prisoner's BLOG

見た映画のメモと、ツイッターのスクラップで出来ています。

「永遠のマリア・カラス」

2003年09月30日 | 映画
劇中で撮影される設定のマリア・カラスのカルメン映画なんてあったっけ、と思ってると、その映画が封印されたというラストで、この映画全体がカラスの歌声を使ったマジックによる、贋のカラス映画であることがわかってくる。

うまいへたの問題でなくて他の人間でカラスを再現するなどできるわけがないので、ムリを意識される先に劇中映画の作り方を見せることで手品のタネを割っている感じ。オープニングでいきなりロックを鳴らして変に安っぽいタイトルの出し方をするのも、その線に沿っているのだろう。エンニオ・グルニエリの撮影にしてはいやにフラットな画調なのも。

封切りから随分になるのに整理入場させるくらい良く入っていた。エンドタイトルでカラスのアリアが流れている間、当然ながらほとんど誰も席を立たず。
(☆☆☆)


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「幸福」

2003年09月27日 | 映画
81年の映画なのだが、エド・マクベインの原作を日本で映画化する時、海外では上映しないという条件つきなのを映画祭ならいいだろうとアメリカのどこかの映画祭で上映したら、これが契約違反ということでビデオ化もテレビ放映もできないでいたのが、珍しくフィルムセンターということで上映が可能になった。

「家族ゲーム」と同じ頃なのに、驚くほどここで描かれる東京の風景は“戦後”“バブル前”のものだ。どこも全部同じようにのっぺりする前の、ひとつひとつ違う皺の寄せ方をしている街がここにある。銀残し現像で色の彩度を落とし黒をかぶせた画調が、今のプラスチックめいたきれいさに慣れた目には逆に新鮮に写る。ドラマのメインになっている親子関係の濃さも。恋愛描写の方はいかんせん違和感が強かったが。

しかし、当時はともかく、今だったら殺された女性の恋人の刑事は捜査から外すのではないかと思わせる。水谷豊とか永島敏行とか、今ベテランの域に入ってきている役者の若いのなんのって。
(☆☆☆)


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「閉ざされた森」

2003年09月24日 | 映画
作り手を含めて「羅生門」と比較している言説が多いが、両者には大きな違いがある。「羅生門」は複数の内容の異なる証言が並べられて、結局どれが真相なのかはわからないで終わる。しかしこれは、最後に真相がわかるのだ。とすると、その真相と明らかに食い違う証言を前の画面で見せているのは、作者がズルをしていたことになる。

しかもそれぞれの場面の内容のどこがどう違うのか、というのはやたら振り回されるカメラワークや暗い照明やめぐるましい編集やあまりなじみのないキャスティングと相まって、具体的によくわからない。いろいろな感想を見てみたが、一回でわかった人はまずいなかった。アクション映画調にとにかく迫力で押し切ってしまおう、という方法論で扱うのはムリなのだ。

てっきり原作のまとめ方に失敗したのだろうと思っていたら、オリジナルシナリオらしい。古めかしいことを言うが、言葉を映像に移した時のルールについて作り手も受け手も少し無頓着すぎないか。

同じ誤りを犯していた「戦火の勇気」をやはり「羅生門」と並べていた言説もあったが、「羅生門」の方法はただ回想シーンがたくさんある程度のものではない。正確に言うと内容が異なる証言を並べる方法そのものは芥川竜之介原作のものだが、映像に移した場合、画面になったものは現実に見えるという映像の性格を利用していて、本当のことがいくつもある、という図にしたという点で映画にした意義が大きい。

本当のことを言うと、元祖「羅生門」でも橋本忍の元シナリオに黒澤が追加したという4番目の回想シーンは治まりが悪い。それまでまるで回想シーンに立ち会っていなかった人物の唐突な証言という点でも、一番セコい人物動機で強引に他の三つを否定しようとしている位置づけでも。
きちんと日本語に内容を移した邦題は良心的。「羅生門」をヒントにしたかな? basicでは昔のコンピューター言語だ。
(☆☆★★★)


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「ライフ・オブ・デビッド・ゲイル」

2003年09月20日 | 映画
註・これはストーリーを一切知らないで見る必要のある映画です。
死刑廃止論者というと、リベラルで人権派で、キレイゴトばかりというイメージだが、ここではその“運動”としての政治性や一種の退廃に踏み込んでいる。
「ミシシッピー・バーニング」の監督でもあるし、死刑肯定(というより推進)論者のゴリゴリの保守ぶりを描いているのかと思うと、フォード型トラックに乗ってテンガロンハットをかぶっている典型的プア・ホワイトのような“カウボーイ”の正体が明かされるにつれ、その憎悪、というか歪んだ感情が思わぬところに逆転してしまう展開の巧みさ(脚本 チャールズ・ランドルフ)。

本当のテーマは死刑の是非というよりキリスト教的な“犠牲(サクリファイス)”の方ではないか、とラストで思わせる。なぜケビン・スペイシーを使ったか、という意図も含めて。

顔にビニール袋をかぶって死んでいる人間の像は何かフランシス・ベーコンの絵のよう。
(☆☆☆★★★)


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「ワイルド・スピードX2」

2003年09月19日 | 映画
初めの方で車道を外れた車がPEPSIの看板に突っ込むのだが、看板は壊れず運転手もケガもしない。タイアップに加えて、不自然なくらい人がケガしたり死んだりしないようにして良識派の批判をかわす、各方面に気を配った作りということか。

これではカーアクションといってもちっとも危険性を感じない。エンドタイトルで流れるCGで作ったのと大して変わらないということになる。ジョン・シングルトンといったら前は「ボーイズ' ン・ザ・フッド」では黒人である出自を生かした映画も作り、「シャフト」まではその尻尾もついていたが、ここでは完全にマニュアル通りの仕事ぶり。ひたすら車の走りを見せて、バカみたいに単純なストーリーもあちこちつながらない。

ネズミを仰向けにした人の腹に置いた上にバケツをかぶせて火で炙り、熱から逃げようとするネズミが腹を食い破ろうとする、という昔の中国でやっていた拷問が唐突に出てくる。どこにネズミを飼ってたんだ、と思わせるし、食い破るまでやれるわけもないからスゴ味なし。

警官隊の隊長が見覚えのある顔だな、と思ったら「48時間」で凶悪犯をやってたジェームズ・レマー。
(☆☆★★)


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「ゲロッパ!」

2003年09月15日 | 映画
ジェームズ・ブラウンがどの程度日本人になじみがあるか疑問だし、当人を出さないでJ・B映画を作らなくてはいけないというハードルは高くて(第一現役の人だものね)、ニセJ・Bを出すくらいでは、「抱きしめたい」でビートルズを“出演”させたり、「グレイスランド」で全然似ていないハーヴェイ・カイテルをあえてプレスリーに仕立てたりといったワザが不足。

もともとストーリーテリングには興味ないらしく、ニセJ・Bがいなくなったり、また戻って来たりといった状況がまともに描かれない。その代わりというか、もともとこの監督の得意技だが、大勢の人間がそれぞれ沸き立ってくるように勝手に動く小芝居は見もの。美人という以外の印象のなかった常盤貴子の肝っ玉母さん(古いな)ぶりなど役者は全員生きている。

西洋式群像劇で多彩な人間が交錯するのとも違う、もっと人間関係が煮詰まった感じで、締めの“ファミリー”の一言が効いている。「ゴッドファーザー」の“ファミリー”と似た意味で使っているのだろう。
(☆☆☆)


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「天使の牙 B.T.A」

2003年09月13日 | 映画
人間の脳を移植したり放射性物質を犯罪組織が扱ったりと、実際には結構ありうるかもしれないことが、どこか見ていて(本当かなあ)と思わせてしまう。日本映画のハンデかもしれない。 ハードな寒色に統一された画調はかなり魅力的(銀残し現像か、デジタル処理か)。弾着効果や血の色などは、ずいぶん進歩したもの。

後半に入るに従い、ストーリーが未整理なのが蓄積してくる。ラストなどいかにも続編を作りたそう(また!)だが、単純に悪の巨魁が逃げましたでいいじゃない。それに身替わりがいたの、その身替わりは最初に出てきた誰それだの(黒焦げになっているから、わかりゃしない)不必要に混乱する。

ストーリーのポイントになる、大沢たかおが誰を撃ったのか、というフラッシュバックが後でウソでしたという絵解きが前と後で画が違うというのはアンフェア。なまじCGで弾道を見せたのが裏目に出た。エンド・タイトルから後、何度も悪夢(?)が繰り返されるのも意味不明。
(☆☆★)


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「藍色夏恋」

2003年09月11日 | 映画
こういうもどかしい青春恋愛ものは、見ていてちと照れくさい。今の台湾の高校生がどの程度ススんでいるのか知らないが、特に理由がないのになかなか進展がなく、同性愛が持ち込まれているが、それほど突っ込んでは描いていない。84分と最近の映画で一番短いが、繰り返しが多いせいもあって短くは感じない。
話がどうこうというのではないので、主演の手垢のついていない感じや、端正な映像、演出タッチが魅力になる。

恋する相手の名前をノートに何度も何度も書いていたのが、失恋すると「木村拓哉」と繰り返して書くようになるのにびっくり。
日本で写真を撮るのに“チーズ”と言うように、台湾では“A、B…C(しーっ)”というのを知る。
(☆☆☆★★)


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「呪怨2」

2003年09月09日 | 映画
ビデオ版は1・2ともに見て、初めは怖かったが、基本的に同じことの繰り返しだから終わりの方はだれてきたもので、劇場版の1作目は見逃した。口コミがきいたらしいが、伝染するから怖いのか、怖いから伝染するのか。で、今回も祟りで人が死んで、その人がまた祟るという同じことの繰り返しで、ラストは無理にオチをつけている感じ。

いかにもなホラーシーンより、シーンが変わると時間が遡って死んだ人間がまだ生きて動いている(映画の人物というのが死んでも何度でも蘇ってくる、一種の幽霊みたいなものであることがわかる)なんでもないシーンや、惨劇前の情景を現在の人物のバックで再現してみせるトランジション・ショットなど、映画的な組み立てで怖がらせるところが効いている。

ハリウッドでリメークするっていうけど、変に筋を通してしまうとつまらなくなりそうで、不安。理不尽に祟るから怖いのだから。あまり製作費がかかっていなさそうで、ところどころカメラを積んだ車の影が写ってしまったりといったあらが見えるが、そういうあらがなくなれば面白くなるというものでもないだろう。ただ、小道具のスクラップ帳に貼られている新聞記事がいやに新しかったり、事故で怪我した酒井法子が真夜中に病院から帰される(頭にも怪我しているのだし、ふつう朝まで泊めて脳波診るぞ)といった荒っぽさは気になる。それにしても“伽耶子”っていう朝鮮系みたいな名前は誤解を招くのではないか?
音響の貢献度大。DTSしか使っていなかったが。意外なことに場内がらがら。

(あとでWOWOWで1作目を見たが、どっちを先にしてもあまり変わりなかった。呪いが伝染していって人が死ぬパターンの繰りかえしには変わりないのだから。3以降の「13日の金曜日」みたいなもの。プロットの発展とか論理性とかまったくなくて、ラストがむりやりなのも一緒)
(☆☆☆)


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「ファム・ファタール」

2003年09月08日 | 映画
支離滅裂。

(☆☆)


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「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」

2003年09月06日 | 映画
原題は「マイ・ビッグ・ファット・グリーク・ウェディング」。この省略されたgreek(ギリシャの)が大きい。何かというとギリシャ語ギリシャ文化を誇り家長面している割に完全にかみさんの尻に敷かれている父親、学校の一クラスほどの人数でのべつ押しかけてくる親戚たちなど、とにかくギリシャ色一色。

そこでヒロインがギリシャ系でない相手と結婚するまでになるのだが、これといった障害がないのが珍しい。キャリアを身につけるのも容貌をぱっとしたものに変えるのも仕事を軌道に乗せるのも恋人を作るのも結婚するのにも、ふつうのアメリカ映画だったら、人種の違いとか父親の頑固さとか、障害物をいろいろ設定してそれを突破していく工夫でひっぱっていくのだが、ここではヒロインにふつう考えられる以上の努力をムリにさせていない。

二人が結婚するまでの話というより、一族が大きくなる話という感じで、ファットというのはヒロインが太っているというより、一族の繁栄のことを現わしているのかと思わせる。善意の人たちばかりなのは珍しくないが、すごく押し付けがましい割に、それが気にならないのは珍しい。

結婚相手の人種が何系なのかよくわからない。イアン・ミラーという名からアイルランドかなとも思うが、それらしい、よくある親戚が多いといった描写はない。(ヨーロッパの)言葉はすべてギリシャ起原だとしきりと言う父親の口癖からして、どれでもいいということか。
(☆☆☆★)


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「アダプテーション」

2003年09月02日 | 映画
「マルコビッチの穴」の「7 1/2階」の元である、フェリーニ(ちゃんと台詞に出てくる)の「8 1/2」ばりに、監督ならぬ脚本家の創作をあっちこっちに飛躍を重ねて描く。原作の取材過程まで入ってくるのだが、この「蘭に魅せられた男」なる原作、実在するのかと疑った(調べたら、実在してます)。

何しろ脚本のクレジットが「チャーリー・カウフマン&ドナルド・カウフマン」で、主人公が同じ名前の二人、それをニコラス・ケイジが一人二役で演じる、つまり後者は実在しないのだから。「マルコビッチの穴」と同様、実在の人物を色々なレベルの虚構の設定に入れてしまいシャッフルする手。生物の発生にまで話がいってしまうのだが、一つの世界を作ってしまうという点では作家が神様気分にまでいっても実はおかしくない。

しかし、そういう人を煙に巻く色々な手を剥ぎ取って見ると、愚直なくらい正直な告白という感じ。ニ役のうちチャーリーが芸術派なのに対し、ドナルドの方が笑ってしまうくらい俗悪なホラーの作家(しかもいとも安直に書き上げてしまう)で、「ギョーカイ」と訳してあった台詞は“industry”と言っていたのが今のハリウッド製品にはぴったりで、初め前者の悩みに焦点を合わせているのかと思うと、ラストの方でそのホラーの内容ばりの展開になってしまい、ドナルドもそれまでの見かけとは違う真面目な地を出す。物書く人間がノーテンキ一本なんてことあるか、と思っていたから意外ではなかったが。

要するにニ分法は一種の方便で、どっちが上とか下とか決めず(決められず)、ああでもないこうでもないという過程そのものを見せ物にしようとしているということだろう。

ケイジのニ役の合成はよくできているのが当たり前になっていて、二人の役者の共演と同じ感覚で見ていた。画でびっくりさせようとしないのは、CM出身という色眼鏡で見られるのを拒絶している感じの監督の腕。

メリル・ストリープはラスト近くのホラー的展開になると、「永遠に美しく」もそうだったがひどく酷薄な(それもB級的な愛嬌のない)感じになる。
(☆☆☆★)


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