prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

2010年2月に読んだ本

2010年02月28日 | 
prisoner's books
2010年02月
アイテム数:15
セブン‐イレブンの正体
古川 琢也,金曜日取材班
02月14日
作曲家の発想術
青島 広志
02月27日{book[' rank' ]
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「戦場のレクイエム」

2010年02月28日 | 映画
「プライベート・ライアン」ばりの銃弾で手首が吹っ飛び、爆弾で身体がこなごなになる戦闘シーンが凄絶。
「…ライアン」の近くで爆発があって一時的に耳が聞こえなくなる悪夢的表現も取り入れているが、それが集合ラッパが聞こえたか聞こえなかったか、撤退するかしないか、そして部隊が全滅しないですんだか否かというドラマの要に結びついているのがうまい。

国民党軍対共産党軍との戦いを扱った初めての中国映画という触れ込みだったが、実際のところ国民党軍はまったく人格のない「敵」とだけ描かれていて、同じ国(?)の人間同士が戦っているという感じはない。途中から朝鮮戦争にも参加することになるが、「敵」として姿を現すのはアメリカ軍で、韓国軍ではないあたり、各方面に気を配っている感じ。

一人だけ生き残った者の死んでいった仲間に対する贖罪感というのは、日本兵の生き残りにも見られる心情のように思う。
名誉回復を求める相手が国家(この場合はイコール共産党)なのは他にありえないとして、どこかひっかかる。こっちは戦後民主主義教育がしみついているせいか、国家とは国民に殺しを命じて国民を殺す存在という認識で見るからだ。

前半戦闘シーンの連続で、後半「平和」になっても主人公がなかなか身分を証明できず居場所を見つけられないで放浪する姿を追う構成は、なんだか先細りになるような印象を与える。本当は戦闘シーンをクライマックスに置く「楽しみ」にしてはいけないのだが。
(☆☆☆★)


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戦場のレクイエム - goo 映画

「ゴールデンスランバー」

2010年02月27日 | 映画
巻き込まれ型サスペンスとするとずいぶんと穴の多い出来。人目のあるところで、抵抗する素振りもない堺雅人にいきなり警官が発砲するところでもうひっかかって、後は将棋倒しに乗れなくなってしまう。
警察が陰謀を巡らすとして、ああ雑なことするか。外部の犯罪者を使ったりして、自分でそうそう手は汚さないだろう。

それから警察その他の連中(みんなやたら強面の芝居)が反撃されて凹んだりダメージを受けたりするわけではないから、およそスッキリしない。第一、首相の暗殺を防げなかったら、県警のトップの首がとぶぞ、確実に。ディテールが雑すぎ。
柄本明の元犯罪者らしき入院患者がなぜか味方するのも調子がいい。

やたら大学時代の回想がはさまって展開にブレーキがかかるのにイライラして見ていたのだが、どうもサスペンスとして見てはいけないみたいで、大学時代の仲間がまた集まって、一花咲かせる(花火を打ち上げるのがクライマックス)話として見るべきらしい。それにしても、サスペンスの作り方がこう甘くていいとは思えない。

原作読んでないせいか、ビートルズの「ゴールデンスランバー」がよく権利を取れたでしょうと言わんばかりに得意気に流れる意味がわからず。
(☆☆★★★)


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ゴールデンスランバー - goo 映画

「美しい人」

2010年02月26日 | 映画

すべてワンシーンワンカットで収めた九つのエピソードから成り立つ一種のオムニバス。ただし、特にオチはなく、お話映画にはなっていない。初めもなければ終わりもない人生の断片を切り取ってきて、その描かれていない部分の余白を想像させるような作り。描いている部分はまったく省略なしなわけで、そのリアリティを埋める役者たちがみんなうまい。

しかし、昔に比べてカメラが自由に動きまわれるようになった分、ワンシーンワンカットといっても良くも悪くも軽い感じになった。

「プリズンブレイク」のマホーンことウィリアム・フィクナーが聾唖者役で出ているのに、ちょっとびっくり。ほか、シシー・スペイセクやジョー・マンテーニャ、ロビン・ライト・ペン、ホリー・ハンターなど、あれと思うような人が出ている。こういうスターの配役序列にこだわらないみたいなキャスティングの映画、あちらの役者さんたちは結構よく出ますね。イメージに縛られないで芝居をみっちりできるからか。
(☆☆☆★)


「抱擁のかけら」

2010年02月24日 | 映画
大金持ちが妻を女優に仕立てた上、わざとその出演作の出来をおとしめて他の人間の目にふれないよう「独占」するというモチーフには、「市民ケーン」が匂う。金持ちの死から遡りカットバックを組み合わせていきさつを物語る構成も。

金持ちの息子がいつも回しているカメラの三脚を使って争う姿をそのカメラの記録映像として描いたショットは「血を吸うカメラ」Peeping Tomみたいだなと思っていたら、果たせるかなその息子がPeeping Tomと呼ばれるところがちゃんとある。字幕では「覗き魔」と訳されていたが。

盲目の元映画監督という設定は、いずれにしても周囲に支えられないとやっていられないという意味かとも思える。

話の意外性が、今ひとつとってつけたよう。
(☆☆☆★)


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抱擁のかけら - goo 映画

「映画の巨人 ジョン・フォード」

2010年02月23日 | 映画
監督のピーター・ボクダノヴィッチが1971年に一度作ったフォードに関するドキュメンタリーに、最近(といっても、完成したのが2006年)スピルバーグやイーストウッドなどに対して行ったインタビューを加えて構成しているもので、時間軸がごっちゃになってフォードやジョン・ウェイン、ジェームス・スチュワートが最近の人みたいに見える。

ボクダノヴィッチはもともと映画評論家出身で、自分が見てきた好きな映画をあからさまに引用する監督のはしりだけれど、愛着が強すぎるのか、フォード作品の抜粋がいささか長すぎ。

フォードの時代はスタジオ・システムががっちりしていて正面きって戦ったら決して勝てないので、お偉方が編集でいじれないようにワン・テイクで済ませたという。イーストウッドは自分で編集権を持っているだろうに、ワンテイク主義という点では一緒。

「黄色いリボン」の稲光が見えるシーンは、実際に嵐が来たのを捕まえたものだという。
Ford's luckという言葉があるくらいで、「わが谷は緑なりき」の結婚式でのモーリーン・オハラのケープがふわっときれいに浮かぶのまで偶然だと思われたのだが、冗談ではない、送風機で風を送ったんだとオハラがインタビューでちょっと怒ったみたいに語る。

「馬上の二人」でスチュワートとリチャード・ウィドマークの川岸の長いツーショットを撮るのに、フォードが二人にそっと相手はいい役者(good country actor)だぞと誉めてあおったという。

衛星映画劇場 アカデミー受賞作品特集「映画の巨人 ジョン・フォード」
チャンネル :BS2
放送日 :2010年 2月18日(木)
放送時間 :午後1:00~午後2:52(112分)
ジャンル :映画>洋画
番組HP: http://www.nhk.or.jp/bs/genre/movie.html

                      <字幕スーパー>
                   <スタンダードサイズ>
                              
                          【出演】
                      ジョン・フォード
                   マーティン・スコセッシ
                 スティーブン・スピルバーグ
                              
  ~2006年 アメリカ ケネディ/マーシャル・プロ制作~
                              
                              
【プロデューサー】ジェームズ・R・シルケ          
         ジョージ・スティーブンス・ジュニア    
【ディレクター】ピーター・ボグダノヴィッチ         
【撮影】ラズロ・コバックス                 
    エリック・シャーマン                
    ほか                        
【編集】リチャード・パターソン               
【ナレーター】オーソン・ウェルズ              
【原題】DIRECTED BY JOHN FORD    

「サロゲート」

2010年02月22日 | 映画
偶然なのだろうけれど、「アバター」にモチーフが似てますね。人間とは別のもうひとつの肉体(この場合は精巧なロボット)が作り出されて、代わって危険だったり行きたくなかったりする世界に派遣されるというあたり。
実物と同じ見かけである必要はないわけで、ネカマ(←死語)みたいに実物は爺さんでもサロゲートは若い美女ということもできる。

もっとも、案外こういうアルターエゴのモチーフは昔からあったし映画では若いときと年食ったときを別々の役者がやったりするのが常態でもあるので、いろいろと今風の意匠をまとっているけれど、モラルとしては案外と古風な「本物」の「自分」肯定でまとめている。

ブルース・ウィリスが「ダイ・ハード」一作目のハイテクと無縁のアナログ人間のイメージを再現している。
(☆☆☆)


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「アバター」

2010年02月20日 | 映画
前半の惑星パンドラの造形は、ラピュタのごとく浮かんだ島や、風の谷のナウシカやもののけ姫のような森の生き物たちとの共生などあまりに宮崎駿色が濃いのに驚くが、次々と現れる斬新な生態系の描写は技術的にも造形的にも圧倒されっぱなし。

人格がひとつで体が二つある、文字通り二つに引き裂かれたキャラクターがどう発展するのかと期待した。ナヴィ族と地球人、共生と開発、平和と戦争がどう対立してどんな決着がつくか。
ところがいったんナヴィ族が森を焼き払われたあと、女性海兵隊員が突然これといった理由なく味方についてしまい、さらに重火器で武装した海兵隊に弓矢で突撃するのだから、どんな策があるのかと思ったら何もない。それでもなんとなく勝ってしまうのだね。ハリウッドの法則が最後に出てきてしまうのはミヤザキとは違うところ。

そうなると主人公のジェイクは、アバターとしての体が死んでも地球人としては生きていられるのだから、二律背反そのものに甘いところがあるのが目についてくる。

ふだん裸眼で映画見るときだけメガネかけるもので、いきなり二重のメガネになるから落差が激しくて疲れた。ときどきならともかく、映画がぜんぶ3Dにでもなられたらかなわんな。

それとちょっと驚くのは、このナヴィの生態を描くあたりに「癒される」って意見が多いこと。CG製の森に、ですか? 「タイタニック」のロマンス描写に本気でうっとりしてたのが多かったり、今の世の中よくわからん。感動も大量生産・管理制なのだね。
(☆☆☆★★)


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「パラノーマル・アクティビティ」

2010年02月19日 | 映画
アメリカで当たったのは作品の内実とは別のメディア内部の噂の自己増殖による、つまりいかにもまぐれで当たりましたと受け取られがちだけれど、単なる思わせぶりやミニマムな作りによる単調さとそれに反するような強引な展開など欠点も多いが、意外なくらい計算が立った作り。
ただし「作品」として完成させないことで心霊現象の生っぽさがうまく出た。

フェイク・ドキュメンタリーなのだが、カメラの持つ権力性というか、男がカメラをずうっと向けることによって女に対する立場が相対的に強権化してきて無神経に押し付けがましくなり、だんだん関係が変になっていくプロセスがよく見ると細かく描きこまれている。
二人で撮った写真のうち男の分にだけ傷がつけられているといったディテールも、同じモチーフ上にあるようでもあり、またお話がわかりすぎて白けない範囲に収めている。

「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」みたいにずうっと手持ちカメラでリアリティを出すばかりでなく、定点観測みたいに人が操作せずに置きっぱなしになったカメラに誰も知らないまま妙なものが写ってしまう、巧まぬようで実は巧んでいる演出。
派手な見世物にしないで光の点滅や物音だけで怖がらせる演出は、はっきり「ほん怖」以来のJホラーを受け継いでいる。

定点カメラに夢遊病みたいにベッドから抜け出て突っ立っている女が寝ている男をじいっと見下ろしているのが不気味。体が変にカクカクしていると思うと、ただ早送りしているだけなのだがこれが効果的。

怖そうな場面になると低周波が鳴るのは、当たってから手直しした分だろう。
(☆☆☆)


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(500)日のサマー

2010年02月18日 | 映画
気分がいいときにはサマーのさまざまな部分が全部魅力的に見えたのが、悪いとまったく同じものが全部不愉快に見えてくるあたりが傑作。

時間軸が行きつ戻りつする作りなのだが、ふつうに順を追って描いていったらいい感じになったり醒めてしまったりするのにいちいち理由づけが入るところを、幸せな日だと最初からすべてが祝福されていたみたいに感じ、落ち込んだ日には初めからすべてが合わなかったのだと思ってしまう、理由があって幸せに感じたり不幸せに感じたりするのではなく、感じ方によって出来事が理由づけられてしまう構造をうまくつかんでいる。
時間があってその上を人間が通っていくのではなく、人間があってその情動に応じて来し方行き方のありようが決められる。おおげさにいえばハイデガーみたい。

トムが一人で見に行く芸術映画の天使が中世の騎士とチェスをするという場面は、もちろんイングマル・ベルイマンの「第七の封印」の冒頭の死神と騎士が生死を賭してチェスをするシーンのパロディ。「第七の封印」では、騎士が「生」の意味を探してまわって結局見つからないのだけれど、天使が相手ということはその裏返しなのか。

「あらかじめ断っておくが、これはラブストーリーではない」、といきなりナレーションがカマす。客観的なナレーションはもっぱらサマーの方に添えられていて、トムの方はスルーしている。
トムの方は恋人同士になったつもりでも、サマーの方がどうもさめていて友だちのつもりでいる。二人の関係は対称ではなく、出来事は基本的にトムの方から綴られ、サマーはどうも何考えているのかわからず、トムを 傷つけ、すれ違う。一段上の存在という感じもする。

一番ドツボにはまった状態だと、時が死ぬほどのったりのったりしてくるのを日付のカウントを一日ごとからさらに半日あとと、刻みを細かくしていくことで表現するなど才気走った表現。
(☆☆☆★★)


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「パニッシャー:ウォー・ゾーン」

2010年02月17日 | 映画

とにかく派手な銃撃戦と銃弾と爆弾でふっとぶ人体が見たくて借りたら、どんぴしゃり。
メイキングを見たら監督が若い美女なのにびっくり。製作がジェイムズ・キャメロンの元妻ゲイル・アン・ハードなのに納得する。
カラーの使い方が「サスペリア」みたいにど派手で面白い。

原作は読んでいないし、前に二度映画化されていた(ひとつは主演がドルフ・ラングレン ぷぷっ)のは両方とも途中でやめてしまったせいか、設定がさっぱりわからないけれど、別に気にならない。
(☆☆☆★)

「 ノット・クワイト・ハリウッド」Not Quite Hollywood

2010年02月16日 | 映画


1970年代オーストラリア映画のムチャクチャな製作現場の証言と実物の映画の断片を威勢のいいモンタージュで綴る。

さすが元流刑地というか、実弾の入った銃をぶっ放したり、ほとんど本物の交通事故現場を撮影したようなアクションシーン、というのは話としては愉快で、映画だけ見ていればすごいか知らないけれど、本当に死んでいる人間が出ていたりするのだからシャレにならない。そのあたり、解説役のタランティーノが無自覚なのがひっかかる。

やたらと粗製濫造された理由にはオーストラリア政府の税制措置のせいがあるというが、80年頃、カナダでも自国の映画産業育成のため投資を導く税制を導入したことがあって、最近リメークされた「プロムナイト」「血のバレンタイン」のほか、一連のクローネンバーグ作品や「テラー・トレイン」「チェンジリング」(イーストウッド作とは別、ジョージ・C・スコット主演の秀作)などのホラーのほか、「パワープレイ」「サイレント・パートナー」などずいぶん作られたが、ホラーでもお国柄なのかどこかクールな感触で全然感じが違うのが面白い。質も割と高い。
ロジャー・スポティスウッドやカーティス・ハンソンやピーター・メダックなどかなり有能な監督も輩出している。

「インビクタス/負けざる者たち」

2010年02月15日 | 映画
イーストウッドとしては驚くほどストレートな感動作。
「素直に」感動できるという意味でもあるけれど、スポーツものだと「ロッキー」が典型だがたいていはとても勝てそうもない相手に追い詰められるいわゆるロウ・ポイントがあるのだが、それがない。いけいけドンドンで押し切ってしまう。

本当のロウ・ポイントはアパルトヘイトそのものということになるのだろうけれど、南アの人種対立を具体的に表す描写が少なく、マンデラ大統領のこれまでの軌跡の知名度や観客の知識に頼っている感もあって、具体的な描写としては本来イーストウッドが得意としていた陰影の部分が案外乏しい。あくまで相手を許さない人間は、黒人白人ともにいくらもいるはず。
ラグビー・シーンの重量感はすごい。

決勝で当たるニュージーランドの主力選手は容貌からして明らかに先住民族マオリの出で、試合前にマオリの戦いの踊り(ハカ)をやるが、もともとラグビーの試合でやるようになってから一般に知られるようになったそう。

今やっているバンクーバー・オリンピックも開会式では先住民を立てた演出をしていましたな。北京でも(偽者だったが)そうだったし。
さてどの程度、「現実」に人種・民族間の「融和」にスポーツがどこまで貢献できるのか、正直スポーツに興味のない人間としては、心もとなく思う。スポーツで認められるのは、よっぽど素質に恵まれた人間だけなのだから。
(☆☆☆★★)

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「おとうと」

2010年02月14日 | 映画
人が出入りするのに戸や扉をきちっと閉めないで少し開いたままにしているシーンが割りと目立つ、と思ってたら、加瀬亮がいったん戸を開けっ放しにして店から飛び出してまた戻ってくる重要なシーンで、戸の開けたてが決定的にものをいうようになっている。
島津保次郎監督の「兄とその妹」(1939年 松竹)という映画で、戸の開けたてを多用して人物の動きを一種様式的に仕立てた演出があったというが、どの程度関係あるのか。

姉が標準語で、弟が関西弁なのはなぜなのだろう、鶴瓶の標準語というのは考えにくいが、どの程度の期間この姉弟は一緒に育ったのかなとも考えたくなる。「東京物語」の家族は広島弁と標準語と関西弁と、いろいろ混ざっていた。

山田洋次は寅さんの最期についてどこかで野たれ死にするという案を出していたけれど、「母べえ」で鶴瓶はおじさん役でそれを実践し、今回はその延長をやっていると言っていいだろう。

日本映画の伝統と自分の作品の系譜の両方について、こだわり抜いている感。
(☆☆☆★★★)


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「ラブリーボーン」

2010年02月13日 | 映画
殺された少女があの世と現世の間を行き来する特殊効果満載のシーンと、残された家族の苦しみと、殺人犯の描写とがかわるがわる描かれるのだけれど、あまりぴたっと噛み合っていない。

霊能力がある少女の存在がそれぞれの世界の仲介役になるのかと思うとそういうわけでもないので、ほとんどクライマックスまで少女が現世の人間と交わる描写がなく(しかも家族に姿を見られないというのはどんなものか)幽霊になって現れて犯人逮捕に協力するわけではなし、とにかくストーリーが進まない割にひとつひとつのシーンでしつこくカットバックしているので、どうもテンポがよくない。

主役のシアーシャ・ローナンは「つぐない」とはうって変わって可憐なところを見せる。犯人役のスタンリー・トゥッチは「ジュリー&ジュリア」のメリル・ストリープの夫役や、ハリウッド版「Shall We Dance?」の竹中直人に当たる役とは同一人物とは思えないくらいの化けっぷり。エンドタイトル見るまで誰だかわからなかったくらい。
(☆☆☆)
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