prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「星の子」

2020年10月31日 | 映画
両親役が永瀬正敏と原田知世というキャスティングは、いかにもな狂信者というイメージから離れる狙いだろうが、水を売っているのがどんな「教団」なのか漠然としていて、本部の建物などずいぶん豪勢だが、両親が“特別な”水を買うのにどの程度経済的な負担を負っているのか、という重要なあたりはボカしてある。
高良健吾や黒木華といった人が入信しているあたりも、イメージアップ戦略を先取りしているみたい。

本来「まとも」な世界の代表であるべき学校の岡田将生のイケメン先生の性格のサイテーぶり(下手すると職を失うからああいう態度をとるのもわからないではないが)がコントラストをなす。

おじさんが強引なやり方で宇宙のパワーを込めた水の効能を否定したら逆効果になる、というあたりはいかにもありそう。

芦田愛菜がああいう親を持ってイノセントなままでいられるかどうか、正直危ないと思うのだが。
良くも悪くもカルトの子という扱いにしていない。




「ザ・ファイブ・ブラッズ」

2020年10月30日 | 映画
金塊を手に入れる回想シーンでチャズウィック・ボーズマンが若い姿で出てきて、仲間が現在の年取った姿のままで出てくる不思議さ。
なんだか「野いちご」「令嬢ジュリー」の一つ画面に違う時制の人物が同居している技法を思わせたりする。

一番若いボーズマンがすでにあろうことか故人になっているというのも、何か時間感覚を混乱させる。

ジョン・ウーが香港から戦時下のベトナムに向かう三人の青年の友情の破綻を描く「ワイルド・ブリット」でも金塊をめぐって殺し合いになるが、今回も基本は近い。
というか、オリジンはジョン・ヒューストンの「黄金」だろう。
しかしブラザー同士の関係はやや変わってくる。

経済的徴兵制というか、貧困層の若い男は軍隊に行くのが就職代わりという力学から,おのずと軍隊の黒人の割は大きくなるというシステムができているのを改めて示すのがスパイク・リーらしい。

ボートで川を遡っていくシーンに「ワルキューレの騎行」がかかるのはもちろん「地獄の黙示録」のパロディだし、「ランボー 怒りの脱出」でネタにされたMIA(Missing In Action=戦闘中行方不明)などいやしなかったと批判するセリフをちゃんと入れてくる(ランボー2公開時にもそういう批判はあったが無視された)。
「ブラッククランズマン」での「国民の創成」同様、映画も歴史の一部であって、糺されるものは糺されなくてはいけないという姿勢を見せる。





「スパイの妻」

2020年10月29日 | 映画
オープニングで太ったイギリス人が登場するところで、「CURE」の冒頭の太った医者を思い出した。

闇の中を光が射すときは不吉の徴、というのがここでの法則となるだろう。
劇中映画で転がる懐中電灯、不安な展開に従って夫婦の顔にさす光の束、木箱に穿たれる空気穴から射す光、そして何より劇中で映写される映画そのもの。

「CURE」での、あるいは「リング」をはじめとする数々の呪われた映像と共鳴する不吉さだ。
ただしそれはあからさまな霊の類いの呪いではなく時代そのものの歪みに向かうが、しかし社会派的な構図にも収まりきらない。

黒沢映画でバスが登場する時はたいてい外が作り物めいて、バスが走っているというか空を飛んでいるような奇妙な感じになるのだが、ここでは外は光で塗りつぶされて具体物は見えない。
NHKのドラマでは外を光で満たすという処理をよくするから、その延長上ではあるのだろうが、その光が映画の上映に備えて窓で遮られる時から、改めてビームとなって光が差し込む凶兆が予告される。

決定的な凶兆が迫るとき、再び「CURE」に現れた、遠くから予感のように伝わってくる震動に共鳴するコップとそこに突っ込まれた器具が現れ、それはタルコフスキーの「ストーカー」の列車の震動にも遥かに共鳴するだろう。

港を描くのに、初めは船も見えない(エンドタイトルを見ると氷川丸を使ったか、今の空港で出発ロビーからは飛行機が見えないのに近い)、船がやっと写ったかと思うと海が見えない、しかもわざわざ絵に描かれた船が代わりに写されるといった具合に描写に奇妙な歪みが導入されている。
そして海を往く船が堂々と写される時の、なんという皮肉で残酷な状況。

冒頭から隊列を組んだ兵士たちが再三登場し、文字通り軍靴の響きを聞かせるわけだが、これがどこか整列ぶりが微妙に乱れていたり、ワンカットの中でたびたび方向転換するので、全体主義の象徴でいながら奇妙に調子が外れている。

蒼井優がはっとなったりする時に、しばしば手を口にやる。今ではあまり見られなくなった昔の女性らしい仕草だろう。

高橋一生の、当人は振る舞いを変えていないのに状況の変化によってさまざまに見えかたがまるで変わってくるありよう。

東出昌大がやたら背が高いのがしばしば人間離れして見えるのが「散歩する侵略者」と共鳴している。




「マグダラのマリア」

2020年10月28日 | 映画
「マグダレンの祈り」という小説とその映画化があった。
婚外子を妊娠した女性はそれがレイプによるものであっても罪びととして収監し強制労働につかせていたアイルランドに20世紀まで実在した施設をもとにしたもので、Mary Magdaleneというこの映画の原題を見て気づいたのだが、マグダレンというのはマグダラのことではないか。

推測だが、その根拠としてマグダラのマリアは娼婦であり罪深い存在だという理由付けがあったのではないか。

もともと娼婦説は西暦591年頃、大司教グレゴリウス1世がマグダラのマリアとベタニアのマリア(キリストの足に香油を塗った女性)と「罪の女」とを混同したためにできたものだという。

それは現在覆され2016年には使徒にキリストの復活を最初に伝えた使徒、使徒の使徒=亜使徒と認められているとのこと。
ここでのマリアははっきりキリストの使徒のひとりとして描かれている。

正直、偏見か知らないがキリスト教、少なくとも西方のキリスト教は男性原理が強く、もっと言えば性差別の根拠になることがあったのを、ここに来てPC的に修正した感がある。
使徒の中にアフリカ系を入れているあたりも、同様。

ただ映画とするとしんねりむっつりしたタッチで、キリストの奇跡の描写もあっさりしたもの、かといってパゾリーニの「奇跡の丘」ほどのリアリズムを超えた磁力を持っているわけでもない。

マリアのルーニー・マーラとキリストのホアキン・フェニックスの間に先日子供が産まれたというニュースは聞いていたので、この映画がきっかけなのかと思ったら、もっと前の「her」での共演からの交際だという。
最初からふたりの関係を念頭に置いてのキャスティングということになる。





「みをつくし料理帖」

2020年10月27日 | 映画
なんというか、つまらなくも面白くもないのに、ちょっと呆気にとられた。

製作監督の角川春樹といったら、「犬神家の一族」で今では当たり前になったメディアミックスによる大宣伝を展開した頃から毀誉褒貶の真っ只中にあってむしろ批判や誹謗中傷に対する反発をエネルギーにしている感があり、宗教がかった振る舞いや女性問題、とどめに不法薬物による逮捕と、良くも悪くも濃ゆい人物だったわけだが、本作品ではどうしたのだろうと思うくらい内容もタッチも淡白で、演技もスタッフワークも悪くはないが取り立てて良くもないという、中途半端というより宙ぶらりんにされたような妙な気分になった。

押しとアクの強さに辟易させられていた人が急におとなしくなるのは、かえって不安になる。




「愛情萬歳」

2020年10月26日 | 映画
始まってから、一向にセリフが聞こえてこない。最初のセリフが聞こえてくるまで(それも味もそっけもない仕事上の連絡事項だ)に23分かかる。

物語るのは、むしろカッカッと響くヒールの音であり、人物そのものであるより、その周囲の空間を満たした空気、カットとカットの間、それらを総合化した一種の磁場だろう。

キャラクター同士が絡んで葛藤するいわゆる近代劇的ドラマはほぼ完全に排除されている。

映画的文体と表現を果敢に挑んだ若さに満ちた一篇。




「零戦燃ゆ」

2020年10月25日 | 映画
笠原和夫のインタビュー本「昭和の劇」では、何とかリアリズムを戦争映画に持ち込みたくて冒頭に零戦が出撃するまでの手順をシナリオで克明に描いたのだが、映画ではあらかたはしょってしまったので頭を抱えたと語っているが、結構克明に描いているではないかとは思う。ただし、克明な割りにドキュメンタリックな感触は出ていない。

早見優があんまり垢抜けた美人なもので、戦時色もへったくれもない感じ。むしろそれを狙ったのだろうが。

零戦特撮は、ミニチュアワークとしてはほぼいっぱいいっぱいな感じだが、CGに慣れた目にはアングルに制限があるのがわかってしまう。

加山雄三の上官が、若い兵隊たちに零戦一機作る費用はおまえたちの俸給880年分に当たる、それをおまえたちに一人一機づつくれてやろうというんだ、と説く。
戦争というのは格差そのものだなと思う。




山の湖 6

2020年10月24日 | 山の湖
 水が堰の上端にまで達した。
 あふれた水は堰を越えて流れ出る。それとともにわずかながら上流から折れた木の枝や、腐食しかけた木の葉や、動物の死骸なども動き出し、堰にひっかかって絡み合いながら溜まった。大きめの木の枝が堰にひっかかると、そこに小さな枝や木の葉がひっかかり、隙間を埋めていく。
 板を流れにさしただけの急作りの堰は、次第にそれ自体が繁殖していく一つの生き物のように大きく厚い障害物に成長し、川の流れに立ち塞がる。
 それは、堰を設計し指揮して作った圭ノ介の思惑を超えた現象だった。


 圭ノ介たちはすでに四人を殺して金を奪っていた。
 彼らがいる側は、森が浅く小屋なども作られていない。そのため散りぢりになっても、あまりこちらに逃げてくる者はいなかった。これ以上探してもあまり益はないとみて、
「川を渡る」
 と、圭ノ介は宣言した。
 昼間うっかり渡ったら、周囲から丸見えになってしまう。弓矢を作って備えている者がどれくらいいるかわからないが、用心して日が暮れてから渡ることにした。
 すでに堰いっぱいに水が溜まったのだから、水位はあまり動かないだろう。
「先に行け」
 と、圭ノ介に命じられるままに与一郎がいざ腰から上まである水に入ってみると、全部で六本の金を握って川を渡るのは、相当に面倒だった。
 重みですぐ底に足がつくのはいいが、片方に一つもう片方に二つと左右で握り締めている金の重みが違うので、うまく釣りあいがとれない。
 なまじ浮力があるので、足で川底をしっかり蹴って進むのも難しい。
「なんて、やりにくいんだ」
 川底の苔に滑って、与一郎が転んだ。
 握った金の重さで拳が一気に沈む。
 拳が勝手に川底の岩を殴り、握った金の間で押しつぶされて激痛が走った。
「うあっ」
 思わず声が出た。
 圭ノ介はじろりと見て、与一郎の頭を腕で抱え込むとぐいと水中に押し込む。じたばたして溺れるのを、なおも押さえつける。
 抵抗できなくなるまで押さえつけ、やっと動きが鈍くなったところで腕で抱えたまま、水面に頭を出させた。
 はあはあ激しく息をつくだけの与一郎に、圭ノ介は小声でささやいた。
「騒ぐな。声を出すな。わかったな」
 与一郎は必死に頭を縦に振る。
 やっと圭ノ介は腕を放した。
「行け」
 与一郎に背中を見せはしない。先に行かせる。


 川を渡って、暗い森に入った。
 森も水浸しになっていて、川を渡った感じがしないくらいだった。
夜の風が木の間を吹き抜けて、与一郎は思わず身震いした。火に当たりたいが、地面が水浸しではそれもかなわない。
 森に入るとますます暗くなり、月が雲に隠れると鼻をつままれても何も見えない真っ暗になった。
 与一郎は圭ノ介がどこにいるのか、呼びかけようとしたか、また水に沈められるのではないかという恐怖がよみがえってきて、口をつぐんだ。
 月が雲から出てきて、辛うじて夜目がきくようになると、圭ノ介がいつのまにかいなくなっているのに気づいた。
「おいっ…どこだ…、どこだっ」
 耐え切れずに与一郎は声を出した。答えはない。
 叫び出しそうになったとき、上から声がした。
「ここだ」
 見上げたが、何も見えない。目を凝らして見ると、木の上に何か黒い大きなものがある。ちょうど月の光を遮る格好になっているので影でしか見えないが、声はそのあたりからしたらしい。
「どこ」
「上がって来い」
 手探りで木を登っていくと、やがてそれが舟であることがわかってきた。
 ただ木を組んだだけの筏ではなく、二人から三人乗りくらいの、きちんと組み立てられた小舟だ。
 その上に偽装の木や枝を巡らして、下からちょっと見上げたくらいではわからないように仕立ててある。
 与一郎が陸ならぬ木に上がった舟に乗り込むと、圭ノ介はぐるりを黒く塗られた布を巡らした。そして残りの布を与一郎に渡し、
「よくくるまっていろ」
 と命じた。それから、
「やけどするなよ」
 と干した苔や木の葉を補給した小さな火の容器をを渡した。言った圭ノ介自身が火が消えないように息を吹き込み、やけどしないようにその上から布を巻き、あちこち身体を撫でさするようにして、暖めるのに使っている。
 与一郎もさっそく真似して身体を暖めだした。
「これはいい」
 思わず、ため息がもれた。
「川を渡るのに、この種火はどうやって」
 圭ノ介は何か薄い袋を広げて、与一郎に触らせた。
「わ、なんだ、これ」
「なんだと思う」
「妙な手触りだ」
 明かりがあったら、楕円形のごく薄い膜でできた袋であることがわかっただろう。
「猪の身体から取り出したものだ」
「猪?」
「猪のゆばり尿をためておく袋だよ」
「尿ぃ?」
「そう。だから、水を通さない」
「どこでそんなものを」
「いくらも、獲って食べただろう」
「だけれど、はらわたまではよく見ていなかった」
「だろうな。だが、役に立つものがいくらもある。熊の胆は知っているか」
「いや」
 圭ノ介はそれ以上通じにくい話をするのをやめた。
「火が焚ければいいのだがな。だが、火が焚けないのは、他の連中も一緒だ。今夜はろくに寝ることもできまい。明日の朝には、水浸しが続いて、身体も冷え切っていよう。そこがつけめだ」
「朝討ちをするので」
「夜駆けは、この地面では無理なのでな」
 与一郎は、ぶるっと胴ぶるいした。
「寒いか」
 からかうように、圭ノ介が言うと、
「まさか。胴ぶるいだ。十四の初陣のとき以来の」
「そうか。働きを期待してるぞ」
「しかし、こんな舟をいつのまに」
「金を掘り出したはいいが、運べないのでは仕方ないからな。前々から用意していたのだ」
「前々とは」
「金を隠したときからだ」
「なんとまあ」
 あとの言葉が続かなかった。
「この分だと、明日になればもっと水かさが増しそうだ」
 与一郎はぼそっと訊いた。
「あんたは、天狗さまじゃないのかね」
「まさか」
 圭ノ介は笑った。珍しい笑い顔だった。
「鼻も高くなければ、高下駄も履いてはおらん」
「そうではなくて」
 それ以上、うまく言葉が続かなかった。
「明日からは金を回収してまわらないといけない。全部で三十本。それから堰を壊し、水を抜く」
「川下は洪水にならないか」
「なるだろうな」
 こともなげに言った。
「どうする」
「どうもしない」
「いいのか」
「何を心配してるんだ」
 圭ノ介は芯から不思議そうに聞き返す。
「いや…」
 あまりに堂々と言われて、それ以上言葉が続かなかった。
「少し食っておけ」
 と、舟底から干飯を出した。
「やあ」
 およそ旨いものではないが、腹のたしにはなる。
「しかしこう乾いていると、水がないと」
「一応、汲んでおいた」
 と、圭ノ介は満々と膨らんだ膀胱の袋をもう一つ出した。与一郎はいやな顔をした。
「その中身は、水か」
「もちろんだ。他にあるか」
「いや…」
 また言葉が途切れた。
「川から汲んだ水だ。飲め」
 と、先に自分で口を開け、縛った袋の口から器用に水を噴き出して、受け止めてみせた。
 与一郎は干飯をかじり、膀胱から同じようにおそるおそる水を噴出した。
「もっと思い切って」
 そう言われても、与一郎は口に含んだ分だけ溜めておいて、しばらく水の匂いを確かめるように、しきりと鼻から息を出し入れしている。
「余計なことしなくていいのに」
 圭ノ介は平気な顔でもしゃもしゃ干飯をかじりながら、喉を鳴らして水を飲んでいる。
 与一郎は思い切って水ごと干飯を飲み込んだ。
 圭ノ介がまた笑った。


 次之進と兵馬はなんとか小屋にたどり着いていた。しかし、もともと地面と高さがほとんど違わない床の上にまで浸水し、とても横になれたものではない。
 木切れを積んで腰をかけ、しゃがんだ姿でなんとか夜を過ごした。ほとんど眠れない、ひどく長い夜だった。
 やっと森が明るくなり、湿気でいや増した朝もやを枝葉で分かれた無数の光の筋が貫いた。
 鳥の鳴き声が聞こえない。この騒ぎでみんな逃げ去ったらしい。
 兵馬は小屋から出て、長いこと屈んでこわばった体を伸ばした。続いて次之進が出てきて、こちこちになった肩や首筋を揉んだ。
 身体は冷え、よく眠れなかったたため頭はぼんやりし、半日何も口にしていないため力が出ない。
 小屋に何か食べ物は残っていないか、と次之進は中に戻って探してみた。
 わずかに生米が残っていたが、生ではどうしようもない。
「食えないか」
 いつのまにか小屋に入ってきていた兵馬が後ろから声をかけた。
「生の米などかじったら、腹を壊すだけだ」
 生米の袋をどかして、床を上げてさらに探してみた。
「うーむ」
「どうした、何かあったか」
「あることはあったが」
 次之進は床下に押し込んであった袋の中にあった泥まみれの米をすくってみせた。
「生か」
「干し飯だ。水に漬かっていたから戻ってる」
「ちょうどいいじゃないか。干したままのをかじるより」
「泥水で戻したんだぞ」
「かまってられるか」
 と、兵馬はかじりついたが、すぐ口をひん曲げて吐き出した。
「食えたもんじゃない」
 次之進はしかし気にしないふりをして口に運んだ。
「食え。食わんと戦えない」
 そう命じられて、兵馬はしぶしぶ泥と、ときどき虫の混じるふやけた干飯を食べた。

 出川と平伍と文六は、森を出て圭ノ介が立って指揮した岩場のあたりに戻っていた。
「腹が減ったな」
 そう言えば、すぐ飯が出てくるような出川の口ぶりだった。
 もちろん平伍も文六も、そう言われたから何をするわけでもない。無視して堰から流れ出ている水を眺めている。
 ときどき、間抜けな魚がいきなりあふれ出す水に混ざって堰の上からこぼれ落ちてくる。そのまま六尺ほど下の浅い水溜りになっている岩場に叩きつけられ、そのまま伸びている間抜けな魚がいる。そのままだと流されるのを何尾か、二人は急いで拾い集めに行く。近くに寄ると、ぎしぎしいう堰のあちこちから異様な色をした泥がはみ出て、さらに水が吹き出している。
 ぬるぬるする川底に足をとられながら、拾った魚を袋に詰めて、腰を浮かすようにして戻る。そんな時でも出川はあくまで動こうとしない。
「生では食えんな」
 と、出川が言う。
「そんなことはわかっている」、
 平伍と文六は同時に怒鳴った。なぜそんなに声を荒げるのか、と不思議そうな顔で出川は見返した。
「火は、どこにある」
「崖っぷちの小屋にないか」
 崖下と行き来するのに作られた昇降機の近くに三、四人が雨をしのげる程度の簡単な小屋が作られていた。人が集まって煮炊きをすることもあったから、今でも火の元があるかもしれない。
「行ってみるか」
 三人は、ぞろぞろと岩場を歩いて小屋に向かった。
 振り向くと、なんとも異様な光景が目に入ってきた。堰とその両脇のせり上がった岩にせき止められた水が目の高さより高くかさが上がり、今にもこちらに押し寄せてきそうだ。せりあがった水は森にひたひたと迫り、遠目には湖から突然森が生えているように見えた。
「えらいもの作っちまったなあ」
 平伍が今更のように呟いた。
「もっと簡単に壊れるかと思ったが、思いのほかしぶとい」
 出川は意に介さず、小屋の中を漁りだした。
「あった」
 種火を見つけたらしい。
「粗朶はないか。乾いていないとだめだぞ」
「わかっているっ」
 また二人同時に怒鳴った。
 あちこち水びたしになっているため、乾いた枝や葉を集めるのは難しくなっていたので、しまいには小屋を壊すことになった。
 それでもしけっているらしく、火がなかなか移らない。なんとか移しても煙ばかり出てなかなか炎が上がらない。
 平伍が懸命にふーふー吹くが、煙をわざわざ発生させているようなものだ。
 いいかげんうんざりしていたところで、いきなりその焚き火を出川が踏みにじった。
「何しやがる」
 かっとなって殴りかかるところを、文六が後ろから組み付いて止め、崖下のはるか川下を指差した。
 彼方の河原で煙が上がっているのが見える。
 よく目をこらすと、刀、槍、果ては鉄砲で武装した集団が朝餉の煮炊きをしているのがわかった。
「来た」
 ぼそっと出川が呟いた。
「援軍ですか」
 平伍が訊いた。
 それには答えず、出川はひとりごちた。
「多すぎる」
 その顔つきが、いつになく厳しくなっている。
「多すぎるって」
「いざ、人数を揃えたのを見ると、金を分けるのが惜しくなってきたわ」
「なんですって」
 この人の気まぐれは病気ではないか、と平伍には思えた。
 それとも、人をムダに右往左往させるのを楽しんでいるのだろうか。
「分けるって、まだ手に入れてもいないのですよ。ただ見つけたというだけで、今はみんなばらばらになって持っているのです」
「わかっている。では、ちょいと行って挨拶してくるか」
 と、昇降機の方に向かった。
 そして板切れの上に腰をかけ軽い調子で、
「では、頼む」
 平伍と文六はやむなく昇降機の滑車についた縄を引いた。
 ゆっくりと出川の姿が降りていき、見えなくなった時、平伍はこのまま手を離して落としてしまおうかと思った。
 怨嗟の念も知らず、やがて出川は崖下の地面に到着した。
 下から見上げると、いったん涸れた滝は、またちょぼちょぼと水が落ちてくるようになったとはいえ、そこだけむき出しになった岩の色がひどく不自然に目立っていた。
 水飛沫がとんでこない分、湿気が薄れたのは気持ちいいようで、妙に空気が淀んだようでもあった。
 滝壺も上からの水がとどこおると、深さがどれほどあるのか文字通り底が知れないような神秘感は薄れ、ただの大きめの水溜りに見えてしまう。
 出川は、肩をそびやかして、川下に向かった。


 圭ノ介と与一郎は、枝にかけた縄で力を弱めながら、舟を木から降ろした。
 すでに腿まで水が来ていたので、ぎりぎり舟を浮かべて動かせる。しばらくあるいは縄でひっぱり、あるいは長い棒で川底を突いて移動してまわったところで、圭ノ介は舟を止めた。
 男が二人、木陰からこちらをうかがっている。
「出て来い」
 圭ノ介が呼ばわると、二人はゆっくりと姿を現した。短い刀を木の枝の先にくくりつけて即席の薙刀に仕立てている。足元が悪いと見て、工夫したものらしい。
 圭ノ介は舟の上に立った。舟の上も足元は危ないが、泥に足をとられるよりは有利と踏んだのだろう。
 同じく、与一郎も舟の上で身構えた。
 とん、と圭ノ介が棒で水底を突いて舟を動かした。すうっと舟は音もなく水面を滑り、男の一人に向かっていく。男はよけようとするが、足をとられてわずかに逃げるのが遅れた。その隙を見逃さず、圭ノ介は思い切り舟底を蹴って飛び、それまで舟を操っていた六尺棒を大きくふりかぶって男の頭を打ち砕いた。
 まるで西瓜でも割ったかのように赤い中身が飛び散ったのを見て、もう一人の男は飛び上がった。そしてくるりと背中を向け、あわてて逃げ去ろうとした。
 圭ノ介は倒した男の手から薙刀をもぎ取り、逃げる男に投げつけた。薙刀はあやまたず男を背から胸に串刺しにした。
 ほとんどまばたきする間に二人を倒した圭ノ介は、息も乱さずに与一郎に命じる。
「金を取れ」
 与一郎は、急ぎ二人の身体を改めて隠し持っていた金を集めて舟に乗せた。
「いい調子だ」
 と、圭ノ介はまた舟を出した。


 次之進と兵馬は、水に漬かった足をひきずるように歩いていた。どうも腹具合がよくなく、下半身に力が入らない。
 二人の前に、二人の男が姿を現した。
 次之進は、兵馬の影に隠れた。
「何やってんだ」
 小声で兵馬が訊く。
「前に立つと、俺が獲物を持っていないのがばれる」
「獲物なしでどうする」
「いいから」
 相手は二手に分かれて、挟み撃ちにしようとしてくる。
 兵馬は腰が引けかけるが、後ろに次之進がぴったりくっついているので、逃げるわけにもいかない。次之進は腰を落とし、相手から見るとまるで母親の陰に隠れている子供のようだ。相手に、侮りの気が出た。
「ええいっ」
 気合とともに、二人同時にかかってきた。
 と、いきなり兵馬の足元から水飛沫があがった。次之進が足元にたまった水を目潰しにすくいとばしたのだ。まるで子供の水遊びのような真似だったが、効果は十分だった。
 二人とも足が止まったところに、兵馬が思い切り身体ごとぶつかった。腹を兵馬の短刀に刺し通され、男は棒立ちになったまま兵馬の身体を抱え込んだ。
 次之進はというと、もう一人にかかるのかと思うと、兵馬にぴったりくっついたまま同じ相手にぶつかっていった。
 そして、兵馬の身体を抱きかかえようとする手から相手の獲物をもぎとった。
 襲ってこようとしたもう一人も、あわてて止まり構え直した。
 次之進は金を取り出して見せた。
 一瞬、それに相手の目が吸い寄せられる。
 すかさず、金がその目に投げつけられた。一瞬、心が泳いだところを、次之進が思い切り踏み込んで、相手の胸を抉る。
 そのまま押し倒すと、水の中に相手の頭を押し込み、絶命するまで放さなかった。
 相手の絶命を確かめて、次之進が立ち上がると、兵馬がじいっと探るような目で次之進を見ていた。
「勇ましい戦いとはいえんな」
「今更」
 次之進は引き抜いた短刀をたまり水で洗う。
 兵馬も倣って、刀を洗った。
 それから、相手の身体を改めた。
「なんだ、こいつら金を持ってないぞ」
 兵馬が口を尖らせた。
「仕方なかろう。全員に配ってまわったわけではないのだ」
「持てるだけ持ったら、そのまま逃げた奴はいないかな」
「いないな。なければ欲しいが、持っていればもっと欲しくなる」
「そうか。そうだな」
 自分に言い聞かせるようにうなずいた。


 出川は河原を下っていた。
 近づくにつれ、次第に軍勢の全容が見えてくる。
思ったほど人数は多くない。出川たちと同じくらいだろうか。
「よおーっ」
 大声を出して、出川は手を振りながら親しげに近づいた。
 軍勢は、戸惑ったように無言で迎え、出川が歩み寄るに従って敬遠するように二手に分かれて、彼を通した。
 その先に、緋縅の鎧に身を固めて軍勢を率いる古田の姿を認めた出川は、古田がこわばった顔をしているのも構わず、さらに満面に笑みを浮かべ、相手が鎧を着ていなかったら抱きつきそうな勢いで歩み寄った。
「よく来てくれた」
「ああ…」
 疑わしそうな目で見ながら、古田が答えた。
「見つけたぞ、金を」
「どこにある」
「滝の上だ」
「それはわかっている。掘り当てたのか」
「もちろんだ」
「持っているのか」
「それがだな」
 出川は咳払いした。
「掘り出したまではよかったのだが、ばらばらになってしまってな」
「なんでだ」
「まあ、そう急くな」
「急くな、だと。人を呼び出しておいて、何だ。しかも使いの言うことが来るたびにいちいち違う。どういうことだ」
「あれは一人ではないのだ。二人で一人だから」
「なんだそれは。わけのわからんことを」
 古田は明らかに苛立っていた。
「とにかく、登ろう、ん?」
「登るって、あの崖をか」
 遠くからでも、滝周辺の崖の高さはよくわかった。
「そうだが」
「われわれがいちいち登ることはなかろう。掘り当てた金を崖の上から下に放ればいい。それを拾い集めれば足りることだ」
「それがな」
 出川は古田の肩を抱くようにして、胡乱な目で見ている周囲から引き離した。
「金はあることはあるのだが、ばらばらになっているのだ」
「なんだと」
 古田の顔色が変わった。
「どういうことだ」
「ちょっとした手違いでな。まあこということもあろうかと手勢を送ってもらったわけだが」
「勝手なことを」
 古田が憤慨した。
「今にもとてつもない金の山を掘り当てたような口ぶりだったから、それを運ぶために手勢が足りないのかと思ったのだ」
「楽してお宝だけ頂こうというのは、虫が良すぎはしないか」
 出川が開き直って、やや恫喝気味に言い放った。
「虫がいいのは、どっちだ」
 古田がわざと憎憎しげに言った。
「だいたい、おまえが里に戻ってきたところで、そのまま今までの位に戻れると思っているのか」
「別に戻りたいとも思ってない」
 出川がしれっとして、川の方をそっぽを向いてみせた。
「何を」
「では聞こう」
 と、向き直った。
「なぜおまえがここにいる」
「なんだと」
「いいかげん、陣取り合戦はごめんだ。ちっぽけな国ともいえん国の中で、やたら寝首をかきあって大して金にもならん、そんなのが楽しいか」
 古田が、むっとしたような顔をして、黙った。
「金をこの手に握れば、あとはどこに行こうと極楽だ。里に未練を持つ必要がどこにある」
「国主に、国を捨てろというか」
「笑わせるな。生まれついての国主でも何でもないくせに。考えてもみろ。あの程度の国を治める手間隙と引き合うだけの見入りがあるとでもいうのか。これといったものも取れず、商売をするには場所柄が悪すぎる。盗んだ国なら、捨てたところで構いはすまい」
 古田は、さすがにちょっと答えに窮した。主君に対する忠義などあるはずもない男ではあったが、かといって自分の所領をだんだんと増やしていく他の考えというのは持てないでいたからだ。まがりなりにも自分が生まれ育った国を弊履のように捨て去って平然としている出川に対して、この国盗人も何やら肌寒いものを感じていた。
 しかし、一番肝腎なことをまだ訊いていない。
「で、金はどこだ」
「崖の上さ」
「それはわかっている。その上でどういう具合になっているのだと訊いているのだ」
「まあ、とにかく、登ってから話そう」
 とことこと出川は崖と滝に向かって勝手に急ぎ足で歩き出した。
 下から見ると普通に滝が落ちているように見えるが、上の方で堰が作られていつ決壊するのか、あるいはしないのかわからない状態だということは、古田たちには伏せておきたかった。
 兵たちと、古田は出川について崖についた。
「思いのほか、ちゃちな滝だな」
 何も知らぬ兵のひとりから、そんな呟きが洩れた。
「どうやって登るのだ」
 古田が訊くと、出川は崖上に合図を送った。
 かねてからしつらえられていた昇降機の腰当てがするすると降りてくるのに、兵たちは目を見張った。
 崖上の平伍と文六の姿が見えないので、なおさら不思議で神秘的な仕掛けのように見える。
 腰当てが下まで降りてきたところに、出川が古田たちを導く。
「まず、おまえから」
 出川は手近にいた兵の一人を指名した。先に古田を送ってしまい、堰を見られて「あれは何だ」ということになると、ややこしいと踏んだからだ。
 指名された兵は、言われるまま昇降機に乗り込んだ。縄を引いて合図すると、上で滑車が動かされたらしく、じりじりと昇りだした。
 乗せられた兵は目を丸くしている。
「わっ、なんじゃ、これは」
 出川は内心ひやりとした。これで彼に臆病風にでも吹かれたら、後の連中を乗せるのに面倒なことになる。
 と、兵は突然、笑い出した。
「なんと、高いぞ、高いぞ」
 木登りをしている童のように昂奮して下を恐れずに眺めやる。
「このようなところから、滝を眺めたのは、初めてじゃ」
 その昂奮ぶりを聞かされた兵たちが明らかに自分も乗りたそうな風情を見せているのに、出川は内心ほっとした。
 と、同時にあまりはしゃぎすぎて落ちたりでもされたら、えらいことだと声をかけようとしたが、すでにかなりの高みに至ってしまったので、下手に声をかけるとかえってまずいと、ひやひやしながら到着を待った。
 よく見えないが、平伍と文六のどちらかが崖上に着いた兵を引き込んだらしい。そしてすぐに上から昇降機が戻されてきた。
 出川が機先を制して命じた。
「よいか、下を見るな。縄をしっかり握り、もし腰かけている板が外れることがあっても落ちないようにせよ」
「勝手に命じるな」
 出川が自分の部下を勝手に動かしているのに不快を覚えた古田が、
「わしを通してにせよ」
 と、怒った。
 出川は怒り返そうとしたが、すぐ珍しく「すまなかった」と侘び、指揮を古田に任せた。崖下で指揮していれば、古田は上に登ってくることはないのに気づいたのだ。


 事実、古田が崖を登ったのは、出川より後の、一番最後になった。
 いざ乗ってみると、思っていたより遥かに揺れる。風に煽られた滝のしぶきで目を開けてもいられない。上から見下ろすと、地面はみるみる遠ざかっていく。
 古田は我慢できずに悲鳴をあげ、縄に抱きついた。
 ふと目を開けると、目の前に部下たちがずらりと並んでいるのに気づいた。皆、古田の怯えように半ばあきれたような薄ら笑いを浮かべている。中でも出川がとりわけにやにや笑っている。
「何をしている、早く、早く」
 崖の上にぶら下げられたままの古田は、見も世もなく助けを求めた。
 兵たちは、薄ら笑いを浮かべたまま古田を崖の上に引っ張り込んだ。
 突っ伏してしばらく荒い息をしていた古田は、我に返って立ち上がり、せいぜい声を励まして下知した。
「集まれっ」
 もそもそという感じで兵たちが集まってきた。
「で、これからどうするのだ」
 古田に訊かれた出川は、川上を示す。
「なんだ、あれは」
 初めて川を堰き止めている異様に巨大な木の板を見て、古田は思わず頓狂な声をあげた。
 出川は堰の向こうに一行を導いた。岩場を越えると、巨大な水たまりとも、いやに小さい湖ともとれる風景が広がる。
 風景を断ち切るように大きな板が川をせきとめ、その前と後とでは文字通り段が変わってしまっている。
 すでに堰にはなみなみと水が湛えられ、下の一見清冽な滝だけ見ていては想像もできない淀んだ水は森を半ば侵し、虚空をつかむ手のような枝が水面から飛び出している。堰からあふれ出した濁った水が改めて小さな滝を形作ってもとの川底だった岩に当たり、ちょっと流れてあらためて大きな滝となって流れ落ちている。
 湛えられた水には曇り空が写り、どこまでが天でどこまでが地なのか、どこまで水でどこまでが地なのかわからない、大きいとも小さいともつかない巨大な箱庭のような眺めをなしていた。
 一行はおよそ見たことも聞いたこともない眺めにあっけにとられ、しばらく石になったように動かなかった。
「なんだ、これは」
 似たような問いを、古田が発する。
「あれは一体どのようになっているのだ」
「どのように水を堰き止めておるのだ」
 しきりと出川に訊く。
 出川はこうなった経緯を話した。
 自分もいかにも身体を張って工事に参加したかのような口ぶりだったが、それにしてはあちこち上から離れて見ていないとわからない表現がぽろぽろ洩れた。さらに、工事の指揮を出川が執ったような口ぶりだったため、しばしば古田に突っ込まれてしどろしどろもどろになった。
「どうやって、あのような堰を組んだのだ」
「だから、木を切って」
「木でできているのは見ればわかる。だが、あのような形にどうやって組み上げたのだ。釘は使っていないのか」
「使っている」
「こんな山奥に釘があるのか」
「鉄を打っていた」
「打っていたって、誰がだ」
 出川は詰まった。
「あの、捕虜だ」
「捕虜? なんでそんなのが鉄を打っていたのだ」
「話せば長い」
「長くてもよい、聞く」
「あまり余裕がないのだ」
 それから、出川は見つかった金を次之進がばら撒いたため、各々が勝手に持ち去ってしまったまでの経緯を、あちこちごまかしながら喋った。
「結局、金はあるのかないのか」
「ある。あるが、集めないといけない」
「集めるって、どこからだ」
 そこで、今や出川が率いていたはずの隊はばらばらになって、各々が金を隠し持っているという話になった。
「では、そいつらの持っている金を掻き集めて来いということか」
「そうだ」
 古田は薄気味悪そうに、はちきれんばかりの巨大な濁った水溜りを眺めやった。
「何か出てくるんじゃないか」
 兵たちから、そんな言葉が洩れる。
「で、そいつらはどこにいる」
「あの森の中だな」
 出川はこともなげに言った。
「あんな薄気味悪いところに」
「化け物が出そうだ」
 ぶつぶつ言う声がしつこく兵たちから洩れる。
「やかましいっ」
 古田が大喝した。
「文句のある奴は出て来い。いいかっ、これから森を隈なく探し、金を持っている者どもを捕らえ、金を吐き出させよ。抵抗したら斬れ」
 一行はそれぞれ武器を確かめ、ぞろぞろと川に向かった。







10月23日のつぶやき

2020年10月23日 | Weblog


「テネット」(二度目)

2020年10月22日 | 映画
一度目は作品がどういうルールで動いているのかよくわからなくて、時間が逆行する対象は人間までなのか接触した車などを含むのか、音声、たとえば銃声は逆行しないのか、とか色々疑問が出てくるのだが、二度目となるとストーリーがつながるのと、見せ場として成立すればいいといういうのがルールと割りきって見れば、わかったような(わからないような)気分にはなれる。

音が逆行するとなると、時間の進行が逆同士のキャラクター間の会話が成り立たなくなるわけで、そうなるとストーリーを進ませられない。

それ言い出すと時間が逆行する(力を入れる向きが逆になる?)同士で取っ組み合いって成り立つのかとまた気になってくる。

ノーマルな動きと逆行している動きが同居しているカットは、ぱっと見どうなっているのか見極めたと思うより早くカットが変わるので、どうなっているのか二度目でも判断がつけきれない。

クライマックスみたいに特に大がかりになると、いくらなんでも(デジタル)合成使っているのではないかと思ったが、同じ建物が爆破されるのと逆行するのとを同居させたカットは同じアングルで撮ったのをつなげたのであって合成はしていないっぽい。

正直、全カットをどう時間を組み合わせて作っていったのか、見ただけで判断するのはほとんど不可能に思える。


「ある画家の数奇な運命」

2020年10月21日 | 映画
主人公は現代美術家のゲルハルト・リヒター、その師はヨーゼフ・ボイスをモデルにしているわけだが、名前は変えて、どこまで創作なのかは明かさないという約束で作られたという。

画家が辿ってきた、叔母がナチスによる優性政策で命を奪われ、しかも恋人=妻の父がその政策に関わった医師だったという人生の皮肉、最も当人にとっては痛烈でそれだけに目をそむけてきたところを、他人が撮った写真を模写するというワンクッション入れることで芸術作品として昇華する中で逆に直視するという組み立ては、現代美術の難解なイメージに反してわかりやすく、ちょっとわかりやすぎて良くも悪くも通俗的に思えた。
実在の芸術家に託して映画の作者自身の芸術に対するイデーを表現したともいえる。

ヨーゼフ・ボイスをモデルにしたキャラクターが脂肪とフェルトを素材にしているのはボイスの説明そのままなのだが、その説明はフィクションだという説もあるのと似ている。

芸術の来るところを芸術家の個人的な体験に求めるのはいいとして、芸術として昇華する中のいわく言い難い想像力や無意識の働きが無視される格好になったのは、それがおよそ描きにくいからには違いないが、やや物足りない。

ナチス体制から東側に組み込まれても全体主義的というあたりは大して変わらない一方、ナチ協力者に対してはソ連は強硬に取り締まるといった複雑な状況が面白い。

撮影がアメリカのキャレブ・デシャネルというのが意外だが、光の操り方はさすがに見事。

ヌードシーンがかなり多いが、たっぷりした肉体感がよく出ている。




「任侠ヘルパー」

2020年10月20日 | 映画
ヤクザが任侠道に生きるというのもファンタジーだし、ヤクザがヘルパーをやるというのもファンタジーだが、ときどきヤクザが災害時に人助けしたりするだけでなく、人助けする人間がいてほしいという願いはファンタジーという衣をまとってもけっこう成立する。

草彅剛の強面ヤクザというのは珍しいようですぽっとはまっている。柄に引き付けるのではなく、手が手袋にはまるように役にはまる感じ。

しかし、現実のヤクザの変わりようは映画の中には反映されませんね。この分だと、映画のヤクザは映画のサムライみたいにイメージだけの存在になっていくのではないか。



「望み」

2020年10月19日 | 映画
主な舞台になる堤真一の家が建築士という設定もあってかずいぶん立派な家だなあ、と思った。
下から吹き抜けになっているから二階の子供たちの部屋を横に並べた構図で一目で見渡せる。アメリカのやや大きい家にありそうな構造。「必死の逃亡者」の舞台の家をちょっと思い出した。

行方不明になった高校生の息子が暴行殺人事件の加害者側なのか被害者側なのかなかなかわからないのが、誰でもどちらに転ぶかわからない不安をついて秀逸。
ああいう立派な家に住んでいるというだけで反発買いそう。

吹き抜けのリビングにキッチンと共に石田ゆり子の仕事場が隣接しているのがおもしろく、この家の一階すべてがこの奥さんの行動範囲というわけだろう。
石田ゆり子がやると、息子をとにかく信じても日本的なべったりした溺愛型の母親像から印象が離れる。心労でやつれても美人。エンドタイトルを見たら当然ヘアメイク、衣装それぞれ専属がいるが綺麗にばかり見せるわけにはいかない一方、あまり汚し過ぎても見る側が引く、微妙なバランスを保っている。

後半のメディアスクラムや無責任な匿名大衆のバッシングはそれ自体およそ見たくない(嫌でも日常で見せられている)性格の描写なので、どうも落ち着かない。
ただしフィクションでないとできないようなすっきりしたところに落とし込んでいる。

堤幸彦の演出は昔のちゃかちゃかしたものから随分落ち着いたものになった。
冒頭のドローンを使っただろう(埼玉らしい)街の俯瞰ショットに家族の記念写真をカットインして一家の歴史を描いていく手際など好調。

事情が明かされてからの解説的な部分がどうも長くて、余韻がかえって薄れる。もうちょっとサクサク刈り込めないものか。

竜雷太と渡辺哲がよく似ていて、親戚同士という設定がやたら説得力ある。




山の湖 7(終)

2020年10月18日 | 山の湖
 平伍と文六は、最初の古田の兵の一人を引き上げたあと、交代して仲間を引き上げさせるつもりだった。しかし、やたらはしゃぎながら引き上げられた男は、崖の上に到着するとそのまま興奮して猿のようにとびはねてまわり、いっこうに手伝おうとしない。やむなく二人は、次の兵も息を切らせながら昇降機をぶら下げた滑車についた縄をえいやえいや引いて崖上まで引き上げた。
 だが、二人目の兵も代わろうとはしない。それどころか、平伍と文六に対して敵対心をむきだしにして、しまいには脅してなおも昇降機を操作させた。三人目が上ってくると、ますます古田の兵たちは横暴になり、二人を取り囲んで逃げられないようにして、なおも重労働を強いた。取り囲む手間をかけるより、手分けして仲間を引き上げた方が楽ではないかと二人には思えたが、そう考える間もなく次から次へと古田の兵たちを引き上げさせられた。どれほどへたばっても、兵たちは手加減しなかった。むしろ弱みを見せるほどますますいたぶりようはひどくなった。
 ついに力尽きて、仲間が落ちそうになってやっと取って代わったが、よくも仲間を危険にさらしたなと、すでに大半揃った兵たちは二人を殴り、蹴った。
 そして、半死半生になった二人を、古田と出川と入れ違いに崖下に落としたが、上ってきたお偉方二人は誰が落ちたのかついに気がつかなかった。


 次之進と兵馬は森を遡っていた。
 水没した足元はぬかるんでいるかと思うと、突然底が抜けたように抵抗がなくなり、倒れそうになる。
 森の中の葉や草の青々した匂いはすっかり陰をひそめ、代わりに腐った泥の異臭が漂っていた。心なしか木々の幹の肌も色褪せ、水浸しの根元とは裏腹に妙に白っぽくかさかさしてきている。
 青々としていた緑の葉も茶色っぽく捩れるように枯れてきており、瘴気で溢れるようだった森が、濁った泥の匂いで満たされている。
 どちらが川上で、どちらが川下なのか、水の様子からは見当がつかない。
 どんよりした水と空気の中で次第に苛立ちが募らせた二人は、やがて言い争いだした。


 平伍と文六は、森の中を進んでいた。背後から古田の兵たちがついてくる気配がする。二人は、自分たちが盾にされているのがわかった。
 崖でも兵たちはもっぱら二人に昇降機の操作を押し付けた。あとからあとから運び上げられてきた兵は、しかし自分たちの仲間を運び上げる作業に手を貸そうさはせず、人数が増えても代わろうとも手伝おうともしない。それどころか、人数にものを言わせて、いいかげんへとへとにへばった二人にさらに操作続行を強制した。へばって宙に浮いたままの後続の兵を地面に叩きつけかねないほどになっても、交代しようとしない。
 最後に出川、さらに古田を引き上げる段になると、やっと兵たちは交代したが、それはお偉方を落としたらまずい、という配慮からというからでは必ずしもなかった。落としたらまずいには違いないが、むしろわからないように揺すってみたり、少しずり落としたりしてお偉方がおびえて悲鳴をあげるのを楽しんだ。
 へばってへたりこんで平伍と文六は、その浅ましいさまを見て、逃げ出したくなった。
「文六よ」
 平伍は小声で文六に訊いた。というより、まともに声が出ないのだ。
「ろくな奴がいないな」
 文六は相変わらず、ちょっと緩んだ顔でうなずいた。
「浅ましい」
 文六が聞いている。
「逃げ出したいよ。金なんかもういいから」
 文六は聞いている。
 平伍は一方的に喋り続けた。
「しかし、あの崖の上からでは人の力を借りなくては簡単に降りることもできない」
「俺たちも、傍から見ればあんなのだったのだろうな」
「しかし、崖から降りたところで突然あの堰が壊れて、大水に押し流されたらたまらない」
 ひとりごとなのか、自問自答なのか、それとも答えを求めているのかわからない言葉がぶつぶつぶつぶつ暗い水の上を渡っていく。
「行くも地獄、退くも地獄とはこのことか。なあ」
 二人は、ふと足を止めた。
 前方に人がいる。一人、いや二人だ。
 見覚えのある顔だ。つい最近まで指揮をとっていた奴だ。馬場次之進と、浅香兵馬。両方とも、お偉方だ。
 そのお偉方が、二人を見ると、ひっというような声をあげ、くるりと背を向けて川上に向かっていった。
「なんだい、俺たちを怖がっているんか」
 平伍は、へ、へ、へといった笑い声をあげた。
 文六も同様に笑った。
 二人の背後に、古田の一隊が迫ってきている。そして、二人を追い抜いてなおも前進していく。平伍と文六は、ことの真相にやがて気づき、小さくなって追い抜かれるままに任せた。

 次之進は今、自分が敵に背を向けて逃げているのに気づいた。
(あんなに大勢、どこから現れたのか)
 天から降ったのか地から湧いたのか。
 水と湿気と光の反映の中で、本当にこの世で起こっていることなのか、わからなくなってきていた。
 森の匂いの中に、何か別の匂いが混ざってきていた。何か金気くさいような、生き物とは別のような、生き物そのもののような匂いだ。
 次之進は立ち止まった。暗い森の中で、何かが動いたような気がしたからだ。兵馬はしかし、構わず進んで行く。次之進が呼び止めようとしても構わず、警戒する風でもなく歩いていくと、前を立ちふさがるように一つの影が現れた。
 じいっと次之進はその影を見つめていたが、突っ立っているだけで動こうとしない。いや、きちんと自分の足で立っている風でもなく、半ば吊られているような頼りなげな佇まいでいる。
 さらに進もうとした次之進の首筋に、突然冷たいものが押し当てられた。
「動くな」
 言われる前に動けなくなっていた。
 聞き覚えのある声だ。
「久しぶり。金を持っているだろう。出せ。出さないと、ああいうふうになるぞ」
 前に立っていた人影が、突然心棒を抜かれた人形のようにぐしゃりと崩れて水面に突っ付した。
 その時になって、そこに漂っていた匂いが血の匂いであることに次之進は気づいた。
 倒れた男は喉を切られているらしい。匂いのもとに気づくと、その切られた傷口から流れ出た血の色、水の中に広がっていくようすや、力の抜けて捩れた手足まで、見えないのに手にとるようにありありと感じられて、次之進は吐き気を覚えた。
 屍の向こうに誰か傀儡使いよろしくのっそりと姿を現したが、顔もわからず、誰であるかもよくわからなかった。このあたりにいる男はすべて、いやというほど顔見知りだったはすだが、わずかの間にすっかり見覚えのない、別人のように見えるようになってしまっていた。



 次之進が懐に手をやろうとすると、
「ゆっくりだ」
 その声だけははっきり覚えがあった。よそものだった、あいつだ。
 次之進は、ゆっくり金を出した。
「おまえも」
 言われる前に、兵馬も金を出していた。
 二人から金を取り上げると、
「よし、行け」
 と、解放しそうな素振りを見せた。
 そろそろと離れかけた次之進は、何か別に大勢の禍々しいものが迫ってきているのに気づいた。
 水の中で、魚が逃げる気配がする。
「伏せろっ」
 と次之進は兵馬に命じた。
 ほとんど同時に二人が水の中に身体を投じて姿を隠したのと前後して、矢が木の間を縫って飛んできた。。
 やっと顔を上げた次之進は、今自分から金を奪った相手(圭ノ介とかいったか、とやっと名前を思い出した)はどこに行ったか、素早く探したが、目に入るところにはいなくなっていた。
 弓矢を構えた古田の兵がそろそろとやってくる。次之進は死んだふりをしてやり過ごすしかないとじっと薄目を開けて伏せていると、木の陰に入った兵が出てこない。
 どうなっているのか、と思っていると、他の兵たちが妙に慌てている。
 血の匂いが強くなった。
 木陰から兵がふらふらと現れ、膝が折れたようにへたりこんだ。腰の刀がつっかえ棒になり、空を仰いだような格好で動かなくなる。
 他の兵が警戒しながら接近してきた。空が暗くなってきてただでさえ悪い視界がますます悪くなり、顔もわからない。
 その一人が突然ずぶっと見えない穴に落ちて、体勢を崩す。足が穴にはまって動けないところに、引き倒され、暴れる水音とうめき声が聞こえ、やがて静かになった。
 次之進はこれ以上ここにはいられないと文六を振り返った。兵馬はすでにそろそろと兵が来たのとは反対の上流に向かっている。
 次之進もそれに続いた。
 血の匂いは、上流に来ても収まらなかった。
 それまで先を歩いていた兵馬が立ち止まった。
「どうした」
 次之進が傍らに立った。
「あ…、」
 目の前のあちこちに半裸あるいは全裸の死骸が水に漬かって、半ば泥水に埋まり、半ば水面に浮いている。
 かつてみな顔見知りだった男たちは、丸みを帯びた荷物か袋のような見慣れない物体になって、あちこちに散らばっている。
 兵馬は嘔吐した。次之進も酸っぱい液体を足元にたまった水にしたたかに胃の中身を吐き出した。
「なんという…」
 圭ノ介がひとりひとり、殺して金を奪ったのだ。ある者は首筋を切られ、ある者は心の臓を一突きにされている。水に漬かったかき切られてぱっくり開いた喉から、肺から逆流してきた空気がぽつぽつと泡になって吹き出ていた。
「もういやだ」
 兵馬が泣き声のような声をあげた。
 これまで戦場に出たことはあっても、だいたいにおいて集団で戦っていたので大崩れして殲滅されるという経験は二人ともなかった。
 それが数だけは一応揃えていたのが、いくらろくに装備が整っていないとはいえ、一人にここまで殺戮されるとは、思ってもみなかった。
「あいつは何だ、鬼か、天狗か」
 兵馬が、がくがくしだした。
 次之進は、森の外の明るい、前は川が流れていたあたりの水面に目をやった。
「おい…」
 自分が見ているものがまた信じられなくて、次之進は兵馬の脇を肘でつついた。
 鏡のような水面を、誰も乗っていない舟が滑っている。水が流れていれば、川下から川上に向かって、水面を切り裂き、滑らかな波紋を広げながら動いている。しかし、舟の上に人の姿はない。
(どうなっているのか)
 次之進はめまいをおぼえた。だが、一瞬のち、あそこに奴がいる、と直感した。
 そう決めると、次之進はとっさに後を追い出した。
 動き出すとともに、不思議とためらいや恐れはどこかに飛び去り、四肢を動かす動物的な感覚だけが次之進を支配した。
 泳いだ方がいいのか、浅瀬を走った方がいいのか、どちらにしてもあまり早くは動けないはずだが、浅瀬を泥に足をとられて走る次之進は、水面を蹴って走っているような錯覚を覚えた。
 兵馬が、待ってくれと悲鳴のような声をあげて追ってくる。
 舟が向きを変え、森の方に滑ってきた。
 次之進が先回りして短刀を持って身構えた。
 舟が止まった。中で何か光っている。何かなどと考えるまでもない、このために全員が重労働と水と泥との不快な環境に耐え、そして命を落とした元凶のものが光っている。空が暗くなってきたせいか、鈍い輝きがちらちらする程度だが、いったん目に入ると、目をそらすのは不可能だった。
 と、次之進はふっと果たしてあれが元凶なのだろうかとも思った。俺はあれがそれほどに欲しかったのか。命のやりとりをしなくてはならないほどに。第一、あれのどこがありがたいのか価値があるのかを、次之進はまるで想像できていないことに、今更のように気がついた。
 本来、命のやりとりをしなくてはいけない時になって、すぽっと何かがすっこ抜けたように白けた疑問に囚われて、また四肢が嘘のように萎え始めた。
(これではいかん)
 次之進はなんとか力を振り絞って目を舟の中の光からそらせようとしたが、またすぐすいつけられた。
(はてな)
 何か、舟のたたずまいに違和感がある。
 さっきとは波の立ち方が微妙に違う。
 兵馬は次之進の後ろに隠れるようにして、じっと舟を見ていた。
「あの舟はなんだろう」
「あれに集めた金を積んで川を下るつもりなのだろう。舟だったら全部の金でも一人で十分に運べる」
「いつのまに用意したのか」
 次之進が話に気をとられて、自分に隙ができているのに気づいてはっとした。
 と思うより早く、突然、兵馬が後ろに引き倒された。水の中に隠れて接近していた圭ノ介に足元を掬われ、引き倒されたのだ。
 次之進が駆けつけようとすると、
「動くな」
 兵馬の喉に刀を押し当てて、圭ノ介が野太い声で脅した。だが、わずかにその声の中にかすれたような震えが混ざっているのに、次之進は気づいた。
「血の匂いがするぞ」
 次之進は言った。
「ほとんど全員斬ってきたからな」
「だったら、なぜすぐ斬らない」
 次之進の呼びかけに、兵馬の顔がひきつった。
「斬らないでくれ。あれだけ俺と…」
「あれだけおまえと、どうした」
 圭ノ介はぴっと兵馬の喉を少し切った。喉にできた赤い筋がみるみる膨らみ、固まってすいと流れた。
 次之進の顔もひきつっていた。震える声で訊いた。
「なぜすぐ殺さない」
 兵馬は、それを殺せという意味だと受け取ったらしい、おこりにあったように震え出した。
 次之進はそれまで漂っていた血の匂いが、少し異質であることに気づいた。
「ケガしているのか」
 圭ノ介は答えない。
 なるほど、あれだけ大勢の、しかもきちんと武装した小隊と一人でわたりあったら、負傷しない方がおかしい。
「しているに決まっているだろう」
 兵馬が泣きが入った声で喚いた。
「おまえに聞いているんじゃない」
 次之進はそう言ったあとで、兵馬が泣き笑いのようなくしゃくしゃの顔をしているのに気づき、おまえのケガなどどうでもいいという意味に受け取ったのだと知って、あわてて言い直した。
「そうじゃない。こいつが手負いかどうか知りたいだけだ」
「そうだろうよ」
 今度はふてた口調で、言い返した。
 その殺伐とした表情を見ながら、次之進は今更ながらやりきれなく胸がつまるような思いがした。
「刀をよこせ」
 圭ノ介が命じた。
 次之進は応じない。わざわざ刀を取り上げようというのは、力が落ちているからだ。
「よこせ」
 渡そうとしない。
 圭ノ介は真一文字に兵馬の喉を切り、吹き出した血を次之進に吹きつけた。
 一瞬、目潰しになりかけるところを、次之進はなんとか腕で防ぐ。改めて構えかけたところに、圭ノ介が踏み込んできた。
(斬られる)
 と、思ったのは、しかし圭ノ介の刀を払ってからだった。
(しのげた、こいつの斬り込みを)
 自分が受けられたことに、次之進は驚いた。
(やはり、どこか負傷しているのだ)
 そう思うと、落ち着きが戻ってきた。
 圭ノ介も改めて構え直した。そうなると、両者とも動けない。
 次之進の視界に、喉を切られて痙攣している兵馬の姿が入っている。しかし、目には映っいても見てはおらず、心から追い出していた。
 冷静になって観察すると、圭ノ介の負傷は思った以上のようだった。何本か受けた矢をへし折り、あるいは引き抜いたらしい痕がそこここに見える。
 じっと見ていると、圭ノ介も次之進から視線は外さないにせよ、視界に入っているであろう舟の中の黄金を忘れているはずはない。
 だが、うかつに踏み込むわけにはいかなかった。
 遥か頭上で雷が鳴った。さきほどから急に空が暗くなってきていたが、突然嵐の前触れがきたようだ。
 それとともに、何人もの人間のざわめきや息遣いが近づいてきていることにも、二人は気がついていた。
(このままではまずい)
 二人は、呼吸を合わせたようにぱっと離れ、圭ノ介は停めてあった舟へと、次之進はより上流へと足を向けた。
 次之進が振り返った時、川面というか、湖面というか、水面の真ん中あたりに漕ぎ出た舟に向かってしきりと矢が射掛けられているのが見えた。
 次之進の足元は相変わらず悪く、追っ手を振り切るのは難しい。次之進はとっさに手近にあった最も高い木にとりつき、登って枝葉の中に隠れた。
 雨がますます激しくなってきた。天がひっくり返したように、大粒の雨が降り注いできて、不安定な枝にとりついた次之進の頬をぴしぴし叩いた。枝が滑り、ともすれば平衡を失って落ちそうなるのを懸命にしがみつきながら、次之進はなおも枝葉の間を透かして圭ノ介の舟を注視した。
「逃がすな、放て」
 古田はしきりと下知を下した。
「放て」
 出川が続けて下知した。
 兵はどちらの下知もろくに聞かず、それぞれの判断で矢を放ち続ける。すでに獲物になっている男が、何を持っているのかは洩れていた。そしてあわよくば独り占めしたいと、誰もが思っていた。
 圭ノ介にまた、何本もの矢が刺さった。いいかげん倒れてもよさそうなのに、何かに操られているかのような奇妙に空虚な動きをやめようとはしない。
 舟はほぼ湖水というか川面の中心に来ているので、誰も近づくことはできない。
 豪雨にさらされた水面がけば立ち、折からの突風に波打ちだした。とても山の中の小さな人造湖とは思えない威容だった。
 空が光った。わずかな間をおいて、腹の底にまで響くような雷鳴が轟く。
 木々が風にあおられて激しく身悶えするように揺れ、捩れる。
 次之進はばさばさ煽られる木の枝に激しく顔面を殴打されて目がくらみ、滑り落ちかけて濡れて滑る枝に必死でしがみついた。
 矢を射かけていた兵たちも、あまりの風雨に体勢が整わず、浮き足立ち気味だ。
 空が白くなった。と、同時に雷が舟とその上の圭ノ介に落ちた。舟も人も、ともに白く閃光を放ったかと思うと、一瞬真っ黒になり、一呼吸おいて炎が吹き上がった。豪雨にも関わらず、炎の勢いは衰えず、舟も人も燃え上がって風と波に揉まれて揺れている。その中でも、人影は炎の中で真っ黒になりながら、操り人形のような生きているとも命が抜けているともつかず身体を揺らしている。
 その時、圭ノ介は自分がしがみついている木そのものが動いているのに気づいた。根のあたりの土がすっかり溶けてしまい木が浮き上がってきたのだ。
 木々が動き出したのは、次之進のしがみついているあたりばかりではなかった。森全体が浮き上がって揺れ動きながら、巨大に膨れ上がった水の中に、動物が集団入水でもするかのように雪崩れこんでいく。それとともに、出川も古田も、その配下の兵たちも、泥と歩き出した木に押し流されて、あとからあとから水の中に引きずり込まれていく。
 悲鳴も絶叫も、風雨に掻き消された。次之進の見下ろす中、轟音のため何も聞こえない中、泥と木と人とが混ざって渦巻いている。
 次之進はなぜここまで来て堰が切れないのか不思議だったが、その時轟音の向こうにきしむ音を聞いた。
 真っ黒な影になった舟の上に圭ノ介が、大きな波を受けてもんどりうって水中に没した。
 次之進は思い切って枝の上から渦巻く水に跳んだ。水中の静寂の中で、次之進はきしむ音が何であるかを直感的に知った。
 ぎしぎしいっていた堰がいよいよ限界にきたのだ。というより、なぜか壊れないでいた堰がやっと自然の理に従うようになったということだろうか。
 材木を貫いていた鉄の棒は、曲がるより先に短くちぎれた。ためにためられた水と堆積していた泥と木がのたうち崖から噴出した。
 それとともに、水はその中に抱えていた泥と木とを根こそぎ持っていって、それ自体巨大な生き物のように崖から身を投げた。それはかつてここに流れ落ちていた滝に百倍する巨大さと力を持って荒れ狂い、崖下で砕けてもなお勢いは衰えず、奔流となってさらに下流を襲った。
 田畑はあっという間に濁流に押し流された。
 与平は突然の豪雨に田を見に来て、突進してくる水の山に一瞬で呑まれた。ぶつかった瞬間、肋骨にひびが入り、溺れるより早く呼吸が止まった。
 降り注ぐ豪雨を受けて水に勢いは衰えず、里にある市や国守の屋敷も一呑みにした。
 雨がやみ、川のそばからすべての人影が消えた。
 その中を、一艘の舟が無人のまま流れていく。それに何が積まれているのか、なぜ崖から落ちて壊れも沈みもしないのか、もちろん誰にもわからなかった。
 舟は無人の川を流れ、海に出た。日が沈み、舟を金色の光で包んだ。


(終)