakamoto: CODA 公式ホームページ

映画『Ryuichi Sakamoto: CODA』 - シネマトゥデイ

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11月25日(土)のつぶやき

2017年11月26日 | Weblog

「陽のあたる場所」

2017年11月25日 | 映画
オープニング、画面そのものの感触としてはゆったりしているけれど、驚くほど適格でスピーディーに人物紹介、状況設定を済ませてしまうのはいかにも昔のハリウッド映画。

脚本にマイケル・ウィルソンの名前がある。この映画が製作された1951年にハリウッドに吹き荒れていた赤狩りにひっかかり、この後書いた「戦場にかける橋」「アラビアのロレンス」などでは後に名誉回復するまで名前を出せなくなった。

エリザベス・テイラーの初登場シーンで割と引いたサイズで見せておき、本格的に主人公ジョージと接近するところでどんとアップになる演出の計算が確か。
当時19歳!のテイラーの、なんだか近くにいるだけで落ち着かなくなるような美しさ。

ゆったりしたオーバーラップの多用はジョージ・スティーブンス監督がよく使う技法なのだが、リズとのラブシーンがラスト近くで何度もだぶってくるのが痛烈に効いている。

ヒロインの名前がアンジェラというのは天使と意味をかけているのだろう、金持ちの令嬢なのだが純粋培養された、貧乏な青年にも偏見を持ちないイノセントな存在として描かれている感じ。
ほとんどのシーンで白い衣装を着ているのが、最後に刑務所のジョージに会いに来るところだけ黒い衣装に変わっている効果(衣装デザイン=イディス・ヘッド)。

ドライサーの原作「アメリカの悲劇」An American Tragedyはニューヨークで実際に起きた事件をもとに1925年に発表された小説だが、それにしてもここで描かれている極端な貧富の格差とそれと裏腹のような縁故主義、宗教的な抑圧の強さなど、アメリカの原型が100年近く経っても生きているのがわかる。

モンゴメリー・クリフトがゲイだということを知っていて見ると、リズとのラブシーンが不思議な感じに見える。

主人公のジョージ・イーストマンという名前は、フィルムメーカーのイーストマン・コダックの創業者と同姓同名。同社の創業は1881年だから、原作の発表よりずっと前。

  

11月24日(金)のつぶやき

2017年11月25日 | Weblog

「動物と子供たちの詩」

2017年11月24日 | 映画
冒頭のバッファローと共に子供たちが狩られる悪夢のシーンがショッキング。
1971年の作品だが、バッファローが撃ち殺されるシーンは実際に撃たれているとしか見えない。

バッファローといえばアメリカ先住民の狩りの対象でもあったわけだが、「ダンス・ウィズ・ウルブス」でも描かれたように白人たちが「娯楽」として「面白半分」に狩る対象であり、アメリカ式のマチズモ、銃至上主義の犠牲者の象徴と見える。

そしてこの手の「強者」の論理の犠牲者として問題児とされてキャンプに入れられている子供たちが主人公となる。「弱い」というより繊細であったり同情心が強かったりする共感力が強かったりするだけなのだが、それだけにアメリカでは生きにくかったりするのだろう。

ひ弱な男の子をスパルタ式に鍛え上げるというよくある安直なキャンプ、というのは未だに跋扈しているけれど(日本でも「地獄の特訓」なんて合宿を社会人相手にやっていたりする)、その本質的な品性の悪さ(教師のトランクの中がエロ本でいっぱいだったりする)、傲慢と無神経は変わらない。というか本質的に進歩と無縁、というかはっきり反動的なのがわかる。

スティーブン・キングやティム・バートンの作品で描かれるようないじめられっ子側の人間というのは案外アメリカにも多いのではないか、だから彼らが人気を博するのではないかと思ったりした。

子供たちが柵に閉じ込められて狩りの対象になっているバッファローにシンパシーを覚えるのがドラマの軸になるわけだが、それが悲劇のもとになる、つらい展開。

「ラスト・シューティスト」の原作者でもあるグレンドン・スワースアウト原作。

カーペンターズの主題歌というのはちょっと驚いたが、内容のきつさとむしろ対位法的効果が出た。



11月23日(木)のつぶやき

2017年11月24日 | Weblog

「ど根性物語 銭の踊り」

2017年11月23日 | 映画
タイトルからすると勝新太郎がど根性を元手に商売でのし上がっていく話みたいだけれど、実物はまるで違う。

冒頭、勝新のタクシー運転手がたまたま見かけたひき逃げを見逃せず客を乗せたまますごい勢いで追って行って強引に通せんぼしてとっちめる、のがやりすぎだとクビになってしまうのがいかにも勝新らしい。
それが、そのキップの良さを買われて謎の組織に拉致監禁された上で、世のため人のためにならない奴を消す仕事をしないかと誘われて「人斬り」みたいに悪賢い奴に利用されてわけもわからず殺しまくるようになるのだが、その利用する側が様式化されすぎている上に宮川一夫の撮影がいかにも凝っていて、鈴木清順の「殺しの烙印」や「野獣の青春」に近い美学的に相当にデフォルメされた殺し屋ものになる。

船越英二が拳銃を分解した上でハンマーとバーナーで跡形もないように処分するのをバカに克明に撮ったり、一瞬で回転する旋盤を止めてしまう接着剤を開発したりと、市川崑作品とすると初期の喜劇のような奇矯な味を出しているが、勝新だと暑苦しくて人工的でモダンな枠組みを壊してしまう。

市川崑のモダニズムは市川雷蔵の端正な「静」の持ち味には合うけれど、勝新とはあまり合わない感じ。